1−1
*
空へと投げ出された身体。鮮血に染まる俺の視界。温かく、大切なモノが有り得ない速度で身体から流れ出る感覚。そして、いきなりプツリと途切れた思考。
痛みを感じる間も、走馬灯を見る事も無く、車によって俺のちっぽけな生涯は呆気なく幕を閉じた。
平凡な人生だった。両親は健在で不仲と言う程では無く、金銭的に不自由も大した無く、大学も卒業出来たし就職もすんなり採用された。平凡な人生を送る事が、如何に幸せな事なのかも分かる。
後悔は無いと言えば無い。だけど後少し、もう少しだけ生きて、両親に親孝行がしたかった。残念だが、それは叶わぬ夢だな。
【――――――んっ!】
死んだのにまだ考える余裕があるなんて、俺的にはそのまま消滅説だと思って居たのに。
【――鈴――さんっ!】
そう言えば、何か聞こえる様な気がするんだが?必死に呼び掛ける声が余りにも切羽詰まっている様な気がして、俺は気持ち頑張ってソレに耳を傾ける。
【田中鈴太郎さんっ!】
‥‥‥はい?
鈴を転がした様な可愛らしい声に呼び掛けられるまま、心の中で返事をすれば声の主はホッとした様に小さく息を吐いた気がする。
【ゆっくり目を開いて下さい、田中鈴太郎さん】
目?疑問に思いながらも首を捻りながら言う通りにしようと、朝だと思いながらゆっくり目を開く。柔らかな光が目に入るが、俺には刺激が強過ぎるらしい。
目が痛みを訴え、片手で擦りながら開いたり閉じたりを繰り返す。
「あ、あの、此処は?」
【信じられないと思いますが、此処は貴方達の言う神が住まう天界と呼ばれる場所です】
天界と、この場所を称した声の主は腰まである豊かな金色の髪を持ち、優しげな瞳は鮮やかな青。人間では有り得ない程の美貌の持ち主なのに、彼女の雰囲気が柔らかく萎縮させない。
「え、えと、俺って‥‥、死んだんですよね‥?」
投げ出された空の青さも、身体から流れ出る熱も覚えている。思わず自身の手を眺め、グーパーグーパー。動いて居るよな?
彼女に視線を戻せば悲しそうに、困った様に、何処か泣きそうに微笑みながら小さく頷かれた。
「です、よね。‥‥ええと、俺はどうすれば良いのでしょうか?」
【私は、とある小さな国を任された女神エミエール。国の危機回避と繁栄の為、勇者を選び、巫女を異世界から召喚致しました。ですが、私が不出来なせいでとある力を2人に授け忘れてしまいまして‥】
やはり彼女は女神か。死んだ筈の自分が天界と呼ばれる場所に居て、こんな美人に話し掛けられて居るのだから、そりゃそうか。
それにしても、死んだと言うのに取り乱さない自分に驚いた。実感が湧かないから?いや、きっと何処か他人事なのかも知れない。
【理由は分かりませんが数多の水妖精が国から離れ、火妖精とのバランスが取れず日照りが続くのです。私の加護を付ければ居るだけで流出は防げるのですが、一般の方に加護を付けるのは些か不条理な事を強いる事になります】
あぁ、成程な。
これは異世界転生、若しくは異世界トリップの打診と言う事か。暇潰しに良く携帯小説は読んでいた方だが、まさか俺が身を持って体験するとは‥‥。
【それで上神に掛け合ったら、「地球の日本人は大抵快く引き受けてくれる。丁度此処に死にたてホヤホヤの魂があるし、どう?」と。情けない話なのですが、田中鈴太郎さんに縋るしか無いのです】
「‥‥何と無く理解出来ました。居るだけで良いんですよね?」
【は‥、はいっ!有難う御座います!此れで民が飢える事は無くなりますっ!】
死んでしまった事は確かなのだし、俺と言う人格を持って異世界に行けるなら願ってもない話だと思う。
目の端を涙で濡らす彼女が俺の額に手を当てると、一瞬だけ暖かく光った気がする。非現実的な事が起こっても、慌てない俺は随分と神経が図太くなった。
【今の光りは、私の加護を鈴太郎さんの魂に施しました。申し訳無いのですが、鈴太郎さんの肉体は損傷が酷く、新たに身体を用意する事になります】
「‥‥まぁ、そうでしょうね。貴方に任せます」
【はい。では、肉体は私の化身と呼ばれる者から生まれる様にし、保護する様に神託を授けます。それで鈴太郎さんの衣食住の心配は、一生無いでしょう】
「女神様、何から何まで有難う御座いました」
【いいえ。此方こそ次に生まれ落ちる迄、眠る鈴太郎さんに頼むのですから。私の方こそ、貴方に感謝しても足りない程なのです】
彼女の言葉が聞き終わるや否や、俺の意識は眠りに誘われる如く沈んで行く。死ぬ瞬間と同じ感覚で、初めて少しだけ恐怖を感じる。
【揺り籠の子守唄、安寧たる人生を、生まれ落ちる貴方に幸福を――――】
彼女の優しく、慈愛に満ちた声音を最後に、俺は誘われる様に意識を失う。
* * *
知の162年、風の月第10週7の日。豊かな口髭を持つ老人は埃1つ許される事は無いであろう、美しく厳かな場所に佇んでいた。
【――――――――、―――――――――――――――――。―――――?】
「承知致しました。その様に通達させて頂きたく存じ上げます」
【――――――――――――――――。――――――――――、―――――――――。――――――】
「御安心下さい。わたくし共の出来うる全てを持ち、その様に致します」
老人の佇む部屋には誰も居らず、あるとすれば真っ白な床が3メートル四方に切り取られ、中に澄んだ水が湧き出てると思われる部屋に対し粗末な水溜まり。
だが老人はその場所に真剣な眼差しを向け、時折頭を下げる等、平伏しながら一心に語り掛けている。
「‥‥ふぉっふぉっふぉっ。こりゃ暫くは忙しくなりそうじゃのぅ」
常人には聞こえぬであろう、人あらざるモノと会話を終えれば、老人は豊かに蓄えた口髭を撫でながら只でさえ細い目を細くする。
誰もこの場所に居ない事を良い事に、至極楽しげに呟いた。そして、部屋の外でお産を控えた父親の様に気を揉んで居るであろう人物達の事を思い出しながら、今一度口髭を触りながらゆるりとした足取りで部屋を後にする。
* * *
花の163年、水の月第8週2の日。澄み切った清廉な空気を醸し出し、罪ある者は逃げ出したくなる相も変わらず厳かな場所。
人数が老人と他に3人程増え、内の2人が興味津々と言った様子で、水の湧き出る粗末な水溜まりを覗き込んでいる。
「神託の、エミエール様は本当に日夜続く日照りをどうにか出来る者を遣わすと仰ったんだな?」
興味深く水の中を覗き込んでいた内の1人が低く、甘さを含み聞き取りやすい声を出して老人に問い掛けた。彼の容姿は飛び抜けて居り、服装は機能性を重視した黒の軍服。その腰には美しい装飾がされた細身の剣を帯剣している。
「わたくしと同じ様な方だ、と申されましたよね?とても待ち遠しいですわ」
青年の隣には、まるで花が咲き誇る様な愛らしい笑みを浮かべ、頬に片手を当てながら呟く少女。
彼女も水を覗き込んでいた内の1人。隣の青年と並び立てば謙遜無い程、容姿が整っていた。彼女が着ていたのは真っ白に染められたブレザーで、赤と深緑のプリーツスカートが良く似合っている。
「大丈夫です、勇者ヘルツォーク様。もう直ぐ卵は孵化致します。真偽の名に掛けて申し上げます」
3人から一線を引き、後方で待機している者が口を開く。薄衣を頭から被り殆どを隠している、声と身長を考慮しても10〜13歳辺りの少女だろうか?薄衣の間から、微かに淡い菫色の髪が覗く。
「そう、だな。すまない」
「ふふ。心待ちにして居られるのは国に住む者誰もが同じ、ですわね」
「ふぉっふぉっふぉっ」
勇者ヘルツォークと呼ばれた青年は、薄衣の少女に言われ暫し思案顔になるも、直ぐ様老人に顔を向け少しばかり頭を下げる。
老人は気にした様子も無く軽く片手を挙げ、学生服を着た女性と同様、朗らかに笑い出した。
* * *
何やら俺の周りが五月蝿い様子。いつの間にやら寝入っていたらしく、軽く欠伸をしながら手を伸ばす。手は直ぐ様壁に当たり、俺の手にムニッと変で不思議な感触を伝えて来る。
「(な、何だっ?!)」
目を開けたつもりでも、まるで明かりの無い夜の様に真っ暗で何も見えない。声も出せ無いらしく、俺は軽くパニックに陥った。
ぺたぺたぺたぺたぺた。辺りを手探りで触りまくった結果、どうやら俺は球体状の中に居る様子。少し時間も経ち、それを確認出来る頃には俺のパニックも多少は成りを潜めている。
「(取り敢えず、此処から出ないと。現状が分からないのは結構辛いな)」
覚悟を決める様に深呼吸を1つ。そして握り拳を作ると、俺は思い切り変な感触のする壁へと叩き付けた。少し固いらしく、1度や2度ではビクともしない。
「(くそっ、ちょっと手が痛くなってきた。でも、後少し、後‥‥、お?)」
叩き付ける手が痛み、腕も疲れて来て居た。だが手に伝わる感触が変わり、僅かながらに光が射している様にも見え、俺は渾身の力を込めて壁を叩いた。
大きく崩れた壁。そこには俺1人なら余裕で通れそうな穴が開き、徐々に冷たい水が流れ込んで来る。
溺死する!そう思った瞬間、大きく温もりのある手が俺の手を掴み、上へと思い切り引っ張り上げた。何故だか分からないが、引っ張り出された時から段々と息が苦しくなって来る。
「ヘルツォーク様っ、孵化したばかりの水魚は水の中でしか呼吸が出来ません!早く水にお戻しを!」
「なっ、そ、そうか!」
何やら周りには数人が居るらしく、息が出来ず苦し紛れに魚の様にハクハク口を開閉させる俺と同じくらい慌てて居る様子。聞き取り辛い周りの声に耳を傾ける間も無く、引き上げた手は俺を水の中に沈める。
「(こっ、殺す気か!息が出来ない!息が、出来な‥‥あ? 出来、た?)」
上がれない様、俺を押さえ付けて来る手を掴むも子供と大人の力差を見ている如く抵抗が出来ない。
遂に俺は大きく口を開き、最後の酸素を吐き出してしまう。同時に水を飲み込むと、息苦しかったのは何だったのかと思える程、新鮮な空気が肺中を満たす。
「(え?何?え?え?)」
いつの間にか俺を押さえ付ける手も無くなり、俺は水の中を浮き沈みせずに止まって居るみたいだ。ゆらゆら揺れる水面に柔らかな光が当たって凄く綺麗。
ふと水面に影が落ち、その影が優しげな声音で話し掛けてくる。声で推測するに、お爺ちゃんか?
「今貴方は生まれたばかり。一月程度経たねば、今は水の中でしか息が出来ぬのです。ああ、水魚様、聴こえて居りますかな?」
「(辛うじてな)」
その問い掛けに俺は手を挙げ、水面から手を出す。表情は全く見えないが、俺の答えに周りからはホッとした雰囲気が伝わった。
「ふぉっふぉっふぉ。では我が国を見守る女神様より、我が国の事柄は大体聞いて居りますかな?」
「(聞いてる聞いてる。日照りがヤバくて、俺は居るだけで良いんだろ?)」
朗らかなお爺ちゃんの笑い声を聞きながら、もう1度手を挙げる。水の中でしか呼吸が出来ない生き物に生まれたのは驚いたが、それも少しの間らしい。今は何も出来なくても、育てば何かしらは出来る筈だ。
「(ん?何か眠い?)」
誘われる様な急激な眠気が襲い掛かる。それはとても心地好く、抗う術の無い俺は段々意識が薄れて行く。態々喋り掛けてくる爺さんには悪いが、なけなしの力を振り絞って手を振る。
「し、神託の!」
「ふぉっふぉっ、水魚様はお疲れのご様子ですな」
「ふふっ。お休みなさい、良い夢をお魚ちゃん」
冷たいと思っていた水も、今や俺にとっては心地の好い揺り籠みたいな物だ。生まれたばかりなのだから仕方が無い、と目を閉じる。
「(‥‥お休みなさい)」
次に目を開けた時も、俺は俺と言う意識を持って居たい。今が都合の良い夢じゃありませんように。
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