3話 空腹のため寄り道
「じゃあ……地図、見せてもらえる?」
話が終わるのに伴い、ロマーシカも同じように彼から視線を外す。そうしてフィアールカに手を差し出した。要求するのは、先ほど話題に上がっていた地図だ。
「うん、分かったよ。ちょっと待ってね……」
差し出された手を見て、フィアールカはすぐさま二つ返事で頷くと、羽織ったコートの胸ポケットにそっと手を伸ばす。中に突っ込んで、軽くまさぐるように動かすと、やがて何かが取り出される。それは、折り畳まれた一枚の紙だった。
はい、なんて声と共にロマーシカの手に置かれたことから、それが地図なのだと彼女は理解した。けれど、胸中で首を傾げてもいた。
その地図はよく使われているものなのか、折り目がきっちりと付いて平たくなっており、色も少しばかり黄ばんでいる。フィアールカは地図を読めないと言っていたから、そんなに使うことがないのだろう――と思っていたロマーシカとしては、年季の入った見た目の地図は、非常に意外なものだった。
ただそれを口にすることはせず、手の平に鎮座する紙をそっともう片方の手で持って、机の上に広げてみる。思ったよりも大きなそれは確かに何の変哲もない地図だった。色褪せてこそいるけれど、まだはっきりと読むことができる。そういえば駅の壁にも似たような地形を示す地図が貼られていたかもしれない。
そんな地図の一点には赤色の円が描かれている。セピアがかった紙の上で、その赤はよく目立つ。囲まれているのは一つの四角形で、ロマーシカの知識が正しければ、それが建物を表しているはずだ。見れば、円の外にも角ばった図形が模様を描くように並んでいる。
「ここが、目的地なの?」
「……うん、多分。聞いた番地があっていれば、ね」
円の上に人差し指を置いてロマーシカは尋ねた。紫の瞳が揺れて、それからこくりと小さく頷く。その様子を見ると、聞いた番号などを頼りに地図の中から目的の住所を探すフィアールカが目に浮かぶようだ。
それに相槌を打ち、ロマーシカは改めて地図に視線を落とす。
店や公共施設には名前の他に、どういった施設なのかを示す記号が描かれている。逆に住宅の類には家名が記されるのみで、施設との区別がつけられているのが一般的な地図だ。彼女が見ているこの地図も、相違はない。
ついでに酒場もまた専用の記号があるため、ロマーシカが現在地を見つけるのも早かった。
やがて地図をそっと畳んで、彼女は顔を上げる。
「大体分かった。念のため、もう暫く借りるけど……とりあえず、いつでも行ける」
「え、もう? そんなすぐに分かっちゃうものなの?」
フィアールカが僅かな驚きを覚えて、目を瞬き問う。確かに、ロマーシカが地図を広げてから閉じるまでの時間はそんなに長いものではなかった。しかし、かといって短いわけでもない。フィアールカは地図を読めないから普通を知らない……というのを考慮するとしても、ロマーシカにとってはその問いが不思議だった。
「複雑に道が入り組んでるとか、そういうわけじゃないから……多分、普通だと思う」
他人とあまり関わりがなかったロマーシカには、本当に普通なのかは分かりかねたけれど、とにかく道が分かったのは事実だ。
ロマーシカの言葉を聞いて相槌を打つと、フィアールカはふと机の縁に両手を置いた。腕に力を入れて椅子をぐぐっと後ろに下げれば、そこから飛び降りニッと快活に笑う。それから流れるような動作で、まるで物語の騎士が姫にそうするように手を差し出した。
オレンジの両目が、ぱちぱちと二度、ゆっくり瞬かれる。
「道も分かったらしいし……早速だけど行こっか、ローニャ」
慣れ親しんだ人物に話しかけるようなラフな口調に、ロマーシカはハッとすると慌てて頷きその手を取って椅子を滑るように飛び降りた。
「ほら、行こっ」
「……ちょっと待って」
「へっ?」
ロマーシカが着地したのを確認した途端、フィアールカが出口へ先導するように一歩踏み出す。けれどそれは寸前でロマーシカに引き留められた。驚いたような声がフィアールカの口から漏れて、ついで何故だと言うように彼女は振り返る。
「ルカー、来ないの?」
「はぁ……そんなに急かさねぇでも、ちゃんと行くっての」
彼女の視界に映るのは、依然として不機嫌と気怠さを混ぜたような表情をしたまま立ち上がる様子のないルカーと、それに話しかけるロマーシカ。シトリンの瞳がじっとルカー見つめていれば、やがてグレーの髪を揺らして、彼はゆらりと立ち上がった。
気付けば、フィアールカはその光景を食い入るように見つめていた。
「……フィアールカ?」
「へあっ!? な、何、ローニャ」
やがてルカーと共に戻ってきたロマーシカが、立ち尽くすフィアールカに声をかける。すると、彼女は上擦った声をあげて体を跳ねさせた。まるでここではないどこかを見ていて、突然引き戻されたかのような反応をする彼女に、ロマーシカは首を傾ける。
「いや……ぼうっとしていたみたいだから。どうかしたの?」
「あ、えっと、その……あはは。何でもないよ。ただ、自然に接するんだなぁって思っただけだから……気にしないで。それより、今度こそ行こっ」
「え? どういう、あっ……」
何でもないと言うその表情はどこか隠しきれない焦りを滲ませていて、先ほどのような眩しさに欠ける。何より、続けられた『自然に接する』なんて言葉の意味がロマーシカには理解できなくて。
けれど問いが紡がれるよりも先に手を引かれてしまい、言葉になることはなかった。
力強い腕に引っ張られるまま、出入り口へと早足気味に向かう。そうしてドアベルの音色を背に酒場を出れば、数秒の後に再び小気味よい高音を鳴らして、ルカーもやって来る。
「えっと……それじゃあ、こっち」
全員が揃ったのを確認してから、ロマーシカは辺りをぐるりと見て、道の一つをそっと指差した。先ほど見た地図の記憶と実際の景色とを照らし合わせながら指し示したのは、目的地へ続く道だ。二人がその道へ視線を向けるのとほぼ同時に、自らが先導するようにロマーシカが歩き出す。
隣を横切って少女が目の前へ出てくると、先に歩き出したのはルカーだ。彼はすぐにロマーシカに追い付いて、その隣に並ぶ。
「あっ待ってローニャ! 置いて行かないで~っ」
ごく自然な光景にスミレの双眸が瞬かれる。それからハッと正気付いた様子で、慌てて声をあげ二人の背中を追った。数テンポほど遅れたところで、あまり距離は空いていない。小走りに駆け寄って、フィアールカもまたロマーシカの隣にぐいっと出て並んだ。
フィアールカよりちょっとだけ小さな少女と、大きなルカーの、真ん中に割って入るように。
「ローニャったら、先に行くなんて酷いよ~っ! 案内してくれるって話だったでしょ?」
「えっと……ごめんなさい」
間に入る彼女へ少し驚くロマーシカだが、何かを言うよりも先にフィアールカが口を開く。
上半身を前へ突き出すような体勢で少女の顔を覗き込みながら、紡ぐ言葉は相手の行いを咎めるようなもの。けれど決して怒りの表情は浮かんでいない。寧ろ、少しからかう程度の意図が強かったのだろう、頬は緩んでいる。語調だって強くなく、笑いすら含んでいた。
それを感じ取ってか、彼女の顔を見たロマーシカも、笑むことこそないが緊張に顔を強張らせることもなく、極めてリラックスした様子で謝った。謝るのにリラックスしているのは少し変かもしれないけれど。
「そういえば、フィアールカが探しているのって……どんな人物なの?」
歩きながら、不意にロマーシカが問いかける。
人を探しだすのが目的だと聞いていたけれど、どんな人物なのかは聞かされていない。そのことに気付いたら、少し興味が湧いたのだ。同じ年頃の少女と会話を交わすという、ロマーシカにとっては滅多に経験できない行為が楽しいものだと感じられたから――なんていうものも話題を振る理由に組み込まれていたが。
問われれば、フィアールカは人差し指を下唇に押し当て、スミレの瞳を空へ向ける。考え込むように小さく唸ると、やがてまた笑った。今度は、はにかむようなそれだ。
「とっても、可愛らしい女の子だよ。そう、ローニャみたいな柔らかい雰囲気の子でね。あまり話せてはいないけど、会う機会ができたからさ。もっと仲良くなりたいなって」
少し恥ずかしそうな表情の彼女から語られる言葉は、本当にその人物と会えるのが嬉しくて、仲良くなりたがっている人物のそれなのだろうと素直に思えた。けれど、ロマーシカはそれよりも気になることがあって、首を傾けた。
「……わたし、みたいな?」
「うん、ローニャみたいに、とぉ~っても可愛い子だよ」
ロマーシカのように。その言葉に続く形容詞が、言われた本人には聞き馴染みがないものだったから、困ったように何とも言えない声を漏らした。
「えっと……それは、どういう」
フィアールカの言葉はつまり、ロマーシカが柔らかい雰囲気を持つ、可愛らしい少女であると言っているのと同じだ。少なくともロマーシカはそう解釈した。言ってきたフィアールカは仮にも初対面だし、どんな人物かなんて問いに対して世辞を返すのも理解しがたい。
「あはは、そのままの意味だよ」
困惑する少女に対して、フィアールカは笑みを崩すことなく答えた。そのままの意味と言われても彼女の意図するところがロマーシカには理解できない。だから何を返すこともできず、僅かな間を開けて「そう」とだけ呟くと、再び前を見た。
この辺りは駅が近いからか、住宅よりは店の類が多く見受けられる。あまりお腹は空いていないし、もっと豪華な料理も見慣れてはいたけれど、看板に描かれた料理の絵には、ロマーシカも少しだけ食欲をそそられる。
ぐるり。獣が呻るような低い音がする。決してロマーシカのものではない。それはすぐ隣から聞こえたようで、ロマーシカは自然とフィアールカを一瞥した。
「あー……はは、その、ローニャ。お腹……空かない?」
視線を察したフィアールカもまたちらりとロマーシカを見ては、スミレ色を細める。恥ずかしそうに頬を指先で掻き、遠慮がちに問いかけた。
腹が空かないか。そう聞かれると、ロマーシカは歩む足をそのまま、俯いて考え込む。
彼女自身は、まだ腹が減ったわけでもない。それに相手も自身は空腹だと直接的に言ったわけではないのだけれど、わざわざそんな話題を持ち出すということは腹が減ったと言っているも同然だろう。ならばどうするかは決まっている。
ゆっくりと顔を上げ、再び正面に伸びる道を見る。そうしながら、彼女は静かにフィアールカへ問いかけた。
「フィアールカは、苦手なものってある?」
「うーん、特にそういうのは無いかな。よほどのことが無い限り、何でも食べるよ」
問いに対するフィアールカの返事は、どの店でどんな料理が提供されているかなど詳しく知らないロマーシカにとって、とても好都合なものだった。
「……分かった。それなら、この辺りの店に少し寄ろうと思うけど……構わない?」
ゆるりと首を動かし、周囲に立ち並ぶ様々な店舗を眺めながら問うロマーシカの頬へ、隣からの視線が集中する。
「いいの? 構わないどころか、寧ろ行きたい!」
フィアールカの目が、期待に満ちてきらきらと輝く。そんな反応をされてしまっては、断ることもできなくなってしまう――とロマーシカは思う。いや断るつもりなんて一切なかったのだけれど。
「いやぁ……はは、朝から何も食べてなくってさ。お腹、空いてたんだよね」
ロマーシカの隣にくっつくようにして、フィアールカは歩く。へにゃっとした締まりのないその笑みを横目に、ロマーシカは彼女のお喋りをただ聞いていた。
「でも、ロ――……」
フィアールカが再び口を開いたのが見えた。
けれどその声がロマーシカの耳に届くことはない。
すぐ近く、道の真ん中を獣車が横切ったからだ。どたどたとした騒がしい物音に、フィアールカのよく通る声すら全てかき消された。
その言葉を紡ぐときだけ、先ほどの明るいものではなく淡い微笑みになっていたのが……スミレの瞳に僅かな憂いが浮かんでいたのが、ロマーシカは凄く気になってしまったのに。
「あ……ごめんなさい、もう一回言ってくれる?」
「ううん、気にしないで。ローニャはお腹が空いてないの? ってだけだから」
何と言ったのか。そんな表情を浮かべる理由は、聞き取れなかった言葉の中にあるのだろうか。そんな思いのもと、申し訳なさそうな表情を浮かべてロマーシカが尋ねると、フィアールカはひらひらと片手を振って笑う。
その表情はとっくに今まで通りの明るいものに変わってしまっていて、言葉だって特に不自然なものはない。あんな表情をした理由など何一つ見えなくて、ロマーシカは困惑してしまう。
「ほら、旅をしてるんでしょ? アタシが言えたことじゃないけど、食事は大事だからね」
僅かに小首を傾けるロマーシカを見て、フィアールカは補足するようにしてそう問う。彼女の表情がほとんど変わらないから、問う理由を疑問に思ったのだと、勘違いしてしまったのだ。
「ちゃんと食べないと体も壊しちゃうしさ。ね、きちんと食べさせてもらってる?」
「今日の朝なら、お腹いっぱい……わたしは、だけど」
乗り出すようにロマーシカの方へ身を寄せるフィアールカ。そんな彼女が出した問いに、ロマーシカはゆっくりと静かに答えた。どうして知り合ったばかりの自分をそんなに気にかけてくるのか、よく分からない……そう思いながら。
「え、そうなの? そっかそっかぁ、それなら良いんだけどさ」
きょとん、と目を瞬くフィアールカに、ロマーシカは小さな疑問を覚える。
答えがどちらであるかなんて知るはずもないフィアールカが、とても意外そうな顔をしていたからだ。
けれどそれを口に出すことはなく、ロマーシカは短く「そう」とだけ返す。そうして周囲に再び視線を向け、一つの建物を視界に見とめると、歩むペースを落として指差した。
「とりあえず……ここで良い?」
「ローニャが選ぶならどこでも良いよ」
その建物は、何の変哲もない飲食店の一つだ。多めに設けられた窓のガラス越しに店内の様子が窺える。どうしてそれを選んだのかと言えば特に理由はない。なんとなく目に付いたのと、あまり混んでいなかったからだ。
フィアールカは、少女の指差す方向を見ると快活に笑って色好い返事をしてみせた。彼女を挟んだ隣では、ルカーがひどく興味なさげな表情で欠伸を漏らしている。
双方に異議がないのであれば、ここで決定だ。
「……じゃあ、ここにしよう」