旅路
船で一週間旅をすると、次第に海風の匂いや景色が変わってくる。リーゼロッテの住む南の海から、アステロイド家のある北の領地への旅路は穏やかに過ぎていった。
さんさんと降り注ぐ太陽の下、リーゼロッテは船旅の間はできるだけ海で泳ぐようにしていた。
人魚が作るタリスマン同様、人魚と道行を共にする船にも旅の加護は与えられたし、アステロイド家は森の中にあってあまり沐浴が盛んではないと聞いていたからだ。
(人の姿をとっておけば干からびるということはないけれど……毎日海の中で暮らしていたから、陸上での生活になじめるかがすごく不安だわ……ベリル様は、人魚に会ったことがあるかしら。人魚にとっては自慢の尾鰭だけれど、気持ち悪いと思われたらどうしよう?)
異種婚姻はエトワールでは珍しいことではないが、お互いの生活をお互いが理解するまでにやはり長い時間がかかる。
二人の間に愛がなく、家同士の結びつきとして他種族の元へと嫁いだ場合、時折生活に違う色が混じって破局することもあると、実家で奉公に来ていた人魚が話していたのを思い出しリーゼロッテは今更ながらに不安になるのだった。
「リーゼロッテ様、明日には馬車での移動となります。三日間、辛抱をおかけすることになりマスが……」
「いえ、大丈夫ですわ、ノーチェ様。それにしても……南と北では随分と空気が違うのですね」
北の空気は初夏なのにどこかひんやりとしていて、ミントティーのような爽やかさがあった。
それに対して故郷の空気は情熱的に熱く、サングリアのように陽気だったものだ。
住民の性格には気候が少なからず関係するというが、暑苦しい娘だと思われたらどうしよう、夫となる人が冷淡な人だったらどうしよう。
考えても仕方のないこととおもいつつ故郷を出ることが初めてで、他家の世話になることも初めてのリーゼロッテの心はまるで嵐の海に揺れる木の葉のようだった。
「心配なさらないでください、リーゼロッテ様……悪魔城の面々は兄上を筆頭に、寒さや恐れを陽気な笑いで弾き飛ばそうと明るい気性の持ち主です。そして、遠くから嫁いできた花嫁を虐げる義母もおりませんので。母はなんというか……すこし個性的ではありますが愉快な女性です。きっとリーゼロッテ様が悪魔城になじむ手助けをしてくださいます。スピカも、義姉ができるのだと婚礼の日を指折り数えて楽しみにしておりました」
(まぁ、気を遣わせてしまったわ……けれどノーチェ様がこんなふうにフォローしてくださるんだから、きっと悪魔城の皆さまも不安そうな人を見ると手を差し伸べてしまう、そんな優しい人たちなのね。うん、そうに違いないわ。だって太陽の加護から外れ、理から逸脱して消え去ってしまう人たちに夜という安寧を与えるのが悪魔の役割で、ベリル様は名君と呼ばれる悪魔公爵なんだもの)
リーゼロッテはノーチェの言葉にすこし気恥ずかしげに笑ってみせる。
「ありがとうございます。ノーチェ様。故郷から出たことのない無知な娘と笑ってくださいませ。あまりに知っているものとかけ離れていて、すこし不安になってしまっていたようです」
「無理もございません、リーゼロッテ様は掌中の珠としてご両親に大事に育てられたのですから……それにエトワールでは貴族の女性はあまり独り歩きをしませんし」
「ええ、ですから不安ももちろんありますけど、楽しみでもあるんです。だって南生まれの人魚としては世界で一番遠くといってもいい場所へ行けるんですもの!」
ノーチェはその言葉を聞いて穏やかに笑った。
「兄上も貴方の、その太陽のような笑みを愛し、慈しむことでしょう。……義姉上、どうか兄上をよろしくお願いいたします」
リーゼロッテ様、から突然義姉上と呼ばれてそうか、私はこの人の義姉になるのか、とリーゼロッテは目を白黒させる。
(ノーチェ様は頼りになる人だけど、私がアステロイド家を支えていくのだから、あまり情けないところは見せられないわ。しっかりなさい、リーゼロッテ。貴方はもう子供ではないのだから!)
一人の男の妻として、一人の女の義理の娘として、二人の男女の義姉として。なにより公爵家の花嫁として凛然とした振る舞いを身に着けていかなければならない、とリーゼロッテは自戒する。
悪魔には敵が多い。意地の悪い性格のものも、少なからずいるだろう。そんな彼らに謀反を起こす理由を与えるような頼りない花嫁ではいけない。
条件の悪い自分を、北の大地に招き入れてくれた恩がある。これから育んでいきたい愛がある。親子として、姉弟として培いたい絆がある。
気合を入れなおすように両手で両頬をぱぁん!とたたいたリーゼロッテにノーチェは端正な面差しをあっけにとられたように崩した。
「あ、ご、ごめんなさい!弱気になってうじうじと悩んでいてはベリル様に嫌われるかもしれませんし、なにより後ろ向きな発想は私が嫌なので、気分を入れ替えようと思ったら、つい……!」
奇矯な娘だと思われたらどうしよう、とたたいたせいだけでなく頬を染めるリーゼロッテにノーチェは小さく噴き出した。
「兄上は幸せな結婚をすることでしょう。私はそれを嬉しく思います」
(は、はずかしい……)
けれど、身内に嘘偽りなく気に入られるというのは大きな安心感と幸福感となってリーゼロッテを包んだのだった。