bottle壱
ある図書館のエントランスにはソファが並べられていて、閲覧室とは違い、自由に会話ができる。そのスペースは広く、光取りの丸い天井窓が幾つか設けられていて室内にいるのに日中はいつも明るい。壁際に観葉植物が幾つか置かれている。開放的な空間で居心地がいいため学生達や市民の憩いの場として利用されている。
紙の匂いが好きなんですと彼女は楽しそうに話していた。本は物語を自分の手で捲って紡いでいくじゃないですか。そんな感覚が好きなんです。物語の中は非日常で、そんな世界に私は入り込んでみたいと常々考えています。あっ。おかしいですよね。よく親友のリリちゃんにも言われてます。でも、あなたもそんな風に考えたことないですか?あなたは私と同じ匂いがします。あっ。体臭とかじゃないですよ。雰囲気っていうのかな。そんな感じがするんです。あなたといると言いたいことをすべて話してしまえるから落ち着くんです。あっ。なんか告白みたいですね。ぜっ全然違いますからね。顔が赤い?はわわわ。
なんかとても幸せな夢を見ていたような気がする。でも、起きると忘れてしまっている。夢の感覚だけが体に残っていて、とても清々しい気分ではある。窓から朝陽が射し込んでいて、朝なんだなと認識する。あの事件から半年ほど経ち、農園の日々は平穏に過ぎていた。父は魔術省からの要請で情報提供のため王都へ数回上がっている。レオルの取り調べは終わり、何も盗んでいなかったので罪には問われなかったらしい。裏で父が動いていたのはありありと想像できるけど、内心ほっとしていた。ほっとしていたのはいいんだが……
「アカネ様。おはようございます。朝食の準備ができました」
ここ1週間ノックとともに扉の向こうから毎朝聞く声にすぐ行くよと返す。足音とともに声の主は部屋から遠ざかっていく。起き上がりベッドから降りて、着替え始めると少し腕が痛いのに気付く。昨日もクーネルさんからもらった剣術の練習メニューをこなした。気分がよかったので少し負荷を掛けたらこの様だ。まだまだ未熟なのがよく分かる。
レオルが忍び込んだあの日、夕暮れの景色を眺めていたら、クーネルさんが剣術練習の提案をしてきた。
「魔剣術をやってみませんか?あくまで試してみてものにならなければ、アカデミーで魔術師の勉強をやればいいのですよ。ものは試しですよ」
少し迷ったけど、やってみることにした。クーネルさんみたいに俊敏に動けるようになれるかもしれないし、なんと言っても今の僕は華奢すぎた。自信を付けるためにもいいかもしれないと思ったのだ。
「うっ。痛た」
服を着るときにやはり痛みが邪魔をする。まだまだ華奢すぎるなと実感する。やっと着替え終わって、ふうと深呼吸をしてからドアを開けて階下のダイニングへ向かう。
「おはようございます。アカネ様」
挨拶の主はテーブルに淹れたてのコーヒーを置く。
「おはよう」
挨拶をしながら椅子に座る。今日も父・アカツキは朝から王都へ出掛けている。魔術省は人使いが荒いなと思いながら、ドボルシャト日報の朝刊に手を伸ばす。一面にこれといった情報もない。王都の桜が見頃を迎えているらしいけど、ここら辺で見れるから充分だ。
「レオル。今日は西側のズレの木を手入れするんだよね?」
「そうでございます」
そう。召し使いのような声の主はレオル・バトン。魔術省に連行された北の国・アイスフランク出身の闇の魔術師である。
レオルがなぜここにいるかと言うと、父の厚い恩情のおかけである。国家魔術師ダイヤ・ラランドが放った光の魔術でレオルは闇虫から解放され、文字通り真っ白になった。つまり魔術漂白されたのだ。もう二度と闇の魔術が使えないほど漂白された。王都の魔術省管轄の収容所に送還され取り調べを受けたが、事件に関する記憶がないらしく首謀者に繋がる有力な情報は3ヶ月経過しても得られなかった。その間、父は何度も王都へ上り、レオルと面会した。父と話を重ねるごとにレオルは自分がとんでもないことをしでかしてしまったという後悔の念を強めていった。そんな時、レオルが収容所の自室で自殺を図った。首を吊ろうとしたらしいが、警備が発見して未遂に終わった。父はその後の面会で死ぬのは簡単だが、生かされた自分の命を大事にしろとレオルに告げて、収容期間が終わったらうちに来て住み込みで働かないか?と誘った。その時のレオルには父が神様にでも見えたのだろうか、大粒の涙を流し首を縦に振った。そんな中、ダイヤも父に協力してくれた。ダイヤがしたことはレオルを証拠不十分の無罪で釈放し、その後の監視責任者にはアカツキを指名する公的な書面を作成、提出の後に上層部を説得してくれたらしい。アカツキの人徳とダイヤの手腕でレオルは事なきを得て、現在僕の目の前にエプロン姿でいる。おっさんのエプロン姿は朝から見たくないのだが、毎日食事を作ってもらっているので仕方ないかと無理矢理自分を説得させている。だがしかし、これがダイヤさんだったらと妄想してしまう。
「アカネ様。なぜニヤニヤしているのですか?」
妄想が消え失せてエプロン姿のおっさんが現れる。
「い、いやなんでもない」
「顔色が悪いですよ。体調が優れないのですか?」
いや、お前のせいだ。と心の中で突っ込む。
「大丈夫だから、予定通り9時から作業開始しよう」
「そうでございますか。かしこまりました」
レオルは食器を下げて流し台で食器を洗い出した。
春の風が心地好く、ズレの木々の葉が気持ち良さそうに揺れている。ズレの実は秋につくので端から見たら普通の木だ。
「レオル。なんでズレはこの国でしか育たないんだ?他国で育成はしてみたのかな?」
木の根元で膝をつき手入れをしていたレオルが振り返り顎に右手を添えて難しい顔をしている。
「一説にはこの国の地脈が影響していると聞いたことがあります。それは私の母国アイスフランクには地熱はありますが、それとはまた違う大地の力のようです。あくまで仮説で研究中のことなのでなんとも言えませんけどね」
「地脈か。この木もそれに繋がってるとしたら、なんか不思議な感じだな。魔力は感じられるのにね」
「そうですね。自然の力は人間には計り知れないほど大きく未知なるものなのでしょう」
ズレについては色々な論文が毎年出ている。王都の研究機関が唱えているのがレオルが話していた地脈説だが、この論文には矛盾がある。他国にも地脈はある。大地は繋がっているのだからドボルシャトだけにその地脈があるのはおかしい。地脈はこの大地全体に流れているものではないのかという反論もあるのだ。どちらにせよ僕にはそんなことを考える学がない。ただの田舎の少年にすぎない。そんな討論は有識者達に任せておけばいいのだ。目の前にある樹木を世話してあげることが今の自分ができる精一杯のことなのだから。
「アカネ様。午前中にはここら辺を終わらせてしまいましょう。午後から注文が入っているカシルの出荷準備をしなくてはなりません」
「そうだね。ペースを上げよう」
聴診器を耳に付けて樹木の音を聞く。水の流れるような音がする。二人は集中して樹木の手入れを進めていった。
夕方、王都からアカツキが戻ってきた。
「ただいま。アカネ。話があるから書斎に来なさい」
「わかった。出荷準備もう少しで終わりそうだから終わり次第行くよ」
アカネがアカツキにそう告げると、被っていた帽子をとり、了解と言わんばかりに振った。
「レオル。のどが渇いたから茶を淹れてくれ」
「わかりました」
レオルが茶の支度を始める。茶の支度が終わる頃、明細を書き終えてアカネは伸びをした。
「お茶持っていくよ」
アカネは盆を手に取り、用意されていた茶器一式を載せ、アカツキの書斎に向かった。
コンコン
「入りなさい」
中からアカツキの声が聞こえたので、扉を開け、テーブルに盆を置いた。そのままソファに座る。向かいのソファにアカツキが座り茶器を手に取り茶を注ぐ。一口飲んでふぅと息を吐く。
「さて、早速だが、アカデミー入学のことについてだ」
アカネがアカデミーへ進学することはだいぶ前から決まっていた。入学準備のことだろうかと口を開きかけた。
「お前にはとある同級生の護衛任務も兼ねてもらう。これは魔術省から依頼だ。まあ、私の代役として護衛をしてもらうわけだ。見ず知らずのおっさんがアカデミーをうろうろしていたら目立ってたまらんからな。これはダイヤ殿からの依頼でもある。」
予想を遥かに超えた話にどう返せばいいかわからない。てか、僕でいいのか?護衛と言われてもその能力が欠けている。きっと自分もまともに守れない。
「まあ、驚くよな。いきなり任務とか。そこでだ」
「待った待った。拒否権無しかよ」
「ないぞ。がはははは」
アカネは苦笑い。アカツキは満面の笑顔。無茶ぶりがすぎる。
「明日から防御系魔術をみっちり教えていく」
アカツキの目付きが変わる。アカネは姿勢を正した。
「あと一ヶ月ほどで習得してもらうからきついとは思うが、私も本気で教えるから覚悟しておくように」
「わ、わかりました」
「アカネなら大丈夫だ。きっと母さんが守ってくれるさ」
アカネは自分の手を見つめる。自信はない。ただ、父と亡き母を信じるのみである。深々とお辞儀をした。
「明日からよろしくお願いします」
翌朝、朝食を終えるとアカネとアカツキはさっさと準備を済ませて訓練場(農園の裏手の丘のこと)へ向かった。
「座学は午後からやるから、午前は実技練習な」
アカツキは丘を登る道中ざっくりとした予定を告げてきた。
「わかりました先生」
「先生か。いい響きだな」
親子だからかもしれないが、どことなく緊張感に欠ける雰囲気で丘の上の広場までやってきた。
「まずは…」
アカツキがいきなり術式を発動させた。歯車が現れて回り始める。
「汝は光。我は闇。出でよ土の傀儡」
いきなり地面が盛り上がり数体の傀儡が現れた。
「ななな」
アカネはよくわからない声をあげてしまった。いきなり何事かと思い、アカツキを見る。
「こいつらの攻撃から身を守れ。ただそれだけだ」
アカツキがさも簡単そうに告げる。
「まじかよ。こいつら初級クラス?」
「いや、中級くらいかな」
「最初からいきなり」
「任務の階級を考えるとこんなもんかな」
「初任務でやるレベルじゃないでしょ」
「とりあえずやってみよう」
「ノリが軽すぎる」
アカネは頭を抱えつつも神経を集中させて傀儡と対峙する。