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【参】

小松が産んだ子が男児だったとの報せに、しをりはほっと安堵の息を吐いた。

既に三歳となっている-可愛い盛りの-息子を膝の上に乗せてやる。

これで気兼ねなく心行く迄我が子を慈しむ事が出来ると思い、嬉しかった。


側室であるしをりの方が先に夫の子を身籠もった時以来、しをりは正室であり、徳川というあまりにも強大な勢力と権威を備えている小松にずっと申し訳ないと思い、後ろめたさのようなものを感じていた。

己の許を訪れる-そして子を可愛がる-夫にもなるべく別殿に渡るよう、勧め続けていた甲斐があって、ようやく小松も輿入れ後七年にして男児を挙げたのだ。


夫、そして真田家も、小松の実家及び養家に対して面目が立ち、息が吐ける。

又当然正室である小松の子が嫡男となるであろうから、しをりは己の子を手許に置けるのだ。


舅や姑は不満かもしれないが、家督を継ぐのは、徳川家縁の者の方が良いとは暗黙の内に家族皆が了解している。


(でもこれで……何も心配はない)


しをりは我が子に微笑みかけ、穏やかで静かな幸福感に浸った。

二重に真田の血を引く我が子、ではあるが、敢えて家を継がせたいとは思わない。

ただ己がこの子に繋いだように、次の世代へと真田の血-父の血-を引き継いでいってくれればそれで充分だ。

武家でなくとも構わない、とすら思う。


(武家は怖ろしい)


京で起きたという数々の粛正、僅かな罪を言い立てられて多くの人々が磔られたり、首を斬られたと聞く。

日の本の国内が少し静けさを取り戻したのは、再び、太閤による大陸出兵が号令されたからだ。


だがその代償として再び夫が戦に行かねばならないと思うと-やはり申し訳なく、哀しくも思う。


それでも沼田の丘城は、外界とは切り離され、清浄な空気に包まれていた。

未だ、その頃は。



特に前触れなど無かった。

普段通り、元々差程人でも多くない小城の事、侍女達には日々の雑用を任せ、しをりは息子を遊ばせていた、もとい息子と遊んでいた。


僅かに差し込む光が翳ったと思った次の瞬間には眼前に濃い人影があった。


「っ」

一瞬悲鳴を上げかけ、慌てて口を閉ざす。

と同時に怯えた貌をした息子を引き寄せた。


「済まぬ。驚かせたな」

「いえ。源二郎様、如何なさったのです?」


まるで舅が使う忍び達-上田と沼田の間を行き来するのはそうした者達が多い-のような振る舞いだと思い、しをりは自然、責める口調になっている。


「おいでになるならば、そのようにお報せ下されば良いのに。すぐに誰か呼んで、御父上と御母上に」

「止めてくれ」

低く、ひやりと背筋が冷たくなるような声で止められ、しをりは浮かしかけていた腰を下ろした。


「すぐに発つ。俺はただ……顔を見に来ただけ、だ」

「……」


しをりは懐かしいひとを見上げた。

確かに彼と顔を合わせるのは凡そ三年振りの事で、己も又彼に会いたくて溜まらなかったのだと思い知る。


「一つ、答えてくれ」

「……はい」

「以前、そなたが言っていた事」

「はい」

以前より更に暗く深まった眼差しにしをりはただ魅入る。


「女は、父に従うもの。その後は、夫を拒まぬ、と。そう言ったな?」

「はい」

「子を産んでも、それは変わらぬのか?……心迄は、染まっていないと、言えるのか?」


しをりは溜息を堪え、頷くだけで済ませた。

源二郎相手に嘘を吐く事は出来ないが、しかし、これでは彼を傷付け、一層闇へと追いやるようなものだ。


(一体何方をこのように想っておられるのか……)

問い詰めなくとも源二郎の憔悴振りを見れば、彼が今不幸である事だけは分かる。

奥方と上手く行っていないのか、あるいは豊家において辛い立場に立たされているのか、その両方なのか。

それでも風の噂で、源二郎の舅に当たる大谷刑部少輔は源二郎に目を掛け、引き立ててくれているとは聞いていた。

あるいは豊家の重臣に大切にされているからこそ、源二郎への風当たりは強いのかもしれない。


迷いながらも結局、しをりは率直に己の思いを訴えた。


「源二郎様。どうか、思い詰めないで。御自分を大切にして下さい」

「……」

「私は貴男に幸せになって頂きたいのです」


息子を抱いている為-又息子が初めて会った叔父に怯えて抱き着いて来ている為-直接、源二郎に触れる事は出来ないが、慰めを込めて源二郎を見詰める。


「この世には、どうにもならぬ縁というものもございます。これ以上は」

「言うな!」

激しく源二郎が返し、幼子が泣き声を上げて胸に縋り付いて来るのに、しをりは何も出来なかった。


「……そなただけは、言わないでくれ。頼む」

「……源二郎様」


思わずしをりは息子を抱いていない方の手を差し伸べたが。


源二郎は無言で退き、現れた時と同じく素早く部屋から逃げ去った。

まさしく、しをりから逃げた、のだろう。


(困った方)

そして可哀想なひとだとも思う。


(諦めるということが出来ないひとなのだわ。唯一人、真っ直ぐで、己を曲げる事が出来ない)


源二郎の思い人も又、夫の子を産んだのだろうとしをりは正確に推測していた。

確かな目に見える絆-証でもある-に、源二郎のような男でも動揺し、己を見失いかけていたのだろう。


しをりに会いに来たのはその為だ。


(結局私は、源二郎様を苦しめるだけなのかもしれない。……源二郎様を理解して、慰める事で、源二郎様を悪い方へと、破滅の道へと導いているのかも)


怖ろしくなってきて、ぐすぐすと啜り上げている息子の柔らかい温かい身体を抱き締めた。



太閤の死により、大陸との戦も終息した。

いや、ようやく撤退する理由が出来て誰もが皆喜んでいたに違いない。


少なくともしをり達一家及び家中は大っぴらに喜んで、一家の柱というべき信幸を迎えた。


早々に小松がまた新たな子を身籠もってからは、信幸はしをりの元で過ごし、しをりも又我が子と我が子の父親と共に過ごせる幸せを満喫した。


「そなたも子を孕まねばな」

夫がそんな事を言うのには苦笑しつつも、夫の腕に身を委ねる。


「私はもう子は良うございます。源太一人で充分ですもの。あの子さえいてくれれば、私は幸せですから」

「又そのような事を言う」


夫の手が胸乳を覆い、妖しく蠢くのに、しをりは身を捩り、声を上げた。

子を産んでから-正確には子を身籠もってから-身体の感覚は信じられない程鋭く、敏くなっている。

あるいはようやく、夫婦としての関係を従兄でもある夫との間に築けたのかもしれない。


「私がいては、幸せではないのか」

「お戯れを」


男を受け入れ、しをりは己が女である事も受け入れた。

暫く後、身を起こそうとしたものの、すぐに又夫の腕の中に引き戻される。


「……旦那様」

「私の留守中に、源二郎が来たのではないか」


驚きはしたものの、夫は真田の嫡男であり、今や沼田城の城主なのだと思い返し、しをりは素直に頷いた。

隠し事をしようとしても、真田家の男達相手では無駄な事である。


「ええ。……何か思い悩んでおられるようでした。……心配です」

「そうか」

夫は何か考え込んでいるような茫洋とした顔付きとなったが、そのままごく自然に再び彼女を組敷いた。


「……旦那様、あの、もう……」

「我等は夫婦だ。そうであろう?」

しをり自身も非常に正当だと思う言葉で抵抗を封じられ、信幸を受け入れざるを得なくなった。

どうやら本気で、しをりをも身籠もらせようと考えているようだ。


(そこまで……気遣われなくとも宜しいのに)


真田の為には、寧ろ、小松が子を授かり続ける事の方が望ましい。

頭の何処かでそのように醒めた考えをしをりは抱いているが、口には出来なかった。

信幸は如何にも真田の男らしく、女如きが御家の為と出しゃばったりモノを考えたりするのは気に触るようだった。

舅にも夫にとっても、女とはあくまで守り、大切にするもの、なのだろう。


(女が別の事を思ったり考えるとは思っていないのだわ。……源二郎様だけが違う、のね)


だがしをりが源二郎の事を少々皮肉と共に思った途端。

「源二郎はしをりに甘え過ぎだ」

信幸も又、鋭く指摘してきた。


ヒヤリとさせられるが、やはりこの辺りは共に育った間柄故、自ずと通じ合ってしまう部分なのかもしれない。


「源二郎様が、私に?」

「ああ、そうだ!彼奴は、幼い頃からそうだった。年下のそなたに、頼っていた。違うか?」

「……」

しをりは少し拗ねているような、同じく従兄であり兄でもあった男をそっと抱き寄せた。


「源二郎兄様が私を苛めた後で、源三郎兄様はいつも私を慰めて下さったわ。そうでしょう?」

「……ああ」


自然、唇が合い、更に身体も隙間無く重なる。


「……」

「源二郎は、大事な弟、だ」

だが、と苦しげな息をしながら、信幸が言葉を吐き出すのをしをりも又息を乱しながら聞いた。


「しをりは、譲れぬ。そなたは、昔から、私のもの、なのだ」

「……」


しをりは目を閉じ、困惑と逡巡を隠す。

あるいは、源三郎は幼い頃からずっと嫡男として、しをりの事を何れ真田家と共に引き継ぐ対象として見ていたのかもしれない。

だからこそ、あれ程優しく、常に見守り助けてくれたのかもしれないと思った。


(でも、私は……)


心は勝手に別の場所へ飛んで行く。

己にも止める事は出来なかった。



戦が再び、日の本中を、真田領をも包み込もうとしていた。


信幸の正妻、小松の養父である徳川内府が会津討伐を豊家の若君の名を奉じて号令し、しをりには理解出来なかったが、それが何故か、豊家の家臣同士、しかも姑の妹の夫である石田治部少輔が上方で兵を挙げ、それが謀叛だという事になったらしい。


簡単に信幸が説明してくれたものの、しをりは混乱するばかりだった。

姑の事を思えば、しをりは怖ろしくて堪らなかったし、舅も又姑の為に心を痛めていると理解していた。


「ですが、石田方を放置しておく事は出来ませぬ」

きっぱりと言い切った小松に、反論は難しかった。


「でも……小松様。石田殿の奥方は、御母上の妹御なのです。それに、源二郎様の奥方は、大谷殿の娘御です。私達の、親戚なのですよ」

「親戚ではありませぬ。姻戚です」

小松は強く返したものの、幾分目元を和らげてしをりを見た。

子を二人授かってから、小松は以前よりも温和で寛容な女人になったような気がする。

少なくとも当たりは柔らかくなっている。


「しをり殿、お気持ちは分かりますが、このままでは日の本の国は戦国の世に逆戻りしてしまいまする。それだけでなく、亡き太閤殿下の無謀な外征のせいで、周辺国の恨みを買っております。南蛮人や紅毛人も、頻繁に海を渡ってきております。国が弱体化すれば、虎狼のような輩に、日の本中が襲われて、何もかも失われてしまうのです。……この沼田や上田は山の中で、御父上や御母上、しをり殿には分かり難いかもしれませぬが、何れは夷狄がここ迄やって来るかもしれません。そうなれば、田畑は荒らされ、城は燃やされ、男達だけでなく女子供迄、如何なる目に遭うことか」

「……」

「下らぬ争いを引き起こす、愚かな者達を掣肘せねばならぬのです。朝廷に認められた内大臣であられ、又、亡き太閤殿下より国政を預かった徳川内府様が、石田方を征伐するのは当然の事でございます」

「……旦那様、は」

「旦那様も当然、御出陣なさいまする」


小松が淀みなく続けた説明にしをりは気圧され、何も言えなくなってくる。


「旦那様は徳川家の与力衆であるだけでなく、今や譜代の直臣に数えられる御方となっております」

「……御父上や、源二郎様は、」

「無論、旦那様とご一緒に出陣なさるでしょう。真田の当主は旦那様です」


未だ当主ではないとはしをりには言えなかった。

舅は明示的に夫に家督を譲った訳ではないが、領主としての務めの殆どを既に夫に任せているのだ。


「しをり殿。どうか御心を強く持って下さい。御父上も、源二郎殿も……旦那様も、貴女のお気持ちをとても尊重しておられますから、無用な迷いが生じぬように、しをり殿にもお気遣い頂きたいのです」

「……」

「御家の存続がかかっているとお考え下さいませ」


夫の出陣前夜-舅や、舅の元に滞在しているという源二郎と翌日、待ち合わせてから徳川軍に合流する予定となっているらしい-、しをりは不安を抑えきれずに夫に訴えた。

戦の前に夫を煩わせるなど武家の女にあるまじき事と分かっていたが、しかし姑達の事を考えると、己を抑えられなかったのだ。


「御母上がお気の毒過ぎます!源二郎様だって、お辛いでしょうに……せめて御父上と源二郎様は戦に関わらなくても良いようにと、お願いは出来ぬものなのでしょうか」

「しをり」

「貴男様だって。お辛いでしょう?」


信幸が優しく、それこそ幼い頃のように、髪を撫で抱き締めてくれるのに、しをりは涙を溢れさせた。


「だが、真田の家を守らねばならぬ」

「……旦那様」

「分かるな。何より大切で、守らねばならぬのは一つだけ、だ」


つまりは徳川家の指図に唯々諾々と-全面的に-従うということなのだと理解して、しをりは俯いた。

確かに、信幸を当主とする一家は守られるだろうが、源二郎と妻の間は破綻するだろう。

更には舅達も微妙に心が離れてしまうかもしれない。

それでなくとも姑は、夫の浮気癖を快く思っておらず、時に酷い喧嘩をする事もある。


「良いな。そなたは……信じて待っていてくれ。真田の家の事だけ、考えるのだ」

「……」

受け入れる事は非常に難しかったが、しかし結局しをりは夫の命に服した。

夫婦とはそういうものなのだろう。


結局しをりは、小松や子達と共に、戦が真田の家をも引き裂いていくのを為す術もなく見守るしか無かった。


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