2話 頼まれる
「……あは、お兄さん、まるで大事な子を取られて焦ってるみたいだよ。安心して、アタシが今動いてないのは、ちゃんと理由があるからさ」
やがて口を開いたのは、フィアールカの方だった。テーブルへ体を預けるように頬杖をつくと、大きなつり目でじっとルカーを見据える。そうして紡がれる言葉はからかうようなもので、それを聞いたルカーの眉間には、ぐぐっと深い皺が刻まれていった。
隣に座る彼女の横顔と、更に不快さを見せる彼とを交互に見て、ロマーシカは首を傾ける。
「誰が大事なんだっての。んで、行かねぇ理由は何だ」
からかわれたことが嫌だったのか、彼の低い声には荒々しさが加わる。それと同時に、シトリンの瞳の少女はフィアールカの言葉をとても不思議なものに感じていた。
彼は別に、ロマーシカを大切に思っているわけではない。思うはずがないし、寧ろ彼には他人へそういった感情を向けるにあたって必要なパーツが欠落しているのでは、とすらロマーシカ自身は思っているからだ。後者に関しては分からないけれど、前者はまず間違いないと確信している。
それに加えて、嫌ではないのだけれど、自分が誰かの『大事な人』になるということが、彼女には想像できなかった。
だから、冗談でも『大事な子』なんて言われたのが、不思議だったのだ。
ロマーシカの思考など知る由もなく、二人は会話を続ける。ルカーの問いに、困ったように頬を指先で撫で、フィアールカは語る。
「……場所は知ってる。知ってるだけで、行き方が分かるわけじゃないんだ」
彼女が言いたいことを理解しかねて、ロマーシカは困惑気味の表情で「えっと」なんて漏らした。どういう意味だ、と尋ねれば、スミレの両目が伏せられる。
「実を言うと、ここら辺には来たことがなくってさ、目的の場所がどこにあるのか分からないんだよね。とりあえず適当に歩いていれば着くと思って、歩いてたんだけどさ……」
頬杖をついたままに、どこか落胆したような表情を浮かべて溜息を吐く。深く長い息を出し切ってから、再び口を開き、彼女は続けた。
曰く、途中でここを見つけて、人が多い酒場なら情報収集ができる――なんて、少女と同じことを考え、入ってみたまでは良かった。そこで話しかけやすそうな同年代の少女、つまりロマーシカを見つけたのも良い。それでやっと道を聞けると思ったのだ。
しかし、ロマーシカ達もまた旅をしていて、ここには立ち寄ってみただけだと言う。ならばここら辺の地理に詳しいはずもなく、目的のことも聞けないことが判明した。だからどうしたものかと悩んでいたのだ、と。
「……力になれなくてごめんなさい」
そんな話を聞いてしまうと、ロマーシカの口からは自然に言葉が漏れていた。顔を僅かばかり俯ければ、まっすぐ切り揃えた前髪に隠れ、オレンジの瞳に影が落ちる。
「え? あ、いや、そんなつもりじゃなかったんだ、ごめんっ」
小さく呟くような少女の声を拾って、隣のフィアールカは慌てて手を振った。けれど焦りを滲ませたその声に、ロマーシカの方はますます申し訳なさを抱いてしまったが。
「そう……それなら、いいの」
「でもよぉ、道が分かんねぇくせに、よく一人で行こうと思えたな」
これ以上困らせるわけにもいかないからと、納得した様子を装ってロマーシカが頷くのに被せて、ルカーが呟く。独り言にしては大きな声で、けれどフィアールカを視線に入れることはなく紡ぐ。
「最初は行けると思ったんだよ。実際、ここまでは来れたんだから良いじゃんか」
「ハッ、結局迷ってんなら一緒だろ。無謀なてめぇもだが、止めなかったてめぇの親も、大概酷いよな」
ルカーの声を拾ってフィアールカが抗議する。そんな彼女を見て、ルカーは吐き捨てるように笑いを漏らした。続いて馬鹿にするように、こめかみを指先で叩く形で頭を指し告げる。
その姿と言葉が、フィアールカの何かに引っかかったのだろう。途端、彼女が目を見開いた。
「……お、親は関係ないでしょ。特にアンタみたいな奴には言われたくないよっ」
荒くなる声と、つり上がる眉。先ほどまでロマーシカに見せていた笑顔とは正反対の態度に、ロマーシカは慌ててルカーにストップをかける。
「……ルカー、言い過ぎ。それ以上は駄目」
「チッ、んだよ。短気だな」
玩具を取られた子供のような拗ねた表情をする彼に、ロマーシカは呆れたように溜息を吐き出した。それから一応はルカーが止まったのを確認して、彼女はフィアールカの様子を窺う。
「あの……ごめんなさい、フィアールカ。嫌な気持ちにさせてしまって」
どうしてそこまで親というものに反応するのかは分からないし、ロマーシカがそうさせたわけではないけれど、一緒に居る人物が不快な気分を抱かせたのは事実だ。だから恐る恐る彼女は謝ってみる。
すると、ハッと肩を揺らしてフィアールカがロマーシカを見た。
「あ、はは。大丈夫だよ。気にしないで。父さんを悪く言われたのは、少し嫌だったけど」
ロマーシカは悪くないだろう、と首を傾けるフィアールカの笑みは、やはり感情を押し隠すような無理に作られたもので、申し訳ないという気持ちがロマーシカの中で膨らんでいく。
ルカーを見る。オレンジの瞳に映る彼の黒目は、相手のことは覗き込むくせに、自身の考えを見せないような、静かな闇を湛えていた。
黙っている彼に何を言うでもなく、ロマーシカは視線を逸らすと再びフィアールカに視線を戻す。それから話を切り替えようと俯いて少しだけ考え込んでみれば、話題は存外早く思い付いて、すぐに顔を上げた。
「そういえば、フィアールカ」
「どうしたの、ローニャ?」
突然名を呼ばれれば、フィアールカは大きな目をぱちぱちと瞬いて用件を尋ねる。それにロマーシカは一度ゆったりとした所作で頷くと、一つの問いをかけた。
「地図は、持ってきていないの? もし持っているなら……代わりに読むことはできるかも」
先ほどのフィアールカの台詞には『地図を読むのが苦手だ』という言葉があった。その言葉にロマーシカは、フィアールカには使えなかったとしても地図自体は持っているのでは、という可能性を見出していたのだ。
問われたフィアールカは、暫しぽかんと呆けたような表情をしていた。先ほど与えられた不快な感情がモヤみたいになって、理解させるのを少し遅らせたのかもしれない。けれど、やがて目を真ん丸く見開いて、わなわなと震えだし、そしてバッと音が付きそうな勢いで、フィアールカは身を乗り出した。
「本当に!? ローニャ、地図を読めるの?」
紡ぐ声は心なしか音量が大きくなっていて、しかも少し上擦っていた。言葉だって捲し立てるような早口で並べられている。そんなフィアールカの勢いに、ロマーシカは体が引けそうになってしまうのをぐっと堪え、ただ小さく頷くことで肯定してみせた。
見開かれたフィアールカの目に輝きが宿る。驚きと憧れ、歓喜が混ざって生まれた輝きだ。そこには怒りも悔しさも浮かんではいない。
「良かったぁ~っ! 地図は持って来てたんだ! ね、良かったら案内してくれない?」
喜びのままに声をあげてフィアールカが掴んだのは、ロマーシカの両手だった。彼女が機嫌を直したのは良いけれど、突然のお願いにロマーシカはやはり困惑してしまう。やんわり手を離そうと思ってみても、ロマーシカのそれより僅かに大きなフィアールカの手が、がっちりと捕らえて放さない。
見た目からは想像できない力強さと、硬くなった皮膚の感触。鮮やかな紫の目には、信頼を孕ませて。
「ほら、知らない人に話しかけるのって、勇気がいるでしょ? だから……無理にとは言わないけど、お願いっ」
懇願する少女に、ロマーシカはどうしたものかと思考する。彼女だって地理が分かるわけではないから、案内と呼べるほどのことはできない。ただ少しばかり地図が読めるから、こう進むのだと教えられるかもしれないと思っただけだ。
そう、あくまでロマーシカは教えるだけのつもりだった。しかし、どうやらフィアールカは一緒に来て案内してもらいたいようだ。
「……オイ。何悩んでるんだよ。てめぇは、ここでやることがあったんじゃねえのか」
手を握られたまま思考していたロマーシカが、割って入った男の声にハッとして肩を揺らす。やはりルカーの声だ。先ほどから否定するような言葉しか口にしない彼に、ロマーシカの胸中で一つの感情が生まれる。
色んな感情が合わさったようなそれは言語化するのが難しいけれど、あまり良いものではないのは確実だ。例えるなら、劣化した木の家具から飛び出た小さなトゲのような、チクチクしたものだ。
けれど反論しようとルカーを見てみれば、眉間に皺を寄せた彼の黒目が睨んできているのが見え、彼女は逃げるように視線を逸らした。
「それも、そう……ね」
けれど尚、どこまでも暗い色の瞳はロマーシカに視線を送り続ける。
確かに、ロマーシカは知りたいことがあると言っていた。その知りたいことが何なのかこそルカーには語っていないけれど、用事についてを自身が言い出したことくらいは彼女自身も覚えている。だから、肯定はした。
「ローニャ……もしかして忙しいの? アタシ、無理なこと言っちゃったかな」
二人のやり取りを見て聞いて、フィアールカが困ったような、そして申し訳なさそうな声音と顔で、少女に問いかけた。
それに対して返答をするまでに、僅かな間が開く。
やがてロマーシカがゆっくりと頷きかけて――。
「あぁ、クソ。んだよ、言いてぇことがあるなら、はっきりしろっての。さっきもそう言っただろうが」
ルカーがあげた声に反応して、ロマーシカは止まる。
少女二人が揃ってそちらを見れば、ガシガシと乱暴に頭を掻きながら、やはり目つきの悪い双眸でロマーシカを睨み付ける彼が居た。
わけが分からないと言うように、ロマーシカは首を傾けた。
先ほどまではフィアールカのお願いを引き受けようか悩んでいたことに怒っていたのに、今度は頷こうとしても怒るなんて――そんな疑問で、ロマーシカの胸中は埋め尽くされていた。
「不思議そうな顔してんじゃねぇよ。あからさまに不満抱いてただろうが」
そんな少女にますます腹が立った様子で、ルカーが続ける。その言葉で、何となくロマーシカは、ルカーの言いたいことを理解した。どうしてそんなことを言うのかも、考えるのかも分からないけれど――さっき彼自身が告げたように、言いたいこと、したいことがあるなら言ってほしいようだ。
気遣っているとか、ましてや願いを叶えてやりたいとかそういった感じはないし、どういった理由で言うことを要求しているのかも彼女には理解できなかったけれど、言えと要求されたのは変わりようのない事実だ。
「そう……分かった」
短い相槌と共に頷く。そうしてロマーシカは、フィアールカに顔を向ける。状況について行けていないのか、スミレ色の瞳が揺れているのが見えた。それを真っ直ぐに見つめて、ロマーシカは小さく息を吸い、静かに語る。
「さっきの質問に対する答えなら……別に、忙しいってほどじゃない。用事も、いつでもできることだから。その……心配はしなくて良い」
そしてロマーシカが出した答えは、そんな言葉だった。
つまり、フィアールカのお願いを優先できるということだ。
無表情の彼女が紡いだ言葉を聞くと、フィアールカは間抜けた声を漏らす。けれど、すぐに言葉の意味を理解して喜色を浮かべた。一方でルカーは、その答えが出ることは予想していたけれど、やはり面白くなさそうな表情になったのだが。眉間は僅かに寄せられ、視線は苛立ちの原因を見ないようにと逸らされている。
そんなルカーをフィアールカは気にした様子もなく、隣に座る少女へ微笑んでみせていた。
「それじゃあ、案内……お願いしちゃおうかな」
「分かった……と言っても、きちんと案内できるかは分からないけど」
改めて案内を要求されれば、ロマーシカは小さく頷いた。一応、保険をかけておくのも忘れずに。そうやって答えると、彼女は目だけを動かして、再びルカーを見た。
「あの……ルカー。予定が色々変わって、その……ごめんなさい」
元々、ロマーシカが自分の意思で始めた旅だから、好きにすれば良いはずなのだけれど、今は同行者が居るのだ。しかもその同行者は、お願いを聞いてあの場所から逃がしてくれた人物である。
先ほどルカーに言った『ここに来る理由』を果たせぬまま予定を変えてしまったのも、それによって彼が不快を覚えているのも事実だから、彼女は素直に謝罪した。けれど、俯く彼女を見遣ったルカーは、寧ろ口元を歪ませて更に苛立ったような顔をした。それは一瞬だけのことで、すぐに表情は戻ったけれど。
「好きにしろ。こんな見ず知らずのガキを優先できる余裕があるって言うんだったら俺は何も言わねぇよ。暇だから付き合いもしてやる」
皮肉るようなルカーの言い方に、ロマーシカはただ「そう」と返すのみだ。
そうして顔を上げた彼女だが、ルカーの冷たい態度に対しても、その顔に怒りや悲しみなどといった感情を覗かせることはやはりない。もしかしたら俯いていたときは違ったのかもしれないけれど、今は仮面のような無表情を湛えている。
彼女の顔を見たルカーは、つまらないと言わんばかりにふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。