#2
向こうの国では、近衛騎士の装束に不釣り合いな異民族の黒髪と瞳の色が注目されていた。
わたしが帰還したのは、駅に近い商業区画。
一番大きなデパートは母に連れられて買い物に来た記憶がある。赤いレンガ様の壁。明るくて清潔感のある店内がガラスの向こうに見える。店の名前も建物も変わっていないことに安どした。地方都市だが、人口は多く東京よりも暮らしやすい。
数十メートル歩くと、細かい変化に気づいた。建物と場所はそのままに店名だけ変わった商業施設もある。小さな店は新しい建物が多く、外国の街並みのようでもある。角を一つ曲がると、かつては住宅と商店が混在していた路地だった場所が広い道路に変わっていた。
子どもの頃の寂れかけた商店街のイメージと様変わりしていた。
民家と商店が混在した街並みは通りに面した建物がカフェや洋服店、レストランになって住居は陰に隠れている。とても賑やかだ。
街の声を聞く。久しぶりの日本語に心は高なる。暗く沈んだ面持ちで次元の壁をくぐったが、少し気分が良くなる。
迷わずに我が家まで辿り着くことができた。
チャイムを鳴らす。
「はい」インターホン越しに聞こえた母の声。
「サクヤです。ただいま帰りました」
すぐに返事はなかった。1分ほど経ってから玄関の鍵が開く音があった。
おどおどした表情で母が顔を出す。記憶の中の姿より小さく細くなっていた。わたしの身長が170センチ近くあるので、ほとんどの女性を見下ろす視線になる。
「ひさしぶりです、おかあさん」
母の体が小刻みに揺れた。その手がわたしの肩にかかると同時に、膝から力が抜けてうずくまりそうになる。
さすがに母親、本人の証明は要らないようだ。
失踪していた子どもが無事に保護されると、大変な騒動になる。
みんな、わたしのことを腫れものを触るように接した。
「サクヤさん、どこか具合の悪いところはありませんか? もし大丈夫なら、少しお話を聞きたいの」
警察も、わたしのこの10年のことを捜査していた。病院で診察を受けた後に、ずっと女性警察官がわたしに付き添った。
5歳の幼子が自発的意思で家出をするのは難しい。帰りが遅くなれば、すぐに身柄を保護される。だから、事故、たとえば交通事故に遭い遺体が発見されていないか、何者かによって誘拐・拉致されたと考えるのが普通だ。誘拐であった場合、身代金の請求がなければ、動機は女児の身体に危害を及ぼすものとなるだろう。
完全に自由な生活というのは無理だが、なんとか日常生活を送れるようになるのに半年以上かかった。
そうして、次の4月。わたしは地元の高校2年生に編入することができた。
「ともだち、100人できるかな?」
5歳でこの世を去ったわたしにとってはじめての学校だった。
わたしが訳ありだと知っているので、教員たちも優しく接してくれる。気遣いを固辞するのも申し訳なく思い、殊勝に振る舞っている。
学校に入学する前から、わたしのために特別なカリキュラムが組まれた。小学校からのカリキュラムを足早に学んだ。そこで高校のカリキュラムについていけると判断された上で高校入学が認められる。
困難な部分と楽な部分が両面ともあった。短期間で小学校と中学校のカリキュラムを消化するのは普通に考えて無理があると思うだろう。
ただわたしも、無人島に10年漂流していたわけではない。わたしはこの日本とは異なる文明社会で、そこでしか学べない教養を得ることもできた。周囲に貴族階級の人間がいたこともあって、少なくとも高度な学習習慣はあった。学問とは、修める内容もさることながら、そこに望む姿勢の方が重要なのだと思う。
とはいえ10年分の学問を半年で、と考えたときには軽いめまいもしたものだ。他にすることのなかったわたしはひたすら勉強していた。そうこうしているうちに、短期間での詰め込み学習というのも効率的であることに気づいた。わたしの学習意欲を加速させる動機もあった。
最初は教育委員会の人たちもわたしが短期間で成果を出せると思っていなかったようだ。 意外なことに、わたしにとっていちばん時間がかかったのは小学校の教科であった。 文部科学省から派遣された小学校教師が、じっくりと丁寧過ぎる位に漢字の書き取りから足し算引き算の算数から教え始めたので時間がかかった。
わたしも見知らぬ国となってしまった母国の学問に戸惑っていたこともあった。ただその教師もわたしが全くの無学ではないことを知ると、学習のペースを早めた。日本史や世界史といった歴史の授業は中学からもう一度学び直すということで省かれていったこともある。2ヶ月で小学校の課程を修了したが漢字の書き取りだけは今でも続けている。
そして中学の課程からは各教科ごと別の担当教員に学ぶこととなった。
わたしがいまの高校を選んだのは、そのときに出会った教師の本務校だからだ。
「これも運命なのね」
逆らい難い力が働いている。
「此花咲弥さん、わたしは国語を担当します、名藤有人です。よろしく」
20代後半の国語教師は、やさしく微笑んでわたしと目を合わせると少し表情が変わった。 記憶の奥から何かの情報引き出そうとしているかのようだ。
わたしのことを知っている目だ。
(そう。そしてわたしもあなたを知っている)
「なんだろう、初めてあった気がしないな……って、どうした?」
わたしの両の眼から大粒の涙がぽろぽろと零れおちた。
「お、おとうさま、おとうさま……」
名藤氏は驚愕の表情になっていた。わたしは立ち上がり、ふらふらと机の前を横切り彼の体に自分の身を預けるように抱きついた。
「きみ、もしかして……『あの』サクヤか?」
「そうだよ、おとうさま……ううっ」
マンツーマン授業なので他にだれの目もない。わたしは人目を憚らず声を上げて泣き出しそうだった。その口を彼はふさいだ。
「待て、サクヤ。いまはまずい」
「おとうさま、再会がうれしくないのですか? あんな別れ方をしたのに」
「気持ちはわかる! だが、部屋の外には人がいる。生徒が号泣してたら何事かと思われる。とにかく、気持ちを落ち着けて授業時間が終わるのを待つんだ」
彼はわたしをなだめながら席に座らせる。わたしの気持ちが昂ぶっているので思い出話もできず、無言で時間が過ぎるのを待っていた。そして授業時間が終わった。
「サクヤ、わたしの連絡先をわたしておくよ。携帯電話は使えるかな」
「うん。持ってる」
彼は名刺に手書きで携帯電話の番号を書き足してわたしに手渡した。その手をぎゅっとわたしは握った。
「いやだ、せっかく会えたのに離ればなれになりたくない」
彼はわたしの腕に掌をのせて言う。
「大丈夫だ。これから毎日授業で会うのだから。みんなに怪しまれないように外で会うこともできるだろう」
「でも、またなにか危険なことがあったら……」
「サクヤ、ここはアガスティアとちがって、めったに危険なことは起きないよ。いまはこの国は戦争をしていないし、たちの悪い人間はどこにもいるけど、おまえに危害を加えることのできる人間なんてそうそういないよ。一番気を付けるべきなのは交通事故だな」
わたしは彼から武芸18般を学んだ。とくに剣術は得意だが、槍でも鎖鎌でも徒手空拳でもなんでもござれだ。
困ったのは異世界・アガスティアからの唯一の持ち込み物である剣を帯刀できないこと。先ほど言ったように剣に頼らなくても身を守れるが、あれはおとうさまからいただいた形見でなによりも大事なものなのだ。家でも客に見られないよう、取り上げられないよう押し入れに隠している。母がいぶかしんだので、その存在だけは打ち明けた。
「警察に預けましょう」
言わないでおけば、娘の誘拐に関連する品物と母は判断して勝手に警察に提出してしまいそうだった。
「絶対にNO!」
この刀はわたしを命をかけて護ってくれた恩人からいただいたものだと家族を説得した。