たぬき、参上。4
倒木にでも引っかかったか?
軽い気持ちで振り返った景宗が見たのは、予想だにしない光景だった。
冬毛のもふもふ狸が羽織の裾に噛み付いて、そっちへ行くなといわんばかりに引っ張っているのだ。
狸が一匹、人を恐れず姿を現したことに景宗は驚いたが。それ以上に、羽織をがっちり咥えて引っ張っている事が驚きだった。
「……何やってんだ、美味そうなもふもふたぬき」
寒い冬はやっぱり鍋だ、今夜は狸鍋にしようか。
太った狸を見てそんな考えを巡らせる景宗だったが、狸はいっこうに裾を放そうとしなかった。
「放せ」
言って見るが、狸は動こうとしない。
「言葉じゃわからねぇよな、狸だもんな」
景宗は羽織を掴み。
「放せっての」
勢いよく引っ張ってみる。
が、狸は足を踏ん張って意地でも放そうとしなかった。それどころか、今度は狸が景宗の羽織を引っ張り。ビリ、と布が裂ける音がした。
「やめろ、俺の一張羅に何てことするっ」
破ける音を聞いた景宗は、慌てて狸のほうへ踏み出した。けれど狸はぐい、ぐい、と引っ張り続け、景宗が三歩ほど薮へ戻ったところで狸はようやく裾を放した。
「おいおいおいおいおいおい、めっちゃ破けてんぞ……よだれすんげー付いてるし。どうしてくれんだ」
狸を睨みつけるように見下ろした景宗だったが、当の狸は話を聞かず歩き出し、景宗が先程まで立っていた場所まで戻ると、その向こうを眺めている。
「俺を戻して、今度はお前が陣取るのか」
ふてぶてしく話す景宗に、狸はぴんと立った尻尾をヒュンと揺らして返事をした。
「そこにはどんないいもんがあるんだ? 独り占めはよくねぇ」
狸の独り占めしたいものは何なのか。自由な海の男は宝物を見つける寸前の胸騒ぎのようなものを感じながら、狸の背後に立てば。
薮の隙間から広がる光景に、生唾を飲み込んだ。
「崖…………」
眼下にはごつごつした岩が幾つも転がって、そこからの延びる小さな浜には波が打ち寄せている。ここから落ちたら死は免れない高さがあった。
断崖絶壁の上に狸は佇み、広い海原を眺めていたが。突然踵を返して景宗を通り過ぎていった。
あと一歩踏み出してたら、俺ぁ……
落下するときに襲う背中の感覚をじっとり味わってしまう景宗は鳥肌を立てて崖を見下ろしていたが、ふと狸の事を思い出して薮へ振り向けば、そこには先程の狸がちょこんと座って景宗を見上げていた。
そして、
「ら」
と鳴いて歩き出した。
「付いて来い、って言いたいのか?」