王女誘拐劇
初老ソリードンが、今――――。
ルーフは目を覚ました。
彼女の瞳に入ってきたのはいつもと変わらない、天井の瀟洒なシャンデリア。
「また、起きてしまったのね。」
嘆息とともに日課になった台詞を吐き出すと、ルーフは窓の方に視線を向けた。
遠くの方では水平線から太陽が顔をだし、周囲の空を真鍮色に染め上げ、海面に宝石を散りばめている。
手前に視線を寄せると、模型のような白い街並みがその太陽の恩恵を静かに受け、これからの発展に
身を躍らせているようにも見えた。
眼下の眺望は、これ以上なく美麗で壮大な情景だったが、ルーフの心は晴れない。
どころか、悪化していた。
光は、対極となる闇を照らしだすためにあると本で読んだことがあったが、
今の状態にぴったりだとルーフは臍を噛んだ。
光に照らし出された闇は、浄化されることもなく、一生惨めに晒され続け、
救われることなんかない―――。
「ルーフ様。朝早くに申し訳ございません。火急の用がございます。」
ぱっと身をねじり、瞬間的にルーフはドアの方を向いた。
こんな時間に来訪者が来ることなんて今までなかったからだ。
しかも若い成人男性の声であったため
自然、彼女の表情は強張り、発する声にも険呑さが加わる。
「何でしょうか。」
「失礼します。」
ドアが内側に開き、恭しい所作で声の主が姿を現す。
深い藍色の短髪と瞳、年は若く太い眉と角張った顎が特徴のその男は頭を垂れ、
聞き取りやすい声で用件を述べた。
「私の名は、クレヴァス・ルテリカと申します。
急な予定が入り今日一日の日程を変えさせて頂くこととなりました。
課外授業として今から領内の散策にご同行頂きたく思います。」
「・・・・・。」
ルーフの沈黙は無理もない。
彼女の疑問点は主に二つ。
一つは、執事でない初対面であろう男が早朝に自分の部屋にやってきたこと。
もう一つは、婦女子のしかも一国の姫である自分の部屋に、ノックもせずに入ってくる
程急いでいること。
男の身なりは模範的な貴族男子のそれであるものの、以上の二点より
ルーフは依然警戒心を強め、怯懦し、震えた声で呟く。
「そう言われ、ましても、私は・・・」
「申し訳ありません。早くご支度を。」
男は頭を垂れたまま矢継ぎ早に言って、顔を上げた。
その表情には焦燥の色が滲み出ていて、まるで何か大きな圧力に怯えているようにも
見て取れる。
「ですが・・・。その・・・。」
「・・・・しょうがねぇな。」
相も変わらないルーフの返答に、男は痺れを切らしたように粗野な口調で呟くと、
恭しい態度を一変させ、礼節さを欠いただらりとした足取りでこちらに近づき――
ドン、という鈍い音と共にルーフは腹部に鈍痛を覚えたまま気を失った。
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港湾に位置する国、ゲアルカン。
その国は、先王トリスが存命の頃、諸外国から大勢の人が行きかう有数の貿易国家として、
大陸中にその名を轟かせていた。
しかし、王の崩御後は街道沿いに野盗が湧き、海路では海賊が暴れ狂い、さらに国内では
王権派と革命派の抗争が激化したことも相まって、他国との交流は暗礁に乗り上げた。
交易都市として貿易に依存しているゲアルカンの収益が著しく下がったのは言うまでもない。
国家経済はまさに火の車だった。
今や、ゲアルカンは大陸に名を馳せたころの輝かしい威光を恣にしていた。
対して、ゲアルカンの西にある聖地ニアントは
ゲアルカンの衰退に端を発し、繁栄の一途を辿っていた。
不況により発生した失業者や不労者が、クルギュー教の聖地ニアントに救いを求めて流入したためだ。
ゲアルカンも国教としてクルギュー教を掲げているものの、
ニアントとは信者に対する扱いに雲泥の差があった。
ニアントでは、祈りを捧げる信徒に無償で食料を配布する制度や医療費を免除する制度がある。
そんな制度が施行される程の金は、信者からの多額の寄付金から賄われていた。
ゲアルカンの重税に耐え飢餓に苦しむより、人々は日々の食糧と健康を獲得するために信者となり、
ニアントに亡命する方を選ぶのは至極当然だった。
そのため、ゲアルカンからニアントへの街道は当初、国境越えを果たさんとするゲアルカン人で溢れかえっていた。
救済措置として国は、ゲアルカン騎士団を派遣することで街道を封鎖し、これの鎮圧に一時は成功した。しかし、
昨今の革命派の台頭により騎士団が城の警備に戻されると、笊の様な以前と変わらぬ関所が返ってきた。
――王女誘拐の任務は滞りなく遂行されている。
白い布で覆われただけの直方体の荷馬車の中で、
元ゲアルカン宰相、ソリードンの面持ちは暗い。
当の王女と一言も会話ができないことと、国境越えがこれ程容易に出来たことに
忸怩たる思いが生じ、その二つが元宰相としての彼の顔を硬く強張らせていた。
いや、正確にはもう一つあった。
「おい、旦那。浮かない顔してどうしたんでさ。」
もう一つが、、いやもう一人がこちらにその特徴的な太い眉と角ばった顎を向けてくる。
「いや、何でもない。クレヴァスよ。」
「そうか、ならいいんだけどよ。」
クレヴァスは軽くそう言うと、対面で軽く伸びをし、カッカッカッと口腔が見えるほど口を開いて
笑った。ソリードンは呆れたようにこめかみに手を当て、より表情を強張らせる。
彼の老いた体はここ数日でさらに痩せ細り、羽織った粗末な灰色の服は丈が余ってまるで体に合っていなかった。
その原因の一端を担っているとはつゆ知らず、対面の若輩は何が可笑しいのか未だ笑っている。
ソリードンは視線をクレヴァスから外し、彼の隣にいる少女に目を向けた。
それは、その姿は精巧な人形というのが正しかった。
金色の眩いとさえ思うほど滑らかな髪は腹のあたりまで伸びており、その髪には彫刻のような白い
手が絡まっている。オパールを思わせる大きな藍色の瞳はまるで生気がなく、灰色の粗末な衣を纏う
華奢な身体は、魂の抜けた器のようだ。端正な容貌にはまだ幼さが残っており、それが一層、彼女に人形らしさを与えていた。
時折、馬車が揺れる度に身体をびくつかせるのでかろうじて人間だと分かるものの、それ以外は一切
動かず、ただぞっとするような視線を木目の床に落としている。
粗末な木綿の服を着るようにと提案したのはクレヴァスだった。
ソリードンとルーフが奴隷で、クレヴァスが奴隷商人という設定だ。
――うまくいくはずがない、と当初ソリードンは思ったものだった。
人身売買はゲアルカンでは禁止されており、見つかれば即死刑に課せられるほどの重罪であったため、
他の国ではともかく自国においてそれがまかり通るはずがないのだ。
それに、自分はともかく、王女の気品や風格というものは粗末な衣を身にまとった程度で隠しうるものではない。
特に、ルーフの母は、王の寵愛を頂くほどの美貌と気品を兼ね備えており、その娘のルーフも確実に
それを受け継いでいたため、いくら凡庸な兵士でも気付いてしまうと思ったからだ。
しかし、実際のところ、クレヴァスの戯言は大成功に終わった。
ルーフ王女が見事、人形と成り果てていたため、
関所の兵士は「老人と壊れた少女か。売りもんになるのかい。」と、多少の賄賂をクレヴァスから
受け取っただけで道を開けたのだ。
仮にも自国の宰相と王女を、老人と壊れた少女呼ばわりしたばかりか、剰え(あまつさえ)人身売買を
許容するなど言語道断だと、義憤に駆られたソリードンが立ち上がったところをクレヴァスが
平手打ちすることで策は完成を迎えた。
「人身売買なんて、何も珍しいことじゃないさ。ゲアルカンでも昔から行われてたんだぜ。」
クレヴァスは頭を後ろ手に組み、下卑た笑みをソリードンに向けた。
「その・・・ようだな。」
「お偉いさんがたには知られないようにうまくやってんだから、旦那が責任感じることないよ。
元気出せって。雇い主がそんなんじゃ、やる気でねぇよ。」
「・・・そうだな。」
クレヴァスの慰めにも、ソリードンの表情が好転することはなく、荷馬車の中には外気と同じぐらいの
冷気が立ち込める。
「果たして、これでよかったものか・・・。」
言ってソリードンは視線を進路に向ける。
馬車は林道に差し掛かっていた。
道には石畳が所狭しと敷き詰められ、所々が欠け落ちている隙間から雑草が霜を湛えて這い出ていた。
その上に両脇に立ち並ぶ木々が陽光を浴びて影を落としているため道は薄暗く、風は冷たい。
この道を真っ直ぐ突き進んでいった先に聖地ニアントがあった。
このまま無事にたどり着いたなら、ソリードンの役目も終わる。
後はクルギュー教の庇護の元、追っ手に追われる心配もなく、先に亡命している家族と余生を安穏と過ごすのみだ。
「これで・・・・。」
「うわぁあああ・・・。」
と、ソリードンの呟きは、人間の叫び声により遮られた。
声のした方向は探すまでもない。眼前で、手綱を握っていた男の体がゆっくりと傾いだからだ。
彼の胸には矢じりが深々と突き刺さり、深緑の木綿の服には赤黒い血が滲んでいる。
「オーヴァイッ。」
跳び起きるようにクレヴァスが相棒に駆け寄り、荷馬車の方に引きずり込んだ。
苦しげに呻く男の服を無理矢理脱がし、矢に手をかけ、呆けたように傍観しているソリードンに声を荒げる。
「突っ立ってないで、包帯かなんか探してくれッ。」
「あ、ああ。」
魔法から覚めたようにはっと我に返ったソリードンだったが、突然の事態に身体がうまく動かない。
固めてあった荷を探ろうと足を伸ばしてみるものの、鉛を引きずっているかのように微動だにしないのだ。
クレヴァスに状況を報告しようと視線を滑らせた時、ふとルーフと視線がぶつかった。
彼女のオパールの瞳にはしっかりと恐怖が滲んでいた。人形ではない、それは紛れもない人間としての純粋な感情だった。
この状況下で、ソリードンは少し気が楽になった。胸を苦しめる鎖が一つだけ砕けたように思えた。
呼応するように、彼の体に熱いものが駆け巡り、その流れは足に集約され、老体を躍動させる。
――足が、動く。
床を蹴り上げ、荷までの距離を一気に詰め、中身を猛然と物色した。
――確か、包帯は積んでいたはずだ。
雑多をかき分け、それらしきものを掴んだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瞬間だった。
衝撃とともに上体が大きく傾いだ。
ソリードンは耐え切れず、荷とともに前につんのめるように端から端へともんどりうち、床に頭をつけた状態で
止まった。しかし、なおも振動は収まらず、その度に身体を強打し、彼の意識は徐々に薄れていった。
「ハハハッ」
「イェーイ。」
薄れゆく意識の中で、彼の聴覚はそんな野卑な声を捉えた・・・・・・・・・・・。