第8話「秘密」
「で、用事ってなんだ」
太陽の落ちかけた、薄暗い道。晴翔は一花のあとを歩いていた。なにひとつ聞かされることなく、従順に。
「私、バイトしているんです。それも、夜に、居酒屋で」
「うちは禁止のはずだがな。……事情は、察する」
黙って働かなければいけない理由がある。それを晴翔に伝える理由はわからないが、一花が大変だということはわかる。
「それを伝えて、どうしてほしいんだ」
「私には、秘密があるんですよ。晴翔さんにも、ありますよね?」
一瞬、言葉に詰まる。それが仇となった。一花に教えてしまったのだ。神崎晴翔には、秘密があります、と。しかし、簡単に教えられるものではない。
「言えませんか?私の、教えたのに」
「今日はやけに強気だな」
なんどかわされても、にこやかな笑みは崩さない。最初から勝ちを知っているような、そんな心を感じた。内面すべてを読めるわけではないが、いまのところ勝ち目はなさそうだ。
「その腕、どこで怪我したんですか?」
「これは、昨日影との戦いで——」
「なかったですよ、そこには」
急に、声のトーンが落ちた。一花は知っている。倒れた晴翔を抱いていたのだから、見える箇所の怪我は知っている。腕には、なかったはずだった。
「もしおうちが辛いのでしたら……私を頼ってもいいんですよ」
「……選択肢の一つとして、考えておくよ」
事実、ホテルから帰ったあと、殴られた。あざになっている。ロクでもない親だと、つくづく思う。それから逃れられるなら。だが、代償もきっと。
「金はない。報復も考えられる。安全とは言いがたい」
「それでも、晴翔さんに傷ついてほしくないんですよ」
切実な願いだった。笑っている表面からは考えられないほど、深く切実な願いだった。
それから一花は、また歩き始める。見える感情は、やはり願いであった。晴翔を傷つけさせない、強い願い。それはまるで、母親のようであった。
「もしなにかあったら……そのときは頼む」
「はい。でも、なにかある前に来てくださいね?」
「善処する」
感情に、少しの安堵が混じる。それだけ晴翔を想っているのだ。
「実にいいね。私の口から言うべきではないかな?」
不意に、影が下りた。認識したときにはすでに、晴翔が一花をかばい前にでている。
「しつこいやつだな」
「仙道一花は殺しておくべきだけど、それだと君が悲しむね」
両手をあげた。下に蠢いている。多数の悪意が。飢えた獣のように、晴翔の命を狙って。
「あなたは……誰なんですか!」
「私は君と同じだよ。ただ、救われなかったほうのね」
なぜ欲しがる晴翔を攻撃するのか、不明である。そんなことを考えるより、先に敵を排除せねばならない。ちびロボもいないのだから。
「一花は下がっていろ——心の奥底に眠る憎悪よ、いまこそ解き放て!赦された空へ!」
詠唱が終わると、剣は顕出する。一花を守るため、紅い双眸は鋭くねめつけている。
「晴翔、一つ忠告しておくよ」
「聞いておこう」
「この仕事は危険だ。怪我じゃない。君の特性が危険なんだ」
「それでも、やらなきゃならない」
「やはり、できなくするしかない」
悪意が襲いくる。冷静に、それを見る。どれを斬るべきか、考え、やがて動きだす。
「一つ、二つ、三つ!」
降りかかる脅威に順位をつける。倒すべき敵を倒す。道が開けると、影はそこにいない。
「晴翔さん!上です!」
「そいつぁどうも!」
木の上から飛び降りる人影。打ちあげるように切り裂いた。
晴翔も見えない敵の姿、一花は鼻が利いたのだろう。ただの守られるだけではないということだ。
「これで、五つめぇ!」
勢い衰えず、剣先はつねに敵を捉える。残る敵は、四人。一瞬で決めるべきと、晴翔は判断を下す。——一閃である。それだけあればじゅうぶんだ。
「一花、もう一歩離れてくれ。制御が、難しくてなッ!」
直線の駆けというより、舞。躍り出る体、敵の攻撃はかすりもしない。
ぐにゃりと歪む動きで翻弄し——気付けばそこは晴翔の世界。晴翔によって作られた空間。
「見切ったッ!」
一瞬だった。一瞬の斬撃だった。周囲に並ぶ敵を、効率的に斬り裂いた。回転しながらの、しかし速すぎて見切れぬ速度で。
「……終わりだ。帰ろうか」
「あ、はい!……疲れたら、私のうちで休んでくださいね?」
「大丈夫だ。忘れていない」
振り返り微笑む瞳は、いつもの黒に戻っていた。安心感すら覚える優しさであるが、強く儚いものだとも思ってしまう。触れることなく消えてしまいそうなほど。
「さ、行くぞ。遅れると大変だろう?」
「はい、行きましょう!」
勢いあまり、晴翔の腕を絡めとった。その仕草は恋人のようであった——が、一花の幸せそうな笑顔にはなにも言えず……バイト先までこうして歩いたのだった。
◇◇ ◇
「バカヤロウ!おせぇんだよ!」
「すみ、ません……」
帰宅早々、右の頬に打撃。睨むこともなく、抵抗することもなく、その拳を受け入れる。
いつものことであった。殴られてから、帰る。『唯一』休める自室へと。
「くそが……全員死んでしまえ……。死ね、死ね、死ねェッ!」
自室、なんども枕を殴りつけた。この恨みはすべてに向けられている。父へ、母へ、ミコトへ、一花へ、桃奈へ、影へ。自分以外のすべてへ。
楽しげに会話する自分と、森羅万象を憎む自分。どちらが本物なのだろうか。どちらも本物だろう。心の底からそう思うのだから。楽しい、殺してやる、心の底から。
「晴翔……。つらそうだね」
「貴様……なにをしに来た」
「私が、少しでも君を癒せれば……そう思ってね」
月明かりに照らされて、それは立っていた。雰囲気は影に似ていた。だが、輪郭が見える。そいつがなにものであるか、見える。
「晴翔、お願いだ。私の手を握ってくれ。少しは……マシになる」
「馬鹿を言うな。貴様は敵だろう」
「敵だよ。敵だけど、いまは味方だ。私だけは、なにがあろうと」
優しい声だった。なのに、そいつは悲しんでいた、苦しんでいた。
心の声は語る。——こんな卑怯者が、晴翔を想ってもいいのだろうか。
「お前なら、見えるだろ。俺はなにもかもを憎んでいる。その手を、握れるか?」
挑発だった。どうせ怖れる、どうせ嘘に決まっている。だから握れやしない、癒せやしない。そう思って、手を差し出した。憎しみだけが満たされた手を。
「ありがとう」
驚いた。驚きのあまり、声を失った。そいつは、晴翔の手を握ったのだ。それも優しく、包み込むように。その中に怖れなど、ありはしない。
「こ、怖くないのか!?俺は、お前を憎んでいるんだぞ!」
「関係ないよ。どれだけ憎まれても、恨まれても。それがね、愛なんだ」
寂しそうに笑った。懐かしい笑顔だった。別れたあの日から、なにひとつ変わらない。
「お前は、変わらないな」
「変われないよ。だから、こうなっちゃった」
包む手のぬくもりも、寂しげで優しい微笑みも。あのころからなにひとつ、時が止まったように、まったくの不変であった。
「なぜ俺に攻撃を加える」
「君の特性が危険なんだ。君は人の心を感じられるようだけど、それがとても危険なんだ」
「いまさらか?お前が引けば、多少の危険はなくなる」
「そうじゃないよ。人の心を感じるということは、人の心にのまれやすくもあるんだ。誰かの心に支配されて、事件を起こすこともある」
「忠告感謝しよう。だが、やめるわけにはいかん。俺の意見も、変わらないんだよ」
互いに譲るつもりはなかった。信念がそうさせた。晴翔は人のためを思い、そいつは晴翔のためを思っている。すれ違いだった。
「これから、君にとってつらい敵が現れるだろう。それでも、続けるかい?」
「あぁ、続けるさ」
即答に、光を見た。できれば戦わせたくない。それでも、晴翔なら勝てる。因縁を断ち切ることができる。ならば、賭けてみてもよいのではないか。
「俺はなにがあっても、誰が来ても、負けるつもりはない。全部喰って、幸せにしてやる」
「その代償が、記憶でも?」
「俺の記憶など、不必要なものばかりだ」
晴翔の記憶は、ほとんどが虐待の記憶だ。そんなつらい記憶なら、失われても問題ない。しかし、それ以外が失われる危険性もある。
「いまの記憶も、不要?」
「どうだろうな。俺は……すべてが憎い。なのに笑っている。俺は誰なんだろうな」
「晴翔は、晴翔だよ」
寄り添うように、晴翔の隣に腰掛けた。それを邪険に扱うこともせず、密着を許した。鼓動と、それから安らぎが伝わってくる。
「ごめんね、卑怯者で」
「恋に卑怯などあるものか」
「ありがとう。……でも君は、誰を選ぶんだろうね」
誰を選ぶ。その言葉は、恐怖をまとっていた。自分以外が選ばれる恐怖を。
「まだ、誰を選ぶ気もないよ」
気休めだった。それでもよかった。まだチャンスはあると、思い込むこともできた。
「さて、俺は少し外に行くよ。どうも、悪者がいるっぽくてな」
「相変わらずだね。……私も行くよ」
窓を開け、外へ飛び立つ。靴は用意してある。こんなことが、よく起きるからだ。
「おい、お前、なにをしている」
「あ、ああ、あ……いない、いないいないいないなんで」
「俺の家の前で発現したのが、運の尽きだ。喰らってやる」
悪意は独特の空気をまとう。それは部屋にいても感じることができる。だから、喰らう。逃がしはしない。どんな願いを持っていようとも。
「日に二回も出すとはな……。心の奥底に眠る憎悪よ、いまこそ解き放て!赦された空へ!
顕出する大剣。紅い目は捉えている。一撃で叩き切るために、敵のあらゆる動きを、捉えている。
「望みを言え。喰らってやる」
「あ、ああの、あの子、どう、どうして、いない、いない」
「晴翔、こいつ」
「わかっている」
溢れだす悲しみ。愛する人を失った、どうしようもない悲しみに満ちていた。見ている晴翔たちの心が、苦しい思いをする。それほどの悲しみだった。
「いま楽にしてやる」
駆けた。動かない。剣は振りあがる。月光を反射している。美しくきらめく。切っ先を見つめている。振り下ろされる。まだ見つめている。振り切って、目は追うことをやめた。
「あ、あり、ありが、とう……」
悪意が霧散し、そこにはなにもいなくなる。残り香さえ消え失せて、穏やかな静寂だけが身を包む。平穏、まったくの平穏であった。
「愛ってやつは、人を狂わせるらしいな」
「そのとおりだよ。だから、見てよ」
その場でくるりと、回って見せた。スカートが花のように広がった。愛らしい少女にしか見えなかった。
「こんなになっちゃった」
「愛らしくあれるなら、悪くない」
そうだ、悪くない。そこの愛情があるなら。問題は、そうならないやつだ。
そうならないやつが、近くにいるのだ。……殺し合いになるだろう。
(それでも俺は……。喰らってやるよ————母さん)