二章 日常と一通の電話
「ん……くすぐったい」
“白の星”瞑洛の小規模宿屋、鳳凰亭。主人のヴァイア・スーン未亡人はそう言って、舌先で首筋を舐めていた俺をカウンターへ下ろした。
「まだ昼間よ」襟元を直しながら苦笑。「誰か来たら恥ずかしいわ。ユアンさんだって何時戻って来るか分からないし」
「あいつなら今日は図書館だから大丈夫。まだ二時間は戻って来ないさ」
しかし第一愛人の言う事も尤もだ。客が毎日入る訳ではないが、昼間は一応喫茶店として営業している。仕方ない、続きは夜にするか。
「にしても外は暑そうだな。こんな日は冷たい物が食いたくなるよ」
「ふふ。そう言うと思ってちゃんと買ってあるわ、ネイシェの好きな小豆練乳アイス。ユアンさんが戻って来たら一緒に食べましょう」
「さっすがヴァイア、分かってるー!やったー!」
一瞬前の思考を忘れ、相棒の一分一秒でも早い御帰宅を大父神様へ祈った時だ。
リリリリーン!目の前の黒電話がけたたましいベルを鳴らす。「あ、俺取るよ」前脚で十数センチ先の受話器を引っ掛ける。「はい、もしもし。こちら鳳凰亭」
『あ、ネイシェ。相変わらず真っ昼間からオバサンとニャンニャンしてやがるのか?このエロ狐め』
若い男で軽薄な口調。俺の第三愛人リサリアの一人息子、図書館員のショナだ。
「それはついさっき終わったの。手前こそ勤務中に私用電話してていいのか?上司に怒られるぞ」
如何にも気難しげな女館長の顔を思い浮かべながら尋ねる。
『心配要らねえよ。これ館長命令だから』
「?どう言う事だ?」
『いや、実はユアンさんがさっきさ、ぷくくく……!』
「勿体振るなよショナ。あいつが何かやらかしたのか?」
一部例外を除き冷静冷徹なあの銀髪野郎が、そうそう笑えるような事をしでかすとは思えないが。
『ほら。昨日お袋と三人で出掛けた時さ、随分面白い話聞かせてくれたじゃん』
「ああ、小晶さんの事か」
ここで少し長くなるが注釈。俺の相棒にして共同下宿人、ユアン・ヴィーはトレジャーハンターだ。その実力と情報収集能力は確かな物で、俺と出会ってからの四年間だけでも両手の指に余る遺跡から宝を発掘している。
しかし前回、“紫の星”の水遺跡では珍しく収穫が無かった。だがその代わり、それまで謎に包まれていた奴の過去に関する幾つかの重要情報を得る事に成功。―――その立役者が小晶 誠さん。ユアンが五年間片想う性格パーフェクトの美人さんだ。
『ところでその宿、新聞取ってたっけ?―――あ、じゃあ二十五ページ見てみろよ』
「ああ、ちょっと待ってな。サンキュ」
気の利く愛人が差し出した新聞を広げる。ええと、二十一、三、五……どれどれ、あ。
「『聖者様、環紗中央病院を慰問』これか?」
『そうそれ』
記事の大きさは四分の一ページ。その内の半分は、小晶さんが入院患者らしき少女の胸に手を当てる写真で占められている。その端正で慈悲深い横顔は、矢張り女性にしか見えなかった。
「環紗って結構近いな。知ってたら会いに行ったのに」
『基本的にはサプライズイベントみたいだな。病院関係者以外は情報統制してるんだろ』
「らしいな」
未亡人達を通じて集めた情報に因ると彼が不死王兼聖王代理、通称聖者様として活動し始めたのは五年前。今までボランティアで治療を行った回数は五十を越え、その殆どが事前情報無し。文字通り幸運の癒し手って訳。
「この記事、ユアンにも見せたのか?」
『いやそれが傑作でさ』
そこで又もや一頻り大笑い。
「一人で勝手に盛り上がるなよ」物静かで大人しいリサリアとはえらい違いだ。
『あぁ、御免。最初から話すわ』
何度か深呼吸して落ち着いた後、徐に話し始める。
『いつも通りしかめっ面でうちに来たユアンさんがさ、いつも通り脚立に登って資料を探してたんだよ』
その光景なら容易に想像が付く。図書館でのあいつの動線、基本的に床に書かれてるみたいに毎回一緒だしな。
『そこで超優秀な司書の俺はさ、返却本を棚に戻しながら声を掛けた訳だよ』
あ、何か想像付いた。大分前から知ってたけど悪党だな、こいつ。
『「ユアンさん、今朝の新聞に載ってますよ聖者様」ってさ。そしたら吃驚して書棚に額ぶつけてさ、しかもバランス崩して脚立から落っこちたんだよ!ガンッ!ズルッ、ドスッ!て。まるでコントみたいな落ち方だったぜ!!』
そう説明してまたひーひー。よっぽどツボに嵌ったんだな。
「お前、まさかあいつの前でんな笑ったのか?―――やっぱり。当たり前だ。運が良かったぞ、拳骨一発で赦してもらえて」
『って言うかデコから血ぃダラダラ流した上、どう見ても足首挫いてたからな。カードの再発行と貸出手続きしてさっき帰ったよ。そろそろそっちへ戻る頃じゃないか?』
ああ、そういや今朝部屋を探してたな。しっかり者のあいつが落とし物なんて珍しい、と思いつつベッドの下を見てやったっけ。
「分かった。手当ての準備して待ってるよ」
『おう。にしても、あれは間違い無く今年ナンバーワン―――あ、悪い。カウンターに客が来た。じゃあなネイシェ。また今度買い物行こうぜ』
「ああ」
ガチャッ。受話器を置き、女主人に薬箱を出してもらうよう頼む。
「ユアンさん、怪我したの?」
「捻挫とここ切ったんだってさ」前脚で額を示す。
「まぁ」
パカッ。良し良し、包帯に湿布、絆創膏もちゃんとあるな。消毒薬も充分残っているし、特に足りない物は無さそうだ。
「お、噂をすれば御帰宅だ」