第1話 初日から命懸けの出勤らしい
いや、ほんとに待ってほしい。
人生にはいろいろ理不尽がある。大学の必修が朝一限に入っているとか、コンビニで温めてもらった弁当を落とすとか、通販で買った服がモデル着用イメージと全然違うとか、そういう「まぁ最悪だけどギリ耐えられる」系統の理不尽なら、二十一年そこそこ生きていれば多少は経験してきた。
ただ、目が覚めたら異世界の魔族になっていて、しかも昨晩裸で一緒に寝ていた角付き蜘蛛美女に連行されながら、これから命懸けの決闘に参加させられるという状況については、さすがに人生経験の範囲外すぎて脳みそが現実を処理しきれていない。
「……おい、グレン」
前を歩いていた女が、少しだけ肩越しにこちらを振り返る。
黒髪。
赤い瞳。
人間離れした長い脚。
黒い外套の隙間から見える白い肌。
背中から伸びる、鋭利な蜘蛛脚。
どう考えても人外。
どう考えても危険。
どう考えても俺が人生で関わるタイプの存在ではなかったはずなのに、彼女は当然のように俺の隣を歩いている。
ゼルフィア・ラグナヴェル。
たぶん今の俺の彼女。
たぶん。
いや、たぶんってなんだよ。
そこを一番曖昧にしてる場合じゃないだろ俺。
「さっきから落ち着きがなさすぎる。後ろでキョロキョロされると鬱陶しいんだが」
「いや落ち着けるわけないだろ!? なんでこんな普通に歩いてんだよ!?」
「普通に歩く以外に何がある」
「命懸けの戦いに向かうテンションじゃないだろ!」
「お前も参加者だろうが」
その一言で胃がキュッとなった。
そうだった。
忘れたかったけど忘れられない。
俺は今から、《血刻戦儀》とかいう名前からして絶対ヤバいやつに参加するらしい。
なんだよ血刻って。
物騒すぎるだろ。
字面だけで労基違反みたいな匂いするぞ。
俺たちが歩いているのは、イーフリート家の屋敷から闘場へ続く石造りの回廊だった。壁には黒い炎を象った燭台が並び、赤黒い火が風もないのにゆらゆら揺れていて、床には魔法陣みたいな紋様が刻まれ、天井付近には見たこともない獣の頭蓋骨が飾られている。
内装担当を呼び出して聞きたい。
どういう気分でこれを日常空間にしたんですか、と。
朝の通勤路にしては圧が強すぎる。
俺の知っている「朝」というものは、せいぜい寝不足の大学生と無表情の会社員が改札へ吸い込まれていき、コンビニ前でエナジードリンク片手に虚無の顔をしている男子学生が「一限無理」と呟いている程度の平和な光景だった。少なくとも、命懸けの決闘を前提に屋敷全体が戦支度を始めるような殺伐とした空気ではない。
だが今、俺が歩いている廊下は完全に別世界だった。黒曜石みたいに磨き上げられた長い廊下の左右には、角、牙、翼、尻尾といった「人外要素」をそれぞれ搭載した使用人たちが整列し、俺が通るたび一斉に深く頭を下げていく。衣擦れの音が揃いすぎていて怖い。全員の動きが訓練された兵士みたいに統一されているせいで、歓迎されているというより、出征する将軍を送り出されている気分になる。
しかも視線が重い。
ただの「おはようございます」ではないのだ。
その目には明確に、「若様なら勝つ」「炎爵家の誇りを示してくださる」「今日も敵を焼き払ってください」みたいな期待が乗っている。いや無理だろ。俺は昨日までコンビニの半額弁当に感動していた一般大学生であり、人生最大の戦闘経験は履修登録サーバーへのアクセス競争くらいである。
重すぎる。
異世界初日に背負わせる期待値としては重量級すぎる。
俺はこの世界で提出できる履歴書を持っていない。特技欄に書けるのは「レポート提出前日に三徹できる」「冷凍チャーハンを焦がさず炒められる」「スマホゲームのイベント周回を効率化できる」くらいだ。どう考えても血刻戦儀向きの人材ではない。
「グレン様、本日の血刻戦儀、どうか御武運を」
通り過ぎる直前、メイド服姿の女性が胸へ手を当て、深々と頭を下げた。
メイドだった。
ただし俺の知っている「萌え文化のメイド」ではない。漆黒のロングスカートに銀糸の刺繍が入った重厚な給仕服を着込み、額には山羊めいた小さな角が二本、背後では細い黒い尻尾が猫みたいにゆっくり揺れている。整った顔立ちはモデル級に美しく、赤紫色の瞳は妖艶ですらあった。
この世界、顔面偏差値だけならソシャゲSSR排出率百パーセントなのでは?
だが問題は、美男美女であるほど「戦闘能力ありそうな追加パーツ」が増えていくことだった。綺麗なお姉さんだなと思った次の瞬間に牙が見えるし、可愛いメイドさんだなと思ったら尻尾が鞭みたいにしなる。視覚的ご褒美と生命危機がセット販売されている。
「あ、はい、ありがとうございます……」
俺は日本人的反射でぺこりと頭を下げ返した。
その瞬間、空気が止まった。
メイドの目が丸く開かれ、後方に控えていた執事風の男が「今なにを見た?」みたいな顔で硬直する。廊下の空気が微妙にざわつき、数メートル先を歩いていたゼルフィアまで足を止めてこちらを振り返った。
しまった。
やらかした気がする。
俺は恐る恐る周囲を見回したが、みんな完全に「信じられないものを見た」顔をしている。
「……何かまずかったですか」
静まり返った廊下で尋ねると、メイドが明らかに動揺した声で答えた。
「い、いえ、その……グレン様が使用人へ礼を返されるのは、初めてでしたので……」
「え」
嫌な予感がした。
後ろの執事が小さく咳払いをする。
「以前のグレン様は、挨拶を返す代わりに機嫌次第で火球を飛ばしておられました」
「最低だなグレン!」
思わず叫ぶと、周囲の使用人たちが一斉に肩を震わせた。
笑いを堪えている。
いや待て、今の俺、完全に「急に丸くなった暴君」扱いでは?
「おい」
「何?」
「今、使用人に頭を下げたな」
「え、だめなの?」
俺が素で聞き返すと、ゼルフィアは数秒ほど沈黙したあと、本気で理解できないものを見る顔になった。
「昨日までのお前なら、軽く顎を動かす程度だった」
「昨日までの俺、ちょっと偉そうすぎない?」
「地方炎爵家の嫡男としては普通だ」
「普通の基準が嫌すぎる」
思わず顔をしかめると、廊下の端で控えていた使用人たちが「ですよね」みたいな顔をした。どうやらグレン・イーフリートという男、使用人界隈ではかなり恐れられていたらしい。いやまあ、挨拶代わりに火球を飛ばすのは真面目にどうかとは思うが。
ゼルフィアはそんな俺をじっと見つめていた。赤い瞳が細められ、その視線が肌の上をゆっくり這っていく。美女に見つめられているはずなのに、心境としては職員室に呼び出された問題児である。
疑われている。
めちゃくちゃ疑われている。
当然だ。昨日まで傲慢な魔族貴族だったらしい男が、一晩で急に「すみません」「ありがとうございます」を言う低姿勢大学生へ変貌しているのだから、周囲から見れば頭蓋の中身を別人と入れ替えられたと考えるほうが自然だろう。
「昨日、何か変なものでも食ったのか」
「変なものどころか、俺の記憶では半額唐揚げ弁当しか食べてない」
「何だ、その貧相な響きの料理は」
「貧相って言うな。半額唐揚げ弁当は一人暮らしの味方だぞ」
「お前は何を言っている」
「俺も自分で何を言っているのかわからなくなってきた」
ゼルフィアは深いため息をつき、白い指でこめかみを押さえた。その動きに合わせて、背中から伸びる黒い蜘蛛脚がかすかに揺れる。細長い外骨格の先端が石床を軽く擦り、かちり、と乾いた音を鳴らした。
怖い。
美人が苛立つだけでも十分圧があるのに、感情表現に大型捕食生物みたいな脚が連動するのは心臓に悪すぎる。普通の人間は恋人候補の機嫌を顔色で判断するものだと思うが、この人の場合は「蜘蛛脚の角度」で殺意レベルを測る必要がある気がする。
しかも厄介なことに、その蜘蛛脚が妙に綺麗なのだ。黒曜石みたいな光沢があり、関節が滑らかに動き、先端は槍みたいに鋭い。完全に「刺したら人が死ぬ形状」なのに、美術品みたいな完成度をしている。
恐怖と見惚れる感情が同時に来るせいで脳が忙しい。
「グレン、ふざけるなら相手を選べ。今日の相手は楽ではない」
「楽じゃないって、どのくらい?」
「相性は最悪に近い」
「出場取り消しでお願いします」
「無理だ」
「体調不良とか」
「今朝、医師が肉体に異常なしと判断した」
「あの鳥マスク医師、余計なことを……」
「お前の炎核は安定している。魔力回路も正常。胸の奥に妙な反応はあったが、それを理由に欠場するなら、蒼牙戦域の全貴族から腰抜け扱いされる」
「胸の奥の妙な反応、普通に重大な異常じゃないの?」
「重大だからこそ、戦わせて見極める」
「この世界、検査方法が野蛮すぎる!」




