アンヌの約束と決意
本編『緊迫の建国記念日7』まで読了後にどうぞ
「久しぶりね、アンヌ」
そう言って抱き寄せてくれたのは優しく懐かしい香り。相変わらず社交界の流行には疎いようで、身に着けているドレスは少し野暮ったく感じる。鼻を擽るのは香水ではなく、きっと自分でアレンジした香油だろう。けれどそれが自分にとっての『母親』の香りになっているのだと、こうして抱きしめられてはっきりと悟ることが出来た。
「……お母様……」
「ん、どうしたの?」
唇から零れた言葉は、母を呼ぶ呼称でしかなかったけれど、それだけで母―――セリーナは心の内側を素早く察してくれたのだろう。背に回していた掌が、ぽんぽんとリズムよく優しく叩く。
「わたくし……」
そのリズムが小さなころを思い出すようで、アンヌの目にうっすらと涙が浮かんだ。
「アンヌは頑張ったわ。最後は母様との約束も守ったじゃない」
微かに震える娘の体を感じ、辛くないわけでは無い。だが、セリーナはあえて手放しで慰めたりはしなかった。
「どんなことになっても、決して後悔しないって約束したものね」
それは遠い昔、まだアンヌが9歳だった頃に親子で交わしあった書面の事だ。どうしてもグレイの婚約者になりたいと騒いだアンヌに、セリーナはいい顔をしなかった。ロットウェル唯一の公爵家からの通達であれば、いかに高名な伯爵家と言えども断りの返事は出来るはずがない。当時はアンヌは幼すぎて、貴族間の軋轢などどんなに説明しても理解できるものではなかった。そのため、セリーナは幼い娘に約束をさせた。
『将来、どんな結果になっても後悔しません』
羊皮紙にさらりと書かれた文面。そしてその下には、拙いながらもアンヌの直筆サインが入れられ、正式な書面として長くセリーナ本人がしっかりと管理してきたのだった。
「はい……約束、です……」
涙声ではあったが、はっきりとした返答にほっと胸をなでおろした。盲目的にグレイだけを追い続けてきたアンヌを、ずっとセリーナは危惧していた。他にも誘いはあったし、正直に言えば縁談もあった。けれど、そのすべてをアンヌは拒絶しグレイだけを視界に入れて過ごしてきたのだ。
目標とするのはグレイの妻という場所。それただ一点のみ。
だが、ここにきてアンヌに心境の変化が現れた。しばらく会わずに過ごしてきていた為、アンヌに何が起こってグレイを諦めるに至ったのか、正直まだわからない。ロージィから折々に報告は届いていたが、それだけで娘の動向が分かるはずもないし、男であるロージィには見えない部分もあったと思う。
「この部屋は人払いをしてあるから、泣いていいのよ?」
アンヌは泣くのを我慢しているかのように震えている。いっそ、みっともなくても大泣きできれば少しは気が晴れるかと思うのだが、アンヌは決して声を上げて泣こうとはしなかった。
「―――いいえ、お母様」
それどころか、抱きとめていた母の腕をするりと抜け出すと、気丈にも微笑んでさえ見せた。目元は赤くなっていたが、頬に涙のあとはない。
「ミラビリス様がいっぱい泣かせて下さいました。だから、大丈夫なんです。ちょっと、お母様を見て涙腺が緩んでしまったけれど……もう平気」
「そう、ミラビリス様が……」
アンヌの言葉からは、ミラビリスへの敬愛が見て取れ、セリーナは少し悔しいほどだった。自ら中央都市から離れ、親子離れて暮らしてきたとはいえ、少し悲しい気持ちになる。だが、離れて暮らしていた間も、ミラビリスとアンヌはそれなりにいい関係を築いていたのだと実感できた。それはこれから先の未来において、決して無駄にはならないと確信できる。
「もう、いいのね?」
「はい」
しっかりと頷いたアンヌは、記憶の中の姿よりずっと大人びて見えた。
「ライナという少女を公爵家の養女にするという案も、受けてしまうわよ?」
「お願いします」
ライナを養女にと持ち掛けたのは、実はアンヌだった。アンヌにとっては過去のほろ苦い想いだったが、それでもグレイが大切な気持ちに今は変わりなく、そしてそのグレイには幸せになってほしいとも思っている。たとえそれが自分でないとしても、胸の奥が今もひび割れているとしても。
「グレイ様を幸せに出来るのは、きっとライナだけだから……だから」
それはきっと、恋していたアンヌにとって辛いセリフだっただろう。それでもアンヌは自分の気持ちを母に伝えたかった。母が動けば父公爵も動く。
「ライナに後ろ盾がほしいの。グレイ様と並び立つ時、誰にも後ろ指さされないように―――してあげたい」
目の前にいるセリーナに向け、ただ必死に言葉を紡いだ。
「ライナはドルストーラの人間よ。きっと風当たりは弱くない……」
特に今の情勢であれば、決していい顔をされることはないだろう。ライナの生い立ちを聞けば、同情はされるかもしれない。だが、ライナの半生をそんな形で『武器』として使うのは間違っていると感じていたのだ。
「わたくし、ライナと姉妹になりたいの。あの子を守れるように、そしてあの子自身が自分で盾を得られるようになるまで」
それは贖罪なのか使命感なのか。アンヌにもわからない。
ただ突き動かされていると感じる。
何に―――運命に?
「……わかったわ、アンヌ」
アンヌは何かを掴もうと手を伸ばしている。そんな気がしたセリーナは、しっかりと頷き提案を受け入れた。
建国記念パーティ当日、ほんのわずかな時間に交わされたやり取りは、その後必要最低限の人物にしか通達されず、そのまま会場での大々的な発表へと至ったのだった。
てなわけで『盲目なアンヌ』に出てきた約束書面が出てきました。
9歳になに書かせるんですか、お母様www
しかし以外に律儀なアンヌは、それをしっかり履行するのでありました。




