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包みの中

作者: 名取能貫

「いやあ、俺もオムラさんをお雇いした時にはまさかこんな旅になるたあ、ついぞ思わなかったもんで……全く、オムラさんにずいぶん大変な思いさせちまって……」

 依頼人の男は未だに六頭立て馬車の御者台の上で眉を八の字に下げ、オムラ・イスキューレンに向かって申し訳なさそうに頭を下げ続けていた。と言っても、馬車を操縦している最中である以上、頭は馬車の外へ向けて進行方向と馬を見ている。だが男の意識と言葉の行き先はずっと馬車の荷台の中で座り込むオムラに向き続けている。

 日は高く明るいにもかかわらず、雲が多いためか気温はそこまで上がらないせいで、風がいやに生温い。それが時間と共に少しずつ冷えつつある昼過ぎである。

 馬車は今やいたるところが傷だらけで、大きなものは台枠には後端に二つ、側面に一つ、ひどい切れ込みが入っていて、剣戟に巻き込まれて何かの刃が強かに当たったのが容易に見て取れた。車輪にはこれまた何をされたのか焦げた跡があった。馬車の積み荷は材木で、上からむしろが掛けられているおかげでこれには傷が無かった。その代わり彼らが旅に必要な物を収めた木箱には矢尻が二つも刺さったままでになっていた。馬が六頭とも傷付いていないのが幸いであるが、その長いまつ毛の奥には疲れの色が黒い瞳を深く支配しており、今にもまぶたの緞帳が下り始めそうであった。

 オムラは積み荷の丸太の一本に肩でもたれかかって休息して体力の回復を図りつつ、バロメッツの服の端を裂いて包帯代わりに右腿に巻いたのを上から手で抑え、浅傷がふさがっている事を確認すると、その布の細長い端切れを解いた。そして辺りを注意深く見回し、牧歌的な遠景のさらに向こうへ長い耳を注意深く澄ませた。馬車の上から見える周囲の風景に異常や危険の兆候が見られないことを確認すると、オムラは革鎧の胴当てを外し、帯を解いて厚手の布の服も肌着もはだけた。女の煤けた半裸体が、幌も無い露天の馬車の荷台の上で露わになった。体表は垢と疲労で血色が悪く見えた。もしも今誰かが街道を通ればオムラのくたびれた半裸を目の当たりにするだろうが、彼女はそれを気も留めぬ様子で己の体をあらため始めた。鍛えられた彼女の体の表面には、ところどころ小さな打撲痕、切り傷、火傷が生々しく残っていた。中でも肩口の擦り傷はひと際大きく、オムラは服の端を再び別に小さく裂いてそこへ当て、先ほどまで右腿に巻いていた布を今度は肩へ一周させて巻きつけた。それから自らの胸元下側へ手を触れた。オムラは剣を使う職務柄、胸袋ブラジャーよりもさらし布を胸へ巻き付けて固く固定する方を好んだ。晒しは汚れていたが、戦いの中で刃が当たったり擦り切れたりはしてはおらず、まだまだ用を成せるようだった。それを確認するとオムラは服を着て、今度は剣の手入れを始めた。剣はいつの間にか切っ先が折れていた。

「別に、謝る必要は無い。依頼人の都合に合わせるのが、依頼を受けた冒険者のする事だから」

「でも、俺が『あっちに行きたい、こっちに行きたい』なんて言わなきゃあ、冒険者さんがそんな傷だらけになる必要も……」

 二人は()()うのていであった。

 オムラ・イスキューレンは北方の大国グロースランドの冒険者である。種族はダークシルフ――と呼んだ愚か者は、全員もれなく彼女にぶちのめされてきた。シルフ同士のある政争のとばっちりをきっかけに歴史上長らくその誤った呼ばわり方をされ続けてきた、ファルファデーという種族(スピーシーズ)である。外観は肌が浅黒い事を除けば大方は、耳のロバのように長くて先の鋭く尖った、髪の明るいシルフと瓜二つである。しかしその血には獣の力が宿っており、膂力は彼らと比較にならない。時に獣の牙や鉤爪や耳を持って生まれたり、趾行しこう性〔注釈:哺乳類の動物に見られる、かかとを浮かせて指先だけで立ち、爪先立ちのような状態で歩く生態。犬や猫などが当てはまる。〕の獣の後脚に足がなっていたりする。彼女の場合はそうした類の身体的特徴のある血族(レース)ではないものの、身体能力そのものは彼らと変わらず、獣にも勝るものを持っている。

 彼女に依頼をしたノームの男は、北の王国グロースランドの首都・竜の都フェイドの材木商の奉公人で、この店は普段からオムラの所属するフリーカンパニーを贔屓にしていた。

 フリーカンパニーとは、古くは国家から独立して経営する傭兵団を指す言葉であった。現代では依頼人と契約して戦う冒険者組織全体を指す言葉である。冒険者の美称「幸運の兵士」も元をたどれば、傭兵達が戦いの最中に武運のありそうな勢力へ簡単に寝返る事を指しての蔑称であったそうだ。冒険者のフリーカンパニーの営業形態は多様で、組織ところによって大きく異なる。

 材木商の男の依頼は、例によって馬車での旅の護衛であった。ある一般的でない材木の買い付けのためだった。グロースランドの版図の西方に迫る巨大な魔族領ボギア帝国の軍勢との戦火で植林場が焼けてしまい、国外まで足を伸ばさなければいけなくなったのだという。しかしその行先も南の隣国エシッド王国の内陸の地方都市コルコリと目と鼻の先だった。しかももしも王都エシッディアで材木を仕入れられるならそこで済ませてしまうという。どちらかで仕入れをした後、材木商は病床の親族に見舞いをするため少し逗留する予定であり、復路の護衛は別に雇うので不要だ、との話で、依頼人の当初の説明では手短な護衛依頼になるはずだった。

 それが、途中で野良魔族の群れに襲われる。見境の無くなった郵便馬車強盗にも襲われる。街道の真ん中で季節外れの嵐に遭って足止めを食らう。ようやくたどり着いたエシッディアにはお目当ての材木が無く、コルコリの問屋にも無く、さらに南の危険な湿地帯・アクヴォデルーポイ湿原を通り抜けてフラデマニー公国の方まで行く必要があると分かった。道中アクヴォデルーポイ湿原の中ほどで案の定、魚人の魔族サハギン共の陸上侵略部隊と鉢合わせし、オムラと材木商はサハギンの操る無情なゴーレムの軍勢相手に撤退戦の死闘を繰り広げた。ようやく到着したフラデマニー公国の中心街では物不足から暴動が起きており、二人は騒乱容疑で逮捕されかけたので、オムラが兵士と路上で殺陣たてを演じる羽目になった。誤解はその場ですぐに晴れたが、ここの材木問屋も物不足の被害者で、結局材木は産地の森林まで直接行って買わねばならかった。現地の問屋と木こり達は公国外から来たよそ者を毛嫌いしており、まず取引までこぎつけるのに相当な時間を要した。提示された金額も法外で、外様の材木商は根気強い商談で孤軍奮闘せねばならず、異国の地でそれを護衛するオムラも息が詰まりそうだった。なんとか目的の材木を仕入れた材木商は、復路では今や混乱の台風の目である中心街を迂回して西の地方都市群を渡っていく運路を採った。これが裏目に出て、馬車はフラデマニー公国領から出るよりも先にアンデッドの群れに襲われた。オムラは狗頭の魔族ヘルハウンドの一隊のゾンビ化した死体と交戦し、ヘルハウンド特有の硫黄臭の炎の吐息で火傷を負い、彼らの生前の持ち物の短剣で浅傷をいくつも受けた。オムラは無力な材木商の代わりに身を挺して彼らを追い払い、代わりに満身創痍となった。材木商は己の間の悪さを痛感し、これ以上旅を長引かせてはオムラの命と自分の寿命のどちらかがたないと思い極め、疲れ切った馬を急かした。

 二人は今、ちょうどアクヴォデルーポイ湿原を命からがら逃げだした直後で、もはや青息吐息の様相でエシッド王国王都エシッディアの安全な城壁内へ駆け込むところであった。

 しかしオムラに言わせれば、

「あなたは傷だらけではない。私が仕事をした証拠」

 であった――オムラは材木商には、体力の消耗と路銀の枯渇を隠して答えた。

「だから気にせず目的地まで急いでほしい」

「でも、鎧の肩のところが吹き飛んじまったじゃあございやせんか」

「何とかなる。もうすぐエシッディアに着く。それに魔力は残っている。私は魔法戦士、戦い方を工夫する。心配しないでいい」

「左様で……」

 口数の少ないぶっきらぼうな〈止まり木のオムラ・イスキューレン〉にしては、珍しく言葉を尽くして依頼人に心配させまいとしているものだった。今日の彼女は、立っているだけで何も鳴き声の聞こえないつまらぬ止まり木ではなく、その上に雌鶏めんどりが止まっているかのようだった。

「それよりは、前を見て馬車を操ってほしい。馬が心配して振り向いている。今にも道を逸れそうだ」

「こりゃあどうも……おっとと、本当だ――」

 材木商は慌てて手綱を引いて馬の歩む先を修正させた。その時、彼の被るノームのとんがり帽子が少々傾いた。

 オムラは折れた剣のまだ残っている刃を拭い終わると、剣を鞘に納め、剣の手入れ道具をマントの裏の背負い袋へ戻した。

 と、その時――

「きゅう、きゅう……」

 という細い鳴き声が、彼女の後ろの木箱の陰から聞こえたのを耳にした。

 オムラの後ろの木箱と横倒しに積んである材木の隙間に、材木に被せるためのむしろの余りが畳んで置いてある。彼女が振り向くと、むしろの下の不自然な膨らみがもぞもぞと動いていて、さらに呑気な高いうめき声が漏れている。オムラがむしろを剥がしてやろうかとそちらへ手を伸ばしかけた直後、むしろの下に埋もれていた鳴き声の主が鱗のある小さな頭を少しずつのぞかせ始めていた。キビが起きたようだ。

「良く寝たね、キビ」

 オムラが手を伸ばしたので、キビもそれに反応してむしろから這い出してきた。寝ぼけ眼のまま時間をかけて、薄い翼膜の翼を産卵期のウミガメのように前足として使って、四足歩行でオムラの元まで歩み寄った。キビはワイバーンとしては一般的な種類よりもかなり小柄だ。大人の背丈より一回りか二回りほど小さいほどで、それこそ材木商の馬車の上で寝そべっても荷台を占有しない。起きたばかりのキビの動きは鈍かったものの、目には光が戻っていた。じっと動かずに休んでいたおかげで、体力は大分回復したようだ。

 材木商はオムラとキビの様子が気になったのか、いつの間にか再び後ろの荷台へ目線をやっていた。

「……その子は怪我、大丈夫なんで?」

「キビか? キビも訓練を受けたワイバーンだ。ゆっくりさせてあげれば、大丈夫」

 オムラはキビの頭を撫でながら、良く陽の光が鱗に当たる場所を彼女の相棒に譲った。キビはオムラに飼われているワイバーンである。

 オムラは竜戦士ドラグーンである。竜戦士ドラグーンとは、竜の眷属に分類される動物や幻獣を訓練して相棒として育てるドラゴンテイマー達のうち、彼らの力を戦いのために借りる者を指す。ドラゴンテイマーはグロースランド王国固有の技能者であり、独自の文化であり、俗に「〈竜の都〉フェイド独特の空気は、彼ら竜族の吐息ブレスによるものだ」などとよく言われる。

 オムラが相棒の背中に騎乗する事は無い。キビはあまりにも小柄だからだ。背丈は彼女の胸ほどまでしか無く、頭は小さくて蛇のようで、鎌首の輪郭にも大きな丸い目にも竜の眷属としての厳めしさがほとんど無かった。胴体も華奢で、鞭のように長い尾も非常に細長い。後ろ足が非常に発達していて、キビはそれらを生かしての地に足を付けた格闘が得意としている。代わりに翼は短く、その場から飛び立って細やかに浮かぶのは上手い一方で、あまり長い距離を飛び続けるのは苦手である。そのためオムラとキビは陸上で肩を並べて戦っている。野良魔族や馬車強盗共に会った時も炎の吐息ブレスを浴びせてやり、フラデマニーの衛視に囲まれた時は彼らの頭の上で羽ばたいて抵抗した。しかし、無頼くらいはものともしないキビとはいえど、アンデッドの強力な群れには手を焼いた。勝手の違う外国で餌に苦労したのもあって、こちらも激しかった長旅での疲労は著しい。

 雲が少なくなり、日差しは強くなって、風からも肌にまとわりつくような湿気が無くなった。しかし日は半分落ちかけていて、風そのものはめっきり冷たくなっていた。

 キビは鼻先をオムラに近づけて、()()をねだって甘えた。その()()をオムラは分かっている。

「おいで」

 オムラが手を広げると、キビは小さく鳴きながら彼女の小ぶりな胸元の上で翼を折り畳んでもたれかかった。オムラは自分の体温を少しでも移すために、相棒の薄黄色の鱗を抱きかかえた。日差しが良く当たっていて温かかったので、オムラはキビがまた眠ってしまいそうだと思った。

 材木商は、オムラがキビを本当に優しく抱きかかえるところを御者台からしっかりと見ていた。いつの間にか彼はにやにや笑っていて、思わず彼女に言った。

「オムラさん……」

「何?」

「その子にだけは良い顔しますねえ」

「前を見て馬車を操ってほしい」

「へ、へ……」

 オムラににらまれた材木商は首をすくめ、破顔しそうになるのをこらえながら馬車の運転に戻った。




 王都エシッディアの城壁の衛視は、材木商の説明に同情的に聞き入るあまり、あやうく王都の出入りを検めるという本来の責務を忘れそうになった。馬車の積み荷を確認する際も気の毒がっていた。おかげで衛視は断しており、キビという小型ワイバーンが荷台の上に座っているのを見つけた時は、驚愕のあまり思わず飛び上がって槍をしごいた。オムラが自分と相棒の生国・身分・同道経緯を説明したためキビが害獣として攻撃される事は無かった。説得力の源となったのは、キビが装着していた鎧だった。オムラはエシッド王国に入る前にキビに鎧を着せていた。竜戦士は共に戦う相棒にも軽やかな防具や専用の武器を装備させる。今のキビも専用の頑丈な服の上から胴当て・翼膜覆い・尻尾覆い・鉤爪に装着する短剣などを全身に身に着けていた。オムラもまた入国前に、革鎧に身を包んで典型的な冒険者態の服装に戻っていた。ただしオムラにしてもキビにしても鎧は傷だらけである。

 材木商はエシッディアの市中に入るとすぐに「この辺りで護衛依頼の満了とさせてほしい」と言った。

 当初の想定よりもはるかに旅程が伸びてしまったものの、男は旅の目的の仕入れをどうにか出来、二人は無事にエシッディアまでたどり着いたのだ。

「――そういう訳なんで、なんだか大変な旅になっちまいましたが、旅の目的も達せられましたんで、ここまでっつう事で……へえ、誠にありがとうございました。ここから先は俺の私用なんで、あくまで店の仕入れの旅の護衛に付き合わせました冒険者さんの手を、俺の事でわずらわせるわけにはいきませんので」

「依頼の時にも思ったけど、あなたは店の仕入れの旅の途中。その途中で済ませる私用とは何?」

「隠すものでもえんですが、そういや言う機会もありませんでしたっけか……おっあの見舞いで、ちょっと顔を見せようかと思いまして。もうだいぶ年で、臥せりがちで。店にもお許しはもらってます」

「そう……」

「でも冒険者さんだって、ちょっとここらで私用が必要でしょう?」

「何の事?」

「だって、鎧の肩のところは吹っ飛んじまってますし、全身ぼろぼろじゃあありませんか。それじゃあ商売になりませんでしょう」

 材木商に指をさされ、オムラは自分の鎧の破損の具合を改めて見直した。肩当ては指摘された通り右側しか残っていなかったし、胴当ては一度刃が貫通して切れ込みが入ってしまっている。それでも旅の間手入れを欠かさなかったので、エシッディアからフェイドへ戻るくらいはどうにかなりそうではあったものの、帰ってから鎧も剣も修繕が必須だろう。

「……確かに。どの道防具屋・武具屋の世話になるのだから、今エシッド王国で済ませてしまった方が安全かもしれない」

「でしょう。オムラさんもこの際革鎧でなく、騎士様みたいな金属鎧プレートアーマーに買い替えてはいかがで?」

金属鎧プレートアーマーなんか着るのは騎士様だけ。我々は共連れも無しに野外活動をするのに、馬鹿に重い上に旅の途中で手入れの出来ない物を着ていられない。十人の冒険者に聞いたら、十人がそう答える」

「手入れ……それは考えが及びませんでして……なるほど、そういうものなんで……」

 材木商はこれはしたりとばかりに嘆してうなずいていた。

 と、出しぬけに、

「あっ、報酬ですがね」

 と大きな声で切り出した。

「当初の額じゃあ、とても割に合いませんでしょう。長々と付き合わせちまいましたし、非常に危険な目に遭わせたのも一度二度じゃあありません。これはオムラさんのフリーカンパニーも後金の増額を請求しなさるでしょう」

「だろうね。いや、せびる訳じゃないけど……」

「いや、ウチの店としても、ここまで引き回しておいてお代を出し渋っては、店の看板を汚します。もしも追加報酬を払わねえと言ったら、俺が主人おかみさんにどやされまさあ。フェイドに帰ったら事情を店に話して、後金に追加の報酬を加えるよう頼んでおきますよ」

「そっか……」

 オムラは生返事をした。

 この時、オムラは心の中でほくほくと胸算用を始めていた。彼がグロースランドへ帰ったら、あるいは自分で手紙に書いて飛脚に持たせて送れば、冒険者オムラ・イスキューレンと相棒キビの長い冒険譚の全容が彼女の所属フリーカンパニーのアドベンチャーキーパーへ伝わるだろう。あの時見事に切り抜けた急場、キビが機転を利かせてくれた局面。そうやって打ち破ってきた、思いがけない難局の数々。それがひと月以上。一体いくらになるんだろう。行って来いで終わりの木っ端仕事が、半年は暮らせる額に化けてもおかしくない。〈止まり木のオムラ〉の界隈内での評判も高くなるに違いない。きっと行きつけの酒場からももてはやされるようになる。どうせ依頼はひっきりなしに来るのだし、それまで帰国後はどう遊んで暮らそうか――オムラは頬を緩ませてほくそ笑みそうになるのを、必死に押し隠していた。

 ふと、オムラは腰帯の革袋に手を触れた。何の気なしに、今の手持ちの金がいくらなのかを確かめたくなったのである。

 革袋の感触に全く手ごたえが無い。中身がほとんど何も入っていなかった。

 オムラは愕然とした。これでは帰国後に遊んで暮らすどころではない。帰国のための路銀すら無いではないか。混乱状態のフラデマニーで無茶を通すために役人に大枚をはたいたのを思い出し、オムラは後悔した。しかしあの時はああする他に無かった。それを言っても詮無き事だ。普段の冒険でなら狩った生物や張り倒した相手から剥ぎ取っている戦利品トロフィーも、今回の依頼では依頼人の旅の予定を優先して何も剥ぎ取っておらず、またその必要も無いと思って道具すら持って来ていなかったのだ。これではいつもの〈手頃な物を売って、その金でどうこうする……〉という手も使えない。

 オムラは一転、血の気が引いているのを態度に出さないよう押し隠しつつ、依頼人の材木商の顔色をうかがいながらおどおどと尋ねた。

「……い、今、いくらか貰う訳にはいかない?」

「いやあ、生憎もうすっからかんで持ち合わせが無えんで。それこそ俺はこれからおっ母あに帰りの路銀を借りに行くところなんで……俺が店に黙って勝手に払う訳にもいきませんし、おたくのフリーカンパニーにも相談せずに値段は決められませんし……それじゃあ俺はこれで、いやあ本当に、この度はありがとうございました。おかげで何とか欲しい物を仕入れられましたし、何より無事に生きて帰れそうで……冒険者さん、今度もまたお願いしますよ!」

 最後の望みの灯はあえなく消えてしまった。材木商は御者台に飛び乗り、鞭を振って馬に最後の一歩きを指示して、手を振りながら通りの向こうへと去っていった。信用と面子が冒険者稼業に最も重要な要素だと信じるオムラは体面上依頼人を呼び止めてさらに金をせびる訳にもいかず、そのまま黙って見送る事しか出来なかった。

 


 彼の姿がエシッディアの街の賑やかな雑踏の中に消えた後、オムラはしばらくその場に呆然と立ちすくんでいた。どれだけの時間そうしていたかは自分でも分からなかった。だが飼い主の異変を察知したキビが彼女の手を甘噛みして引っ張ったり揺すったりしたので、はたと彼女は正気に戻った。キビが潤んだ目で彼女の顔を覗き込んできた。オムラが顔を上げると、往来を行き交う通行人の一人がいぶかしげに彼女達を見ながら通り過ぎようとするのと偶然目が合った。

 彼女はキビの広い翼が往来の通行の邪魔にならないように通りの外れまで移動した。その間頭の中で、今すべき事が何かを確かめた。今明確に分かっているのは、このままエシッドの都から街道を出て帰路を急ぐのは愚かな選択だという事だった。今までの七難八苦の長旅で、キビは非常に疲れている。この子を休ませずに先へ進むわけにはいかないだろう。でなければ最悪キビの命に関わる。せめて数日は十分な休息に充てる必要があった。それに確かに彼の言う通り、この格好で街道を渡るのも危険だった。鎧は損傷が激しい。材木商は気づかなかったが剣も折れている。あれもこれも、修繕や道具の早急な調達が必要だ。もう空の下端が夕陽で黄色く染まりだしている。次第に腹の中に頼りなく感じ始め、空腹感を覚えていた。彼女は昨日の朝から何も食べていなかった。そういえば食糧も予想以上の長旅で食べ尽くしている。これではたとえ今日相乗り馬車に乗っても道中で飢えて倒れてしまう。

 これだけ当面の課題があるにもかかわらず、それらを解決・解消できるだけの手持ちはあるのか? 彼女は改めて革袋を空けて中身を見た。銅貨が三、四枚――辛うじて今日の夕食を済ませられる程度の額しか残っていなかった。

 ――参ったな……フェイドは目の前だっていうのに。

 オムラは頭を掻いた。

 山積した課題が重くのしかかるのを感じた。オムラはため息をつきつつ、課題の解決するにあたって優先順位をつけた。

 ――まず宿かな。今晩はどこで寝ればいい? それにいいかげん、何か食べたい……。

 という結論であった。この差し迫った問題でさえ、今の手持ちでは不十分だった。

 当面は一宿一飯いっしゅくいっぱんの救いを求める他に、手っ取り早く小金を稼ぐ手段を探す必要もあった。今の手持ちでは宿と飯の両方にありつけるかも怪しいのだ。それに、もしも今日はなんとかなったとしても、明日は? もしも往路のように護衛依頼を受けて帰りの路銀をごまかすとしても、それまでの金が無いだろう。保存食も尽きているので、少なくともそれを買って調達してから依頼を請けなくてはいけない。

 ところでオムラは冒険者である。冒険者は野営も出来る。なので、本当に抜き差しならなくなってしまった最悪の場合に限ってだけは、王都を出て城門から目と鼻の先の街道の脇で野宿をしてキビの寝床の問題を無かった事にしてしまう、という禁じ手に打って出るのは無くも無い。しかし今のオムラは別の選択肢を考えていた。

 冒険者らしく、エシッド王国にいる間にどこかから依頼を請けて、その報酬で宿暮らしをしながら立て直すのだ。そして報酬金にありつくためには、

 ――この国にもフリーカンパニーはあるだろう。冒険者の居場所と出番と制度が。そこでご当地の依頼を請けて、数日小銭を稼いで凌ごう。

 という判断が最良だと思われた。この一手は一挙両得であった。フリーカンパニーという組織を束ねる冒険者斡旋業者の拠点は、同業のよしみで好意から宿泊の世話を焼いてくれる場合もあるのだ。互助的関係は組織同士の連携に一役買うからだ。それを頼れば、当面の宿の問題もそれで解決する――

 ――いや、しないな。キビはどうしよう。

 オムラは足元で座っているキビの方へ目を下ろした。キビは彼女の腰に頭をもたれかかりながら、マントの端を口先で咥えて引っ張って遊んでいた。

 ここは竜の都フェイドとは違うのだ。エシッド王国は彼女の故郷のように竜戦士が盛んな国ではない。ワイバーンのような竜族を社会生活上の同胞として扱う設備など、グロースランド王国の外にはろくに無いものだ、という事実をオムラは今までの国外の冒険で身に染みて理解していた。冒険者稼業の関連施設でも同様だった。もしもその代わりになりうる良い所があったとしても、ワイバーンとは竜の都フェイドの外ではまさに怪物モンスターであって、そんな恐ろしい存在を、そしてそれを引き連れている得体のしれない女――しかも風体は最悪で、ゾンビ同然である――を、家主が気前良く敷地内に入れて世話までしてやろうと思ってくれるだろうか? 

 キビが寝泊まり可能な場所となると、うまやで馬に交ぜて入れてもらうくらいだろう。オムラはせめて夕方のうちまでには、厩があってかつ宿泊をしばらく許してくれるところを見つけなければならなかった。寝屋を確保し、それからそこでこの辺りでフリーカンパニーをしている店があるか聞こう、と彼女は考えた。

 オムラはまず貸し馬車屋あたりへ行って、数日居候できないか交渉してみようかと考えた。そのために王都の地理に詳しい誰かに相談して、貸し馬車屋かどこかキビの泊まれそうなところの場所を尋ねる事にした。衛視の詰所が手っ取り早いだろうと考え、大通りへ出て往来の流れに沿って歩く事に決めた。街の治安維持のための設備は街の中心地にあるのが相場だからだ。

 オムラは、エシッディアの街の中心へと向かう放射状の大通りの一本を、街に並び立つ建物を見て確かめながら渡りはじめた。

 ――エシッド王国か。来るのは初めてではないが、依頼の無い状態で逗留するのは初めてだ。

 異国の街の中をゆったりと歩きながら、店を眺めて回る。通りから看板や店の品物を見物している内に、色々な誘惑が刺激され、冒険者特有の刹那的な快楽を満たしたい欲求が頭をもたげてきた。剣も胴当ても新調するとして、もしもこの機に衆目を集める華美な剣や鎧が格安で手に入ったら、帰った後で自慢できるのになあ。そういえば同じ服ばかり着ているので、綺麗な服があったら衝動的に買ってしまうかもしれない。現地の美味い酒を思う様飲めたらさぞ快いだろう。出店の美味そうな軽食を買い食いして回りたい。しかしオムラはさらに空想を広げたせいで夢から覚めた。キビのお洋服は……帰ってから防具鍛冶に修理してもらう事になるだろう。

 王都エシッディアは、悔しい事に彼女の故郷フェイドに負けず劣らず栄えていた。行き交う者達は皆着ているものに遊び心のあって粋なところがある。花屋に酒場、店先を通るたびに鼻をくすぐる匂いもみな複雑で洗練されている。その品の良さが、大河の流量で大通りに溢れかえっているのだ。泳ぐ魚も大魚の群れ、六頭立ての大馬車の荷車をもう何台見たろうか。それに市中の短距離便の郵便馬車一台一台にさえ、全て護衛の冒険者を乗せて駆けているのだ。

 となると、これだけ馬車の交通量が多いのならばもしかしたら、わざわざ探さずとも簡単に見つかるかもしれないのが、厩のある建物であった。オムラはかぶりを振って物見遊山の気分を追い払い、キビの泊まれそうな建物を探すべくさらに注意を払って建物を観察しながら歩いた。

 さらに少し歩くと突然大通りが不自然に折れ曲がり、その鈍角を境に唐突に街並みが変化した。今までは冒険者に居心地の良い、俗と活気と新興の平屋に囲まれていつ乱痴気騒ぎの起きてもおかしくないような雰囲気だったのが、急に築年数の古そうな精巧な模様の彫られた高い建物に囲まれて歴史の風雅が香しくなった。

 これぞ、いかにも古都エシッディアらしい町並み――と感嘆しながら区画の境を跨ごうとした時、目に留まるものがあった。

 街並みとの境で大通りの折れ曲がった鈍角のところに、大きな宿酒場インがあった。こういう大きな町の宿酒場インではただ単に泊まりのできる酒場タヴェルナであるのが通常だが、この〈赤き戦斧亭〉の店の脇にはまるで田舎のそれのように厩が併設されてあった。

 ――どうしてこんな都会に厩付きの宿酒場インがあるのか……エシッド人は変わっている。とにかく、ここはちょうど良い。元が宿だし、キビも泊まれる。

 オムラはこの店に部屋が空いているか尋ねてみようかと考え始めた。店先の前に垂れ幕が張ってあって、屋号は〈赤き戦斧亭〉というらしい。しかしまるで冒険者の宿のような垂れ幕だ。バロメッツの布を真っ赤に染め抜いて描かれているのが、巨大な斧なのだ。これではフリーカンパニーの拠点である。

 ――まさか今日日、宿酒場インで〈冒険者の宿〉なんてしていないだろうが……。

 と、オムラは思わずほくそ笑んだ。

 確かに古くは酒場とは一期一会のための場でもあった。明日の飯代にも事欠くごろつきが後先考えず酒を飲む。商売や家の事で悩みを抱えた者が憂さを晴らすべく酒を飲む。そういう二人が酒場で出会った時、当時は自然とカウンター席の隅で商談が始まったという。そしてごろつきが商人から小遣いを得て、たいていは後ろ暗い事を頼まれた――という習俗がかつては存在した。冒険者という稼業の歴史の初期のフリーカンパニーが宿酒場インを拠点にしている事が多いのは、その影響ひいては名残である。冒険者の所属する組織・フリーカンパニーの内、冒険者の斡旋資格を持つアドベンチャーキーパーが依頼人と所属冒険者を契約させ、定まった拠点を持つ冒険者組織の事を広く〈冒険者の宿〉と呼ぶのはこうした語源がある。特に宿酒場インを拠点とするフリーカンパニーあるいはその店舗が狭義の〈冒険者の宿〉であり、一方では宿屋・酒場として売り上げを得つつ、もう一方で依頼人からの依頼料から利益を得ている。しかしこの手の拠点では、荒くれ者の冒険者が酒場に入り浸りがちであり、宿泊施設としても所属の者達が客室を占有しやすい。すると客が身内に限られるため、宿酒場インとしては経済的に不利なのである。そのため宿酒場イン以外の形態の店舗を拠点に持つフリーカンパニー、あるいは拠点を持たずに放浪するフリーカンパニーが次第に増えた。

 それで、現在ではそれらに押されるように、古き良き〈冒険者の宿〉は数を減らしつつあるのである。特に、対魔族の戦争の前線を目と鼻の先にして長いグロースランドでは界隈の代謝が激しく、首都フェイドの街並みからすっかり姿を消して久しかった。

 だからきっとエシッド王国でも同じだろう、と思っていたので笑っていたのだが……。

 ――してるな。今日日、宿酒場インで〈冒険者の宿〉を……何度見ても、垂れ幕に『こちら冒険者の宿・エシッディア冒険者ギルド公認フリーカンパニー』と書いてある……。

 それが現代のオムラの目の前にあった。しかも大通りに面してよく目立つ優良な立地に、周りと比べても一際大きな店舗で建っていて、中も大繁盛の様相を呈しているのが喧騒としてはっきりと漏れ伝わってくるのである。

 これが王都エシッディアの外から来たオムラには、

 ――なんて古臭いものが、それもここまで大きな店舗で残っているのか……。

 そう思えてならず、今度は思わず失笑するのであった。いかにも歴史と伝統のあるものに敬意をむやみに示す彼らエシッドの民の習俗らしく感じられた。フェイドに帰ったら良い土産話になるだろう。エシッディアには何度か来た事があったはずだが、まさかこんな古式な店があったとは。さすがは古都、いや地域性が生んだ奇跡と言うべきか。

 ともあれこれは天祐だった。宿酒場インが客の宿泊を拒むとは考えられず、キビが休めそうな厩もある。それにここでは冒険者が依頼を請けて収入を得られるのだ。またオムラは己の職業から家主に敬遠されて宿にありつけない事も懸念していたが、冒険者の宿に同業者が泊まって周囲の客が煙たがるわけも無い。

 ――それに、きっと店主も道具屋や武具屋にも詳しいだろう。ここに泊まる以上に良い選択はない。

 そう考え、オムラは思い切って最初からキビを連れて店に入る事にした。



 なんと〈赤き戦斧亭〉の店主は、話を全く聞かずにオムラ達を受け入れたのだった。あまりにも安易に首が縦に振られた上キビも店内の酒場へ招き入れられたので、オムラは自分が何か思い違いをしているのではないかと思ったほどだった。しかし店主の態度を見るに誤解がある訳でもないらしかった。店主アーグステ・ズブレッツィは丸々太った牡牛を二頭縦に並べたような巨大な上背と体格で、外見通りの大人物な女だった。が、いかに大雑把なこの界隈でもここまで豪放磊落ごうほうらいらくでいられる者は少ないだろう、とオムラは感じざるを得なかった。

 思えば、そうである。オムラが意を決してキビを連れて木の扉を開け、

「頼もう」

 と挨拶を――この時はまだ客人として、彼女の母語であるグロースランド地域語を使って――声に出した時でさえ、出迎えた背の高く豊満な奉公人は、キビを明らかに視界に捉えて認識したはずにもかかわらず、

「いらっしゃいませ、こらちへどうぞ」

 全くと言って良いほど動揺したそぶりを見せなかったではないか。

「……あー、お戻りで?」

 どうやらこの奉公人はまだ歴が浅いために、客人のオムラを所属冒険者と取り違えたらしかった。しかしそれを差し引いても、であった。小柄とはいえ危険度では名にし負うワイバーンを街中で見かけて、眉一つ動かさない外国人をオムラは見た事は無かった。

 オムラが自分の身分としばらく逗留したい旨を彼女に伝え、良い依頼があればそれも請けたいと言い添えると、奉公人はしばし待つようにとオムラへ言い置いて店の奥へ引っ込んでいった。すぐに奉公人が店主にたしなめられるのが店の奥から聞こえてきた。

「店主、同業さんのお泊りですって」

「アスタン、お前はもう少しやる気出して接客しなよ」

 それから店主の巨体がのっそりとカウンター席の奥から出てきた。

 この時からすでに、店ではオムラとキビを歓迎するつもりで話が進んでいたのであった。店主はオムラ達を平気な顔で店内へいざない、店の一階を占める酒場をキビに横切らせようとした。

「部屋は今は角部屋だけ開いていてね」

 オムラは面食らって店主へ思わず尋ねた。

「あの、本当に泊まれるのか?」

「ん? ああいいともさ。なんでワイバーンなんか連れてるんだい?」

 と関心を示しながら言うや、店主は猫を捕まえるようにキビの首根っこを掴んで持ち上げたので、オムラは慌てて店主にキビを下ろさせなくてはならなかった。

 驚いて興奮したキビを二人でなだめた後、ややあって店主はテーブル席の一つへオムラを着かせた。オムラはフェイドの冒険者ギルドが発行しているエンブレムを提示して身分を証明した。それから改めて短期間宿泊したい旨を伝え、その間依頼があれば請けたいと申し出た。ここから先は公正契約語ネヴァヴラハを使ってである。

 公正契約語とは、地域語や種族語を飛び越えて会話する際の橋渡しとして人族妖精達の間で使われる、通商用の補助言語である。妖精界では「片一方の者の言葉で話すと、もう一方に不平等な結論が出る」という価値観があり、そうした背景から人族領で公正契約語は生まれ〈どの地域・種族のものでもない、えこひいきをしない言語〉という設計思想のもと考案・整備された。現在、政府間のやり取りや国をまたいだ商取引ではほぼ必ずこの人工言語を用いる。無論、人族同士の私的な会話でも種族間の共通語として使われている。

 オムラが現地のエシッド地域語ではなく公正契約語を使ったという事は、彼女が店に対等な取引を求めている事を意味した。店主もそれを承知しているので、一言言葉を交わしただけですでにその心の用意が出来ている。

「宿泊と……ウチに来た依頼を、あんたに流してほしいってんだね。あんたを疑うわけじゃないけれど、だからこそ身元は後で簡単に確かめさせてもらうよ。変な奴じゃないかどうか確認するだけだから、気を悪くしないでおくれ」

「構わない。むしろ今確かめてほしい」オムラは自前の冒険者ギルドのエンブレムを取り出して見せた。「グロースランド、フェイドの冒険者だ。依頼の完遂とあたしの無事を早く伝えないといけないので、ウチへ手紙出したい。きっと心配されてるはずだ。後で紙と書く物を貸してほしい」

 フェイドの冒険者ギルドのエンブレムは竜鱗を加工したもので、ご当地ならではの物品である。店主はそれを裏表目で見て頷き、

「なるほど、確かにあそこのエンブレムだね。あんたの所属はどこの店だい?」

「『店』? フリーカンパニーの事なら、所属は〈フェイド・コンパニー・フォン・シュテルン〉だ」

「ああ! あいつのところの子かい。あたしはおたくの所長とは知り合いだから、手紙はあんたが書かずともあたしの方で書いて、代わりに送っておいてあげるよ……あんた、名前は? 〈フェイド・コンパニー・フォン・シュテルン〉では何て名で通しているんだい」

「本名のまま、オムラ・イスキューレンだ。役人に何か言われた時もそのまま伝えて良い」

「よろしく、オムラだね。あい分かった。王都こっちの衛視が因縁つけてきたら、このズブレッツィがあんたの身を預かってると言いな。尻尾を巻いて逃げていくよ……ところで、道中で一体何があったんだい? おたくのところの奴がからっけつになるなんてさ」

「依頼で予定外の事態が重なって、結局相当な長旅になってしまった。その間に物資も金も尽きてしまって、困ってる。路銀と装備の立て直しのため、色々厄介になりたい」

 店主がさもありなんという顔で頷いたのは、オムラの服装のひどい有様を改めて見たからである。

「分かったよ。で、『予定外の事態』ってのは、そこの小っさいワイバーンかい?」

「違う。これは私の相棒だ。私は竜戦士ドラグーンだからな」

 オムラは、慣れない場所で未だ落ち着かない様子のキビの頭を撫でた。

「それでワイバーンなのに鎧を……へえ、初めて見たよ。これがいわゆる〈北の連中のトカゲ猟犬使い〉って奴かい。可愛いねえ」

 オムラは自分の誇らしい身分が外国でどのように見られているかを率直な言葉で初めて聞かされ、内心かなり激しく落ち込んだ。しかし店主に相手を傷つける意図が無い事は、キビに対する慈愛に満ちた表情からも明らかだった。店主はカウンターの奥に手を伸ばして新鮮な瓜を一つ取り、キビに与えようとした。オムラはその気持ちだけありがたく受け取って、キビは水気の多い餌だとお腹を壊してしまう場合がある事を伝えた。店主は先ほどのアスタンという奉公人に瓜を渡して持たせ、代わりに餌になりそうなものを持ってくるよう言いつけた。

「……この子はキビというんだ、ご店主。キビも厩に泊まれるか?」

「キビちゃんかい、あそこでいいなら。こっちは翼竜の世話の仕方は知らないから、すまないけれどその子の面倒はあんたが何から何までやっておくれ。代わりに、何かあったらどんな事だろうと気安くあたし達に言っておくれ、何だって手伝うさ」

「恩に着る」

 オムラは頭を下げた。そこへ奉公人アスタンが、火打石ほどの大きな赤々とした豆林檎の籠を持って戻ってきた。オムラはそれをキビの餌として認めた。店主が豆林檎をキビの鼻先に近づけると、キビはすぐに食いついて美味そうに食べた。オムラも籠から小さいものを一つ取って与えてから、店の壁に掲げられた依頼票の掲示板の方を見た。

「依頼はあるか?」

 店主は一転、頭を掻いた。

「まいったねえ、今は定例の依頼も、あんたが請けられそうなものはみんなはけちまってるんだよ。どぶ浚いはしばらく無いし、神殿前の炊き出しも定員が埋まっちまってるし」

「薬草摘みで良い。あるなら請ける」

「〈香りが原〉までそのずたぼろの格好じゃあ行けまいよ。地元さとじゃあ町のそばに生えてるのかい? 確かに遠くはないがね、その半裸で行けるほど近くもないんだよ。本当に悪いけど、今はまるで手頃そうな依頼は無いよ。差配してやれそうなものがあったらすぐに伝えるよう言っておくよ。すまないねえ」

 と言って、店主はかぶりを振った。

「そうか……」

「オムラ、これじゃあウチの事をして儲けた方が早いかもしれないよ」

「と言うと?」

「つまりね、冒険者としての依頼じゃなくて、この〈赤き戦斧亭〉の奉公人としてしばらく働かないかって事だよ。女給とか手伝いの住み込み働きさ。金や所属の面倒が起きないように、日雇いという事にしよう。どうだい?」

 店主がオムラの肩を抱いて店の中を見回させたので、オムラの目線は依頼表の掲示板から外れ、代わりに掛け布団を抱えて酒場の横から二階へ階段を上がろうとする女給の姿が目に入った。

 


 オムラの顔は引き攣った。

 二階から上の宿の手頃な一室をあてがってもらい、部屋に一日だけ連れ込ませてもらったキビの鎧を脱がせ終わった後、自らも簡単に着替え、柔らかなベッドに腰かけ、ようやく人心地が付いたと一息ついた。長旅の疲れを癒しつつ今後のこの店での小遣い稼ぎのための英気を養うべく、もう残量に気を遣う必要も無くなった水袋の中身を飲んでいた、その時の事だった。

 店主が両手でメイド服を持って入って来たのだ。店主がしつらえて来たのは装飾の華美で、フリルの多い女性的な意匠のものだ。確かに女給のような奉公人はエプロン姿をするものだ。しかし、半生を竜族と共に生きて戦う事だけを伴侶に生きてきたオムラには、

 ――あたしには、だいぶしんどい格好だな……。

 と思わざるを得ないものだった。しかし今のオムラの着ているものがいかに破損し、薄汚れているかを考えると、本当であればありがたい支給品だった。

 しかしそれでも袖を通すのを先延ばしにしたいのが本音だった。

「私は日雇いとして雇われるのだろう? ここまでしてもらう必要は無い」

「いやいや、ウチは食器とか箒とか使う奴ならどんな奴であれ、みんなこの格好さ。奉公人の体を汚して家に帰すわけにはいかないからね。あたしはここに住んでるし、入る服が無いから例外だけどね」

 オムラは女給服のエプロンのフリルの華美な刺繍で処理された布端を見ながら、心の中で肩を落とした。

 ともあれ、それからオムラの〈赤き戦斧亭〉での暮らしが始まった。

 キビは予定通り厩へ預けられた。厩はエシッディアの民間の建物には珍しく庇の下にあって板塀にも囲まれており、小さな牧場のようである。外の往来から好奇の目に晒されないのがキビには都合が良かった。これはエシッド王国の飲食店としては稀有に凝った設備であるものの、フェイド生まれのオムラにとっては特段驚くようなものでもなく、むしろいささか粗末で小さすぎるようにすら見えた。それでもキビがのびのびと休めるだけの広さが確保されていた。宿酒場インの厩は客の馬を休ませるためのものなので、店で飼われている()()はいなかった。店の歴の長い奉公人は店内の厩の場所や中の様子をオムラに案内した後、手際良く馬房に寝藁を敷いたり飲み水を用意したりし始めた。それを見ていてオムラは尋ねた。

「丸太は置かないのか?」

「いいえ、ここは厩ですから。馬は木の上じゃ休まりませんので。そうだ、その子は必要なんですね? ワイバーンも鳥のように木に留まるんですか?」

「必須ではない。ただどちらかと言えばその方が居心地が良くはある。野生だと、子供の頃は鳥に混ざって木の中で暮らし、大きくなると地面に寝そべって眠るようになるという種も多いから。少なくともキビは歩くのが得意な種だし、床で寝るのも好きだ」

「そうなんですね。寝床として藁を敷きましたが、大丈夫でしょうか?」

「大丈夫だと思う、が……馬用の寝床がどのようなものか分からないので、しばらく様子を見させてほしい」

 キビは慣れない匂いと場所に、最初の内は先の分かれた舌をちろちろとせわしなく出し入れして落ち着かない様子を見せていた。しかしすぐに厚く重ねられた藁の層へ自ら進んで飛び込んで身をうずめ、疲れも手伝ってかそのまま横になってくつろぎ始めた。

 奉公人は桶に水を汲んできてキビの前に出した。キビはほとんど桶に頭を突っ込むように飛びつき、美味そうに飲み始めた。

「――大丈夫そうだ。気に入ったらしい……キビ、お布団気持ちいい? ああ、良かったね……」

「そうだオムラさん、丸太ですけれど」

「ああ、それは気にしないでいい。私が自分で何とかする」

「そうではなくて、丸太を厩に入れる時は我々店の者に声をかけてください。ほかの客が馬を休ませるとなったら、困る事もあるかもしれませんので」

「分かった。それと……今日から私も『店の者』として働く。しばらくの間だけ。日雇いで小銭を稼がせてもらう事になった」

「ああ、そういう話でしたね。聞いています。明日からよろしくお願いしますね」

 奉公人にそう言われ、オムラは頭を小さく下げた。


 次の日から、本格的にオムラの日雇い奉公人としての暮らしが始まった。

 奉公人の朝は早い。鶏が鳴くよりも早く、空が日で明るくなり切らない内にオムラは寝床から起き、メイド服に渋々――本当に渋々ながら袖を通して、二階の宿泊区画から一階・酒場へ降りた。

 エールと丸パンで軽く腹を満たすよう言われた後、まずは店の各所を案内された。カウンター、台所、掃除道具入れ、リネン室、パントリー、洗濯部屋、などなど――オムラが業務として関わる事になるであろう場所だけとはいえ、広い〈赤き戦斧亭〉を見て回るのにはそれなりに時間がかかった。

 オムラが店主から最初に仰せつかった仕事は、店先の簡単な掃除だった。いかにも奉公人という仕事の代表格である。玄関先を箒で綺麗にするだけで、ひどくない限りはチリ取りでゴミを捨てるまでする必要は無い、との事だった。

 しばらく箒を動かしていると、モルガンという小太りな女給がオムラを店内へ呼び戻しに来た。これはオムラが後で周りから聞いた事だが、彼女は店の中では歴が長い奉公人の一人で、他の奉公人を従えて色々な業務を取りまとめているそうだ。

 モルガンはまずテーブルを布巾で拭き、それが終わったら床にモップを掛けるようオムラに指示した。もう昼が近づいていた。店内ではすでにかなりの人数の〈赤き戦斧亭〉に所属する冒険者達が一階・酒場にたむろしていた。何人かは冒険前にもかかわらず革鎧の格好であり、それがタンカードいっぱいのエールを手にゲラゲラ笑っているという絵に描いたような冒険者姿がそこに何人もあった。愛用する腰の剣を叩きながら自らの武勇伝を披露するのに忙しい者、テーブルの上にナイフやロープや薬瓶と言った小道具を広げて手入れや点検をする者、宝の地図を広げてやれどこを探すべきと身内で議論する者もいる。そこへ、冒険者の宿では泊まっていない通いの冒険者達が、手頃な依頼が入っている事を期待して次々と店に顔を見せに来ている。

 店主が、

「やっと来たじゃないか! 欲しいものがあったら、その辺の給仕やつとっ捕まえるか怒鳴っておくれよ!」

 と大声を張るのを待つ前に、あらゆる席から、

「おーい、エールと丸パンを四人前くれ!」

「こっちは飯だ! 一番腹に溜まる奴が良い!」

「店主、今日来てる分の依頼票を見せてくれねえか?」

「誰か手が空いてる奴がいたら、お勘定にしてえんだが」

「また馬車の護衛だから、干し肉を二つか三つか包んでくれ」

 あらゆる要望があらゆる席から飛んで来る。

 その活気の余波にあてられて、客の食べかすや食器が時折下品にも宙を舞ってしまうのである。オムラは正午までモップを手に空飛ぶブランチを見張っていた。所属冒険者の何人かが、新顔の存在に気づいてちょっかいを掛けようとした。しかしオムラは日雇いの初陣で業務を覚えるのにいっぱいいっぱいで取り合う気も起きなかった上、訓練された剣士特有の厳しさを見た客は再び声をかける事は無かった。

「オムラね、笑いながら掃除しろとは言わないけどね。客商売なんだから、そんな仏頂面しないでおくれよ」

 その様子を店の奥から見ていた店主が、苦笑しながら言った。

 昼時、飲食店の忙しくなる時分になると、奉公人達はいよいよ猫の手も借りたくなってくる。しかしオムラはむしろ店の奥へ下がるように言われた。オムラを呼びに来たのは、あのアスタンという女給だった。フルネームはアステーリェ・クノックというらしい。常に気だるげな彼女の背の高く豊満な肉体がまとっている美は気品というよりも肉感的・娼婦的なものであって、同年代の同業者よりも経験豊富な冒険者である彼女の目には、実はサキュバスなのではなかろうか、と疑うような官能をくすぐるものがあった。ただしもしもそうだとするならば、この店の主人アーグステは上級魔族すらも従える超人〔脚注:正確に書き表すならば〈超妖精〉である。妖精界コッティングリアの住人達は全員妖精であり、人間は存在しない世界である。〕という事になる。その超人は、台所やパントリーのさらに奥の部屋、それはそれは広い物置の中央に仁王立ちしていた。アスタンがオムラを連れて来たのを認めると、物置の床に並べられた大きな木箱を指し示しながら、

「……まずはそうさね、お前にはしばらくこれをやってもらうよ。ご存じだろうがあたし達冒険者は、依頼先で手に入れた戦利品を色々抱えて帰って来る。冒険者の宿に限らず冒険者を抱えるフリーカンパニーってのは、そいつを売る事でも儲けを得て、運営の足しにしてるわけだよ。あんたにはそれらを販売先ごとに仕分けてほしいのさ」

 と言った。

 木箱は空で十近くあり、さらにその横に雑多なものがいくつも入れられた小さな箱やら籠やらがいくつもほど置かれていた。空箱が仕分け先で、それぞれ動植物から剥ぎ取られた部位、魔族から奪い取ったがらくた、専門家の鑑定が必要な物品、などと大まかに分ける事が出来た。それ以外の仕分け先は木札にナイフの刃で彫って、分けておいて並べるようだった。店主は「分からない事迷った事はアスタンに聞きな」とだけ言い残して物置を出て行った。

 それからはずっと二人で、様々な物品を箱や籠から取り出しては、ひとしきりひねくり回し続けていた。仕分ける対象は極めて多様だった。猛獣ドルドンの立派な毛皮。ウォーキングバロメッツの丸々と膨れた実。とにかく巨大で派手な古い食器。ゾンビ化した何かの大腿骨。大昔のむくつけきゴーレム共の破損した部品。それらの行き先もまた様々だった。鉄くずならとりあえず鍛冶屋。これは毛皮なので皮革問屋。同じものでも、エシッドを東西に横断するダルクレム市場街道の、あそこの古物商、こちらの雑貨屋のどちらへ売るか。美術品かもしれないなら北の裏通りに居を構える知る人ぞ知る骨董品屋。魔術的な品ならいっそ魔術師ギルドに譲ろう。さてこれは旧市街と新市街のどちらの八百屋の方が良いだろう――オムラは品々が売られていく先を考えている内に、無自覚に自分の所属するフリーカンパニーが自分達の戦利品をどのようにさばいているのかを想像し、それを参考にしようとしていた。オムラにとっては普段世話になっている職場の舞台裏の体験のようにもなり、面白い経験だった。一見すると何事にも無気力そうなアスタンは、意外にも色々な事に詳しい博学家で、売り先も型通りの宛先ばかりでなく、気の利いたところを選び、その理由をいちいち聞くのがまた面白かった。

 しばらく仕分けていると、他の奉公人が別の木箱を持って来て、アスタンがそれを受け取った。何でも、赤き戦斧亭の所属のミーナという女冒険者が、

「いや、いいかげん故郷くにに戻って顔を見せなくてはいけない頃でしてねえ。しばし暇をもらいましたので、帰省の旅に出ますもので……それで、手持ちの物を身軽にして、路銀に変えようかと思うのですよ」

 と長身を折り畳んで頭を下げながら、こまごまとした物を売りに来たのだという。店がそれらの戦利品を買い取ったので、さらにオムラ達が仕分けるべき品が増えた。その後も新しい仕分け対象の戦利品が途中で何度か増え、夕方までの仕事となった。

 アスタン曰く店ではこれが毎日続くという。普段は当番制で回しているというが、せっかくオムラが入ってきたのでしばらく任せて周りに楽をさせよう、という店主の腹積もりだったのだ。空が暗くなり始めた頃に木箱の中身が全てはけた。オムラが達成感と共に一息つく暇も無く、アスタンは仕分け業務の後片づけを命じた。最後の木箱を所定の位置へしまい終わった後、自室へ帰ろうとするオムラへ、彼女はこの業務を今後も任せていいかと尋ねた。オムラには断る理由も無かった。

 次の日、メイド服に着替えたオムラが一階へ降りてくると、店主は依頼票を張りだした掲示板の前で立ったまま何かを思案し続けていた。その巨体の陰にモルガンの姿があった。モルガンは昨日見た奉公人のメイド服ではなく、その上に外着の外套を羽織っていた。モルガンはオムラが降りて来たのを見つけると、店主の巨体に手が届く限界の高さである肘を手で突っついた。店主はようやく考え事の世界からはたと戻って来て、オムラに気が付いた。

「おはよう。店で働き始めて一日終えて、調子はどうだい?」

「問題無い」

「キビちゃんは元気かい?」

「これから見に行く。昨日はさすがにどっと疲れが出たみたいだから、緊張の糸が切れて調子を崩していないか心配だ」

 オムラはキビの朝食を店主に所望した。するとモルガンが足早に厨房へ引っ込んでいったかと思うと、すぐに戻って来て籠一杯の青菜を持ってきた。オムラは対応の早さに驚いたものの、自分が昨日の夜のうちに店に対して餌になりそうな物の説明をしていた事を思い出した。一旦自室へ引っ込み、魔法の行使に使う指揮棒ほどの短い魔法の杖を腰に差して戻った。オムラはキビの餌を温めるために元素魔法エレメンタルをいくらか会得しており、戦闘はもちろんキビとの暮らしにも活用していた。その日も魔術を使って室温を上回るまで青菜を温かめてから、厩へ持っていった。

 キビはまだ寝藁の中でまどろんでいた。朝の早いキビには珍しい事だった。寝息は整っていて具合は悪くなさそうだった。しかしまだ疲れが抜けきっていないようで、鱗の色は未だに冴えない。日が出たばかりで、厩の空気はまだまだ朝の冷たさが支配している。オムラはキビをそのまま寝かせてあげる事にした。

 戻ってくると、店主から一つ仕事を頼まれた。

「今からこいつを朝の仕入れに行かせるつもりでね。荷物持ちとしてついて行っておくれ。ついでに武具屋・道具屋の場所も見てきたらどうだい?」

 という事であった。

 市場は盛況であった。往来の活気はフェイドと同じく、一日の始まりの用意のために買いこむ働き者達や朝餉を慌てて買いに来た粗忽(そこつ)者の市民達でにぎにぎしい。しかしモルガンの後を着いて進むごとに、頭上に張られた幌屋根の鰹縞や、店先に並ぶパンは種類が豊富で、肉に交じって野菜が比較的多い事に異国情緒を感じた。モルガンは贔屓の店を尋ねると手早く品を選びながら挨拶を交わし、そのたびにオムラを店番に紹介した。店番は誰もかれも人懐っこく、笑顔を満面に浮かべてオムラへ話しかけ、オムラの肩を叩いて乱暴に励ます者もいた。オムラはそれにどう反応して良いのか分からず、肩を叩かれるたびに戸惑った。

 オムラは長々と外出するつもりはなかった。キビの体調が回復したかどうかが心配で、しばらくは可能ならばいつでもそばで見てあげられるようにしたかったからだ。それを察したモルガンが気を遣って、買い物が半分ほど終わった頃に、店ですぐに必要になる物を彼女に持たせて店へ一旦帰るように勧めた。

 日も登り切らない内に〈赤き戦斧亭〉に戻り、厨房係の奉公人へ仔細を説明しながら買った物を手渡した。厩へ駆け戻ると、キビはすでに起きていて、若い男の奉公人が水を飲ませているところだった。とても元気そうで、オムラは安堵で少し泣きそうになった。オムラがその場で魔法で温め直した青菜を朝食として差し出すと、キビは彼女の手に飛びついて数枚いっぺんに食べた。そのまま残りの青菜もすぐに全て食べきってしまった。食べ終わった後「きゅしゅっ、きゅわあ!」とひときわ大きな声で嬉しそうに鳴いて両翼を広げた。それから若い男の奉公人の頭に飛び乗ってその上で飛び跳ねて彼にじゃれ付き始めたので、彼は情けない声を上げながら慌てふためいて両手をばたつかせた。

 キビはそのまま彼に預ける事にして、再び市場へ戻った。合流した時にはモルガンはほとんど買い物を終えていた。オムラは店の近くの防具鍛冶や刀鍛冶の場所だけ確認して、その後は店に帰るまでずっと本来の役割である荷物持ちという立場を全うし続けた。

「お帰り」

 帰って荷物を降ろして他の奉公人へ預けた時、店主が出迎えて来て労をねぎらった。その直後に、

「オムラや、お前は竜戦士とかいう奴らしいから、キビちゃんには色々させる事が出来るんだろうけれど、お前自身は何が出来るんだい?」

 と聞いてきた。

「片手剣と盾での剣術、それから魔法を少々」

「魔法戦士だね? 何を使うんだい。自然魔法ドルイディックとかかい」

元素魔法エレメンタルだ」

「普通のアレだね。ものを教えるのは得意な方かい?」

「周りよりも得意だとは思わない。それにまだまだ至らないところが多いと思っている」

「そうかい、そうは見えないがね……いや、ウチは飛脚問屋の奉公人や配達の役人に自衛術を指南しててね、それが出来りゃあ、お前を何日もウチで働かせなくて良かったんだけれど」

 店主は残念そうに首を振った後、

「お前がいない間に考えてたんだね、あんたは明日から、朝は店の前じゃなくて厩のあたりを掃除しておくれ。それに馬房の中の掃除も頼もう。どうせキビちゃんの世話に必要な事だろうからね。せっかくだから厩周りはみんなお前に任せる事にしてしまおうかと思ってる。簡単にで良いよ。それで明日も働いてくれるかね」

「問題無い。帰れるだけの金になるまでの間はよろしく頼む」

 オムラは財布を――店主がモルガンに持たせていた買い出し用の財布である。モルガンは帰店後すぐに急ぎの用が出来たので、これをオムラに預けていた――店主へ返却した。すると彼女はそれと交換するように小袋を出してきて中身をオムラの手のひらの上へ出した。中身は数枚の銅貨だった。

「それとね、午後の戦利品の仕分けに入る前に、これを受け取っておくれ。昨日の半日分工賃さ」

「……これだけか?」

「何だい、日雇いの儲けとしちゃ恵まれてる方さ。これも、冒険者の経済観念が世間様のとズレてるってのを学ぶ良い機会だよ!」

 ぽつねんと一握の小さな銅貨を見つめるオムラを尻目に、店主は豪快に笑いながら店のカウンター席の奥の厨房へ身をかがめて引っ込んでいった。入れ替わりに今日もまたアスタンがやって来て、仕分け作業のためにオムラを呼びに来た。



 五、六日後、キビは厩の天井からぶら下がっていたロープを口で咥えてぶら下がって遊んでいた。

 キビは赤き戦斧亭の厩の環境にすっかり慣れたようで、今では我が物顔で馬房の中を駆けまわったり寝藁に寝そべったりしている。

 若い優男の奉公人が厩の前で細腕を震わせ、顔を赤くして、厩へキビが()まるための細い丸太を搬入するのに悪戦苦闘していた。見ていられなくなったオムラは丸太の一端を持って支えた。それがその内に丸太の中央を抱えるようになり、結局一人で丸太を担いで運んで設置したに等しくなった。奉公人の彼は自分の非力さが不甲斐なかったのか、新しい飲み水と藁を持ってくるのを口実に厩から逃げ出した。

 キビはオムラが厩へ入って来たのを見つけると、ロープで遊ぶのを止めて下へ降りた。丸太の太さや曲面の凹凸は、見込んだ通りキビの足の形と合っていて、キビは居心地が良さそうに丸太の上で跳ねていた。

「キビ、慣れた? この店での暮らし」

 オムラはその小さな頭を撫でた。キビは目を細めた。

「きゅう!」

「そっか、良かった」

 呟いた後、オムラは厨房から持って来ていた小袋に手を伸ばそうとした。だがそれよりも先に、キビが目聡く小袋を見つけて首を伸ばした。中身をすでに分かっているらしく、早くほしいとねだるように翼をばたつかせている。

 小袋の中身は豆林檎で、赤き戦斧亭に停まっている間キビはもっぱらこればかり食べている。

「……豆林檎、気に入ったんだね。食べる?」

 オムラは尋ねつつ、小袋から豆林檎を出してキビの鼻先へ近づけた。

「きゅいい!」

 キビは真っ先に食いつき、豆林檎を牙で器用に割っていっぺんに半分も飲み込んだ。一つでは足りなかったようで、すぐに二つ目を頬張り出し、また心底美味そうに食べ始めた。結局キビは豆林檎を三つも食べた。食欲は以前の旺盛さに戻っていて、すっかり旅の疲れも癒えて回復したようだ。

「ふふ、おいしいね、良かったねえ……」

 オムラはまた頭を撫でてやった。キビは満腹感もあってか、目を細めながら首を寝かせて喜んだ。

 太陽が昇り、もうすぐ朝と昼の境をまたぎつつあった。いつもならキビを散歩に出す時間だった。しかしここは異郷の地エシッディアであって、故郷フェイドのように往来へ不用意に出せばどんな誤解や揉め事を生むか分からない(そういう意味では、赤き戦斧亭を見つけるまでに間に何事も無かったのは僥倖だったといえるだろう。)ため、キビにはまだしばらく狭い厩の中で我慢してもらわねばならなかった。

 エシッディアからフェイドまで街道を少々北上するまでの間、鉄くずと化したような防具と折れた剣では、半ば裸に丸腰で往来を歩くのに近く、冒険者の旅としてはあまりに危険である。まだ少々金が足りなかった。幸い、〈フェイド・コンパニー・フォン・シュテルン〉から届いた返事の手紙によれば『装備と体調を整えるためなら、少しくらいはご当地に長居しても良い。そこで先に旅の垢を落としてから帰って来い』とのお達しであった。

 この日は午前は暇をもらった。店主曰く、彼女自身の都合をつけるための時間との事で、つまり『オムラがフェイドに帰るための準備に半日を充ててほしい』という気遣いであった。

 オムラは先日場所を調べておいた鍛冶屋の元へ行く事にした。それなりのものをこしらえてもらえるだろう程度には手持ちはすでに出来ている。宿代・食事代は日雇いの賃金からあらかじめ差っ引いて支払われているので、金が貯まる体感は早かった。

 鎧をドワーフの鍛冶屋へ見せると、彼は損傷具合に痛く驚きながらも、昼飯の時間までにはフェイドへ戻るまで身を守り続けられる程度には直してやれると言い切った。彼は厳めしい顔付きに反して人懐っこいのか丸盾も良い物を拵えてやると息巻いた。好意だけいただいた一方、折れた剣の代わりについては、

 ――せっかくエシッディアまで来たのだから……。

 と思い、記念にエシッド風の拵えの片手剣を打ってもらう事にした。それ以外は、支出を抑えるために余計なものは装飾も何もいらないと頼んだ。鍛冶屋が笑って返したとおり、弧状の護拳や前方の反り上がってソードブレイカーや斧のように使う事の出来る鍔そのものの見栄えが良いのだ。

 オムラはキビの鎧の事も頼もうかと何度も考えたが、ついに口に出さなかった。ワイバーン用の鎧を作る技術は特殊技能なのだ。第一、特殊な工具が必要だ。それを外国人が作れるとは思えなかったし、何より戦友を護る物を信頼のおける母国の職人以外に頼む気は起きなかった。


「おおい、お盆を持つ手が危なっかしいぜ、新人ちゃん!」

 髭の伸び切らない若いドワーフの男が、大声で女給をからかった。顔はすでに赤く、いささか酔っている様子だが、そこは彼らドワーフの酒の強さなのか単に酔いが顔に出やすいだけなのか、呂律は回っている。同じ席のシルフの男は、種族柄向かいに座るドワーフよりも背は高い一方で、肌の色は彼以上に紅潮していて、すでにほろ酔いの域から片足前に振り出しているだろう。この二人の若造冒険者がここまで気持ち良く飲んでいるのは、気の置けない同胞同士というだけではない。見慣れない女の奉公人への興味が酒の肴になっていたのだ。彼女は特別に美形という訳ではないものの、突出して悪目立ちするような部位も無い。何より今までの冒険で心身共に鍛えられた経験が裏打ちする凛々しさが目を惹いた。それがまた、あくまでもてなしの腕を磨いてきた周りの女給達と一緒に働いているせいで、一人だけ生命的な特色となって浮き出して見えるのだ。

 女給はオムラである。彼女を目立たせる存在感の正体は冒険者特有の生命の炎の燃やし方であった。オムラは袖を通すのにいいかげん耐性のついたメイド服に着替え、手にお盆を持っていた。

 この日は戦利品仕分けの後にも仕事があった。鍛冶屋から赤き戦斧亭へ新調した装備を抱えて帰った後、オムラは一階・酒場のウェイトレス業務を手伝うように言われたのだ。客から注文を取りつつ、飲み物や料理の用意が出来れたそれを運び、その間ずっと勘定のために誰がどれだけ飲み食いしたか把握していなくてはならない。この目まぐるしい肉体労働は、冒険者稼業とはまた異なる労力が必要だった。しかも客の中には迷惑な行為に出る者も時に出る。それも軽くあしらわなくては、やっていられない。

 シルフの方の若造冒険者はこの手の不埒者の典型のような男であり、いくらか酔うとすぐに頭の中が女の事ばかりになる。

「へっへへ……俺が尻持って支えてやろうか?」

 オムラが席のそばを通りがかった時、この男はこの日もやはり彼女の尻へ手を伸ばした。しかし今日の相手はメイド服を着た竜剣士である。オムラは彼の魔の手を鋭敏かつ乱暴に払いのけ、

「もう一度馬鹿言ったら斬り殺すぞ。たとえご同業と言えども」

「ご同業ぅ?」オムラの言葉に、まず先にドワーフの方の若造冒険者が反応した。「同業って事はお前も冒険者か? それがなんで女給さんなんかしてんだ?」

「そうだ、見ねえ顔だしよ」

「お前ね、そいつはグロースランドのフリーカンパニーの奴なんだよ。相棒の鎧やら路銀やらで足止め喰っちまってね」

 オムラの色黒の顔を赤い顔で覗き込む二人へ、店主がカウンター席の奥から顔を出して教えた。言外で(よその店の奴に変な事をするな)と止めているのだが、二人がそれに気づいたかは怪しく、特にドワーフの方は彼女の外国風の発音の方へ関心が向いている。

「それで小遣い稼ぎしてるってか。道理で言葉にそっちの訛りがある……」

「悪いか?」

「いいや。むしろ、もしも俺が今立って飲んでたなら『その手があったか!』って膝叩いてるところさ。懐が寒いのに依頼が無えと、俺は酒が飲めねえ」

「俺は女が抱けねえ。だから俺達二人ここんところ頭突き合わせて、どうしたもんかって悩んでたところなんだ。こりゃあ良い事を聞いたな、相棒……」

「全くだ。これなら飲める……」

「ご注文は?」

 オムラが二人の話の流れをぶった切って尋ねたので、二人の酔いどれた若造冒険者は表向きにはつまらなそうに、内心では彼女の方から話しかけられて嬉しいのを誤魔化して、仰け反りながら顔をそむけた。

「つれねえなあ……まあ良いや、酒だけ飲んでるってのも楽しい酔い方じゃねえ、一つ凝った軽食でも取るか。俺は鳥の燻製を焼いてくれ」

「かしこまりました」

「俺はガツンと腹に溜まるのが良いな。ソーセージの揚げた奴をくんねえか」

「ただいま用意させる」

 とだけ言い残し、オムラは厨房まで注文内容を伝えに行った。注文を受けた若い料理人が内容を復唱すると、厨房の奥から老齢のブラウニーのコック長が檄を飛ばし始めた。

 ドワーフの方が、すでに光の差し込まなくなった窓の向こうを仰ぎ見て、

「もう晩飯時よるか……」

 とつぶやいた。シルフの方もそれに同調して外を見た。

 外はすでにすっかり暗い。夜の帳はエシッディアの住人から品性や身分や綺麗事でつんと澄ました面の皮を剥がし、その下の素朴な感情を露わにして、ロウソクの灯の温かな光で慎ましく照らし出す。特に夜の酒場は酒の力もあって、原初の情動が開けっぴろげになる。酒場は酒精の匂いが部屋全体にぐずぐずに溶けだしている。さらにただの酔っ払いと化して騒ぐ剣士や魔法使いがさらにその空気を無軌道にかき混ぜている。それにしても、酔いつぶれて座席に崩れ落ちた客の体の何と重い事だろう。それと、出来る事ならば自室に戻るか、外で夜風に当たっている時に嘔吐してほしい。オムラは窓の向こうを見て感傷に浸っていたはずが、いつの間にか仕事の不満を窓の外へ投げ捨てていた。

 頼まれていた料理が出来上がり、オムラのお盆の上へ預けられた。燻製鶏焼きと揚げたソーセージ。それらを供するべく件のお調子者の若造二人の元へと運ぶ。

 皿をテーブルへ置いた時、シルフの方が手をひらひらさせてまた悪癖を出し始めた。再びオムラの尻へ伸ばした手を、彼女に厳しい目であしらわれても、なお軽薄に笑っている。

「そんな怖え顔すんなって。どうせ俺達は今日はながちりなんだ、黙って椅子に尻沈めてもつまんねえから、ちょっと相手してほしいってだけよ。たいていの男は女と仲良しこよししてえものなのさ。俺がご不浄へ行くと言ったら、もう酒がだいぶ回ってて来ちまってちっとばかし歩くのが頼りねえかもしれねえから、そん時は俺と肩を組んで歩いてくんねえよ、嬢ちゃん、仲良しこよしでよ、へへ……」

「それよりも尻持って支えてやろうか?」

 酔っ払った客に絡まれ続けてうっとうしくなったオムラは思わず言い放った。シルフの男はぽかんと口を開けて黙ってしまっている。それを見たドワーフの方が、

「わはは、言い返されてやがる……良い加減に止めねえとその内殺されるぜ、相棒」

 と大口を開けて相棒を笑った。それを見ていた周りの冒険者達も口を開けて笑った。

 オムラはご同業達の呵々大笑を見ている内に、酔っ払いの馬鹿に言い返してやったという快哉も合わさって、気づくと自分でも笑っていた。



 それからしばらくして、オムラが赤き戦斧亭で働き始めて半月が過ぎた頃の事だった。

 二階の宿泊区画の廊下には客室の間の一か所にリネン室があり、そこに客室の寝具やら何やらが保管されている。リネン室は一般的に貴族の屋敷や大商人の豪邸を除いては、客が入れ替わりでベッドを使う娼館で見られる設備であり、この店の大きさと客層の両方を象徴しているようにも見える。

 オムラはここを行き来していた。今はもう夜である。客室の寝具を洗った後のものと取り換えた後、明日以降に洗濯する事になる古い寝具を下の広い部屋、奉公人の間では洗濯部屋と通称される一室へ放り込む。そして今日洗濯して乾いた布巾などの布類をリネン室へ持って行って、あるべき場所へ収納する。

 洗濯とは重労働であり、石鹸という高級品の手の届かない民衆は石灰や水の元素の魔術で汚れを浮かせつつ、延々と手で洗濯物を擦り続けたりウールなどの生地では足で踏んだりして、圧力と摩擦力頼みの力任せな手段で汚れをし落とす他に無い。しかしこれがオムラにとっては、冒険者で力仕事に慣れ切っており、かつ元素魔法エレメンタルの出来るために天職のようなものであった。当初、赤き戦斧亭の日雇いを始めてから最初の内は、外国の同業者という事でいくらか客人扱いされているところがあったので、オムラにこの仕事は回されなかった。しかし仕事の中身に下賤だの高尚だのを考えない彼女が、金欲しさで自ら進んで請け負った。今ではオムラは奉公人の間に溶け込んでおり、素手・裸足で汚れた水を浴び続ける仕事も堂に入ったものである。

 自ら洗って自ら物干し竿に掛けて干した布巾というのは、冒険者風に言えば仕留めた獲物のようなものである。苦労して成し遂げた成果の実体を抱えてリネン室へ入る彼女の足は勝手に踊っている。

 オムラが布巾をしまい終えてリネン室から出て来た時、

「お疲れ! 今の作業が終わったら、もう今日はもう上がりにしてからな!」

 とウィルバーに声を掛けられた。

 ウィルバーは赤鱗の隆々としたサラマンダーの奉公人で、逞しい黒い顎鬚を揺らして笑う朗らかな男である。店の奉公人の中でも高い立場の男で、今は主に二階の宿稼業周りの仕事を取り仕切っている。また時折一階・酒場のカウンターに立つ晩もある。噂によれば、実は元々彼がこの店の店主だった。しかし誰かを疑うという事がまるで出来ない彼は虚偽の依頼を持ち込む悪質な客への対処が苦手だったため、自ら望んで身を退いて一兵卒へ戻ったという。この経緯は彼の妖精ひとの好さを示す格好の挿話であった。

 そんなウィルバーが手に持っているのは、小さな革袋である。中身が小さく動いているのが一目でわかる。

「ウィルバーさん、それは?」

「ああ、これか? さっき買ってきたんだ!」

 と言って、彼は袋をオムラへ突き出した。オムラが受け取って中身を見てみると、白い糸が絡まって出来た親指ほどの紡錘形の塊がいくつも入っており、微小にうぞうぞと蠢いている。

「これは、繭か?」

「ピーチワームだ。繭入りのが安かったから、良さそうだと思ってな!」

「まさか、キビのために?」

「店のために働いてくれてるからな! こういうの、小さいワイバーンには格好の餌だろ?」

「ありがとう、生きている奴はキビは大好きだ」

 彼はオムラの背中を叩いた。オムラはそれに応えるように笑んだ。

 作業がついさっき終わった事をウィルバーに伝えると、彼は寝る前にワイバーンに食わせてやったらどうだ、と勧めてきた。無論ピーチワームの生きている内に与えたかったので、オムラは最初からそのつもりだった。革袋を手に持って、厩へと向かった。

 ところが階段を下りると、厩の方から男の怒鳴り声が聞こえてくる……。

 異変を耳にしたオムラは厩へ急いだ。厩ではやはり何事かが起きていた。厩には料理人態の男がいた。男は体格が良く、顔が赤くなっている。男は相手に対してがなり立て続けていた。怒鳴られているのはここのところずっとオムラとともに厩の管理を任されている若いやせた男の奉公人だ。

「なんでこんなところにトカゲがいるんだ!」

 男は馬房を指して激しく文句をつけているようだった。

 そのキビはと言うと、男から敵意を察知してかあるいは怯えてか、厩の馬房の中で寝藁を体に被って隠れている。優男の奉公人はおろおろとしながら、

「ト、トカゲじゃなくてワイバーンですって。この前グロースランドの冒険者さんが来て――」

「理由なんか聞いてねえ! こいつは火か何か吹くだろうが。危ねえから馬房に鍵をかけて出られないようにしろよ」

「鍵なんてありませんよ。そもそもあったところで、柵を飛び超えられちゃうから意味がありません」

「口答えしてんじゃねえよ。そんな事より最近厩で消費する野菜が増えてるじゃねえか、ええ? 二日にいっぺん料理に使わない林檎がパントリーに現れては、買い付けておいた魚とかと一緒に消えやがる。何だよこれは? 在庫が把握出来ねえと料理が出来ねえじゃねえか。パントリーは厨房で使う物を置くための場所なんだよ。お前も予算って奴は分かるだろ?」

「それは店主に認めてもらってますし、林檎の方は――」

「俺の言ってる事がおかしいってのか、男娼野郎」

 男に凄まれて、優男の奉公人は侮辱されても首を引っ込めて怯えたままである。それを料理人の男が苛立たしがって手ひどく突き飛ばした。

 もはや黙っては見ていられなくなったオムラは、男へ近寄って話しかけた。

「おい! 何があったんだ?」

「ああ? 何でもねえよ。なぜだか知らねえがトカゲが厩に居やがるから、こいつに問い詰めてるんだ」

「その子は大丈夫。あたしの相棒だ。グロースランド公認ブリーダーによって国に登録の上で十分に訓練されてるワイバーンだ」

「ならしつけがなってないな。店に損害が出てるぜ。俺のワインだよ。ワインは料理に使う物なんで持ってたんだが、そいつを今このトカゲにこぼされた。どう落とし前つけてくれんだよ」

 料理人の男が指さした先では床で瓶が割れており、中身が厩の馬房の一角へこぼれ出ている。料理人の男は顔をさらに赤く染めてオムラへ詰め寄った。

 オムラは尋ねた。

「そもそもなぜ料理中の料理人が厩にいるんだ?」

「うるせえ、関係無えだろ。どっか行けよ」

 彼は面倒そうに手を振ってオムラを追いやろうとした。この反応がオムラには不自然に見えた。必要以上に攻撃的な態度それ自体もさることながら、態度と言葉が合っていないのだ。これがオムラの頭の中で結びついた。

「ははあん、さては仕事をさぼって、厩で隠れて一杯()ろうとしたな? それがキビを見て驚いた拍子に瓶を落としたから気分が悪くなって、腹いせにそばにいる奴を捕まえて怒鳴ってるんだろう。気の弱い奴に難癖付けて縮こまらせて、自分の留飲を下げてるんだ。小さい男だ」

「馬鹿言え。てめえ売ってんのかよ」

「喧嘩を、か? なるほど、顔が赤いのは怒気でなく酒のせいだ」

「ああ、お前が男娼野郎の言ってたグロースランドからの女って奴だな? てめえ、俺をなめてんのもいい加減にしねえと――俺はお前とおんなじなんだぜ。ただし俺様の方がずっと凄腕だ」

「何の話だ」

「俺も元冒険者って話よ、こうしねえと分からねえか?」

 言うや、料理人の男はつかつかと詰め寄ってきたかと思うと、次の瞬間には目にも止まらぬ速さで剛拳を突き出してきた。

 それをオムラは咄嗟にのけぞりつつ身を引いて空振らせた。パンチを避けた後すぐに距離を取って、男の攻撃の間合いから抜け出す。

「危ないじゃないか、筋肉小僧め……!」

 不意に拳が掠めたせいか、オムラの口から瞠目と共に柄にもなく挑発的な言葉が出た。

 同時に男もまた、自慢の拳が空を切るとは予想せず驚愕している。

「何だこいつ、ただ者じゃねえなあ……」

 呟きつつ、料理人の男はファイティングポーズを取っていた。脇を締め、ステップを踏み、両の腕を胸の前で八の字に構えた姿は、一瞥でも手練れの拳闘士のそれだと分かる。

 オムラも前傾姿勢になって臨戦態勢を取った。

 男がなおも丸太のような両腕をしゃにむに振り回して迫って来た。

 それらをくぐって躱しつつ、オムラは腰へ左手を伸ばした。しかしあるはずの鞘と鍔が無く鯉口が切れなかった。今のオムラは冒険者ではなく奉公人姿であり、普段の得物を腰に佩いていないのに気が付き、思わず舌打ちをする。

 代わりに、腰に差していた元素魔法エレメンタル用の魔法の杖をすかさず抜き放ち、それを男へ向けて、口内で含むように呪文を唱える。

 途端、杖の先から霧状の光が噴き出し、男にまとわりつく。第三の神のもたらしたる風の元素を冷気へと変えて放つ凍結の魔法である。凍結の魔法は男の体表と空気中の両方の水分で薄氷へ変じた。男の体は氷塊の一部となり、動きが封じられてゆく。

 この隙にオムラは辺りを素早く見回した。あくまでもオムラは剣士であって、丸腰での徒手格闘は専門外である。武器になりうる棒状の何かを一刻も早く探さなければ、戦い切れない。

 しかし男は自由の利く左の腕を怒張させて、鉄拳を己の胸板へ放った。

 男の体表の氷が、ガッという低く鈍い音を短く立てて粉々に散った。

「この馬鹿女め、味な真似しやがって……」

 怒気と酒気と叩き割った氷の冷気で赤くなった、ナックルダスターの日焼け跡が未だに残る太い指を男は今度は開き、瞠目するオムラへ掴みかからんとここぞとばかり、氷塊を蹴り飛ばして飛び掛かろうとする。

 男と距離を詰められるより先に、オムラが叫んだ。

「キビ! 押さえつけろ!」

 この瞬間の不意を突かれた男の驚愕と悔しさはいかばかりだっただろう。出しぬけに馬房に積まれた藁が吹き飛ばされた直後、つい先ほどまで自分がくさしていた()()()が飼い主の命令を耳にして飛び出し、踊りかかってきたのだ。キビは右翼の先で器用に男の手を払い避けつつ、長い足を振り上げて胸板へ鋭い前蹴りを放った。胸板へもろに食らった男はうめいたものの、なおも両腕を体の前で固めて防御姿勢を取った。これを見たキビは鞭のような尾を振って、防御を迂回するように尾の先を飛ばして男の側頭部へ何度も当てて攻め立てた。それと同時に鉤爪だらけの足で胸板や肩を鷲掴みにして男の体をよじ登ったものだから、

「畜生、降りろ! 畜生……」

 たちまち男はキビに頭の上へよじ登られてしまった。キビの体に視界を塞がれ、前が見えない。顔も頭も鷲掴みにされて目も開けられない。さらにキビが顎で頭にも手にも噛みつき、羽ばたきながら長い首で振り回すので、体が半ば宙に浮いてしまい、倒れないよう堪えるだけでも精一杯である。こうなると、特に姿勢と重心と身体操作の重要な拳闘士は、たまったものではない。

 キビが男を抑えている間に、厩の奥まったところにようやく振り回すのに使えそうな物を見つけたオムラが、ピッチフォークを逆さに持って両手剣の構えを取り、柄の先を男へ向け、

「ぐむうっ……」

 そのまま男の胴へ横一文字に振り抜いて強かに打ち据え、柄の先が分厚い男の腹の筋肉の鎧をえぐるように穿って陥没させた。

 男はキビを頭に乗せたまま、五歩分は吹き飛ばされた。腹を打たれた苦痛に悶えつつ、一度は反射的に落ちていた酒瓶を武器代わりに手に取ったものの、目の前の翼竜は瓶ごとき歯牙にもかけないと分かると、二対一では敵わないと見て、キビに纏わりつかれたのも引き剥がせないままその場から逃げ出した。オムラは追いかけた。男は勝手口から赤き戦斧亭の中へ入っていく。

「待て!」

 料理人の男は彼の元いたところである厨房へ逃げ込んだ。厨房では他の料理人達が、深夜の飲んだくれ客へ饗する物と明日の仕事の下準備に追われている。

 彼らは目を丸くした。同僚が頭にワイバーンを乗せて、顔中血まみれで飛び込んで来たからだ。しかも彼を日雇いの女給がピッチフォーク片手に追いかけ回しているのである。まずブラウニーの料理長が職場への闖入者と見たキビとオムラへ矮躯を震わせて怒鳴り、「何だお前は! 止めろ! 出て行かんか!」包丁で武装して食って掛かった。他の料理人の何人かも危険生物ワイバーンから同僚を救うべくキビを取り押さえようとした。キビが調理台の上を飛び跳ねて逃げ回り、それを彼らが追いかけ、そのたびに食材が床に落ちて踏まれた。しかし彼が割れた酒瓶を振り回して抵抗しているのを見つけた一人が、「ジギス! てめえ今度はサボって何してやがった!」と激高して男の方へ掴みかかった。ジギスというらしい料理人の男はここへきて完全に逆上しきっており、「全員ぶっ殺してやる!」とわめいて目に入る者全てを酒瓶で殴り付け始めた。何人もの他の料理人達がジギスの酒瓶を頭に食らって血を流した。異変を察知した料理長はオムラのピッチフォーク相手に包丁とおたまで切り結ぶのを止めて、「何をしたんじゃ、ジギス! 今日こそ本当の事を言え!」今度は彼めがけて突っかかった。調理台の上の木のボウルが空を飛び、火をかけている鍋が床へひっくり返って中の出来かけのスープが床へぶちまけられた。この騒動は客間まで伝わったようで、「うるせえなあ! 俺のパイ包み焼きをさっさと作りやがれ!」回らない呂律で叫びながらいつだかの若造冒険者のドワーフの方が厨房へ押し入ってきて、得物を誰かれ構わず振り回しだした。さらに他の酔っ払った客まで詰め寄って来て「良いぞ! 喧嘩だ、喧嘩だ! やっちまえ、やっちまえ!」とはやし立てた。騒ぎは収拾がつかなくなり、厨房は暴力と混乱に支配された。誰かが熱されたフライパンを放り投げた。それに驚いたキビが口から火を噴いてばたばたと暴れた。「ふぎゅわっ! きゅぎゅええっ!」火は服が引火した誰かを火だるまにした上に、揚げ物の鍋にも引火して、それが壁に燃え移って大炎上を始めた。厨房の料理人達が絶叫と悲鳴を上げた。「うわあああァァァっ!」

「お前ら全員何をやってるんだあああァァァ――――ッ!」

 ウィルバーが優男の奉公人に連れられてようやく現れ、鬼の形相を作って大騒ぎの厨房中に聞こえる大音声だいおんじょうで大喝したのはその時だった。



 明朝を迎えてなお、厨房の大騒動の後始末はついていない。この日、赤き戦斧亭は急遽開店時刻を遅らせる事に決まった。

 店主アーグステ・ズブレッツィが寝間着姿のまま眠い目をこすりつつ、店の奉公人も所属冒険者も総動員して檄を飛ばし、事に当たらせていた。厨房の炎は消し止められている。もしもウィルバーが大慌てで魔術と雑学に長けるアスタン以下、火消しに役立つ魔法を修めている魔法使いを呼びつけて消火活動にあたらせていなければ、今頃赤き戦斧亭は燃え落ちていただろう。今は、客から通報を受けてすっ飛んできた衛視に事情聴取を受けながら自分も詳しい状況を目元にくまを作ったウィルバーから聞き、誰が騒動に関わっているかを把握しようとしていた。店主が血の気の多い料理長と飲ん兵衛のドワーフ冒険者へはどれくらいの処分を下すのが適当かを思案していると、担架が店の外へ運ばれていくのが見えた。事件の元凶であるあの元冒険者の料理人ジギスは騒動のどさくさの中で誰かに腹を牛刀で刺されたらしく、命の危険から神殿へ運ばれるらしい。それを横目に見て、

「あいつは結局、自分がどうして冒険者を辞めさせられたか理解出来なかったねえ……物覚えの良い、出来た奴だったのにねえ……」

 寂しそうにつぶやいたものだった。

 一階・酒場の客間の半分は、床の板張りの上に敷物がされて救護活動に使われていた。大小の怪我・火傷を何人もの料理人達が床に寝かされて、神威魔法(オラクル)の心得のある冒険者が彼らの介抱に追われていた。その中にはオムラの姿も混じっていた。ドワーフの冒険者が来た事までは覚えているので、その直後に誰かに頭を殴られたらしい。ウィルバーとモルガンが見つけた時には厨房の床で伸びていたという。後頭部のたんこぶに湿布を貼ってもらう時、オムラは頭が未だにずきずきと痛むので顔をしかめた。

 オムラはキビを探した。キビはオムラのすぐ横にいた。ウィルバーが、キビに怪我が無いかを所属冒険者のうち治癒魔法の出来る奴に確かめさせつつ、繭を剥がしたピーチワームを食べさせて機嫌を直そうとしていた。

 しばらくして頭の怪我から回復したオムラは、立ち上がって店主を探した。店主は厨房の火災の被害を気にして調べさせていた。

「ご店主」

「お前も今日は災難だったね」

「今日で、店の日雇いを辞めさせていただきたい」 

 店主は唐突に言い出されて驚いた。

「何だい、急に……確かにこんな事が起きたあとだけれどもさ」

「衛視にも話したが、元はと言えばあたしとキビが騒動のきっかけ。それを、これ以上ぬけぬけと店に居座り続けられない」

「馬鹿、お前が気にする事かい。ジギスは馘首クビだよ。むしろこっちの奉公人がお前に迷惑をかけたんだ」

「そうじゃない。元々、あたし達はフェイドの冒険者。それを忘れてずっとここで暮らしてはいけない。だから――」

「客人はいつか帰らねばならぬ、かい」

 店主はオムラの言葉を先取りしてつぶやいた。一瞬だけ黙っていた。そばにあったタンカードを手に取り、エールの樽から一杯勝手に注いで、それを呷った。

「道理だね。そして出て行くには良い切っ掛けってわけだ。でも寂しいね。みんなあんたを気に入ってたし、あんたもここを気に入ってたんだから」

「私が?」

「お前、公正契約語じゃなくてエシッドの地域語で話してるじゃないか。それに今『()()()ここでは暮らせない』って言ったろう……お前、自分では気が付いてないみたいだけどね、初めにこの店に来た時とは全然顔が違うよ。最初の頃はお前は一度も笑いはしなかったんだよ。ああ、キビちゃんの前では別だけれどね。それが、今じゃあよく笑うようになって、あたしは内心とっても嬉しかったんだけれどねえ。

 さあ、給金を精算しようかね。荷物をまとめておいで。新調する物ももうみんな買ってあるんだろう?」



 空は晴れやかだが、日の出の前の少し通り雨があったようで、町は湿っている。

 いくらか日が高くなり、昼が近づいてきた頃には、オムラはキビを連れて王都エシッディアを抜け出て、街道を北上して、彼女の竜の都フェイドへ最後の帰路を急いでいた。オムラは各部を丁寧に修繕した上で艶やかに手入れまでされた革鎧で身を護り、腰にはエシッド風の鍔や護拳の施された真新しい一振りを佩き、受け取ったばかりの真新しい装備を楽しみつつ揚々と歩いている。

 王都から離れるごとに、城下町の周りの村々の数も少なくなる。道から石畳の舗装も無くなると、道脇の藪も木立へ変わって、その間から縦断している大沃野・マヴォルリ平野が見渡され始めた。まばらな木立の内の一本が地面から太い根が顔をのぞかせていて、それが上に座り込むのにちょうど良さそうな高さであったので、

「キビ、この辺でご飯にしよう」

 オムラは街道脇にしゃがむと、ちょうど気持ちの良い冷たさのみずみずしいそよ風が肌を撫でた。キビも隣に座った。

「きゅうう」

「もうすぐ、エシッディアが見えなくなるね。まずはアヴァンヴォール川まで頑張って行こうね。それを渡ったら、すぐフェイドに帰れるよ」

「きゅいいああ! きゅうい、きゅうい!」

 キビはまるで言葉が分かるかのように嬉しそうに両翼を大きく広げて鳴いた。

「ふふ、嬉しいね。ご飯にしよう……」

 オムラはキビの頭を撫でた。

 それから昼食の用意を始めた。普段ならば平気で一日二食の旅もしてしまうのだが、今朝はあの厨房の大騒動のおかげで朝食を食べそこなったのである。それで、昼に何か食べようと思っていて、王都を出る前に途中で寄った店で手頃な軽食を買っていたのだ。この食べ物は、地域・種族や一部の職業においても、多種多様な異なる呼び名がある。オムラ達フェイドのファルファデーは〈酒場風ワッフル〉と呼んでいた。名前の印象に反して大抵は甘くない、中に総菜を入れて焼いた、円筒形か厚い円盤状の手頃な軽食である。

 オムラはマント下の背負い袋を降ろして、手を入れた。

 ところが、背負い袋の中に見た事の無い物が入っている。

 取り出してみると、それは包みであった。ちょうど赤き戦斧亭のリネン室に山積みに置かれて雑多な用事に使われていた布である。それで何かをくるんで、赤き戦斧亭の誰かがオムラの背負い袋へ入れたのだ。

 オムラは包みの結び目をほどいて開いた。

 中には服が入っていた。オムラが今朝まで着ていた女給のメイド服だった。

 それを目にした途端、赤き戦斧亭で働いていた時のあらゆる事が思い出された。初めてこれに袖を通した時の事。これを着て最初に頼まれた仕事。次に頼まれた仕事。キビを厩に泊まらせ、そこで世話をし続けた日々。厩や酒場、店に染みついた色々な匂い。そしてそれらの連想と共に脳裏に浮かびあがったのは、赤き戦斧亭で出会った甲斐甲斐しい奉公人達、店へいつも笑顔で訪れる客達、その笑顔だった。それらが、オムラにはあまりにも眩しく感じられた。今までの半生で出会ってきた物と比べて、はるかに。

 思えば、若い頃から冒険者をしているオムラはずっと、まず自分が切った張ったの世界で生き残る事を優先してきた。そして依頼が終われば、張り詰めたものを癒すために反動的に酒やら名声やら娼館やら買い物やらでの散財に血道を尽くしていた。全て自分のためだけだった。彼女の周りの者達との関わり合いに関心も無かった。半月前にエシッドで足止めをされるまで彼女の世界には、彼女以外誰もいなかったのだ。

「キビ、キビい……寂しい、寂しいよ……どうして、どうして、こんなに寂しいんだろう……あのお店が、そんなに楽しかったのかな……ああ、そうだ。きっとあたし、今まで周りとあまりにも話をしなさ過ぎたんだ。依頼の事ばっかり。仕事の事ばっかりで……依頼が無い間はただの飲んだくれ。小さな頃からキビがいたから寂しくなかったけれど、逆に言えばキビとしか接してこなかったんだ。あたしは周りのみんなの事を、気にしなさ過ぎたんだ……そうだ、帰ったらウチの所長にいっぱい話しかけてみよう。牧場の人にもお話してみよう。バーのマスターともお話したい。吟遊詩人さんとも、武器屋さんとも。こんな気持ち、あたし初めてだ……材木商さん、今どうしてるのかなあ……」

 オムラは思う様泣いた。瞳もまぶたも真っ赤になるまで泣き腫らし、鼻も垂らしながら、メイド服の前掛けに幾度となく顔をうずめた。それが濡れそぼち切るまで、今までオムラが人生に関わりながらすげなく接してきた人々がいかに己の周りで活力たっぷりに暮らしつつ微笑みかけてくれていたのかを思い出しながら静かに、時折その己の不甲斐なさ小さく嗚咽しながら、泣いた。泣きに泣いた。

 顔を上げると、日が昼と夕刻の境目まで落ちていた。昼飯の事などまるで忘れていた。キビは、飼い主が唐突に泣き崩れてそのままその場から動かなくなったので大いに心配し、オムラの横で伏せをして、涙が止まるのを黙って待っていた。オムラははたとそれに気が付いた。

「ああ、そうだね。ごめんね、心配かけちゃったね……」

「……きゅ、い?」

 キビは彼女の胸の奥から絞り出された感情を理解していて、自分もまた我が身の事のように不安そうにしていた。キビをこれ以上心配させまいと、オムラは明るい顔と言葉を作った。

「ねえキビ、友達欲しい?」

「きゅいい!」

 キビは、彼の永遠の友達が笑顔を取り戻したのを喜んで首を上げて鳴いた。オムラも笑いかけた。

「うん、あたしも欲しくなっちゃった。帰ろう?」

 オムラはメイド服を包みで背負い袋へしまい、また立ち上がった。今晩もまた往路のように野営をして、昼食のつもりの麦卵焼きもその時に食べる事にした。冒険者の保存食の干し肉と違ってそこまで日持ちしないのだ。

 街道の上の空はまだまだ明るいが、落ちる木立の陰はすでにいくらか長い。木に留まっていた小さな懸巣かけすが一羽、街道を通り過ぎる馬車の御者の鞭に驚いて、下草の房状の小さな花の中へ飛び降りて隠れた。馬車は材木商の男のものではなく、乗っていたのも女だった。しかし彼女らもまたオムラと共にフェイドへ帰るのだし、もしかしたら明日にはオムラの隣の席で酒を飲んでいるかもしれない。

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