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ニアントにて1

ニアントでのプレストの生活が始まった。

ニアントは、宗教の力で繁栄を遂げた歴史も浅い自治国家であった。

国としての形をとってから未だ三十年ほどしか経っておらず、至らない点は

多く存在し、足元はおぼつかない。

ともあれニアントは、クルギュー教の神エリディディンを崇拝する『教会』が管理し統治しており、

神のもとで自由と平等が約束されている。

そのため、ニアントの人口増加は止まることを知らず、

隣国から遠方の国まで多種多様な人種がこの都市に押し寄せ、定住することとなった。

居住する半分以上は流民や難民で、後の半分以下は先住民である。

勿論、全てがクルギュー教信者だ。

彼らは人種差別や身分制度などより迫害を受けることは全くない。

先にも述べたとおり『教会』が神託を受け、神の威光を借りることにより圧倒的かつ

平等的な治世を行うためだ。もし、そんな事態が生じた場合は、ホワンカレラ聖典に背いたとして

異端者のレッテルを張られ、処刑されてしまうのだ。

また、『教会』が統治を行う為の資金は、流入してきた上流階級の元貴族、俗に『はぐれ貴族』

と呼ばれるものから調達していた。

『はぐれ貴族』はその見返りとして、寄付金の多寡に応じて『教会』の権威ある役職を拝命し、

民草との区別をつけることで体面を保っていた。


ニアントは加えて、土地も肥え気候にも恵まれているため、採れる作物は多く家畜もよく育ったが、

一つ欠点を抱えていた。

それは、自衛能力の低さだ。

確かに、『教会』によって選出された「神聖騎兵」なる組織の存在はあったのだが、彼らは所詮

寄せ集めの集団でしかなく、武の素養がないものが殆どで脆弱だった。

他にも「神聖守護兵」と呼ばれる組織もあり、これは選り抜きのエリートで構成されていたのだが、

彼らの管轄は神の身辺警護という名目で、『教会』内部から出ることはなく、街の警護にあたることは

まずない。そのため、「神聖騎兵」だけでは治安維持を保つことは困難であり、

街は盗賊の被害に遭うことも少なくはなかった。

そこで『教会』は傭兵を客員剣士として雇い、「神聖騎兵」の訓練と領内の警護を任せることとなっていた―――。


===========================================


「今日の巡回は客員剣士プレスト・アーヴァイン殿とクルジアス・マルコフィン殿の二班に分かれ、

 神聖騎兵は彼らに追従する事。では、班割を発表する。――――以上だ。」


『教会』の豪奢な蒼の門扉を背後に、男は声高らかに白い息を吐いた。

芋虫の様な眉に、丸く茶色い目。低い鼻頭に横に長い口はまるでフライパンに潰されたようだ。

短身巨躯の身体には、クルギュー教徒の色である蒼を基調とする僧衣を纏っており、その白と蒼の

コントラストは清潔そうで美麗であるのだが、彼には不相応な輝きを放っている。


「どうした?早く行かれてはどうか、客員殿。わしは忙しいのだ。」

「了解です、ルン卿。」

たっぷりと脂の乗った腹をさすった男に一瞥をくれ、プレストは背後を振り返る。

総勢二十名が腰に手を当て恭しく整列する様は少数なれど壮観だ。背後で傲然といきりたつ男に比べ、

蒼の僧衣からは凛々しく勇ましい生気を滲みださせている。プレストはそんな「神聖騎兵」たちの姿に

在りし日のタランテウスを重ね合わせ自嘲気味に笑った。

そしてすぐにキッと顔を引き締めると、拳を胸元に押し当てる。


「エリディディンの導きを胸に、悪しき者に神罰を。」

「「エリディディンの導きを胸に、悪しき者に神罰を。」」

復唱の声は白い息を立ち上らせた後、暗雲立ち込める漆黒の冬空に溶けて消えた――――。



ニアントに着いてから三日が過ぎていた。

幾ばくか時間が過ぎたことで、彼女の胸の内には余裕と、激しい後悔が生まれていた。

少女との劇的な邂逅の後、依頼の報告をしにゲアルカンに戻るわけにもいかず、ニアントへ進路を

向けたプレストであるのだが、それから今日に至るまで少女は頑なに口を開こうとしなかった。

まるで人形のように虚ろな目をして、およそ感情というものが欠落した様子で、少女は焦点の合わない

視線をただ部屋の樫材の板に向けている。その様は、自身に降りかかった災難を受け入れまいと必死に抵抗

しているように見え、プレストは彼女と語り合うには時間が必要だと判断した。故に、以前から幾度か

武術指南を施していた「神聖騎兵」に足を運ぶことで少女との距離を取り、独りで考える時間を作らせたのだ。


プレストは内心苛立っていた。少女にではない、自分にだ。

名前も知らない少女のために依頼を放棄し、積み重ねてきた信頼を崩してしまった。

依頼は申請してから書類報告することで達成されるため、例えそれが達成困難な場合であっても、

依頼主なり仲介人なりに報告する義務があった。プレストの所属しているギルドでは

バッガースが仲介人となって依頼を斡旋しているため、必然的に彼に報告することがギルド内での暗黙の

了解だった。もし、その申告がなされなかった場合、ギルド全体に影響を及ぼすことになる。即ち、それは

一人の過ちがギルド全体の信頼の失墜を招き、彼らの仕事を減じてしまうということだ。

皆には、特にバッガースには迷惑をかけたとプレストは自身の行いを恥じた。自分を雇ってくれたギルドに

取り返しのつかない裏切りをしてしまった。おそらく彼らはさぞ憎んでいることだろうと。恩を仇で返した自分を

さぞや恨めしく思っているだろうと。許されぬ罪をプレストはまた一つ犯してしまったのだ。

消せない罪を背負いすぎている双肩に、また一つ背負ってしまったのだ。


――しかし何故、この少女に自分は固執するのだろう。

プレストの脳裏にはそんな疑問がふと浮かび上がった。

今まで受理した依頼の中には、誘拐された少女を救助する内容のものもあったが、その時には

少しも心を動かされることはなかった。淡々と、与えられた仕事をこなす完璧なプレスト・アーヴァインで

いられた。どうしてこの少女だけがこうも狂おしいほどに胸をかき混ぜるのだろうか。

どうして断頭台の少女と彼女だけが重なるのだろうか。

胸の内に生まれた不安と後悔は膨らむばかりで、プレストは内臓が圧迫されたように気持ちが悪くなった。

抱え込んだ感情をすべて吐露してしまえるなら、どれほど楽だろうか。

「何故、彼女を助けたのでしょうか。」

不意にこぼれた自分の発言が自家撞着だと気づいてハッとし、プレストは眉を顰め、空を仰いだ。


ニアントの夜空は厚い雲に覆われ、三日前と相も変わらず星を完全に覆い隠している。

時々そこから舞い落ちてくる白く小さな結晶は、

輝けなかった星のせめてもの償いの様で、それがニアントの真新しい石畳の上に積もり、うっすらと

夜道を景気づける。道の端に等間隔に立ち、青白く明滅を繰り返す『コーダ』はニアントが独自開発した街灯で、

それは、敷き詰められた雪と立ち並ぶ簡素な家々を怪しく仄かに照らしていた。


「・・・・・・プレスト殿。」

「・・・・・・・。」

「プレスト殿ッ。」

「どうした?」

プレストは慌てて背後を振り返る。教えたとおりに真面目に隊列を組んでいるらしく、「神聖騎兵」は慣れない雪道に

苦戦しつつも二列応対で追従してきていた。その中から前列の兵士の一人が隊列から外れ、眼前に立っている。

まだ若く、そばかすが印象的な精悍な顔立ちの青年は確かハルティオンと言ったかと、プレストは記憶の糸を辿る。

何しろ周期的に入っては抜けを繰り返しているため、部下の人事異動がある度に新入りの名前を覚えなければならないのだ。

客員剣士の辛いところだとプレストは胸中で吐いた。

彼は顔を紅潮させ、いかり肩を上下させている。

「どうした?ハルティオン。」

「プレスト殿。巡回の経路が違う気がするのですが。」

見ると、アニール鍛冶屋の木彫りの看板が雪を積もらせてこちらを向いていた。

通常の巡回路からではこの景色は望めるはずもない。

どうやら三叉路の、本来は右に進路をとるところを左側に来てしまったようだ。

これは客員剣士として金を貰っている自分としては大きな失態で、あまつさえその理由が

私情を挟んでの思案などとは部下に示しがつかない。そう思って謝辞を述べようとしてふとプレストは気付いた。

現在地点は本来進むべき道からかなり遠ざかっていた。彼らはもっと早く声をかけることが出来たのでは

ないかと。

「すまない、私のミスだ。しかし、ハルティオン。どうしてこの状況まで黙っていた?」

「・・・・・いえ、その。」

「どうしてだ、お前たち。」

歯切れの悪いハルティオンからプレストは視線を滑らせた。皆、プレストと視線を合わせないように

顔を背ける。その表情には明確な怯懦が滲み出ていた。プレストがその様子にもう一度詰問をしようと口を開きかけた時、

隊列の一番後方からすっと手が上がった。

「プレストさん、勘弁してやってくれよ。」

言ったのは一番の古株で、プレストもよく知っている男だった。名をピィルキンスといい、

皮肉るような物言いでなかなか昇進できない、しかしどこか憎めない中年だった。

背丈はプレストと同じくらい長身で、口元の濃い髭と、尖った耳が特徴的だ。

「音に聞く冷血スパルタ女、プレスト・アーヴァインにこいつら怖気づいちまってるのさ。

 新米のひよっこ共ばかりだからなぁ。

 結構勇気いると思うぜ、あんたが道を間違えたのをただすのはよ。」

「私は冷血漢などではない。」

「頬赤くしちゃって、可愛いねぇ。おっさんと今晩どう?」

「ピィルキンス、茶化さないで下さい。それにあなたは既婚者でしょう。」

「お堅いねえ、プレストさん。おっさんはいつでも待ってるよ?」

「遠慮しておきます。」


プレストは白い息を吐いた。緊張した空気はいつの間にか弛緩し、「神聖騎兵」達の表情には安堵が窺えた。

ピィルキンスのお蔭だと、プレストは素直に感謝した。

思えば彼は例外なくいつも他人のことを気にかけ助けていたし、武術の腕前も「神聖守護兵」に負けぬほど優れていた。

だから、彼のような人間が未だに「神聖騎兵」の下っ端として後列に控えていることにプレストは得心がいかなかった。


ニアントを牛耳る『教会』。金にものをいわし、権力を手に入れた「はぐれ貴族」。

彼らの承認を得られて初めて、「神聖守護兵」の地位を手に入れることが出来るのだ。

ピィルキンスは彼らのご高説を享受できず、異を唱えたばかりに昇進できぬのだろうとプレストは思った。

先程の、腹に立派な脂を携えたはぐれ貴族などより、ピィルキンスの方が余程重要な人材であろうに。

腐敗した政治によって抑圧される才能はニアントもゲアルカンも変わらぬものだと、プレストは痛感した。




任務を終えて解散したところを、ピィルキンスが声をかけてきた。

「プレストさん、最近どうよ。」

「やめてくださいピィルキンス殿。もう巡回は終わりました。

 いい加減、プレストさんなどと気色の悪い呼び方、我慢なりません。」

プレストは年上に対して、職業上の立場以外では敬意を持って応対していた。

中にはバッガースという数少ない例外もいるのだが、ともかくピィルキンスに対しては

憧憬を込めて対応していた。

「そうかい。ほんとそういうとこ、しっかりしなさってるよ。」

ピィルキンスはどこか物悲しげな表情を浮かべると、プレストの肩に手を置いて声を潜めた。

「それなら年上として遠慮なく聞かせてもらうが、右側の髪はどうした。」

「・・・・・・・自分で切って失敗を。」

「つくならもう少しマシな嘘をつくんだな、アーヴァイン。お前は顔に出やすい。」

額を小突かれて、プレストはムッとした。

「元々こういう顔です。」

「ほう?そう来るか。」

ピィルキンスは高らかに笑って続ける。

「あんなに大事にしてた髪を、アーヴァインはぞんざいに切り落としたのか。

 そりゃ殊勝なことだな。それで?その髪はちゃんととってあるんだろうな?」

「・・・・捨てました。」

「何?捨てただと?冗談だろ。アーヴァインの墓前には、『髪を何より大事にした騎士』って

 刻んでやろうと思ったのに。それじゃ齟齬が生じちまうじゃねえか、どうしてくれんだ?ええ?」

「・・・・・・ッ。」

ピィルキンスの皮肉に眦を決したプレストは、また額を小突かれることとなった。

「冗談だよ、馬鹿野郎。本気にすんな。」

「・・・・・・。」

「何、むくれてやがんだよ。お前が悪いんだぜ。さぁ、白状しな。」

「・・・・・・かないませんね。」

「何言ってやがる。お前が分かりやすいんだ。」

はぁと、長い溜息を吐き、観念したようにプレストは言葉を紡ぎだした。

ゲアルカンで依頼を受けたこと、銀髪の女と出会って少女を守ることを決めたこと、

結果としてギルドを裏切ることになったこと。それらを要所を抑えて端的に話した。

だが、魂奏士としての仕事については話さなかった。組織からも口外することを禁じられていたし、

プレスト自身言うつもりなど毛頭なかった。

ピィルキンスは途中でうーんと唸ったり、おうと短く唸ったり、プレストの話が終わるまで

的確な相槌を打ち、熱心に耳を傾けていたが話が終わった途端、開口一番言った。

「馬鹿か、お前は。」

「・・・・・・・。」

そして、ピィルキンスは頭を抱え苦々しげに言葉を吐く。

「いいか、アーヴァイン。目の前で起こったすべての事象に対して、自分の責任負っかぶせるのはな、

 それは正義じゃない。ただの、傲慢だ。人間の薄汚いエゴの塊でしかないんだよ。

 老人が死んだのは、盗賊団が壊滅したのは、少女が心を開かなくなったのは、お前のせいか?違うだろ。

 全部を一人で背負い込んで、自分の責任として受け入れたお前のエゴがそうさせるんだ。

 ギルドの連中に迷惑をかけたのは、そんなお前の傲慢さだ。」

「違います。」

「何がどう違う?」

「・・・・・・・・。」

違わなかった。魂奏士として、ギルドの一員として、与えられた使命をこなして生きてきた。何の目的も

なく、ただ単調に任務をこなし、そうすればいつか罪が消えるのではないかと期待した。だが、報酬として

得る物は金と消えない罪だった。任務をこなせばこなすほど、贖おうとした罪過は膨れ上がっていくばかりで、

罪悪感を意識するだけで胸が何度も押しつぶされそうになった。それはきっと、全てを背負い込もうとする自分自身の

エゴがあるからに違いなかった。


「お前は不器用すぎるんだ、プレスト・アーヴァイン。」

ピィルキンスは諭すように熱い眼差しを向ける。

「楽になれ。肩の荷を下ろせ。関係のないものまで背負い込もうとするな。

 自分が背負うべき責任てのは決まってんだよ。

 生きてりゃ誰かを傷つけるし、傷つけられるもんさ。お前が償えるのはせいぜい傷つけた人間

 ぐらいだ。俺たち人間はちっぽけなもんでな。それぐらいしか出来ないけど、それぐらいできれば

 上出来だ。」

茶化す様な物言いに、プレストは彼から目を背けた。

ピィルキンスの指摘は間違っていない。一つも弁解の余地はない。けれど、プレストはそれを認めたくはなかった。

ここまで来て楽になるなんて、途中で生き方を変えるなんて彼女には出来なかった。

もし変えてしまえば、今まで背負った罪を否定することになるからだ。諦めることになるからだ。

クラスタという、人の負の感情の塊を葬ってきた彼女にとって、それは許されることではなかった。

彼らの想いを引き受け、クレアシオンへと魂をかえすのが魂奏士の役目だ。

例え全ての罪を負うことが自分の傲慢だったとしても、エゴだったとしても、

自分が罪を背負うことで彼らが報われることになるのなら、それは背負うだけの価値のあるものだ。


プレストは、自分が綺麗事を言っていることは分かっていたが、ここまでくれば意地だと、

ピィルキンスにきっぱりと決意表明した。

「それでも私は、背負い続けます。」

「・・・・そうか。そうだろうな、お前らしいよ。ならもう、おっさんは何も言わん。」

ピィルキンスはまるで、プレストがそう言うのを予測していたように答えると、

「一応、忠告はしておいた。あんまりにも思いつめた顔をしてたもんでな。

 顔に出る癖、直しておいた方がいいぞ。」

おっさんは助かるけどなと付け加えた後、破顔した。気持ちのいいぐらい、すっきりとした顔だった。

彼はおそらく分かっていたのだ。忠告をしても自分がそれを受け入れないであろうことを。

失敗すると分かっていて、人間関係に軋轢が生じるやも知れないと分かっていて、説得を試みたピィルキンスには

やっぱり敵わないとプレストは独白した。そして、負け惜しみとばかりに意地悪を口にする。

「ピィルキンス殿が『神聖守護兵』になれるよう上に掛け合ってみましょうか。」

「やめろやめろ。そんなことしたら余計に立場が悪くなるだろ。ただでさえ上の連中は

 俺のこと毛嫌いしてやがんだ。客員剣士がそんなこと言ったら、まず俺が仕組んだことだって

 思われちまうよ。」

プレストは口元に手を寄せ、クスクスと笑った。その様子に最初は目を丸くしたピィルキンスだったが

すぐ合点がいったと眉を顰めた。

「アーヴァイン、お前図りやがったなこの野郎。分かったよ、さっき苛めたのは謝るよ、悪かった。

 嫁さんもそのことについてはぎゃあぎゃあうるさくてな。いつになったら『神聖守護兵』になれる

 のとか、子供の養育費はどうするのとか五月蠅くてよ。その話題は正直、堪えるんだわ。」

堪忍してくれと頭を下げるピィルキンスは露骨に嫌そうな顔をし、プレストはそれがツボに入ったのか

益々、肩を震わして笑った。そうした中で、笑ったのはいつ以来だろうかとプレストは可笑しな疑問を抱くのだった。




帰りしな、ピィルキンスはもう一つ忠告とばかりに言った。

「帰ったら少女に話しかけてやれ。一番辛いときにその人のそばにいてやれることが、

 何よりも大事なことなんだ。それは簡単でいて、なかなかできるもんじゃない。

 話しかけるとなおいいんだ。お前の話でもしてやれ。」

「分かりました。愉快なピィルキンス殿の話でもしておきましょう。」

「何でおれの話なんだよ。」

「・・・・・では。」

プレストは軽口を叩いてピィルキンスに別れをつげた。

最後まで説教くさかった彼は、満足そうに微笑んでプレストを見送った――。



====================================

巡回を終えたプレストは、宿屋の立てつけの悪い鉄製のドアを叩いていた。

降り続く雪は、粉の様なさらさらした雪から、大粒のボタンの様な雪に変わっていたため、

一刻も早く暖をとりたいと思っていた。漆黒の外套はすでに色を純白のそれに

変えており、雪が層状に積み重なっている。プレストはもう一度強くドアを叩いた。

「・・・はいはい、分かりましたよ。」

と、暫くして気だるそうな濁声がかえり、のぞき穴からダークブルーの瞳がこちらを覗く。

「真っ白で誰か分からないね、名前は?」

「プレスト。プレスト・アーヴァイン。」

「ちょっと待って下さいね。」

ダークブルーの瞳が離れ、中から紙をめくる音が聞こえる。そんなことは後でいいから早く中に

入れてくれとプレストは胸中で毒づいたが、こんな夜更けまで仕事熱心な宿主に共感を抱くことで

怒りを鎮めた。

「はいはい、プレストさんね。」

ガチャリと鍵を開く音が聞こえ、化け物の様な悲鳴をあげてドアが開いた。

「寒かったでしょう。遅くまでご苦労様です。」

「いえいえ、お互い様です。」

言ってプレストは丁寧にお辞儀をし、宿主の張り付けたような笑顔に答えた。

二階建ての小さな宿屋は部屋数が四あり、一階に二部屋、両側にある階段を上って

左に一部屋、右に一部屋ある。装飾品も何もない簡素な内装で、樫材でできた床は

歩くたびに悲鳴を上げ、木壁は触れると塵芥を散開させた。プレストは右側の急な階段を

慎重に上り、少女に何を話そうかなどと陽気に思案していた。ピィルキンスと話したことで

不思議と不安は払拭され、少女とも前向きな関係を築けそうな気がしていたのだ。

鉄製のドアノブに手をかけた。

「・・・・・・・・・。」

時計回りにくるりと何の抵抗もなくドアノブが回る。鍵はかけてきたはずだったと、外套の

ポケットを弄って鍵を確認し、途端ぞっとするような寒気が体を駆け抜けた。

「落ち着け。」

と、自分に言い聞かせて目を閉じ、そしてふっと息を吐く。

彼女は外には出られないはずだ。感情を忘れてしまったように瞳に色を失った少女だ。

動けるはずもない。動けるわけがない。

だが、思考を繰り返す程に不安は募るばかりで、プレストは意を決してドアを開け放った。


がらんとした六畳ほどの部屋には装飾の類が一つもない。正面に長机と椅子が一つずつ。右端に簡素なベッドが

おいてあるだけだ。少女はそのベッドの上で寝ているはずだった。色を失った瞳を天井の樫材に向けているはずだ。


―――しかし、少女の姿はなかった。

脱ぎ捨てられた毛布は明らかに彼女の意志で払いのけられたもので、ベッド脇においてあった小さな靴も

なくなってしまっていた。



プレストは弾けたように部屋を飛び出すのだった。




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