3話 お願いと最初の目的地
料金の支払いを終え、財布である革袋を腰に戻した。
精算用の魔法具に乗車駅を示す切符を置き、表示される金額を支払うと切符に印が描かれる。その切符を使うことで改札を出られる、という仕組みになっているのだ。
「なあ、ロマーシカ・アイラトヴナ」
「……ねえルカー。言い忘れていたけど、わたし、もう一つお願いがあるの」
二人が改札を出て数歩、ルカーはふと少女に話しかける。彼がこうやって少女を呼ぶときは決まって何か質問があることを、彼女はここに来るまでに理解していたから、話しやすいようにと壁際に寄った。
しかし彼女が発した言葉は、続きを促すものではなかったけれど。
ここに来るまで呼びかければ必ず話を聞いていたロマーシカが珍しく自分の話を出したことに少しだけルカーは驚きながら、逆に面白いとも思って、一瞬の思考の後に少女に話させることにした。
「へえ、言ってみろよ」
そんな彼の相槌に少女は頷くと、顎に手を添えて考え込むように俯いた。数秒ほど開けて彼女は口を開く。息を吸う音に、どんなお願いが来るのか少しだけ身構えて――けれど、語られる内容にルカーはつい呆れてしまった。
「わたしを呼ぶときも、父称は……つけないでほしいの」
「なんだ、そんなことかよ。でも、どうしてだ?」
身構えて損をしてしまった、とルカーは思う。
ロマーシカのお願いは、数時間前に彼が頼んだのと同じものだった。けれど、たったそれだけのことを何故改まってお願いしたのか、彼は理解できないでいた。
ルカーの口調も丁寧とは言いがたいけれど、どうにも扱いの雑さとかしこまった呼び方が合わないため、という顔には見えなかったからだ。おそらく別の理由があるのだろうと彼は推測して、しかし、その理由というのがやはり浮かばない。
彼は気の長い方ではないし、頭がよく回るわけでもない。故にさっさと考えることを諦めて問いかけていた。
「嫌なの? 長いから、いちいち呼ぶのも大変だと思うけど」
「そういうわけじゃねぇよ。どうしてあの呼び方を嫌がるか気になっただけだ。ほら、さっさと教えねぇと変えてやらねぇぞ」
理由を早く話せと急かす彼に、少女は視線を逸らし、短く告げる。ぼそぼそとした小さな声ではあったものの、人間よりも耳の良い彼にはしっかりと聞こえていた。
険しい目、寄せた眉。嫌悪の浮かんだその表情で少女が告げる言葉。
「ちちさまには、良い思い出がないから……逃げた先でも、名を呼ばれるたびにちちさまを思い出すなんて、嫌」
その答えに、ほう、とルカーは声を漏らす。
そして、表情をほとんど動かさない彼女が唯一表情を変えるのは、彼女が逃げ出した家やそれに関わる人間の話のときだと、ここに来て理解した。
父に良い思い出がないという話、そして住んでいた屋敷が父親のものだという話を合わせて考えると、どうやら彼女は父親と何かがあって、それが嫌で逃げ出したらしい。そこまでを考えて、ルカーは溜息を吐く。
「まぁ、呼び方を変えるのは構わねぇよ。てめぇの言った通り、長ぇから呼ぶのもだりぃしな」
「そう。それならいいの」
ルカーの答えに満足して頷くロマーシカだったが、対する彼は、先ほどまで露わになっていた彼女の感情が引っ込んでしまったのに少し不満を覚えていた。
「それでよぉ、ここからどこに行くんだ。確か、飯を食うんだったよな」
凭れかかっていた壁から体を離して少女の前に立てば、彼女は自然とルカーを見上げる。
ルカーはこの地域のことなど知らないし、知っていたとしてもそれは百年前の景色だ。つまり、彼はどこに行くのか聞いたけれど、求めているのは説明なんかではなく、案内だ。
飯という言葉を聞いて、そういえば降りる理由にそんなことも言ったか――なんて思い出す。すると、先ほどまで意識もしなかった空腹の存在に気付いてしまった。沢山食べたいわけじゃないけれど、一度眠って目覚めたからか、小腹が空いてしまった。
仕方なく、ロマーシカは数秒の間を置いてルカーに返す。
「……ちょっとだけ、待っていて」
そう言って彼女も壁から離れると、ルカーの横を通り過ぎ、歩いて行った。
夜が明けたからだろう。まばらではあるものの、気付けば人影がいくつか駅内に見えるようになっていた。少女はそのうちの一人を適当に選び、恐る恐る声をかける。優しそうな顔立ちの、耳が可愛らしい鹿系亜人種の女だ。
そうして二人が暫く会話を交わすのをルカーは眺めていた。
「お待たせ」
「ああ。何を話してたんだ?」
やがて会話を終え、亜人種の女と別れた少女が戻って来ると、ルカーは問いかけた。
二人が知り合いという雰囲気ではなかった。そんな彼女らが何を話していたのか、気になりはしても聞き取れないでいた。
「この近くに、おいしいご飯のお店がないか聞いていたの。わたしも、この地域のことは知らないから」
食事をしたくても、どこにどのような店があるか知らなければ、食べることもできない。だからこの周辺に住んでいるのだろう彼女に尋ねたのだ。そう語られると彼は納得の色を見せた。
「んで、収穫はどうだったよ」
「それが……この時間は、どのお店も準備中らしくて。朝市の屋台に行けば料理も売っているかもしれない、とは言っていたけど」
次なる問いには、少女は何とも言いづらそうに告げた。
夜が明けてきたとはいえ、まだまだ暗い時間だ。食べられるとしたら、せいぜい朝市で出された屋台くらい。料理を出している屋台もいくつかはあったはずだと彼女は教えられた。それを伝えて溜息を吐くと、ルカーに背を向けた。
「とりあえず、この近くに市を開いてる広場があるらしいから……行こう」
店が開いていないなら仕方ない。屋台があるという場所に行ってみるべきだろう。
言うだけ言って歩き出す彼女を見て、ルカーは仕方ないとばかりに頷いた。置いて行かれると迷うことは目に見えているし、迷ったら最後、二度と会えないと理解していたから、すぐに彼女を追いかけた。
何より、彼もまた久しぶりの食事が楽しみなのだ。