婚活のススメ
幸せでほのぼのした恋愛(未満?)が書きたくて生まれました。
婚活の様子は、実際にあるものを参考にしてはいますが、妄想力で補っている部分が多いので、ご了承ください。
また、けがの治療について書かれていますが、あくまで作者流の治し方なので、絶対に参考にしないでください。
「ちょっと聞いてくださいよ前田さん!この間出会った人!最悪だったんですよぅ!!」
荷物を置いて早々、素面でくだを巻き始めた吉野麻里子に、前田と呼ばれた男が少し笑う。
せっかく少しでもかわいらしく見せようと、普段は穿かないスカートを穿き、ハーフアップにまとめた黒髪も、いきなりの『最悪』発言では意味をなさないかもしれない。
もっとも、今は前田しかいないので、まったく構わないのだが。
「最悪、ですか。どうしたんですか?この間、無事連絡先を交換されていたようですけれど」
「それが・・・初デートで、いっぱい仕事の愚痴聞いてくれて、いい人だなって思ってたら、最後に、怪しげなネックレスを高額で売りつけられそうになりました」
その言葉に、前田は絶句したようだった。
「・・・それは、なんというか、すみません・・・」
「何で前田さんが謝るんですか」
「いえ、一応出会いの場を提供したのは私どもですし・・・」
「仕方ないですよ。だって、参加者の身元調査とかできないでしょう。大丈夫です。私だっていい大人なんですから、ある程度のトラブルは自分で防ぎます」
そう言って、28歳の『いい大人』は出してもらったウーロン茶を一口飲む。
前田は、苦笑しているようだ。
そう、ここは『婚活料理教室』。
結婚相手を探すために、男女が出会いを求めて参加する料理教室なのだ。
婚活にもいろいろな形があるが、ここでは男女4人ずつがペアを作って料理を作る。
みんなで食べながら話をし、デザートタイムには1対1で話す時間が与えられる。
全員と順番に話すことができるのだ。
麻里子がこの婚活を選んだのには理由がある。
1つは、大人数のパーティーでは人に会うだけで疲れ切ってしまいそうだから。
もう1つは、料理教室なら、出会いが無くても料理のレシピをもらえるし、自分の糧になると思ったから。
そんな下心が災いしたのか、最初の2回は、誰とも連絡先を交換するまでに至らなかった。
三度目の正直、と思って参加した前回、ちょっといいなと思う人と連絡先を交換し、無事初デートにこぎつけたのだ。
結果は、散々だったのだが。
「まあ、吉野さんに参加していただけると、私としてはとても助かるんですけどねー」
そうまったり話すのは、婚活スタッフの前田だ。
二度見するほどのイケメン、ではないが、少しだけ明るい髪色と、人懐っこそうな笑顔が、どこか犬を思い出す。
小さい頃、こういうお兄ちゃんが近所にいたら、なついちゃうだろうなーと言う感じの男性だ。
身長も高すぎず低すぎず(156cmの麻里子から推察するに、170cmくらいか)、親しみやすさから、麻里子は1回目にこの料理教室に参加した時から勝手に『いい人』認定している。
仕事だから当たり前なのかもしれないが、緊張している参加者をリラックスさせながら、全体を見て料理がきちんとできあがるように配慮している。
そういうところは、結構できる男と言う感じがする。
しかし残念ながら、結婚している。
1回目の参加時。
遅刻をしてはいけないと、麻里子が勇みこんでいたら、集合時間の20分前についてしまった。
料理教室を行うのは、普通のマンションの1室だ。
仕方なく、インターホンを鳴らし、「早く着き過ぎてしまいました。ご都合が悪ければ、どこかで時間をつぶしてきます」と麻里子が言うと、「構いませんよ、どうぞ」と言ってドアを開けてくれた。
その時に見たのだ。
前田の左手薬指に光る銀色を。
男性に会うとつい左手を見てしまうのは、婚活病だろうか。
そのすぐ後に見たときには、銀色はなかった。
おそらく、料理をするので外したのだろう。
初参加でがちがちになっていた麻里子の緊張を、ふんわりとした笑顔でほぐしてくれた前田は、優しいと思う。
それ以来、麻里子の中で前田は、『安心して愚痴を言える人』になっている。
「前田さん、私に頼るの、やめてくださいよ」
「だって、吉野さんがいると、話が盛り上がるんですよ。私の仕事の負担が減って、ありがたいです」
「だからって、来た時の『毎度ご利用ありがとうございます』と、帰る時の『次回もお待ちしております』って言うのやめてもらえません?出会い無いの前提みたいに聞こえて、ムカッとします」
「はは、すみません。吉野さんには、常にいていただきたいくらいなので」
「・・・どうして誰も信じてくれないんですかね。私、人見知りですっごく緊張してるだけなのに」
「そりゃあ、あんなに場を盛り上げてたら、人見知りしてるようには見えませんよ」
麻里子は人見知りだ。
知らない人と話すとものすごく緊張して、心臓が胸を突き破って出てくるんじゃないかと思うし、人前で話すのも苦手なのだ。
なのだが、そういうときほど、麻里子はよく喋る。
喋って喋って喋りまくって、何とか緊張状態から逃れようとする、らしい。
自己防衛本能でそうなるのだが、それ故に、『誰とでも気さくに話せる人』というレッテルが張られている。
とんでもない、本当の自分は真逆の位置にいるのに。
しかし、友人は誰も信じてくれない。
前田に頼りにされると悪い気はしないが、それではずっと出会いがないままだ。
どうやら、ここに来る男性陣は、『しょっぱなから喋りまくる場の盛り上げ役の女』より、『最初は少し緊張して静かにしているけど、話しているうちに笑顔がちらりと見える女』が好きらしい。
麻里子だって、男だったら後者を選ぶ。
麻里子は行儀悪くも机に突っ伏す。
今日が4回目の参加日。
今日も今日とて、遅刻が怖くて、誰よりも早くに着いたのだ。
そして、前田に前回の愚痴を洗いざらい吐いたところである。
「やっぱり向かないのかな、この婚活・・・」
「そんなことないですよ!吉野さんが来た日は盛り上がるし!」
「それ、スタッフ扱いじゃないですか・・・。もう4回目だし。他の方法も試した方がいいのかなぁ・・・」
顔を上げ、今日作る料理のレシピを眺めながらため息混じりに呟く。
そろそろ、他の参加者も来る頃だ。
机に突っ伏している場合ではない。
「吉野さんは、どんな男性がタイプですか?」
唐突に前田に聞かれ、麻里子はしばし考える。
「タイプ、ですか・・・。顔はそんなにこだわらないです。生理的に受け入れられない人じゃなきゃ。性格は、優しい人がいいですね。話を聞いてくれる人とか。あ、あと、一緒にボケに乗ってくれたり、ツッコミしてくれたり!笑いのツボが同じ人がいいな。テレビCMのネタとか会話にぶっこんでも、速攻で対応してくれると嬉しいです」
「・・・吉野さん、関西のご出身でしたっけ?」
「やだなあ前田さん。別に関西人だけがボケとツッコミを求めているわけじゃないですよ。私は関東出身です。ちなみに父も母も」
「はあ、そうですか」
「うち、5人家族で。家族仲もいいんですよ。だから、5人で食卓を囲んでると、会話がとっちらかって大変なことになるんです。父と妹が話して、同時に母と弟が話して、でも急に他の会話の方にも入って、父のオヤジギャグには全員でツッコんで、とか。そういう、にぎやかな家で育ったので、同じとまではいかなくても、会話が楽しい人がいいです」
「吉野さん、私みたいなタイプは?」
「・・・へ?類友でも紹介してくださるんですか?」
きょとんとした目で前田を見ると、真剣な目で見返された。
「そうじゃなくて。俺はタイプじゃないですか?」
「・・・・・・それって」
ぴんぽーん。
急になった呼び鈴に、体がびくっと反応する。
前田は1つ息を吐くと、玄関に向かった。
麻里子はじわじわと顔に熱が集まるのを感じた。
今のって、今のって、告白!?
というか、不倫のお誘い!?
普段なら、不倫は絶対にお断り、これ以上考える余地はないと判断するところだが、勝手に懐いている前田から言われた言葉は、麻里子の頭の中をぐるぐると回り、離れてくれなかった。
ふと気付くと、いつの間にか参加者が集まっていて、料理教室がスタートしていた。
今日は洋食らしい。
キノコがたっぷりのハヤシライスに、オニオンスープ、グリーンサラダにストロベリーマフィンだ。
麻里子がぼうっとしている間に、自己紹介とペア決めが終わっていた。
今日の麻里子のペアは高橋という男性だ。
年齢は麻里子の1つ上。
クラスに1人はいそうな平凡な顔つきだが、とっつきやすくていいかもしれない。
それに、顔のことなら、麻里子も同じくらい平凡だ。
麻里子と高橋は、ハヤシライスを作ることになった。
前田からざっと作り方を説明され、エプロンをつけて手洗いをする。
まずは玉ねぎの細切りだ。
麻里子は1人暮らしをしているので、料理ができないわけではないが、自分1人しか食べる人がいないために適当な料理しか作らない。
高橋は、料理経験がほとんどないということで、麻里子が先に玉ねぎを切ることになった。
皮をむいたタマネギを、半分に切ってから切り口を下にして安定させる。
あとはひたすら薄く切る。
単純な作業だ。
しかし単純であるが故に、頭の中では別のことが展開する。
例えば、先ほど言われた謎の言葉とか。
『俺はタイプじゃないですか?』
どういう意味で言ったのだろう。
まさか本当に、私のことを好意的に思って?
それはちょっと、嬉しいかもしれない。
でも不倫は嫌!それは絶対!
そんなことを悶々と考えていたら、手元がおろそかになっていたらしい。
「いたっ」
「大丈夫ですか?吉野さん」
「どうしました?」
隣で作っていた高橋が慌てたように声を上げる。
異変を感じ、すぐに前田が駆けつけた。
「あ、吉野さんが、切ってしまったようで・・・」
「あの、大したことじゃないです。すみません」
包丁が滑り、玉ねぎを押さえていた左手をうっすら切ってしまったらしい。
切った指先を反射的に口に入れる。
玉ねぎの匂いがする。麻里子は、生タマネギがあまり得意ではない。
この際、そんなことは言っていられないが。
「とにかく、傷を見せてください。消毒しましょう。高橋さん、すみませんが、作れそうなところまで進めていただいてもいいですか?」
「分かりました」
高橋が頷いたのを見て、前田は麻里子を連れて洗面台に案内した。
「とりあえず、洗いましょう」
「はい」
流水を指に当てると、少し痛みを感じる。
清潔なタオルを借りて拭き、別室に連れていかれる。
普段は開いていない部屋だ。おそらく、スタッフ専用なのだろう。
土鍋やホットプレートなどのいろいろな調理器具や本が散乱した部屋で、椅子に座らされる。
「汚くてすみません。参加者の方が来ることを想定していないもので」
「いえ、こちらこそ、お手数をおかけして・・・」
すみません、と言う言葉は続かなかった。
前田が、急に麻里子の怪我した指先を持ち上げ、顔の目の前まで持って行ったからだ。
---指、舐められる!?
反射的に目をぎゅっとつぶるが、何も起こらないため、麻里子はそっと目を開けた。
そこには、麻里子の傷を検分している前田の真剣な表情があった。
自分の予測とはずれ、ほっとする半面、残念な気持ちがちょっぴり顔を出す。
---やだ、私、今何考えた?
自分の勘違いと、それを残念に思う気持ちに顔が赤くなる。
ドラマではあるまいし、他人の傷口を舐めるなんて、普通しないはずなのに。
冷静になろうとすればするほど、赤みが増しているような気がする。
「吉野さん?」
「ふぇっ、は、はい!」
「大丈夫ですか?顔、真っ赤ですけど」
「へい、大丈夫です!」
「へいって・・・」
くくくっと、前田が笑う。
笑われてしまったのに、その素の笑い声が引き出せたことに、喜びを感じてしまう。
前田はひとしきり笑ってから、薬箱を出してきた。
「傷。消毒しておくので、傷口がくっつくように、ぎゅっと持っていてください。少しは治りが早くなると思います」
「はい。でも、そしたら料理の続きが・・・」
「どちらにしても、傷口がある手では衛生的に問題ですから、材料を触る工程は無しで。混ぜるとか、よそうとか、そういうのは手伝ってもらいますから」
「・・・はい・・・」
話しながらも、前田はてきぱきと傷口を消毒し、ばんそうこうを貼ってくれる。
料理教室に来て、開始5分で戦力外通告なんて。
他の参加者にも申し訳ないし、何より前田の迷惑になるのがつらかった。
薬箱を片付けながら、うなだれている麻里子を前田がちらりと見る。
「吉野さん」
「はい・・・」
「もしかして」
いったん区切られた言葉に、何だろうと顔を上げると、目の前に前田の顔があった。
予想外の近さに、つい後ずさる。
前田のこげ茶の目の中に、自分が見える。
「ぼうっとしてたのって、俺のせいですか?」
「へ、い、いや、えっと、その・・・」
ぼうっとしていたのは、気付かれていたらしい。
顔が赤くなるのを感じながら、手をあわあわと動かす麻里子の頭に、前田の手が乗る。
「皆さんのところに戻りましょう」
「は、はい」
「このままじゃ、危ないんで」
「はい?何がですか?」
「いえ、こちらのことです」
謎の言葉と共にキッチンに戻る前田を、麻里子は追いかけていった。
結論から言うと、この日、麻里子は絶不調だった。
料理にはきちんと参加できないし、前田の言葉が気になって参加者との会話はおざなりになるしで、あっという間に終了時間になってしまった。
これならいっそ、いつものように場を盛り上げていた方が、まだ役に立ったかもしれない。
沈む気持ちで荷物を片付け、玄関に向かおうとすると、前田に呼び止められた。
「吉野さん。怪我の報告書を会社に出さなければならないので、少しお時間いただけますか?」
「あ、はい」
他の参加者は帰り、2人だけになる。
先程までたくさんいたため、2人になった部屋は余計に静かに感じる。
「あの、前田さん」
「はい?」
小さなテーブルを挟み、麻里子の90度横に座った前田に声をかける。
「この怪我のせいで、前田さんの査定が下がるとかは・・・」
おずおずと切り出した麻里子の顔を見て、前田は少し口元を緩めた。
「ないですよ多分。私の準備不足や不注意で怪我をさせたならともかく、今回はそうではなかったようですから」
「はい!全部私のせいですから!もし会社の方に信じていただけなければ、私、出向いて説明します!」
勢い込んでいった麻里子に、前田はにっこり笑った。
「俺のために、そこまでしてくれるんですか?」
「え、あ、あの、だって、前田さんは、悪くないですからして・・・」
にこにことした笑顔なのに、なぜか首の後ろがぞわっとし、麻里子は視線を逸らした。
見続けていると、絡めとられそうな気がする。
何にかは、分からないが。
「ねえ、吉野さん」
「ひゃいっ!」
テーブルの上に出していた手が急に重ねられ、変な返事をしてしまう。
前田は麻里子の奇声には慣れたのか、特に言及せずに顔を覗き込むようにしてくる。
「始まる前に言ったこと、考えてくれました?」
「は、始まる前って・・・」
「俺のこと、どう思います?」
じっと目を見つめられ、さらに手にはぎゅっと力を込められ、麻里子の頭はオーバーヒート寸前だった。
前田のことは、嫌いではない。
おそらく、好きな方だと思う。
でも、でも、だって・・・。
左手。薬指。銀色の一筋。
「前田さん!不倫はだめです!」
ガタンとイスを倒しながら叫んだ麻里子に、前田は驚いた顔で固まっていた。
そんな前田には構わず、麻里子はひたすら喋りつづける。
「どんな理由で結婚したにしろ、一度結婚したからには一生愛し抜かなければいけません!もしどうしても愛せなくなったのならば、きちんと話し合って、離婚という手続きをするべきだと思います。浮気とか不倫とかは、絶対だめです!誰も幸せになりません!」
「あの、吉野さん?」
「いくらうまく隠したって、絶対にぼろが出ます。大体、女の方が勘が鋭いんですから、絶対にばれますよ!そしたら修羅場です、泥沼です!下手したら刺されます!もう、どうしようもない状態になりますよ!だから、浮気や不倫は絶対にやめてください!」
「吉野さん!」
延々自論を展開する麻里子の両肩を、前田が両手でつかんだ。
グイ、と体の向きが返られ、前田と目が合う。
「誰が、既婚者だって?」
「・・・え?前田さん、が」
「俺!?・・・いったい、どうしてそんなことに・・・」
麻里子の両肩を持ったまま、前田はがっくりとうなだれる。
麻里子にも訳が分からない。
「だって、前田さん、左手の薬指に銀色の指輪してたじゃないですか。あれってエンゲージリングですよね?私が初めて来たとき、つけてましたよ」
「は?指輪?俺?」
素が出てきたのか、話し方がざっくりしてきている。
いつの間にか、一人称が『俺』だ。
前田はようやく麻里子の肩から手をどけ、腕を組んで考えている。
「指輪・・・指輪?吉野さんが初めて来たとき・・・銀?・・・あ」
思い当たることがあったらしい。
前田は微妙な顔で、こちらを見ている。
「あー、吉野さん。それは誤解です。俺は結婚してません」
「だって、指輪・・・」
「指輪じゃありません。・・・あー、何であんなことしたかなー俺・・・」
独り言のように呟いてから、前田が倒れたイスを直し、座るように勧めてくれた。
「何て言うかな。あの日、料理の準備が早く終わって、暇だったんです」
「はい」
「それで、これで遊んでたんです」
『これ』と言って取り出したのは、7cmほどの赤いタイ。
ビニール製で、中心に細い針金が入っていて、好きな形に曲げられる。
よく、パン屋などで買ったパンを包むときに止めてくれるものだ。
「これで、遊んでたって・・・?」
「こう、指に巻き付けて、わっかを作って、あちこちの指に差してみたり・・・とか。まだ集合時間まで十分時間があったから、ボケーっとそんなことをしていたわけです」
「はあ・・・」
「で、思ったより早い時間に吉野さんが来て、慌てて玄関を開けて、その時にうっかり外し忘れまして・・・。あの日のこれは、銀色だったから・・・」
ようやく話が読めてきた。
つまりはただの麻里子の勘違いだったらしい。
「そ、それは・・・その・・・変な勘違いをして申し訳ないです・・・」
「いえ、こちらこそ、誤解を招くようなことをしてしまい・・・」
2人で恐縮しきっていると、笑いがこみあげてきた。
どうやらそれは前田も同じだったらしく、どちらからともなく、噴き出して笑い始めてしまった。
「なんなんですか、その遊び!時間つぶしにしても、もう少しマシなのがあるでしょ!」
「いやー、目の前にあったからつい!でもこれでようやく分かりましたよ。吉野さんは俺を既婚者だと思ってたんですね。どおりで、あからさまにアプローチしても、スルーなわけだ」
「え?してました?アプローチ」
「・・・・・・違うか。マジで気付かれてなかっただけだわ」
大笑いして緊張した空気がすっかり緩んだところで、前田がコホンと1つ咳をした。
「吉野さんには直球じゃないと伝わらないようなので、改めまして。・・・俺と、結婚を前提に付き合ってください」
その真剣な顔と声に、麻里子の心が揺れる。
答えは決まっている。
麻里子はにっこりと笑い、そして言った。
「いいえ」
「・・・え」
信じられないのだろう、ポカンとした顔の前田がこちらを見ている。
その顔は今まで見てきた前田の中で一番幼く見え、「可愛いな」と麻里子は思うが、今は口に出さない。
「・・・え?え?」
「だって前田さん」
いまだに否定の言葉を飲み込めずに混乱している前田に、麻里子はあえて真面目な顔を作って言う。
「私、前田さんのこと何も知らないんですよ。前田さんは、私の自己紹介とか話とか聞いてるから、ある程度はご存知でしょうけど。年齢も、家族構成も、ご出身も知りません。・・・下の名前さえも」
その言葉に、はっとしたように前田が麻里子を見た。
「もちろん、仕事中の顔は知ってますよ。気配りができるところも。でも、素の前田さんはほとんど知らないんです。さすがにそんな相手と、いきなり結婚前提のお付き合いなんてできません。ですから、ちゃんと婚活の手順を踏んでください」
「婚活の手順・・・?」
「ええ。まずは、お互いを知るために、連絡先を交換しませんか?それで、もしよろしければ今度・・・」
「ストップ!」
急に前田が麻里子の言葉を遮った。
「前田さん?」
「吉野さん。それ以上は、俺に言わせてください。全部吉野さんに整えてもらってたんじゃ、申し訳ないというか、男の沽券にかかわるというか・・・」
『男の沽券』という言葉選びに、麻里子は少し笑った。
今の人なら、『プライド』とか言いそうなものなのに。
案外、古風な人なのかもしれない。
前田は深呼吸をした後、麻里子の顔を見て言った。
「もし、よろしければ、今度、2人で会っていただけませんか?」
「ええ、喜んで」
にっこり笑った麻里子の顔を見て、前田はほっと安心した笑顔になる。
携帯を出して連絡先を交換し、登録する。
荷物を持って玄関に向かう麻里子に、前田が声をかけた。
「やっぱり、駅まで送っていきますよ」
「ダメですよ前田さん。ここの片付けが残ってるでしょう?それに、前田さんは仕事中なんですから」
しょぼんとうなだれた前田は、やはり犬っぽい。
『待て』と言われた犬。
「またすぐ、お会いできますよ」
我ながら意味深過ぎただろうかと思いながら、靴を履く。
そうなってほしいと思う気持ちは、前田も同じだと思いたい。
「吉野さん」
「はい?」
「俺の名前、航生です。前田航生。今日はそれだけ、知ってもらえれば・・・」
照れたように自分の頭をポリポリと掻く。
そんな前田を見ながら、麻里子は心が温まるのを感じた。
「では、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
「あ、もう一個、忘れてた!」
「え?」
ドアに向かったところで突然手を引っ張られ、後ろによろけそうになる。
何事かと振り返ると、前田が怪我した麻里子の左手を口元に持っていったところだった。
ちゅ。
「麻里子さんの怪我が、早く治りますように」
「・・・・・・!!!!???」
「してほしかったんでしょ?」
「え、い、いえ、私は、そんな」
「あれ?麻里子さん、耳まで真っ赤っか」
「し、失礼します!」
やや乱暴に手を引き、慌てて玄関から外に出る。
予想外の行動に、麻里子の頭は完全にキャパシティの限界を迎えた。
駅まで無心で歩く。
ただひたすら、歩く、歩く。
外の風に吹かれ、ようやく冷静さを取り戻してきたところで、駅に着いた。
絆創膏を巻いた指を、そっと見る。
前田の唇がそっと触れた、指先。
初めて下の名前を呼んでくれた、甘い声。
それらを思い出しそうになり、慌てて頭を振った。
とにかく家まで帰ろう。
そして帰ったら、無事帰宅した旨を前田にメールしよう。
きっと前田は、心配しているだろうから。
---多分、私、前田麻里子になるな。
それは確かな未来として、麻里子の中にすとんと落ちてきた。
きっとそうなる。
今度会った時に、前田に話してみようか。
もしかしたら「プロポーズを取られた!」と言われるかもしれない。
そんな場面を想像しながら、麻里子はにやけすぎないように顔を引き締め、帰りの電車に乗り込むのだった。