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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました

掲載日:2026/05/19

 婚約式の鐘が鳴るはずの時刻に、私の婚約者になるはずだった人は、病弱な幼なじみの寝室へ向かっていた。



 神殿の控え廊下は、よく磨かれた白石でできている。


 足音が響きやすい。

 だから、来る人がいればすぐに分かる。


 けれど、式の開始時刻を告げる小鐘が鳴っても、その足音は聞こえなかった。

 扉の向こうには、両家の親族が揃っている。



 私の父であるエルヴェイン公爵。

 母。

 ハーグレイヴ侯爵夫妻。

 立会神官。

 王家婚姻登録院から派遣された公証人。


 さらに、今日の婚約式が公爵家と侯爵家の正式な婚約登録を伴うため、監督官としてレオニス大公家の次男ヴィクトル様まで控えていた。



 整っている。

 場は、完璧に整っている。


 整っていないのは、ただ一人。

 誓いの言葉を述べるはずの、ディオン・ハーグレイヴだけだった。



「アリシア」



 母が、私の横で小さく呼んだ。

 その声は震えていない。

 けれど、指先は扇の骨を強く握っていた。



「大丈夫ですか」


「はい」



 私は答えた。

 大丈夫ではない。

 でも、ここで大丈夫ではない顔をしても、来ない人が来るわけではない。



 立会神官が懐中時計を見る。

 公証人も、同じ時刻を記録用紙へ写した。


 開始予定時刻から、半刻。


 神殿規定では、婚約式の誓約者が半刻以上不在の場合、式は延期または不成立として記録される。

 延期には、両家と本人たちの同意が必要だ。

 不成立には、不在でない側の意思確認と、公証人の記録が必要になる。


 私は、その規定を知っていた。

 知らなければ、今日まで待つことも、今日で終わらせることもできなかった。



「もう少し待ちましょう」



 そう言ったのは、ハーグレイヴ侯爵夫人だった。

 青ざめた顔で、それでも貴婦人らしく背筋を伸ばしている。



「ディオンは、必ず参ります。きっと、やむを得ない事情が」


「セシリア様でしょうか」



 私が静かに言うと、侯爵夫人の唇が止まった。


 父が私を見る。

 母も。

 ハーグレイヴ侯爵は、苦い顔で目を伏せた。


 つまり、皆もう知っているのだ。

 ディオンがどこへ行ったのかを。



 セシリア・ロイス男爵令嬢。

 ディオンの幼なじみ。

 幼いころから身体が弱く、長く寝込むこともある令嬢。


 それ自体は、責めることではない。


 病が本人の罪でないことくらい、私にも分かっている。

 問題は、彼女の不安がいつも、私の予定の当日に限って強くなることだった。



 初めての王宮舞踏会の日。

 ディオンは、セシリアの発熱を理由に途中で帰った。


 王妃殿下への挨拶の日。

 ディオンは、セシリアが泣いているという使いを受けて、私を控え室に残した。


 両家の晩餐の日。

 ディオンは、セシリアの手紙を読んで席を立った。


 観劇の日も。

 慈善市の日も。

 春の狩猟会の日も。

 彼はいつも言った。



「君なら分かってくれると思った」



 分かった。

 私はずっと分かってきた。

 彼が優しいことも。

 セシリアが弱いことも。

 幼なじみという過去が、私より先に彼の中へあることも。


 けれど、分かることと、待ち続けることは違う。



「アリシア嬢」



 立会神官が、私へ向き直った。

 白い法衣の胸元に、婚約式用の銀鎖が下がっている。



「規定の半刻を過ぎました。式を延期するか、不成立確認へ移るか、ご意思を確認いたします」


「待ってください」



 ハーグレイヴ侯爵夫人が、思わずというように声を上げた。



「まだ本人が戻っておりません。戻ってから、改めて」


「夫人」



 ヴィクトル様が初めて口を開いた。

 低く、静かな声だった。

 その声だけで、廊下の空気が少し変わる。



「本人が戻っていないからこそ、規定が働きます」


「ですが」


「婚約式は、片方が待つための儀式ではありません」



 侯爵夫人の顔が、さらに白くなった。

 ヴィクトル様は責めているわけではない。

 ただ、規定をそのまま口にしている。


 だからこそ、逃げ道がない。



 私は一歩前へ出た。


 白い婚約式用のドレスの裾が、石床の上でかすかに鳴る。

 今日はこの裾を、誓いの壇へ向けて進めるはずだった。


 でも、もう違う。

 この裾は、終わらせるために動く。



「本日の婚約式は行いません」



 私は立会神官へ告げた。



「婚約不成立の確認をお願いいたします」



 廊下が静まり返った。

 誰かが息を呑んだ。

 母の扇が、ほんの少しだけ鳴った。


 でも、私は顔を伏せなかった。



「アリシア」



 父が私の名を呼んだ。

 それは止める声ではなかった。

 確認する声だった。



「本当に、それでよいのだな」


「はい」



 私は父を見る。



「私は今日、婚約式へ来ました。待合室へ来たのではありません」



 父の目が、一瞬だけ痛ましそうに揺れた。

 けれど、次の瞬間には公爵の顔へ戻る。



「エルヴェイン公爵家として、娘アリシアの意思を尊重する」



 ハーグレイヴ侯爵が、ぐっと唇を噛んだ。

 侯爵夫人は泣きそうな顔をしている。

 けれど、反論はできない。


 ここには神殿も、公証人も、王家婚姻登録院の監督官もいる。

 これは内輪の口約束ではない。

 正式な婚約式なのだ。



 立会神官が頷き、公証人へ合図した。

 公証人は式卓の上に置かれていた誓約書を下げ、代わりに青い縁取りの書面を出す。


 婚約不成立確認書。


 その名前は、ひどく冷たい。

 けれど私には、その冷たさがありがたかった。


 感情ではなく、記録になる。

 誰かに可哀想だと言われる前に、事実として残る。



「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」



 公証人が読み上げる。



「本日、聖アリア神殿において、ディオン・ハーグレイヴ侯爵家嫡男との婚約式を執り行う予定であったこと」


「はい」


「定刻より半刻を過ぎても、相手方誓約者が不在であること」


「はい」


「延期ではなく、婚約不成立として記録することを望むこと」


「はい」



 声は震えなかった。

 不思議なくらいに。

 たぶん、震える時期はもう過ぎていたのだ。


 何度も待った。

 何度も飲み込んだ。

 何度も、君なら分かってくれると思った、と言われた。

 そのたびに、少しずつ何かが冷めていった。


 今日、凍っただけだ。



「では、署名を」



 ペンが差し出される。

 私はそれを受け取った。

 白い手袋を外し、素手で署名する。


 アリシア・エルヴェイン。


 まだハーグレイヴではない名。

 これからも、ハーグレイヴにはならない名。



 書き終えた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。


 悲しくないわけではない。

 悔しくないわけでもない。


 今日のために選んだドレスも。

 母が朝から整えてくれた髪も。

 父が不器用に褒めてくれた真珠の飾りも。


 全部、婚約式のためのものだった。



 それを自分の手で終わらせるのは、痛い。

 でも、待ち続けるよりはずっとましだった。



 公証人が確認書へ封蝋を押す。

 青い蝋が、白い紙の上で固まる。

 それで、終わった。

 私とディオン・ハーグレイヴの婚約は、成立しなかった。




 神殿の大扉が開いたのは、その直後だった。

 廊下の向こうから、慌ただしい足音が響く。

 乱れた礼装。

 息を切らした顔。

 青い瞳に焦りを浮かべた、ディオン・ハーグレイヴが立っていた。



「アリシア!」



 彼は私を見つけると、ほっとしたような顔をした。

 その顔を見て、私は少しだけ不思議に思う。

 この人は、まだ間に合うと思っているのだ。



「すまない。セシリアが急に苦しがって、どうしても私が行かなければならなかった」



 私は黙って彼を見た。

 ディオンは、その沈黙を怒りだと思ったらしい。

 すぐに言葉を足す。



「君には悪いと思っている。だが、彼女は本当に弱いんだ。幼いころから、私がそばにいないと不安で」


「医師は」



 私がそう訊くと、ディオンは目を瞬いた。



「え?」


「医師は、あなたがいなければ命に関わると診断なさったのですか」


「いや、そういうことでは」


「では、神殿医師を呼ぶことはできなかったのですか」


「セシリアは、私に来てほしいと言っていた」


「そうですか」



 私は頷いた。



「なら、それは看病ではなく、選択です」



 ディオンの顔が強張る。



「何を」


「あなたは、婚約式よりセシリア様を選んだのです」


「そんな言い方をしなくてもいいだろう」


「ほかに、どのような言い方がありますか」



 私は彼の正面に立った。

 白いドレス。

 外した手袋。

 封蝋の押された書面。


 そのすべてを、彼にも見てほしかった。



「式は終わりました」


「終わった?」



 ディオンが笑う。

 乾いた、信じられないという笑いだった。



「何を言っている。私はまだ誓っていない」


「だからです」


「だから?」


「あなたが誓わなかったので、婚約は成立しませんでした」



 ディオンの顔から血の気が引く。

 彼は立会神官を見る。

 公証人を見る。

 最後に、ヴィクトル様を見る。



「そんなことが」


「規定どおりです」



 ヴィクトル様が静かに言った。



「定刻より半刻を過ぎ、相手方誓約者が不在。エルヴェイン公爵令嬢は延期ではなく不成立確認を選択された。記録は完了しています」


「だが、私は戻ってきた」


「式の時刻には、いなかった」


「少し遅れただけだ」


「正式儀式における少しは、記録で決まります」



 ヴィクトル様の声は変わらない。


 怒ってもいない。

 慰めてもいない。

 ただ、事実を置いているだけだ。


 その事実が、ディオンを追い詰めていく。



「アリシア」



 彼は、ようやく私へ向き直った。



「君なら待っていてくれると思った」



 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった最後の温度が、すっと消えた。

 やはり、それなのだ。

 彼は悪意で私を置き去りにしたわけではない。


 私なら待つと思った。


 それだけ。

 それだけで、人はこんなにも誰かを軽く扱える。



「ええ」



 私は微笑んだ。



「だから、今日まで待ちました」


「アリシア」


「舞踏会でも、王妃殿下への挨拶でも、両家の晩餐でも、観劇でも、何度も待ちました」


「それは」


「今日も、半刻待ちました」



 私は続けた。



「ですが、婚約式は待つための場ではありません。誓うための場です」



 ディオンの唇が震える。



「やり直せばいい。改めて日を決めて」


「いいえ」


「なぜだ。今回だけではないか」


「今回だけではありません」



 私は静かに首を振った。



「今日だけが原因なら、私は怒っただけで済ませたかもしれません」


「では」


「今日、私が終わらせたのは、これまで全部です」



 彼は黙った。

 ようやく、少しだけ理解した顔になった。

 けれど遅い。

 理解は、いつも遅い。



 そこへ、神殿の横扉から別の足音がした。

 若い侍女に支えられた女性が、白いショールをまとって入ってくる。

 淡い金髪。

 薄い肌。

 か弱げな瞳。


 セシリア・ロイス男爵令嬢だった。



「ディオン様」



 彼女は震える声で彼の名を呼んだ。

 ディオンが反射的に振り向く。

 その動きだけで、私はもう十分だった。


 彼は今でも、私より先に彼女を見る。



「セシリア。なぜ来た」


「だって、わたくしのせいで式が遅れていると聞いて」



 セシリアは私を見た。

 その目には涙が浮かんでいる。

 けれど足元は思ったよりしっかりしていた。


 少なくとも、命に関わる発作の直後には見えない。



「アリシア様」



 彼女は私へ向けて、深く頭を下げた。



「ごめんなさい。わたくし、ディオン様を困らせるつもりはなかったのです。ただ、今日はどうしても不安で」


「婚約式の日だと、ご存じでしたか」


「……はい」


「開始時刻も?」


「はい。でも、ほんの少しだけ来てくだされば落ち着くと思って」



 ほんの少し。

 ディオンが言った少しと、同じ響きだった。


 少し遅れるだけ。

 少し寄るだけ。

 少し待たせるだけ。


 その少しを重ねられる側が、どれほど削られていくかを、この二人は考えたことがないのだろう。



「セシリア嬢」



 ヴィクトル様が口を開いた。



「あなたの屋敷へは、神殿医師を派遣しています」


 セシリアの顔色が変わった。



「神殿医師を?」


「正式儀式の誓約者が、あなたの体調不良を理由に欠席したためです。緊急性の有無は確認する必要がありました」


「そんな」


「診断は、急性の発作ではなく、強い不安による過呼吸傾向。命に関わる状態ではないとの報告です」



 廊下の空気が、また少し冷えた。

 セシリアは顔を伏せる。

 ディオンは何か言おうとして、言葉を失った。



「病弱であることを責めているのではありません」



 ヴィクトル様は続けた。



「しかし、正式な婚約式の時刻を知りながら、緊急性のない呼び出しを行い、誓約者を式から離れさせた事実は記録されます」


「記録……」


「ロイス男爵家には、王家婚姻登録院より注意書を送ります。今後、正式儀式当日の私的な呼び出しについては、医師または神殿を通すように」



 セシリアの肩が震えた。

 泣き出しそうに見える。

 けれど、私はもう、その涙へ駆け寄る人ではなかった。



「アリシア様」



 彼女は涙声で言う。



「わたくし、本当にそんなつもりでは」


「ええ」



 私は頷いた。



「きっと、そんなつもりではなかったのでしょう」



 セシリアが少しだけ顔を上げる。

 私は、できるだけ穏やかに続けた。



「ただ、あなたが不安になるたびに、私の予定は後回しになりました」


「……」


「あなたが泣くたびに、私は待ちました」


「……」


「あなたに悪気がなかったとしても、私が待たされた事実は消えません」



 セシリアは何も言えなかった。

 悪気がない。

 それは免罪符ではない。

 少なくとも、私の人生を少しずつ脇へ寄せる理由にはならない。



 ハーグレイヴ侯爵が、そこで深く頭を下げた。

 侯爵夫人も続く。



「エルヴェイン公爵家、ならびにアリシア嬢へ、ハーグレイヴ侯爵家より正式に謝罪する」



 侯爵の声は苦かった。



「婚約式不成立に伴う違約金、神殿費用、参列者への詫び状については、当家が責任を持つ」


「侯爵」



 ディオンが顔を上げる。

 父である侯爵は、息子を見なかった。



「ディオン。お前は、本日をもって婚約協議に関する家の代理権を停止する」


「父上」


「正式な婚約式に穴を空けた者へ、次の縁談の判断を任せることはできない」



 ディオンの顔が歪む。

 セシリアが震える。

 けれど、これは妥当な処分だった。


 むしろ、侯爵家の面目を考えれば、最低限だろう。



「アリシア」



 ディオンが、最後に私の名を呼んだ。



「本当に、もう駄目なのか」


「はい」


「私は、君を嫌っていたわけではない」


「存じております」


「では」


「嫌われていないことと、大切にされていることは違います」



 その一言で、ディオンは黙った。

 私は少しだけ目を伏せる。

 これを言うのに、ずいぶん時間がかかったと思う。


 彼は私を嫌っていなかった。


 酷い女だと思っていたわけでもない。

 むしろ、信頼していたのかもしれない。


 待ってくれる女として。

 怒らない女として。

 分かってくれる女として。


 でも私は、もうその役を降りる。



「さようなら、ディオン様」



 私は一礼した。



「どうか、これからは待たせない方をお選びください」



 彼の返事はなかった。

 それでよかった。



 婚約式が不成立として終わったあと、私は神殿の裏庭へ出た。

 参列者への説明は父と母が引き受けてくれた。


 私は少しだけ、一人になりたかった。

 裏庭には、白い小花が咲いている。

 婚約式で使われる花だ。


 変わらぬ誓いを意味するらしい。

 少し皮肉な花だと思った。



 石の長椅子に腰を下ろすと、急に指先が震えた。


 式の間は平気だった。

 署名もできた。


 ディオンと話すこともできた。

 けれど、終わった途端、身体は正直になる。


 手袋を握りしめる指が、少しだけ震えている。



「泣いてもいい場面だと思うが」



 声がして、私は顔を上げた。

 ヴィクトル様が、少し離れた場所に立っていた。


 神殿の白い壁を背に、深い紺の礼装がよく映えている。



「監督官が、泣くことまで記録なさるのですか」


「必要なら」


「必要ありません」


「だろうな」



 ヴィクトル様は短く答え、私の隣ではなく、少し離れた石柱の横へ立った。

 距離を取ってくれる。


 それがありがたかった。



「見苦しかったでしょうか」


「何が」


「婚約式を、不成立確認に変えたことです」


「まったく」



 即答だった。

 私は少しだけ目を瞬く。



「意外です」


「なぜ」


「もう少し、穏便な延期を勧められるかと」


「延期は、次も待つという意味になる」



 ヴィクトル様は淡々と言った。



「あなたは今日、次を待たないと決めた。なら、不成立が正しい」



 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


 慰めではない。

 同情でもない。

 判断を認められたのだ。



「あなたは捨てられたのではない」



 ヴィクトル様は続ける。



「終わらせるべき時刻を、自分で選んだ」



 私は、返事をするのに少し時間がかかった。

 白い小花が、風で揺れる。

 その揺れを見ながら、ようやく息を吸う。



「そう見えましたか」


「そう記録したいくらいには」


「記録は困ります」


「では、私の記憶に留める」


「それも少し困ります」


「なら、困る程度には覚えておく」



 私は思わず笑ってしまった。

 今日初めて、自然に笑った気がする。

 ヴィクトル様は、ほんの少しだけ目を細めた。



「笑えるならよかった」


「今のは、笑わせにきたのですか」


「少し」


「意外と器用でいらっしゃいますね」


「よく言われない」


「でしょうね」



 また、少しだけ笑ってしまう。

 胸の奥の痛みが消えたわけではない。

 けれど、痛みだけではなくなっていた。



「エルヴェイン公爵令嬢」



 ヴィクトル様が、改めて私の名を呼ぶ。



「はい」


「今日の確認書は、婚約不成立として正式に登録される。あなたに瑕疵はない。今後の縁談においても、それは明記される」


「ありがとうございます」


「それから、今日の一件で、あなたを待つ女として扱う者は減るだろう」


「増えるかもしれません」


「なぜ」


「面倒な女だと思われるでしょうから」


「それは良いことではないか」



 私は目を瞬いた。

 ヴィクトル様は真面目な顔で言った。



「面倒な女だと思って去る相手は、最初から近づかない方がいい」



 今度は、声に出して笑ってしまった。

 神殿の裏庭で、婚約式を終わらせた直後の令嬢としては、あまりにも似つかわしくない笑いだった。

 でも、止められなかった。



「ヴィクトル様」


「何だ」


「あなたは、慰めが下手ですね」


「だろうな」


「でも、嫌いではありません」


「それは幸いだ」



 風が吹いた。

 白い小花が、また揺れる。

 私は手袋を握る力を、少しだけ緩めた。



「今日は帰ります」



 私は立ち上がった。



「父と母が待っていますので」


「馬車まで送ろう」


「監督官のお仕事は?」


「終わった」


「では、お願いします」



 ヴィクトル様は、私の半歩後ろを歩いた。

 前ではなく。

 隣を急がせるのでもなく。


 ただ、私の歩く速さを見ながら。

 それが、ひどく楽だった。



 その後の処理は、思ったより早かった。


 婚約不成立確認書は、王家婚姻登録院へ登録された。

 ハーグレイヴ侯爵家からは、正式な謝罪状と違約金が届いた。


 ロイス男爵家には、神殿と登録院の連名で注意書が送られ、セシリア様は当面、正式儀式当日の私的呼び出しについて監督付きとなった。

 ディオンは、侯爵家嫡男としての教育をやり直すため、王都の社交からしばらく距離を置いたらしい。


 セシリア様の世話を続けているとも聞いた。

 それが彼の優しさなのか、責任なのか、未練なのかは知らない。

 もう、私の知るべきことではなかった。



 王都では、いろいろな噂が立った。


 アリシア・エルヴェインは婚約式をひとりで終わらせた。

 気の強い公爵令嬢だ。


 冷たい女だ。

 いや、当然の判断だ。

 ハーグレイヴ家が失態を演じた。

 ロイス男爵令嬢は本当に病弱なのか。


 人々は好きなように話した。

 私は、その噂を一つずつ追いかけなかった。

 もう、誰かにどう見えるかを気にして待つ日々は終わったからだ。



 季節が変わるころ、ヴィクトル様から最初の茶会の招待状が届いた。

 大公家のものではなく、王家婚姻登録院の公的な茶会だった。


 婚約式や婚姻登録に関する規定を若い貴族たちへ説明する、小さな集まり。

 父は招待状を見て、少しだけ微妙な顔をした。



「これは、仕事の招待か」


「たぶん」


「ヴィクトル殿は、少し変わっているな」


「はい」


「お前は行きたいのか」


「はい」



 父は私を見て、それから小さく笑った。



「なら、行きなさい」



 その茶会で、ヴィクトル様は本当に規定の話をした。


 婚約式における時刻の意味。

 延期と不成立の違い。

 本人意思の確認。

 公証人の役割。


 若い貴族たちは最初こそ退屈そうだったが、途中から真剣に聞いていた。


 私はそれを見ながら、少しだけ可笑しくなった。

 この人は本当に、婚約式を恋愛だけの儀式だと思っていない。


 それが嫌ではなかった。



 茶会の後、彼は私へ言った。



「次は、仕事ではない茶に誘ってもいいだろうか」


「最初からそうおっしゃればよかったのに」


「あなたが来ないかと思った」


「来ました」


「では、次も来るか」


「日程によります」



 そう答えると、ヴィクトル様は少しだけ笑った。



「日程を出す」


「はい」


「待たせない」



 その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。


 私は彼を見る。

 紺の礼装。

 静かな目。

 冗談を言うのがあまり上手ではない口元。


 けれど、その言葉はまっすぐだった。



「待つかどうかは、私が決めます」


「もちろんだ」


「でも、日程を出してくださるなら、確認します」


「十分だ」



 その日から、ヴィクトル様は本当に日程を出した。


 十日前。

 七日前。

 前日には確認。

 急用が入れば、理由と代替日。


 それは恋文というより、予定調整に近かった。

 けれど、私にはそれが心地よかった。

 誰かの不安で急に消える約束ではない。


 私の時間を、私のものとして扱ってくれる約束だった。



 一年後。


 私は、再び聖アリア神殿の白い廊下に立っていた。

 今日は婚約式の日だった。


 相手は、ヴィクトル・レオニス大公子。

 大公家の次男であり、王家婚姻登録院の監督官。


 そして、私を待たせない人。



 控え廊下に入ると、彼はすでにいた。


 開始時刻の半刻前。

 早すぎるくらいだ。

 深い紺の礼装に、銀の留め具。


 いつものように背筋を伸ばし、式の進行表を手にしている。



「早いですね」



 私が言うと、ヴィクトル様は真面目な顔で答えた。



「遅れるよりいい」


「半刻前です」


「あなたを待たせる側にはなりたくない」



 その言葉に、胸の奥が静かに温まった。

 甘い言葉ではない。

 けれど、私には十分だった。



「では今日は、私が少しだけ待たせてしまいましたね」


「構わない」


「なぜですか」


「私は待つと決めて来た」



 私は微笑んだ。

 あの日の私とは違う笑みだったと思う。

 痛みを隠すためではなく、安心したから浮かぶ笑み。



「ヴィクトル様」


「何だ」


「私はもう、待つだけの女ではありません」


「知っている」


「あなたが来なければ、また終わらせるつもりでした」


「それも知っている」


「怖くありませんか」


「むしろ、安心する」



 私は首を傾げた。

 ヴィクトル様は、少しだけ考えてから言った。



「あなたは、自分を軽んじる相手から離れられる人だ。なら、隣に立つ者は軽んじなければいい」


「簡単におっしゃいますね」


「難しいことか?」


「人によっては」


「私には、難しくない」



 その返事が、あまりにも彼らしくて。

 私は思わず笑ってしまった。



 小鐘が鳴る。


 今度は、開始を告げる前の予鈴だった。

 扉の向こうには、両家の親族が揃っている。


 父と母。

 レオニス大公夫妻。

 立会神官。

 公証人。


 すべてが整っている。

 そして今度は、誓うべき人もここにいる。



 ヴィクトル様が手を差し出した。


 私は、その手を見た。

 一年前、私は誰かを待つことをやめた。


 その手で、不成立確認書に署名した。

 あの日の白いドレスも、青い封蝋も、忘れていない。


 けれど、それはもう私を縛るものではない。

 終わらせたから、今日ここに来られた。



「行きましょう」



 私は言った。

 ヴィクトル様が頷く。



「ああ」



 手を取る。

 扉が開く。

 白い光が、廊下へ差し込む。


 今度の私は、誰かを待って壇へ向かうのではない。

 同じ時刻に来た人と、同じ歩幅で進む。



 婚約式の鐘が鳴った。

 今度は、きちんと。



 私たち二人が揃った、その時刻に。

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― 新着の感想 ―
これ このたんたんとした感じ 単調なセリフ 何度も読んだパターンですね
名前を変えて投稿ですか?前にAI指摘された方々は消えましたよね、、小説は自力で書かれた方が、最初は拙くてもどんどん実力がついて面白くなっていくのですよ。最近の大学で学生の書いた論文読む教授もこんな気持…
ちょっとどころではない冗長さだし アップロードする前に読んで手を入れる手間もかけてないし 婚約者と病弱令嬢選ぶってテーマの時点で読んで損したと思った。 半分以上我慢して読んだ自分を褒めよ。
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