邪魔なんてしてないわ
私は自分の部屋で刺繍をするふりをしながら、私の専属騎士シリウスについて、つい先ほどお父様から聞いた話を本人に確かめるべく、チラチラ顔を見ていた。
聞きたいけれど、聞けない。すごくすごく気になるけど!
私が知らない間に婚約してた上に破局したのが本当か、なんて、聞きたいけど聞けない!
「お嬢様、どうしました?」
シリウスが首をかしげた。穏やかな声も、さらっと髪が揺れる様子も素敵で胸がときめいてしまう。
「な、なんでもないの!」
「なんでもないのにチラチラ人の顔見てたんですか?見物料を取りますよ」
「えっ、い、いくら……?」
払えば見ていてもいいならむしろ払いたい。
シリウスが目を見開いた。
「本当に取るわけないでしょう。他の人にそういうことを言われたら、『いくら?』なんて答えてはだめですよ」
「そんなこと言わないわ」
シリウスが呆れた顔をした。そんな顔をしてもかっこいい。
「今言ったばかりでどの口が?前々から言ってますけど、俺がいない時に見知った人間以外と顔を合わせるのやめてくださいよ。借金して帰ってきそうだ」
「そんなことしないわ。シリウスがいない日にお客様がいらっしゃることもあるし、仕方ないじゃない」
「そのことですが、今後は基本ありません。旦那様に相談して屋敷内に住み込みにしてもらったんで」
「え?!」
「なんですかその顔。稼働はお嬢様の活動時間に合わせるので、今までとたいして変わりませんよ。俺と四六時中顔合わせるのは鬱陶しいかもしれないけど、安全のためなので我慢してください」
我慢どころか、私は頬が緩まないように必死だ。
シリウスと同じ屋根の下に住むことになるなんて、嬉しくて……。
でも待って、ということは身支度前の夜着姿を見られてしまうかもしれないし、シリウスの無防備な姿も見てしまうかもしれないということ?!
それは、それはまだ心の準備ができてないわ。
「お嬢様、刺繍しながら別のこと考えてると、針刺さりますよ」
「え?っ痛……!」
「言ったそばから。失礼します。手を貸して」
シリウスは仕方ないなという顔をして、私の手に触れた。治癒術で治してくれるのだ。指先から微量な魔力が流れ込んで、あっという間に小さな傷を塞ぐ。
父の領地には誰でも治癒術を学べる学校があり、騎士団に所属していてある程度の魔力があり、治癒魔法に適正のある魔法師は全員簡単な治癒術が使える。
シリウスは父の領地の騎士団に所属しているが、訳あって次女の私の専属騎士として、通常勤務から離れて私の護衛についてくれている。
かっこよくて、優しくて、頼りになって、いつでも私を守ってくれる騎士。そんな彼にいつの間にか恋をしてしまうなんて年頃の女の子なら仕方ないことだと思う。
ただでさえ、シリウスは守ってもらっている私でなくても、私の友人たちもうっとり見惚れるくらいかっこいい。
治療するために近づいてきたシリウスの顔にぽーっと見惚れていると、バチッと目が合った。顔がかぁっと赤くなってしまう。
「治りましたよ。気をつけてください」
「ありがとう」
シリウスは私が見惚れていることも、顔を赤くしてることも絶対気付いているはずなのに、私の気持ちなんてないみたいに接してくる。完全に脈なし。
知らない間に誰かと婚約していて、破局していたことも私には一言も言ってくれなかった。私はシリウスに色々話すけど、シリウスは私にプライベートなことは話さない。
お金のために護衛をしてくれているだけで、シリウスは私と一緒にいるのを退屈だと思っているから。それでもお父様に外してほしいと相談もできなくて、私は今日も脈のない片想いを続けている。
*
私は昔から誘拐されそうになったり、おかしな人に付き纏われることが多い。心配性なお父様はそれが王族の血を引いているからだと言うけれど、単純にうちがお金持ちなせいだと思う。だって王族の血を引いてるって言うならお父様だって引いてるし、お兄様だってお姉様だって引いてる。
それでもなぜか昔から危ない目に遭うのはほとんど私だけだ。
私の髪色は杏色。柔らかなウェーブを描いた髪は可愛くて気に入っている。瞳は紫がかった青。この髪の色と瞳の色が、どうやら何代か前の王妃様に似ているらしい。私の曽祖父のお母様が同じ髪色で、その人がその王妃様の娘だったと聞いている。
でも私が王宮に行った時、王妃様の肖像画を見たけど瞳の色はもっと明るい菫色だった。私の瞳は紫とも表現できるけど、どちらかというと青に近くて、王妃様とは違う。
王妃様と違うけど、杏色の髪色も紫っぽい瞳も珍しくて、その組み合わせが目立つのは確かだ。だから危ない目に遭うのかも。そのおかげで私はシリウスを護衛騎士につけてもらっているし、可愛い色だし、あまり文句は言えない。
お金持ちなことも、そのおかげで良い暮らしをさせてもらっているから文句は言えない。シリウスが私のそばにいてくれることさえお金が理由だし。
シリウスは守銭奴らしい。
私の前ではあまりそういう話をしないのでよく知らないけれど、彼の実家の領地運営が大変で、お父上が治めている領地に給金のほとんどを送っているという噂を聞いたことがある。
私以外には、普通にプライベートのことも話すから、私が知っているシリウスのプライベートな情報は全部本人ではなく周りから聞いたことだ。
なんでも八人兄弟で、シリウスは次男。弟と妹は領地を継がないから、彼らに働き口を作るためにちゃんと教育を受けさせたくて、その費用を稼ぐために実家を出て、近場で一番給金の良い私の家の直属の騎士団に入団したらしい。
私は昔、その話を裏付けるような会話を聞いてしまった。シリウスが元同僚の騎士団所属の騎士と話しているところを、偶然。
『お嬢様の護衛なんて退屈じゃないか?部屋で突っ立ってるだけだろ。腕が良いのにもったいないよ。戻ってこないのか?』
『戻る予定はないな。ヒラで騎士団に所属してるよりずっと稼げるし、突っ立ってるだけで給金が入ってくるなんてラッキーだろ。前線に出なくていいのも助かるし、俺には合ってる』
シリウスの腕を活かしきれない退屈な仕事に、彼をお金で縛り付けている。それが私だ。
「はぁあ〜〜」
私は朝の身支度をしながらため息を吐いた。シリウスの婚約と婚約破棄の話を聞いてから一週間は経ったけれど、まだ本人にその話を聞けてない。
結婚願望があるのか、結婚したら私の護衛騎士の仕事はどうなるのか、気になって仕方ない。今回の相手とは婚約破棄になったらしいけれど、シリウスはかっこいいから結婚したい女の人なんてたくさんいるに決まってる。
「お嬢様、頭を動かさないでください」
「ごめんなさい」
メイドのメアリに怒られて、私はピシッと背を正した。
「そういえば、シリウス様の婚約者ですけど、情報がつかめましたよ」
「えっ、本当に?!」
本人に話を聞く勇気のない卑怯な私は、一番仲のよいメイドのメアリにちょっとだけ噂を聞いて回ってくれないか頼んでいた。
「ええ。お相手はミリエラ嬢で、婚約破棄の理由は浮気です」
「う、うわき……?」
「ミリエラ嬢の屋敷の使用人が間男だったんです」
私は息を呑んだ。
「シリウスが浮気されてたの?!信じられない!あんなにかっこよくて優しくて素敵な婚約者がいて使用人と浮気するなんて……!ひどすぎるわ。シリウスは傷ついてないかしら」
「さぁ、ご本人に聞かないと分かりませんけど。まぁでも、シリウス様ってほぼお嬢様のそばにいるじゃないですか。自分の婚約者が自分と歳の変わらない女の子のそばにいるなんてちょっと嫌ですし、気を引きたかったんじゃないですか?愚かですね」
「私のせいで……?」
メアリははっと目を見開いた。
「申し訳ありません。そういう意味じゃないです。それに、本当に大事な婚約者様だったら、シリウス様がご自身でフォローしたはず。優先するほどの人じゃなかったんですよ!お嬢様をむしろミリエラ嬢を大事にしない理由に使われたというか……うまく言えないんですけど、シリウス様の婚約破棄のことでご自身を責める必要は全然ないんです。余計なこと言ってすみません」
「ううん……」
「お嬢様、ごめんなさい!落ち込ませるつもりはなかったんです!」
メアリが私に抱きついた。私はメアリの腕にそっと手を添える。
「メアリのせいで落ち込んでるわけじゃないの。私って、シリウスの足枷にしかならないんだなって、改めて思ってしまって」
「そんな」
扉をノックする音がした。
「あ、多分シリウス様ですね。どうしましょう」
「開けたくないかも……」
もう一度扉をノックする音がする。コンコンコンコン、と少し大きな音が続く。
「これ、返事しないと勝手に扉を開きそうですね」
「そうね」
シリウスは仕事熱心なので、私が返事をしないとノックもそこそこに扉を開いてしまう。
返事をしようと口を開いた時にはもうガチャリと音がしていた。
「お嬢様、開けますよ。失礼します」
シリウスは私とメアリを目に入れると眉を顰めた。
「メアリ、なぜ返事をしないんだ?あとメイドのくせにお嬢様に抱きつくな」
メアリはぱっと腕を離した。
「女同士の秘密の話をしていたんです。閉ざされた扉の向こうで何してようと私たちの勝手でしょう。お嬢様が許してくださってるんだから」
「……こっちに来い。お嬢様、少し外します」
シリウスはメアリを睨み、指でメアリに着いてくるように指示して私から少し離れた場所に行った。
二人でひそひそ話しているけれど、結構声が響く部屋なので、普通に聞こえている。
「お前、本当に馴れ馴れしいぞ。閉ざされた場所でしていることは身体の癖になって咄嗟の時にも出てくるんだ。お嬢様の品格を下げるようなことをするな」
「はぁ、すみません。何しろ出自が卑しいもので」
「ただの商家の娘だろ。何が卑しい出自だよ。出自を言い訳にするな」
「そんなにめくじら立てなくてもいいじゃないですか。羨ましいんですか?シリウス様が抱きついても許してくれますよ」
メアリの発言に私はギョッとしてしまった。シリウスがどんな返しをするのかドキドキする。
「お嬢様は誰に何されたって許す。だから俺が護衛についてるんだ。お前、自分の性別に感謝しろよ。男だったら腕を切り落としてるし、お嬢様がちょっとでも嫌そうな顔してたらやっぱり腕を切り落とすからな」
「ええ?物騒すぎ。騎士団の男って怖いですね」
誰に何されたって許すなんて絶対嘘だし、メアリの腕を切り落とされては困る。私は恐る恐る二人に声をかけた。
「シ、シリウス、メアリ〜……戻ってきて欲しいな。ひそひそ話されると寂しいわ」
二人ともパッと私の方を見た。
「失礼しました!御髪だけすぐ整えちゃいますね!」
「あっ、おい!走るな!」
メアリがパタパタ走って私のところに戻ってきて、ささっと髪を整えてくれた。
「はい、できました」
「ありがとう」
鏡の中に、メアリを睨んでいるシリウスの顔が見えた。鏡の中で私と目が合うと、表情は少し穏やかになった。
鏡の中でも目があって嬉しいな、と思っているとメアリがとんでもないことを言った。
「そういえばシリウス様、婚約したって話本当ですか?」
「は?」
「えっ」
いきなりメアリがそんな話をしたので、私の肩が大きくはねた。
「なんでそんな話……」
シリウスはものすごく嫌そうな顔をした。
「噂があちこちで聞こえてるんですよ。プライベートなことですけど結婚なんて働き方に大きく関わるかもしれないのに、お嬢様に報告しないのは不誠実じゃないですか?お嬢様、シリウス様の引き継ぎ先探さなきゃいけないのかなって不安がってましたよ」
私はもう破棄したことまで知っているので嘘だ。
シリウスが私のことをじっと見ている。
「それは……その、申し訳ございません」
「う、ううん……シリウスも自分の人生があるから、結婚くらいするわよね。びっくりしただけなの」
「いいえ、その婚約については事情があって破棄になっています。父の領地を支援してくれてる家の娘で断れなかっただけですけど、あっちから破棄と言ってきたのでちょうどよかったです。たとえ将来同じようなことがあって結婚しても、俺は必ずお嬢様優先にしますから、何も心配しないでください。引き継ぎは不要です」
私の護衛はかなり給金が良いらしいので、シリウスの今の事情では仕方がないということだろう。多分期限は末の妹が学校を卒業するまでだ。
「それじゃ、奥様がかわいそうだわ」
「仕事優先の男はどこにでもいます。この話は終わりです」
ピシャリと言い切られてしまった。
「……もういっそ、私と結婚すればいいのに」
「はい……?今なんて言いました?」
つい心の声が独り言として出てしまった。私は慌てて首を横に振った。
「何も言ってないわ!わ、私、今日はメアリと一緒に刺繍の作品を仕上げちゃうから、シリウスはお休みして!」
「え?今日は天気がいいから外に行くのでは……」
「気分が変わったの!」
私はシリウスの背中を扉の方までぐいぐい押して部屋を追い出した。
扉を閉めて、くるっとメアリに向き合う。
「メアリどうしよう〜!今の聞かれないよね?!」
「私にはバッチリ聞こえてましたけど」
「そんなこと言わないで!聞こえてなかったって言って!」
「聞こえてませんでした」
「嘘つき!でも、そうね……シリウスはどうせ聞こえなかったフリするから、同じだわ」
情緒不安定だ。落ち込んだり焦ったりまた落ち込んだりする。
私がはぁ、とため息を吐くと、メアリが心配そうに手を握ってくれた。
*
うっかり独り言で逆プロポーズしてしまったけれど、シリウスの態度は変わらない。驚くほど変化がなくて、やっぱり脈なしだなと実感してしまった。
うとうとしていたせいで扉のノックに気がつかなくて、着替えを見られてしまった時も全く動じてなかったし、歩いていて転びそうになって抱きしめるような形になっても足元を心配されるだけだし、治癒術で手が触れてもドキドキしているのは私だけだ。
私の毎日は刺繍をしたり、お散歩をしたり、時々領地の施設を見学したり、お友達と会ったり、お茶会に出たり、そんなに代わり映えしない。
私はそういう日々を楽しんでいるけど、シリウスは私の後ろをついてきて側に控えているだけなので、退屈だろう。
退屈で、結婚の障害にもなって、お金がもらえるという理由だけで続けている仕事。
他にもっと稼げる仕事があったら、辞めてしまうかもしれない。そんな不安がじわじわ胸を覆っていた時に、私はうっかりお父様とシリウスの会話を聞いてしまった。
「この前の話、宰相に話してみたらすごく喜んでいたよ。君の魔法は珍しいし、騎士団の教育現場の実績も評価してもらってる。どうだい、来月ラノに行って宰相と顔を合わせてみる?交流実績を積んで一年くらい様子を見て、本当に仕事にするかどうかはゆっくり検討すればいい。もちろん私はここに残ってくれるのは歓迎だが、君の人生だ」
「ありがとうございます」
「しかし寂しくなるな!本当に寂しい。サラがなんと言うか」
「そこはまだなんとも……私から時期を見てお話させていただけますか」
「そうだな。君に任せる方がいいか。しかし、ううん、寂しくなるよ」
ラノは隣国の宮殿・政府のある中心地区。宰相もきっと隣国の宰相。
交流実績。仕事。1年の様子見。断片的な情報から、間違いなく導き出せるのはシリウスが新しい仕事を考えていて、それが隣の国のお仕事ということ。
隣国は魔鉱石の発掘で有名で、財政状況が良くて物価が高い。父の領地からは1日で遊びにいける距離だけれど、朝起きたらすぐ会える今の状況よりもずっとずっと物理的に距離が遠くなってしまう。
それに、護衛を辞めたらもう私がシリウスに会う理由なんかなくなってしまう。
シリウスは嘘つきだ。
結婚しても私のことを優先するって言ったし、引き継ぎはいらないって言ったのに、辞めるなら引き継ぎが必要じゃない。
目頭が熱くなってきて、じわ、と視界が滲んだ。
シリウスの嘘つき。
扉がガチャ、と開く音がして、私は慌てて逃げた。
メイドや使用人が私に声を掛けるのを全部無視して屋敷の正門から飛び出して、北に続く道を走って森の中に飛び込んだ。浅いところは魔物もいないし、子どもでも薬草を取りに来るくらいの安全な場所だから、一人になりたい時にちょうどいい。多分後ですごく怒られるけど、でも今は誰とも顔を合わせたくない。
特にシリウスには絶対会いたくない。
私は木の影に隠れて座り込んだ。
「はぁ……シリウスの大嘘つき。ばか。ひどい」
お父様の話では、仕事を変えることについては、まずシリウスから話があるらしい。
「絶対辞めさせないって言ってやろうかしら」
そんなことを言ってもシリウスを引き止めることはできないだろう。シリウスは私が何を言ってもあまり表情を大きく変えない冷静な騎士で、私が自分の発言を後悔するようなことを言ってもさらりと流されてしまうことが多い。
「はぁ」
またため息が出た。
気持ちが落ち着いたら、暗くなる前に屋敷に戻るつもりだ。少しだけでここでうじうじさせてもらおうと思って、私は目を瞑った。
目を瞑って、目が覚めたら、全然知らない場所にいた。
どこにいるかも分からない。手と足は縛られいて動けなくて、口には何か布をかまされているし、頭の上から袋みたいなもので覆われているのか、前も見えない。
ガタガタ揺れる感じで自分が馬車の中にいるんじゃないか、ということがかろうじて分かる。
「んん〜!ん〜!」
悲しいことに何度も誘拐されているので、今回も誘拐だろうなと思った。誰も護衛につけずに屋敷を飛び出して勝手に森に行って誘拐されたなんてシリウスにすごくすごく怒られる。
また会えればだけど。
今までは、誘拐されたとしてもシリウスはすぐ駆けつけられる場所にいた。
でも今回はたった一人で、森の中。
一体どこの誰に見つかって誘拐されたのか全然分からないし、馬車らしきもので移動中だ。眠ってしまったみたいで、時間がどれくらい経ったのかも分からない。
もう二度と、家族にもシリウスにも会えないかもしれない。
そう思ったら目に涙が浮かんでしまって、頬に水が伝うのが分かった。泣いても誰も助けてくれないし、周りに人がいるのかどうかも分からない。
「んっ、ん……」
鼻水まで垂れそうになってきた。手で拭けないから涙も鼻水も拭えなくて、今人に顔を見られたら情けなさすぎてそれこそ死にたくなりそう。
そんなことを考えている場合じゃないのに、怖すぎて現実逃避することしかできない。
しばらく泣いていても何も起きず、ただ揺られている。水も飲めなくてなんとなく意識がぼんやりしてきた。
もう涙も出てこないし、このまま気を失ってしまいたいと思って目を瞑った時、急に馬車が大きく揺れた。
「っ!」
目的地に着いたにしては荒々しい。事故か、もしかしたらシリウスが助けに来てくれたんじゃないかと思って私は助けを求めて声を出した。
「んーっ!んー!」
ドン、ガシャン、ガラガラ。様々な音が、布越しにくぐもって聞こえてくる。大きな音がすると馬車も揺れて、怖くて仕方ない。
シリウスだ。きっとシリウスのはず。そうじゃないと困る。
バサっと布が揺れる音がした、うっすら明るくなったのが分かった。すぐに強い力で腕を掴まれた。
「っ!?」
シリウスはこんなことしない。
助けに来た時、私のことを怖がらせないように気遣ってすごく優しくしてくれる。できるだけ手が触れないようにして、先に声をかけ、私の様子を見ながら必要な時だけ手を差し伸べてくれる。
手を振り解こうとしてぶんぶん振り回した。抜けた勢いで後ろに倒れてしまう。痛いし、怖いし、もうやだ。
どうして私ばっかり、こんな目に遭うの?
今日は森にうっかり一人で遊びに来たけど、いつもうっかりしてるわけじゃない。危なそうな場所には近付かないようにしているし、陽が落ちる前に屋敷に戻るし、一人で出歩かないように気をつけている。
ぽろぽろ涙が溢れてきた。もう何もかもどうでもよくなってきた。起き上がるのも諦めて固いところに倒れたままでいると、ふっと腕が解放された。足も解放されて、顔を覆っていたものも外れる。
目の前にいたのはシリウスだった。
「シリウス……?」
私の腕を乱暴に掴んだ手と、シリウスの姿が結びつかなくて、私はシリウスの青い瞳を呆然と見つめた。
「お嬢様」
声はシリウスのものだ。
「お怪我はありませんか?」
私はゆっくり頷いた。
シリウスがはぁ、とため息を吐く。
私が乗っていたのは馬車の荷台のようで、荷台をおおう厚い布の向こうに倒れている男の人たちが見えた。
「なんで、いきなり強く腕を掴んだの」
「申し訳ありません」
「シリウスじゃないかもしれないって思って、怖かったじゃない」
どこか現実味のないふわふわした気持ちのまま、私は怖かった気持ちを八つ当たりした。
じわじわ目に涙が浮かんできた。
もう涙は枯れたかと思ったのに、まだ流れてくる。
私はそのまま荷台の上でしばらく泣いた。
*
屋敷からだいぶ離れた場所に来てしまった。シリウスは近くの街で宿をとり、私を攫おうとした男たちについて説明してくれた。
私を連れ去ろうとしていたのは魔物の密輸をしている犯罪グループで、私を捕まえたのは森でたまたま見つけて無防備だったから、ということだった。狙っての犯行ではなかったらしい。
「従者をつけずに森に入ったのはなぜですか?」
私が一通り泣いて、ショックから立ち直った頃、シリウスは説教モードで仁王立ちで私を見ていた。
「ごめんなさい」
「謝罪は結構です。危ない目に遭うのも怖い思いをするのもお嬢様です。私はそれを防ぐのが仕事なので理由だけ教えてください。再発防止のためです」
「ごめんなさい」
私は謝ることしかできなかった。
シリウスがチッと舌打ちしたのが聞こえて、驚いて顔をあげた。今まで一緒にいて舌打ちなんてされたことなかった。
先程の恐怖とは別の恐怖が心に浮かんで、目から涙がこぼれ落ちた。
「ご、ごめんなさいっ!嫌いにならないで」
思わず叫ぶと、シリウスも怒鳴り返してきた。
「嫌いになんてなるわけないでしょう!人がどんだけ心配したと思ってるんですか。俺がちょっと旦那様と会話してる隙にこんなことになるなら、一生隣にべったり張り付いててやろうかと思いましたよ。食事中も入浴中も寝てる時も、一人になれないようにしてやりましょうか」
「いいの?」
シリウスが目を見開いた。
「いいの、じゃないですよ。お嬢様は本当に……はぁ……」
呆れたようにため息を吐かれてしまった。
「ごめんね。迷惑ばかりかけて、こんな遠くまで探しに来てもらって」
「仕事なのでそこはどうでもいいです。怪我がないのはよかったですけど、久しぶりにこんな目にあったから怖かったでしょう。俺も怖かったです」
「シリウスが?」
「そうです。取り返しのつかない状況になってたらって想像して、心臓が止まりそうになりましたよ。お嬢様も心の傷が癒えてないと思いますが、慌てて来たから女の使用人も連れてくるの忘れたし、慰めになるものも持ってません。これぐらいしか用意できませんでした」
シリウスは小さな布を私に手渡した。刺繍枠に布が挟まっていて、赤い糸と針も一緒になっている。
「これ……」
「集中している方が色々忘れられるでしょう。今日はずっと灯りをつけたままにしましょう。眠るまでおそばにいます」
「寝たらいなくなっちゃうの?」
「……朝までいます。朝までここで見守りますから、もう早く寝てくれ」
私はシリウスの言葉に安心して、もらった刺繍枠を握りしめた。
「好き」
ぽろっ、と意図せず言葉が漏れてしまった。
シリウスは驚いた顔をして私を見ていた。私の顔はぼぼぼっと熱くなってしまって、真っ赤に違いないけど、多分シリウスにはいつも通りスルーされてしまうだろう。
それは嫌だな、と思った。
「シリウス」
「何ですか」
相変わらずあまり表情は変わらない。私の心臓がすごくドキドキして飛び出そうになっているのも伝わってないだろうし、伝わったとしてもシリウスにはどうでもいいことだろう。
脈なしすぎる。
脈なしだけど、何もしないままシリウスが仕事を変えて二度と会えなくなるよりは、少し勇気を出したい。
「私、貴方のことが好き」
シリウスは目を見開いた。
「な……」
「頼りにしてるとか、信頼してるとか、そういう意味だけじゃなくて、その……結婚したいくらい好きなの。本当よ」
恥ずかしくなってきて、私はさっと目をそらした。
ここまではっきり自分の言葉を告げたのははじめてだ。流石のシリウスも簡単にはスルーできないはずで、これを無視するなら振られるのと同じ。
私はシリウスの反応を待った。
「なんで」
「なんでって」
「なぜ先に言うんですか?」
「え?!」
今度は私が驚いて目を見開く番だった。私はシリウスの顔をまじまじと見つめた。かっこいい。
「先、先にって、シリウスは私にプロポーズするつもりだったの?」
シリウスは軽く眉を顰めた。
「いずれは」
「いずれ」
「その前にお嬢様を惚れさせるつもりでいました」
「とっくに惚れてるのに?!というか、私の、私のいつもの態度で好かれてるって思わなかったの?」
信じられない。
私は指先が触れただけでひゃっ!という気持ちで身体を強ばらせて、顔を熱くして、いつもうっとり顔を見つめていたのに。
「好かれてるとは思いましたが、お嬢様は誰でも好きじゃないですか。誰にでも優しくてみんなのことが大好きで、誰も特別じゃない」
「そんなことないわ!シリウスは特別よ。この前だって、誰に何されても許すなんてこと言ってたけど、絶対そんなことないんだから」
シリウスは納得していない顔をした。
「友人方に約束すっぽかされても、完成したばかりの大作の刺繍にコーヒーこぼされても、誘拐されても、メイドに抱きつかれても許すのに、何を許さないんですか?俺の方がいつも怒りで我を失いそうになっています。今日は実行犯全員殺しそうになって、裏にいる人間を突き止められなくなると困るから半殺しで我慢したんです」
シリウスは淡々とした顔で恐ろしいことを言った。
私は自分の心に残っている怒りの感情を探した。私だっていつもなんでも許しているわけじゃないはずだけれど、すぐ探すのは難しい。
「ミ、ミリエラ嬢のことは、許してないわ。貴方と婚約してる時に浮気するなんて、貴方のことを傷つけて、軽んじて、すごく失礼だわ」
「ミリエラ?」
シリウスは名前に聞き覚えがない、というような顔をした。それから思い出したようにああ、と言った。
「傷ついてません。というか、あれは俺がけしかけたんです。彼女は承認欲求が強くて愛されたがってたんで、そういうのを満たしてくれそうな男をつつきました」
「えっ?!」
「婚約者なんてお嬢様のそばにいるのに邪魔だし、さっさと解消しようと思って。主人に恋する使用人の気持ちはよく分かるから使用人をけしかけるのは簡単でしたよ」
シリウスの言葉選びは所々過激だ。こんな人だっただろうか。
シリウスがふっと笑った。かっこいい。
「怯えてるんですか?俺は結構猫かぶってたし、プライベートな話は控えてましたからね。ちゃんと惚れてもらってから、ちょっとずつどんな男か知ってもらおうと思ってました」
シリウスは私に一歩近づいた。
なんとなく警戒心が湧き上がってきて、私は二歩後ろに下がった。すぐ後ろがベッドなのを忘れていて、足が引っかかって後ろに倒れそうになる。
「おっと。ほんと危なっかしいな」
シリウスの目が優しく細まった。なんだか今まで見たことがない顔にドキリとしてしまう。
シリウスは私の手から刺繍枠を取ると、サイドテーブルに置いた。せっかく支えてくれていたはずなのに、そのままベッドに倒された。
「?!」
「何もしませんよ。まだ婚約もしてないのに、早まって旦那様の心象を悪くしたくない」
四つん這いで私の上に覆い被さったシリウスが、楽しげに笑った。
早まる、という言葉に私の頭の中に妄想が広がった。
「何か想像してます?」
私はこく、と頷いた。シリウスが驚いた顔をした。
はしたないことをしてしまったかも。シリウスに軽蔑されていないか心配。
「……幻滅した?」
「いいえ、でも誘惑しないでください。お嬢様が結婚を邪魔してどうするんですか。下手なことしたら旦那様から同意を取れなくなるじゃないですか。俺と結婚したいんでしょ?」
「既成事実は……?」
「こら、意味もよく分かってない言葉使うのやめてください」
シリウスは苦い顔をして、身体を起こしてしまった。
私はこの言葉の意味くらい、分かっている。多分。
「分かってるわ」
「分かってるようで分かってない。焦らないでください。結婚、いや、正式に婚約したらいくらでも……」
シリウスが私の指を、人差し指ですすっと撫でた。なんだかそれがすごくいやらしい気がして、私は手を引っ込めた。
「ほら、この反応じゃね。お嬢様は俺がずっと守ってきた箱入り娘だから、少しずつ教えてあげます」
シリウスがにこっと笑った。
笑った顔もかっこいいしドキドキすることを言われて心臓がすごくうるさくなった。
「あー……少しならいいかなという気になってくるな。そういう反応本当にやめてください」
「どういう反応?」
「いつもと同じ反応ですね。俺の顔見て真っ赤になって、恥ずかしそうで可愛い。いつもと同じなのに、お嬢様が俺を好きかと思うと違って見えます」
シリウスが私の鼻をつまんだ。
「っ!ちょっと」
「せっかく用意した刺繍でもやっててください。俺はそこに座ってます」
シリウスがベッドから離れた椅子に目を向けた。私の手をとってぐいっと引っ張り、ベッドに座らせる。そしてサイドテーブルから刺繍枠を持ち上げて私の手に握らせた。
「あの」
椅子に座ってしまったシリウスに視線を投げる。
「なんですか」
「シリウスは、ラノ市街地区で新しい仕事をするのよね?私と結婚するなら、そのお話はなくなっちゃう?」
青い瞳が丸くなった。
「聞いてたんですか?」
私は小さく頷いた。
「うん。私、その、その話を聞いて、動揺して、外に飛び出しちゃったの。もうそばにいてくれないんだって思って。結婚してくれるのは嬉しいけど、シリウスがやりたいお仕事ができなくなっちゃうなら……」
私は今までシリウスのことを縛り付けてきたから、今度は結婚して別の形でシリウスの人生を邪魔するのかと思ったら、辛くなってしまった。
どうあっても邪魔にしかならない。
やりたい仕事の邪魔になるなら結婚もできないかもしれないと思ったけど、ふと、思いついた。結婚したら私はお父様の娘ではなくて、妻という立場が一番になるから、屋敷にいる必要はない。
「あの、それって、私、私も、ついて行ってもいい?私は次女だし、領地はお兄様が継ぐから残る必要だってないし、シリウスがやりたいことがあるなら、一緒に行きたい」
「屋敷を出るのは抵抗ないんですか?ご友人にも頻繁に会えなくなりますけど」
「そんなの平気よ。お友達はどこでも新しく作れるし、お手紙を書けばいいの。あとは刺繍枠と糸があれば、毎日楽しく過ごせるわ。家のことだって、覚えてちゃんと管理する!」
シリウスはサイドテーブルの上にあった小さな紙に何かを書き始めた。
その紙にはびっしり数字が書かれていた。
「これは、何?」
「人件費」
「ジンケンヒ?」
「居住地代と人件費が一番大きい。お嬢様のお気に入りのメイド数名と、使用人。あと住まい。税金、馬、食費、服飾費、生活雑費、俺の実家への仕送り」
シリウスの指は羅列された数字を降りていく。
「うろ覚えですが月の予定支出が大体これくらいになるでしょう。実家への仕送りはでかいけど、お嬢様のサロンのおかげで刺繍糸がよく売れるようになったし、弟も二人もう卒業するので大分余裕ができました」
「……?」
「うちは養蚕業の紡績がまぁまぁ盛んなんですが、お嬢様のおかげでニーズが分かったので高級な刺繍糸に振って大分利益が出るようになりました。俺の可処分所得のうち自由裁量所得が増えたということです」
「……?」
よく分からない単語ばかりで、私は首を傾げた。シリウスはそんな私のことを優しく笑った。
「つまり、俺がお嬢様に、ここにいる時と変わらない生活水準を約束します、という口説き文句が使えるようになったってことですよ」
「へ?」
「貴女の趣味が宝石と酒じゃなくて、刺繍とお茶だったのはかなり助かりました。流石に妻の護衛で妻の実家からいつまでも金をもらい続けるわけにはいかないですから、貴女の夫に相応しい役職について、その辺も全部加味してもらって、返事をもらうつもりでした」
「私の返事は決まってるわ」
シリウスが嬉しそうに笑った。
「ええ、そうみたいですね。俺は外堀から埋めないと安心できなくて。この慎重な性格のおかげでお嬢様の護衛騎士を任せてもらうことができたんですよ」
私の護衛騎士、という言葉に少しだけ胸が痛んだ。
「どうしたんです?」
「シリウスが私の騎士じゃなくなっちゃうのは少し寂しいわ。一緒にいる時間は少し減るわよね。でも、もうこれで退屈な思いをさせなくていいのはよかった」
シリウスは私の手を取った。
「減りません。今まで1日のうちでそばにいる時間なんて大した長さじゃなかったでしょう。それが逆になる。お嬢様と一緒にいる時間が退屈だなんて思ったことなかったけど、なぜそんなことを言うんです?俺はいつも集中してたし、欠伸もしたことないと思いますが」
「騎士団の人と話してたのを聞いたの。部屋で立ってるだけで、腕も活かせないし……お金のために退屈な仕事をしてるって」
シリウスは首をかしげたが、思い当たることがあったようで頷いた。
「ああ、あれは、あいつが愚痴を言いにきたんで合わせてやっただけです。退屈な仕事で能力も活かせない哀れな元同僚を蔑んで自分の幸福を確かめたかったみたいなんで」
「まぁ」
過激な言い方にまぁ、としか言えなかった。
「というか、俺は突っ立ってるだけじゃないんですけど。周囲を警戒してるし、今日みたいなことがあったら一人で複数人をのさなきゃいけないし。朝と夜は訓練してて、お嬢様の周りの会話に耳を澄ませて色々情報も拾ってる。立ってるだけに見えるのはいいことですが、実態とは違います。給金がいいのは確かですね。でもそりゃそうでしょ。一人で貴女の命を預かってるんだから、当たり前です」
シリウスが、握った手に力を込めた。
「貴女の笑顔を近くで独り占めできるし、楽しくてやりがいがある仕事でしかも給金がいいなんて触れ回ったら、ただでさえ多かった希望者がもっと増える。退屈だと思われてるくらいがちょうどいいです」
「そうなの?」
「そうですよ。お嬢様はもっと、貴女がちょっと笑うだけでくらっとしてる男が多いと知ってくださいね。誰にでも愛想振り撒くんだから」
「そんなことないわ」
「そんなことありますよ。かくゆう俺も、入団したばかりの時にお嬢様に微笑まれて勘違いした男の一人だし」
私は驚いてシリウスの顔をじっと見てしまった。騎士団の人たちにはすれ違ったら挨拶するし、皆笑顔で答えてくれる。シリウスも愛想よく笑ってくれたけれど、誰にでも返すようにただ礼儀正しく挨拶してくれただけだった。
「護衛騎士のオファーを受けたのは正直お金が大きいです。でも貴女のそばにいられるのはラッキーだと思ってた。誰にでも優しくて皆のことが大好きで、誰も特別じゃないお嬢様が、時々俺のことを特別っぽく扱ってくれるのは結構グッときましたよ。俺はきょうだいが多いから、特別扱いに弱くって」
シリウスは軽く笑うと私の頬に触れた。優しい瞳がじっと私を見つめていて、すごくドキドキしてしまう。
「無防備ですね。ずっとそのままでいて欲しいような、俺のことだけは警戒して欲しいような……」
顔が近づいてきた。
もしかしてキスをしてしまうのだろうかと心臓がどんどんうるさくなって、ぎゅっと目をつむった。頬に柔らかい感触があって、唇じゃなくて頬に口付けされたのだと分かった。
「あーもう、残念そうな顔しないでください。まぁ、キスはいいか。キスは挨拶でもしますからね」
シリウスは一人で結論まで出した。ちゅっと音がして、今度は唇に柔らかいものが触れる。
「!」
ふにっと触れてすぐ離れたものが、もう一度唇を塞いだ。
「んんっ!」
頬に優しく触れていただけの手が、両手になって、頭を固定するように掴まれた。耳をすり、と撫でられるとびっくりしてしまう。
口の中に湿ったものがぬるりと入ってきて、それにもびっくりして、舌をちゅうっと吸われたら背中が震えた。
「っァ……はぁ……」
口付けが終わってしまって、名残惜しい。続きを求めるようにシリウスの手に触れると、またびっくりした顔をされた。
「お嬢様を警戒させるにはどうしたらいいんですか?ほんと勘弁してくださいよ!俺は結婚したいんですから邪魔しないで!」
シリウスは、怒ったように叫んだ。