たぬき、参上。9
「岬の水を飲むと酔いがさめるみたいだ」
井戸水で喉を潤した景宗は不思議そうに。それを聞いていた狸もカクッと首を傾けた。
「俺さ、丘酔いがひどいんだ。船の上なら全然平気なんだけどな」
魚を焼く支度に取りかかる最中も、他愛のない話が続く。
「ずっと船に乗っていたかったが、北条のお殿様に頼まれてさ。一時だが陸に上がることになったんだ。安請合いしたわけでもねぇけど、情に流された感は否めねぇ……けど、承諾したのは俺だ。首を縦に振ったからには最後までやり通すのが俺の主義だ。わかるか、たぬきち」
「ら」
お座りをしてしかり話を聞いている様子を見て、景宗も気を許して話を続けた。
「おー、お前も分かる狸だな。根性もあるし、船乗りに向いてるな」
「らっ」
「勇ましいねぇ。もしかして船乗りになりたいのか?」
「ら」
「人になれさえすれば叶わなくも無いだろうがなぁ」
「らっっ」
「その気になっちまったのか? まぁ落ち着けって。狸の妖術なんて大昔の言い伝えだし、いまどき流行らねぇだろ」
「らー……」
「見るからに落ち込むなよ、俺が期待させちまったのがいけなかったな。悪かった、これ食って元気出せ」
香ばしく焼けた魚を差し出すと、狸は器用に食べ始めた。
たらふく食べた後、狸に誘われて浜へ出た。
正面には霊峰富士が、右手の浜沿いには集落が見えている。
「今日から戦で使う船を造船するって話だったが、早々に人が集まるわけねぇよな」
駿河の海に浮かぶ小船の一つ一つを眺めて、景宗ははんっ、笑った。
「漁するに決まってるよなぁ。でなきゃ暮らしが立ち行かなくなるからな」
「くしゅっ」
「寒いか? ……よし、こっち来い」
景宗は浜に腰をおろし、ひざの上に狸を乗せた。
「伊豆国暮らし初の漁をさせてもらったが、いい海だな。船造るより漁してたほうが絶対いいって……俺も思う」
背中を撫でられる狸は景宗と体温を馴染ませて、この上なく幸せそうな顔でいる。
「ら」
「長閑でいいところだな、ここは。それを水軍の拠点にするなんて……」
景宗はそれきり何も言わなかった。
狸が見上げると、景宗はずっと遠くの外洋へ首を向けるところだった。
「乱世なんて早々に終わればいいのにな、そしたらあの海の向こうへ、また漕ぎ出せる。帆を張って、波をかき分けて。……な、たぬきち」
「ら」
「帰りは神社で願っていこう。海の安全と太平の世をな」
さらりと狸へ視線を向ければ、狸は笑っているように……見えなくもなかった。