西日
寒くなるとの予報が外れた冬の日の夕方、西日で霞む町を、私は車で走っていた。長男の習い事に付き添った帰り道。
七人乗りファミリーカーの二列目には、三人の息子たち――六歳の凌、四歳の将、一歳の勇が並んで座っている。
チャイルドシート嫌いの三男が静かなのを察するに、今日二回目の昼寝をしているのだろう。
真ん中に座る長男は、大人しく車外を眺め、左端に座る次男は、シートにもたれてうつらうつらしている。
車内には、私の好きなアーティストの歌が満ちていた。そこでふと思い当たって、音楽のボリュームを少し下げる。
それでも締め切った車内に、外の音は入ってこない。普段絶え間なく聞こえる子供たちの声もしないことに気づいた私は、その瞬間、ふ、と、現実が現実感を失っていくのを感じた。
目に映るのは、代わり映えしないいつも通りの景色。ただ、音だけが無い世界。
駅前の交差点。赤信号で止まった前の車。横断歩道を渡る人々。その横を通りすぎる自転車。左折する車のウィンカー。
足は滞りなくアクセルとブレーキを踏み分け、手は確かにハンドルを操っている。感触もしっかりある。
なのにその感触が、遠い。
形のない「自分」という核と現実世界を繋ぐ体が、綿やスポンジにでもなったかのような。ぼんやりと鈍くて、近いのに遠い、曖昧で不確かな感覚。
まるで、世界から置いてけぼりをくったような。
まるで、世界が音もなく遠ざかっていくような。
懐かしくも、心の底がざらざらするような、不安なのになす術もない、この感じ…。
青信号に変わって動き出した流れに乗ってアクセルを緩やかに踏みながら、少しだけ昔を思い起こす。
交差点の少し手前でウィンカーを右に出し、軽くブレーキを踏んでハンドルを切る。右折して数十メートル先の交差点を、今度は左折。
この、世界から自分だけ弾かれて落ちていくような感覚とは、もうずいぶん古い付き合いになる。覚えている限りでは、小学校高学年の頃からだから、もう二十年以上か。
男の子ばかり三人も育てる毎日を必死で走ってきたが、とうとう限界が近づいたらしい、と他人事のようにぼんやり思う。
住宅街に向かう長いまっすぐの道路を、左右の脇道に注意しながらゆっくり走る。
最近すぐに肩凝りが悪化して頭痛がする。三人目を産んでから冷え性がひどくなった。肌が弱くなり、体力も明らかに落ちた。なのに甘えん坊の三男はいつでも抱っこをせがみ、かと思えば興味が向くと、所構わず走っていく。
長男は自分でできることがかなり増えたことで手はかからなくなってきたが、遊んでばかりで、片付けなどのしなければいけないことは、何度声をかけても生返事、こちらが怒鳴るまで動かない。口はたつので口答えも多く、次男への当たりもキツい。
次男は次男で、不器用なのに短気なため、できないことがあるとすぐに怒って泣き叫ぶ。自分から長男にちょっかいを出しておきながら、反撃されるとこれまた怒って泣き叫ぶ。まだまだ甘えたいらしく、隙を見ては私に抱っこをせがんだり、膝に座ってきたり。
そして夫。本来助け合い支え合うはずのパートナーは、ある時は子供たちと同じように世話をしてもらいたがり甘えてくる大きな子供となり、またある時は、部屋が散らかっている、掃除が行き届いていないと小言を言い、食事のメニューに文句をつける口うるさい監視役に、そのまたある時は、お前らは俺が養ってやっているんだと高圧的な権力者になり、専業主婦として子供たちの世話に奔走する私を追い詰める。
まっすぐの道路の終わり、コンビニのある交差点をそのまま直進すると、少し急な上り坂に差し掛かる。落ちるスピードに備えて、アクセルを踏み込んだ。
何度思ったことだろう。自分に経済力があれば、と。仕事をしていることが、そんなに偉いことなのか。仕事をしていれば、ただそれだけでいいのか。なぜ考えないのだろう、自分が仕事さえしていれば生きていけるのは、いったい誰のお陰なのかということを。
リフレッシュを兼ねて週末に家族で出掛けようにも、出不精で運転嫌いの夫は生返事ばかり。それなら私が運転しようとしても、その間子供たち、主に三男の相手や世話をすることも嫌がる始末。退屈して騒ぐ長男と次男。些細なことでぶつかってケンカが始まり、怒鳴り合い金切り声を上げる。
ほとんど無理矢理夫に子供たちを預けて出掛けても、子供たちが気になるし、夫に文句を言われるので、短時間でできるだけ多く用を済ませようと、常に焦ってせかせかしている。
幼稚園の送迎、行事、子供たちの習い事、家事、子供たちの世話、夫の相手…しなければならないこと、心を砕かなければならないことは、毎日絶えない。
それでも、みんな同じだと、みんながんばっているからと、いや、自分より大変な人はいくらでもいると、そう思って、そう言い聞かせてやってきたけれど、それで自分のキャパが増えるはずもなく、溜まっていく疲労とストレスは止まることを知らない。
坂を上りきったら、左手に交番のある交差点を右折。また少し坂道を上れば、自宅のある住宅街に入る。
もうすぐ着くが、おそらく三男は起きないだろう。これからまだ夕飯の支度をして、食べさせて、お風呂に入れて、寝る準備をさせて寝かしつけ、そのあと洗濯物を畳んで直して、台所を片付け…しなければならないことは山積みだ。なのに三男は、昼寝は抱っこでないと寝てくれないのだ。熟睡したと思って布団に置こうとすると、目を瞑ったまま泣き声をあげ、しがみついてくる。眠り足りないままだと、ぐずぐずとまとわりつかれて余計に家事が進まないので、結局いつも昼寝の間は抱いて座っているしかない。最低一時間、長いと二時間、時には三時間近く眠ることもある。その間、ただ座っているしかないのだ。
とは言え、実は長男も抱っこでないと寝ない子だったので、長男がまだ赤ちゃんの頃に、昼寝の時間は強制的に自分の休憩時間だと思うことにしたのだが。
坂を上ったら、二つ目の角を左折。
相変わらず無音の世界に降り注ぐ西日が、すべてを黄金色に縁取っている。空中のほこりまでもが見えそうなほどの光。夏の西日のように、照りつけるのではなく、あくまで空間を満たすだけの、降り注ぐような光。一瞬季節が冬だということを忘れさせるような、暖かみを具現したかのような、太陽の、今日一日の最後の輝き。
それは疲れきった私にも等しく降り注ぎ、金色に染め上げた。
短い路地の二つ目を右折、左側三軒目が私たちの家だ。
私はガレージを一旦通りすぎ、右にハンドルを切った。道路いっぱいまで踏み込み、ギアをバックに入れる。サイドミラーで左右を確認しながらガレージに入れ、ギリギリ後ろまで下げる。自宅のガレージは、車二台分のスペースはあるのだが、縦列なのだ。
エンジンを止めると、長男が次男を起こしにかかった。
「将、着いたよ!起きて!」
自慢ではないし全くありがたくないことに、子供たちは皆、揃いも揃って寝起きが悪い。…私に似て。
なので昼寝の途中で起こすのは気が進まないが、抱いて下ろして、そのまま寝続けられてしまうと、夜眠れなくなるので仕方がない。 案の定、次男はくしゃくしゃに顔を歪めて、甲高く唸り声をあげようと口を開いた。しかしそれに気づかぬふりをして、
「あ、起きたの将、偉いね。お家着いたよ、降りよっか」
私はそうして当然とばかりに声をかけた。言外に、泣かないで、自分で車から下りて家に入りなさい、と言っているのがわかるのか、次男は不満そうにしながらも自分で車を降りて玄関に向かった。続いて長男が車を降りる。
私は三男をチャイルドシートから抱き上げた。身じろぎはしたが、やっと抱っこしてもらえたことに満足しているらしく、体勢を整えるとまた寝息を立て始めてしまった。
思わずため息をつき、車にロックをかけると、玄関を開けて子供たちを中に入れる。
「まず手洗いうがいしなさいよ」
先にリビングに入った長男と次男は、着ていたコートをポイッと脱ぎ捨て、出しっぱなしだったおもちゃを掴んだ。特撮ヒーローの変身アイテム。たった一年だけの流行りのために買わされる、一個数千円にもなるおもちゃ。欲しがるわりに、大切だと言うわりに、片付けもせず、遊び終わったときのまま、遊び終わった場所に放置され、散らかり放題のおもちゃ。
「まず手を洗ってうがいしてきなさい!!」
声を鋭くし、眉を吊り上げた私に、しぶしぶ二人は洗面所に向かう。
私は、沈むようにソファに座り込んだ。上着を脱がされた三男が、ぐずっておっぱいを探す。口に含ませてやると、途端に満足そうな顔でまた眠る。
夕飯を作らないと。わかっているのに動けない。それになぜか今日は、夕飯を作る気になれない。メニューを考えることもできない。夕飯を作ること、そのあとに続くいつも自分がこなしている一連の作業をするということが、ほんとうにおっくうで仕方なかった。
いつのまにかしっかり目を覚まして機嫌も直った次男に、ヒーローごっこをしようと誘う長男。何だかもう、今晩は好きなお菓子でも食べておいて、と言いたくなった。夫には、お弁当でも買ってきてくれるように連絡しようか。
しかしそのときなぜか私の脳裏に、さっき見た西日に染まる黄金色の景色が浮かび、耳には車内に流れていた音楽がよみがえった。
"心配はいらない 慌てずに行けばいい
君が今 歩いているその道を"
今までに何度も聴いて、聴き流していた曲のフレーズ。じっくり聴いてみたこともなかったのに、なぜ今急に。…まるで、天の啓示のように。
ポロリと、涙が零れた。夢中で遊ぶ子供たちは気づいていない。気づかれる前に止めなければ。要らぬ不安や心配をかけてしまってはいけない。そう思うのに、涙は止まらない。
そうしているうちに、ふとこちらを見た次男が涙に気付き、固まった。それに気づいた長男も、次男の目線の先にいる私を見て動きを止めた。二人とも言葉が出ないようだ。
その顔を見て、涙で濡れた顔のまま、私は思わず吹き出した。それで呪縛が解けたかのように、長男が息をついた。
「ママ何で急に泣いてるの」
曖昧な笑みで問う長男に、込み上げる笑いを噛み殺しながら、
「何でもないよ、ごめん。ちょっと疲れちゃっただけ」
と答えた。
「しょう、びっくりした!ママ泣いてるから、えー!?って思ったぁ」
と、次男が大袈裟に身ぶり手ぶりをつけて言うのに、
「りょうもびっくりした!」
長男も勢いよく同意している。
いつもこれくらい息ぴったりに仲良くしてくれればいいのに。
と、三男がぼんやりと目を開けた。やはり寝起きが悪く、泣いて身をよじっておっぱいを探す。仕方ないのでくわえさせてやると、落ち着いてじっとこちらを見上げてくる。
まだ少し残る涙が、瞳を余計に煌めかせて見せてくれる。まだ純粋で、汚れを知らない瞳。私はその瞳に写るに値する母親だろうか。残念ながら全く自信がない。それでもこの子たちにとっては、唯一無二の母親なのだ。 その、重さ。
命を預かる、その重さ。人生の基盤を作る、その重さ。
背負えるのだろうか。いや、すでに背負っていて、背負うしか無いのだけれど。そしてそれはとても、幸せなことでもあるはずなのだけれど。
その幸せを感じられず、ただただ重さに押し潰されてしまいそうになるときも、確かにあるのだ。まさに、今のように。
どうすれば、気持ちの切り替えができるのかもわからない。ただ毎日のなかで溜まったストレスや圧し殺した気持ちが、収まりきれなくなって体中に充満し、爪の先までも重い気がする。
それでも…私が作らないと、この子たちが食べる夕飯は出てこない。作る気がしない、という理由で外食したり出前をとったりすれば、夫に何を言われるかわかったものではない。
たかが夕飯作りのために、私は腹を括った。
心の底を覗けば、いや、そんなことをしなくても、私には子供たちの笑顔が見える。時に煩わしく、うっとおしく、腹立たしく、疎ましくても、紛れもなくいとおしく、何よりも大切な子供たちが、好き勝手に走り回り、我が儘を言いながら、全幅の信頼を寄せ、疑い無く私を見上げている。
いくらでもがんばれる日がある。反対に、当たり前のことをするのが、とんでもなく大変な日もある。きっと今日は、そんな日なのだ。できない自分を自分で責めて、追い詰める必要なんて、きっとない。
でもだからといって、子供たちは待ってくれない。
リフレッシュしないといけない。溜まりに溜まったストレスやら何やらでドロドロとした心を、きれいさっぱりリセットしなくては。それにはどんな方法があるだろう。時間も自由もお金もものすごく限られた中で、何をすれば心に余裕を取り戻せるだろうか。
せめて今は、それを考えることをエネルギーにして、夕飯を作ろう。まずは目の前のノルマをこなして、今日を乗り越えよう。そうしないことには、リフレッシュを実行する日にたどり着くことさえできない。
おっぱいを離した三男を抱いたまま、心の中で、えい!と気合いを入れると、私はキッチンに向かうべく立ち上がった。
珍しく仲良く遊ぶ長男と次男に声をかける。
「遅くなってごめんね。急いでご飯作るから」
窓の向こうは、もうほとんど夜。あの金色の夕方の面影は、もうない。それでもこの目に、記憶に焼き付いた光。けぶるような空気。現実でありながら、まるで現実感に欠けた無音の世界。それに浸った自分。抜け出すまであと少し。足りない元気は、子供たちに分けてもらおう。
さあ、とにもかくにも夕飯作り。それからあとのことは、またそのとき考えればいいのだから。