2.春先
変わらない、求めなければ、行動しなければ何も変わらない。家から駅までの10分、電車の中の10分、駅から学校までの15分常にそう考えていた。覚悟を決めて教室に入ったものの目につくのは勉強に励むつまらない人間たちだった。あの時の朝とまるで立場が逆転してしまったようだ。あの時私が彼らにむかついたように、今私がここでわめいてもむかつかれるだけだろう。私が青春を始めたとき、みんなの青春はとっくに終わっていた。
終わりを告げるチャイムが鳴る。そして、今日も昨日と同じように先の見えない受験勉強の為に居残る同級生を置いて教室を出る。変わろうと決意するも変わらない自分を責める、こんな経験を人生で何回しただろうか。しかし、今回に関してはタイミングが悪いだけだ。では、こんなタイミングまで現状から目を背け続けたのは誰だろうか。言い訳から論破まで自分の頭の中で完結させて下校した。
結局いつもと何も変わることのなかった帰り道に何か見慣れないものが落ちていた。少しいびつな形だがサッカーボールのストラップ。サッカー部がお揃いでカバンにつけているマネージャーからもらったであろうストラップだ。前を見ると程良いガタイをした学ランの後ろ姿があった。おそらく彼が落としたのだろう。普段であればこのままスルーで帰るに違いないが、都合よく私は今日から普段の私ではなくなっていた。
落ちていたサッカーボールを手に取り、目線の先にある学ランをしっかりとらえた。しかし、対象との距離が一向に縮まらない。というより、私の足が回転を速めようとしないのだ。頭ではとっくに話しかけてから距離を詰めるまでのイメージができているのに、行動には移れずにいた。
結局一定の距離を保ったまま駅についてしまった。ホームを見ると私が乗る方面の電車がちょうど到着していた。普段ならとてもうれしいことだが、今日の私にとっては都合が悪い。不幸中の幸いは彼も同じ電車に乗ったことだが、すいているわけではない電車の中で彼に話しかける度胸はなかった。しれっとポッケにサッカーボールをしまい、スマホをいじるふりをしながら彼を観察した結果、彼が一年生のころ同じクラスだった高森陽斗くんだと判明した。彼はクラスを牛耳るようなタイプではないが、同じサッカー部や友達とはよくしゃべり、一年生の時から部活で活躍していたこともあり密かに女子に人気なのではと勝手に私が嫉妬していた人物だった。もし、同じ駅で降りるのであればまだ渡せる希望がある。しかし、残念ながらそんな願いは叶わず彼は私と同じタイミングで降りることなく過ぎ去っていった。はぁ、と軽くため息をつきポッケから拾った時よりいびつな形になってしまったサッカーボールを取り出す。
「明日渡して距離を詰める」
口に出すことで自分に誓いを立てて家に帰った。
翌朝、私は周囲に警戒しながら登校していた。悪意はないとはいえ、人の物を持っているのは罪悪感がある。ましてや、それがサッカー部の青春の証であるならなおさらだ。
それにしても、案外みんな暗い顔をしている。学校に向かうのが憂鬱なのは陰に追い込まれた少数派の人間だけだと思っていたが、仲のよさそうな男三人組も、ギャルっぽい女の子二人組も、口数は最小限でどこか浮かない表情をしている。彼らはさぞかし楽しい学校生活を送っているだろうに。残念ながら、これが朝のあたりまえの光景だったのか、受験期に入ってからこうなってしまったのか、過去のデータを持っていない私には判断できなかった。
その日の授業はあまり頭に入ってこなかった。ただでさえ受験が終わった私の授業に対するモチベーションは低いのに、カバンの中のサッカーボールを気にしていては授業など身になるはずもない。
「おい」
彼は今日学校に来ているのだろうか。
「おい」
来ていないならいっそのこと落とし物として職員室に届けてしまおうか。
「おい!」
明らかに怒りがこもった先生の声に気づき前を向いた。
「自分は受験が終わったからもう授業はどうでもいいのか?そうだとしても周りに気を使って授業の進行を妨げないようにする努力はしろよ。」
先生の冷たい口調と、前後左右から感じる冷たい視線が私に突き刺さった。それは、高校生活最初で最後、私がクラスの中心となった瞬間だった。人間とは認識にとらわれた生き物である。みんな頭の中では自分の家の中にゴキブリが存在しているこをわかっている。しかし、一匹でもそれを認識してしまったらそれを葬らないと寝ることさえできない。たった今私という異物はクラス全員に認識されてしまったのだ。
最低な義務教育を終えて、逃げるように教室を去り、逃げるように学校の敷地から出る。そして、すべての元凶であるサッカーボールの持ち主を目の前に見つけた。
最低な出来事のせいですっかり忘れていたが、このサッカーボールは私の青春にとって重要なアイテムなのだ。昨晩寝ずに考えたセリフを頭にセットして歩くスピードを上げた。
「これ、落としたよ」
完璧な声のトーンと大きさ、練習通りだった。
「あー、ありがとう」
予想通りの返答だった。そして普通ならここで会話が途切れてしまうがさらにこちらから話す。話題はいくつも用意してきた。
「一回持ち帰ったの?これ」
予想外だった。こちらの想定ではさっきそこで拾ったというていで話が進むはずだった。昨日の段階で落としていることに気づいているのは想定外だった。冷静に考えれば彼にとってこれはサッカー部であったことを証明するアイデンティティの一つであって、そんなものを落として家に帰って気づかないはずがないのだ。
「ま、まぁね」
曖昧な返答しかできなった。こんなの練習していないのだから当然である。
「そっか。よかったー、登校中探してもなくて焦ったんだよ」
「てか普通わざわざ持って帰ってまで届けなくね?」
きっと彼にとってそれは純粋な疑問だったに違いない。しかし、私はまるで追い詰められて犯行を自白する犯人のようにここに至るまでの経緯をあろうことか本屋での出来事から話してしまった。その間彼の表情は、興味深そうだったり、薄ら笑いだったりした。
「なんかめっちゃ面白いじゃん」
彼は一通り話し終えた私を見て笑いながらそう言った。
当たり前のように同じ電車に乗り、当たり前のように隣同士で座った。あまりにことが順調に進みすぎて私の脳は追いついていなかった。それでも彼は話続けた。
「ほんとにひとりも友達いないの?てか一年のとき同じクラスじゃね?名前なんだっけ?」
「中川大智です」
パンク寸前の頭で最後の質問にだけ答えた。
「俺は陽斗。よろしく」
「なんかやりたいこととかあんの?」
彼は回答の有無に関係なく話を続ける。
「ないのか、まぁ明日からまた考えようぜ」
そう言って彼は席を立つと私の一つ前の駅で降りてしまった。ドアが閉まり電車がゆっくり動き出す。ホームからこちらに軽く手を振って去っていった。
私は複雑な感情のまま家につき学ランを脱ぎ捨てた。驚異的なスピードで話が進み陽斗くんとの距離がかなり縮まった喜びと、彼が昨日と違う駅で降りたことへの疑問があった。私と話すのが面倒で話を切り上げるためにあえて自分の最寄りではない駅で降りたのか、それともただの手違いか。前者だった場合私は気を使われているのにも気づかず一人で舞い上がったバカである。どちらにせよ明日でわかる。こんなにも明日が待ち遠しいのは初めてだった。
この日の朝は多少の不安と大きな期待感を胸に登校していた。私の話を聞いて笑った陽斗くんのあの表情、あれが演技だとするなら彼は大学に行くのではなく芸能の道を進むべきだ。きっと陽斗くんは今日も私に青春を享受してくれる。そう信じて静まり返った教室に入っていく。