リーゼロッテ
妖精と竜の国。魔女と魔法使いと戦士の国。そんな世界をつなぐ七つの海の海底で、リーゼロッテは十七歳の誕生日を迎えた。
珊瑚で噴かれた宮廷の屋根には夜行貝が吊るされ海底の闇を優しく照らし、海藻の森を真珠の精が淡く光をまとって漂っている。
海は人魚たちの暮らす国だ。彼らは人の姿をとって陸上で生活することもできるが、陸で暮らす人魚も、陸で暮らすことを選びながら水浴びが大好きな性質までは変わらない。
船乗りの出航の際には無事を願い、帰港した船には航海の無事を祝う人魚は温和な性格でどの種族からも愛されている。
というのも、人魚の加護をもたずに出港して悪しき魂にとらわれた幽霊船や海妖、リヴァイアサンといった凶悪な海獣に襲われる船が昔はとても多かったからで、今は人魚といえば旅の守り神とまでされている。
人々は海路を往くときだけでなく陸路を旅するときも、人魚の作ったアミュレットやタリスマンに無事を願って次の目的地へと進んでいくのだ。
リーゼロッテはそんな人魚族のなかで、中流の貴族階級に生まれた末娘だ。上には七人の姉がおり、四人の兄がいる。
人魚は十五歳にもなれば妻帯するものが多く、それなら何百年という長い時を伴侶と共に過ごす種族だがリーゼロッテにはまだ夫どころか婚約者もいなかった。
貴族同士の結婚となれば庶民の結婚とは比べ物にならないほどお金がかかり、持参金も必要になるがリーゼロッテの上には七人も姉がいたためとても嫁入り道具を準備する余裕がなかったのである。
修道院にいれるにしても支度金がかかるし、リーゼロッテはこのまま小さな城で喜びや悲しみを分かち合う相手を家族以外に持たずに衣装を終えるのだろうと若い身空で覚悟を決めていた。
「リーゼロッテ、リーゼロッテ。リーゼロッテはいるかね」
「ここにおりますわ、お父様。どうなさったの、そんなに慌てて」
「あぁ、リーゼロッテ。お前に求婚者が現れたのだよ」
まぁ、と息をのむリーゼロッテ。同じ部屋で刺繍をしていたリーゼロッテの母、リリムナは刺繍針で指をついただけでなく刺繍枠を取り落とすほど、夫の持ってきた話に驚いた。
「私に求婚者ですか?」
「そうなのだよ、リーゼロッテ。持参金も何も必要ない。花嫁衣装ももしよければこちらで用意するし、それに見合った装飾品も準備ができている、といっているのだよ」
柔らかそうなとび色の巻き毛に、やさしい青い瞳の子爵は海の中でも溶けない紙と、海の中でもにじまないインクで書かれた手紙を見せた。
その署名を見てリリムナとリーゼロッテはもう一度、今度は違った意味で息をのんだ。
「まぁ……悪魔公爵が、リーゼロッテの求婚者ですの!?」
悪魔公爵、ベリル・アステロイド。魔界シュバルツヴァルドを統べる夜の王の近親者で、魔族の領分である夜の時間に姿を見せない変わり者の公爵として北部では有名な貴族だ。
悪魔、と言われてよくないイメージを抱くものはエトワールの世界の中にはいない。
彼らは夜の番人。黄昏の守護者。知恵の守り人。人には早すぎる知識を護り、太陽の加護をなくした常世の闇でしか生きられない者たちを律する高貴なる存在なのだ。
もっとも、善人がいれば悪人もいるのが世の習い。悪魔においてもそれは例外ではなく、人を襲う者、禁断の実を食べさせて破滅させるものなども少なからずいる。
悪魔公爵と呼ばれるベリルはきちんと王家に税を納め、規律を重んじ、文武両道でよく民の声を聞くという噂は流れてくるが、問題は夜に彼が姿を現さないことだ。
昼の守護を太陽神の眷属である天使が行うのと同じように夜の世界は魔族が加護を与えなければ忘却の王によって世界が滅びるとされている。
その要となる貴族が夜に姿を現さない、ということで名君であるという噂と同じくらい何を考えているか得体が知れない、という評価が世間でのアステロイド家だった。
「今、夜の加護は弟君のノーチェ様と妹君のスピカ様が執り行っているのだったかしら」
「足を悪くされて祭事が難しい、という話だが」
「でも、家督を継いだのが五年前。公の場に現れなくなったのは十年前でしょう?儀式を執り行えないのならばなぜベリル様がお世継ぎのままだったのかしら……ノーチェ様も勇敢で慈悲深いかただと聞くし、領主としてふさわしいと思うけれど」
「そうだね。きっと南の海にいる我々の耳には届いてこない何か秘められた事情があるのだろう。だが、悪魔公爵家は慈悲深いと聞く。それにリーゼロッテに行き場がないのは不憫だ。いつか私たちはこの子をおいて泡になるのだから」
そうですけれど、とリリムナは優しげな顔を憂いに染める。
この海は南部にあり、悪魔城は北部にある。遠くにあり、基本は陸での生活になる。人魚には気苦労が多いだろう。
ましてリーゼロッテは十七になったばかり。世界どころかこの海のことだってよくは知らないのだ。
「決めるのはリーゼロッテ、お前だよ。お前が見知らぬ土地へ行くより、甥と姪に囲まれてここで生涯を過ごすというのならこの縁談は断ろう。なにか深いわけがある悪魔公爵様の妻となり、その愁いを晴らしたいというなら承諾の返事を出そう」
「私……私、お嫁に行きますわ。お父様、お母様」
「リーゼロッテ……」
「本当にいいのかい?」
「はい、私が望まれたのも、何かの縁だと思うのです。それならばご縁を大事にしたい。悪魔公爵様は有名な方だけど、私は北部に名をとどろかせるような有名人ではありません。それなのに私を、と望んでくれたのです。その想いに応えたいと思います」
小さなリーゼ。私たちのリーゼ。お前は私たちの知らない間に、大きくなっていたんだね。
子爵は顔をくしゃくしゃにして愛娘を抱きしめたのだった。