盲目なアンヌ
本編『屋敷に巣食う蛇』に登場するアンヌさんのお話です。
アンヌ・ジル・リグリアセット公爵令嬢は、バーガイル伯爵家嫡男、グレイの婚約者。
グレイとアンヌの最初の出会いは何年も時間を巻き戻す。彼女がまだ幼い少女で、彼が大人への一歩を踏み出そうとしていたあの時。
アンヌはまだ9歳で、グレイは13歳。まだ少年と呼ばれる年齢であったにも拘らず、すでに腰を据えた落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
国を揺るがした大きな政変からすでに23年。いや、漸く23年経っていた。
愚王と誹りを受けた男は、近衛兵を含めた軍部の反乱に合い、その命を散らせた。リグリアセット公爵は、ロットウェル王国最後の王ビースライの腹違いの弟だ。だが、常に権力とは無縁で、いっそ毛嫌いしていた節がある。第3妃だった母親には『王を目指せ』と連日吹き込まれていたようだが、そんな生活に嫌気がさし、成人するまでに早々と王位継承権を放棄した。独断で進めた計画に、第3妃は絶叫し泣き叫び、息子を激しく詰ったという。
一貴族となり片田舎へ領地を賜った公爵は、きっぱりと王室とは距離を置くことにし、血の繋がりがあるとは思えないほど淡泊な付き合いだった。
暫くすると、心を病んだ第3妃は離宮でひっそりと息を引き取った。実際は別の妃に殺されたのか、もしくは悲嘆した末の自害だったのか、今となっては探りようがない。だが、母の訃報に際しても領地から出ることなく、王宮へは決して向かわなかった。
権力を欲さず、片田舎にいる領地で細々と暮らしていたリグリアセット公爵一家。王都からも離れていたため情報が届かず、ビースライへの兵士たちの謀反も知りようがなかった。公爵家は謀反真っ只中の時、近隣の町の人たちと秋祭りについての会議に出席していたのだった。
その無欲が功を奏したのか、王族一家が次々と断罪されていく中、リグリアセット公爵家には何の咎もなく、さらに町の住人から『公爵様は無関係だ!』という嘆願書が連日王宮に届いたという逸話もある。
国を揺るがせた大事件だったが、終わった後もそれなりに事件があり、結局6人の代表者を議長として国の決定事項を動かしていくというシステムを確立するまでに1年半を要した。
その際にも公爵は領地から出てこなかった。
実質的なメンバーが決まり、その中に有能と言われてはいるが、若干20歳の若者が混ざっていると聞いた時も、公爵は『そうなんですか』とだけ言ったという。
そんな公爵に転機が訪れたのは、実子の一言だった。
「おとうさま。アンヌはお城がみたいです」
実母が亡くなっても、政変が起こっても、20歳の若者が議長に推薦されても動かなかった公爵は、1歳と数か月の娘が舌っ足らずでお願いしてきて撃沈した。
しかし、公爵夫人は王都(その頃すでに中央都市と呼び方が変わっていたが、片田舎にいる者たちは、言い慣れた王都と呼んでいた)に寄り付くことを良しとせず、頑固な妻を説得するのになんと6年もの歳月を要した。
公爵夫人だけを残して王都に向かうことも考えたが、いままで苦楽を共にしてくれた妻を残していくことは出来ないと、公爵は何度も何度も説得したのだ。しかし公爵は知らない。説得を受けていた6年間、夫人は王都の情報を詳しく収集し、さらなる暴動の兆しはないか、公爵家が王都に行った場合の国民の反応、治安の良し悪し、安全な屋敷の手配、信頼できる世話役など、世捨て人のような夫の代わりに陰で奔走していたのだった。
すべての準備が整い、一家で連れ立って初めて王都に戻ったのは転覆事変から7年半が経過していた―――。
だが、夫人が王都に滞在する期間は3か月しか納得しなかった。3か月後に一旦領地に戻り、公爵としての仕事をこなす。それで3か月。そして再び3か月。今に至るまでこれを繰り返している。社交シーズンなどが挟めば、期間の短縮・延長はあったが、その許可はすべて夫人が出している……今に至るまで。
そんなアンヌが初めてグレイに出会ったのは、王都にも慣れてきた初夏だった。一目で心が奪われた。しっかりと見据えられた視線。まだ少年だというのに、その均整のとれた体。太陽に反射して輝く短い髪。凛々しい横顔。
そうしてアンヌは再び大好きな父親におねだりをする。
「お父様。わたくし、グレイ・バーガイル様のお嫁さんになりたいですわ」
「!」
まだ9歳の可愛い可愛い愛娘からの、とんでもない発言に公爵は滂沱の涙を流し、娘を抱きしめた。
「まだ早いよ、アンヌ……っ」
「分かってます、今すぐじゃありませんわ」
まだ9歳で社交デビューもしていないというのに、気の早いところは色んな意味で親子そっくりな二人だった。愛娘に慰められている父は、鼻を啜りながらも脳裏には、娘の花嫁衣装が風に揺れている。
「いまは婚約者でいいんですの。お願いお父様。バーガイル伯爵様にお願いしてくださいませ」
「うぅ……」
「お父様……お願い」
「ぅぅぅうううううう……わ、わかった……」
愛娘からの下から見上げておねだりポーズ、瞳も涙で潤んでいます攻撃に屈した公爵は、バーガイル伯爵家へ向けて手紙を認め、正式な使者を通じて会談を申し込んだのだった。
母は一言「後悔しないと誓いなさい」と言い、まだ幼い娘に書面にサインをさせた。
その後、話はとんとん拍子に進んでいった。一番乗り気だったのは、伯爵夫人だ。腐ってもリグリアセット公爵の名前は伊達ではない。直々に縁続きになりたいという申し出に、断ることなど考えもしなかったのだろう。そして、この縁談を受けることが、後継ぎであるグレイの未来を輝かしいものにすると確信していたともいえる。
正式に両家により婚約が整えられ、アンヌはグレイの隣に堂々と立てる立場を手に入れた。その時アンヌ12歳。グレイは成人したばかりの16歳だった。
印象を良くしようと、積極的にボランティアに参加した。貧しい人々を訪問し、炊き出しなども手伝った。笑顔を作り、作ることに慣れた。
アンヌは早く成人して、早くデビューしたかった。成人後のグレイの凛々しさには磨きがかかり、普段から笑みも浮かべないというのに、そのつれなさが心くすぐると、老若問わず声がかかっていた。
グレイに近寄ってくる女たち。その様子をただ遠くで見ている事しかできない自分が歯がゆかった。
その頃にはアンヌは元の領地から一人離れ、数名の信頼できる家令たちを連れて中央都市に移り住んでいた。父も母も半年したら一度戻ってきなさい、というけれどグレイに寄ってくる虫が心配で、つい長居してしまうのが常だった。
「お嬢様、夜も更けてまいりました。体が冷えます」
成人していないアンヌは入れないダンスホール。それを馬車の窓からずっと眺めていたアンヌに、家令が毛織のケープを肩にかけてくれる。
「ありがとう、ロージィ」
婚約者を追いかけ回して、余裕がない姿は誰にも見せられない。けれど田舎からずっと付いて来てくれている家令のロージィだけは何も言わず、ただ従ってくれている。それがありがたかった。
「……今日はもう帰るわ。グレイ様も、きっともうすぐ屋敷に帰られるでしょうし」
「お嬢様は屋敷にお帰りください。わたくしはここに残り、グレイ様が『おひとりで』伯爵家にお帰りになるのを見届けたのち、戻ります」
笑顔でそういうと、ロージィはひらりと馬車から下りた。そして何も言えないままのアンヌの視線を遮るように扉を静かにしめる。御者に何事か伝えた声が聞こえたが、くぐもっていてはっきりとは聞き取れない。暫くすると、馬に鞭が当てられ、馬車はゆっくりと走り出した。
そんなことが何度もあった。何度も続いた。
けれどその間、婚約者のグレイはすり寄ってくる女たちには総じて冷淡で、ある一定の距離感を保ったままあしらっている風だった。そう、女たちには平等に冷たかった。
それはアンヌにも同じこと。
ようやくアンヌがデビューした後、グレイは軍部でも一目置かれる軍人になっていた。しかも【魔法士】という肩書付きで。さらにロットウェル最強の【魔法士】であるファーラル議長の愛弟子になっていた。
アンヌは少しだけ夢見ていた。
グレイがアンヌにも冷たいのは、きっとアンヌがデビューしていない未熟
な淑女だから。デビューすれば、レディとなれば、グレイは婚約者の自分を見てくれる。そうすれば笑みも向けてくれるだろうと。
だが、もちろんそんなことはなかった。
再会しても軽い挨拶と、知り合い程度の抱擁。伯爵夫人に言われて漸く、手の甲に唇を当てるようになってくれた。
その頃、隣国で諍いがあった。小規模なもので、大きな戦いに発展するものではなかったが、それでも死者も怪我人も出た。そして、バーガイル伯爵は片足を失った。
グレイ20歳の頃だ。
暫くバーガイル家への出入りを禁止され、アンヌは田舎の実家に戻った。出入り禁止に不満を覚えていたが、足を失った伯爵が義足をつけて歩行リハビリをしている姿を見られたくないからなのだと、父親に言われ納得するしかなかった。
そうしている間にとんでもない情報が飛び込んできた。
ロージィが恭しく差し出した手紙を受け取り、アンヌは読み進めていくうちに体が震えそうになっていた。
「グレイ様が、辺境警備へご出立……!?【魔法士】として……副隊長……」
最近きな臭くなっているドルストーラとの国境線。そこが赴任地だという知らせだった。知らせてくれたのはグレイの母、伯爵夫人だった。更に手紙には続きがある。
―――赴任にあたり、グレイがドルストーラ伯爵を継承しました。
笑いがこみあげてきそうだった。嬉しさじゃない、名ばかりの婚約者をしている自分が情けなくて、悔しくて……。
何の相談もしてくれなかった。
全部決まってから報告される。しかも、相手の母親経由で。
手紙を握りしめ、それでもアンヌは決して泣かなかった。目に力を込めると遠く離れた中央都市の方向を強く見据えたのだった。
「中央都市に行くわ。いつグレイ様が戻られるかわからないんですもの。いいわよね」
「お嬢様のなさりたいように」
父も母も止めるかもしれない。だがロージィは止めないとわかっていた。いつも自分に従順なロージィだけは。
そうしてボランティアをしつつ、教会に通い、伯爵家にも毎日足を運んだ。グレイが在宅していないことは関係がなかった。いや、今はいっそ辺境にいてくれてよかったのだ。ゆっくりと確実にグレイの母、ミラビリスの信頼を得、伯爵家を自由に行き来できるだけの信頼を勝ち得た。時間厳守で11時くらいから16時くらいまで。それ以上の長居は、迷惑になることもあるので誘われた時だけに留めた。
夫人とティータイムをしたり、時には馬車で街まで出かけ、自分という存在が近くにいることに慣れてもらうことにしたのだ。最初は胡乱気だったファヴォリーニも、次第に敬称なしで『アンヌ』と呼んでくれるようになった。
やっと足場が出来上がってきたと思ってぃた矢先。グレイが辺境から帰ってきたと報告が来た。喜びと半分戸惑いで伯爵家を訪れたアンヌ。
だが、いつものようにすんなりと屋敷に入れてくれない。執事クレールが来客中を理由に拒んできたのだ。そのクレールをロージィが盾になって背にかばってくれた。その間に走って廊下を進む。
扉がたくさんあって迷ってしまうところだが、いつも二人が寛いでいる居間がどこにあるかなど、充分知っていた。だが、目的の扉の前にはグレイの補佐官ジュネスが困った顔をしつつ扉を守っている。
だが、残念ながらアンヌはジュネスのあしらい方を心得ていた。堂々と胸を張ってジュネスに向かって歩いていく。ジュネスは怯むことなく速足で迫ってくる淑女に手を出せず、思わず扉から一歩動いてしまった。そう、彼は女性の『強気』に弱いのだ。アンヌはその隙を見逃さず、扉のノブを掴み出来るだけ静かに、けれど素早く開けた。
そして、見たのは―――自分がずっと向けてほしかった微笑み。優しい視線と穏やかな声。
それを受け取っているのは……身なりだけは整った、けれど決して洗練されていない子供だった。
わなわなと手が震えそうになるのを止められない。
あまつさえ、グレイが言おうとしている言葉にアンヌは頭の線が切れた。
「許されません!」
許さない。許すわけがない。
グレイ様の婚約者はわたし。
そのためにどれだけ年月が経過したか。
決まってからも、心穏やかでない時間をどれほど過ごしたか。
「グレイ様が優しいからと言って、勘違いなさらないほうがよろしくてよ」
譲らない。
グレイ様の特別は、きっとわたしのものなのだから。
ちょっと真面目?な感じで。
アンヌさん、すでに意地ですね。
彼女の恋は、初恋であり現在進行形なのです。
だからこそ、盲目的なのかも。
ある意味9年間の片思いです。結構重いですよね……