たぬき、参上。7
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一晩明けて。
海へ出るのはいかがなものかと照重から釘を刺されたことなど何処吹く風の景宗は、魚の入った手持ち桶を持って、発端丈山の尾根であいも変わらず迷子になっていた。
「ぐ、きもちわりぃ……うぐっ」
船に乗っている時はなんとも無いのに。陸に上がるととたんに酔ってしまうから、景宗は陸があまり好きではなかった。
藪に向かって腰を屈めて吐瀉感に呻いていると、少し向こうで藪が揺れる音がした。その音に、背筋がそわっとそば立ち、ひどかった吐瀉感が一瞬引っ込んだ。
あれは風で揺れた音じゃない、何かの塊が通った音だ。
体勢を戻し、音のほうへ体を向けると。
そこには熊が一匹、景宗に体の側面を向けて獣道のにおいを嗅いでいた。
わぉ……今夜は脂たっぷり熊鍋
一瞬そんな事を考えたが、はたと思い出した。
そういえば今年の夏、紀伊国は日照り続きで食べ物が少なく、冬になっても食べ物を探し回って里に出没すると農民が話していたのを。そこにいる毛艶の悪い熊を見れば、どうやら伊豆国も同じ状況らしいと景宗にも分かった。
脂少な目か……ま、仕方ない、三歩譲って脂少なめでもよしとするか。
ヒクヒク動く鼻がこっちを向くのは時間の問題だと景宗は思う。手元の桶には新鮮な青魚が数本入っているのだから。
とりあえずこっち向くなー……刀を用意すっからよ。
そうして景宗は太刀に手を伸ばしたが。腰巻には何も挿さっていなかった。
忘れてきたぁーーーーー!
途端に焦る景宗の胸の中は、
こっち向くな。で一杯だった。
こっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くなこっち向くな!
こちらは風下、見つからなければ何とかなる。
冷や汗かきつつ思っていたのに。風は自由気ままな女の様に向きを変え……今度は景宗が風上となった。
それを知った景宗は顔で空を仰いでから、がっくり肩を落とす。
まじかぁ……これってありがちな状況だろー
胸中で状況を叫ぶ間も絶えず鼻を動かす熊が獲物に気付いたのは、指折り五つ数えるより早かった。
ぐふぉ。
鼻を鳴らした熊とがっちり目が合って、景宗は引きつったように笑った。
「よっ、……今日は、漁日和だな」
ぎこちなく笑って誤魔化しても、熊に通じるはずも無く。熊は空腹に耐えかねて早速足を前に出した。
おいおいおいおい、もうちょっと溜めてから来るもんだろっ
下手に動けば追いかけられ、仕舞いには襲われて食べられてしまうかも知れない。海にはいない毛むくじゃらで獰猛な生き物を前にした景宗は、傍目には涼しい感じで立っているが、心臓は破裂しそうだった。
この魚をくれてやれば逃げられるか……
考える間に熊は景宗の間合いに入り。ぎらつく殺気立った目は、「魚を寄越せ。さもなきゃお前をどつき回して食後の甘味にするぞゴルルルァ」と言わんばかりだ。
涼しげに佇み内心で大いにうろたえる景宗には、桶を持って逃げるという選択肢はなかった。魚の入った桶を置いて逃げれば命は助かるだろう。
だが、景宗には譲れないものがあった。
いや待て、これは渡しちゃならねぇ。だってこれは――
「狸へ渡す魚だ、これだけは渡さねぇっ!」
桶を腕に抱いて啖呵を切ると、熊は両足で立ち上がっる。その背丈は景宗よりも大きかった。
「立ち上がって大きく見せても無駄だっ、これはぜってーやらねぇ!」
強情な景宗を見下ろしていた熊の目がぎらりと光る。
「んなら望み通りどつき回してやるぜ」と熊が四足に戻って踏み出した刹那。藪から飛び出てきた黒い塊が熊と景宗の間に立ちはだかった。