プロローグ
俺こと風上瞬太は、人生において一度も「目覚めたら美女が隣で寝ていました」というイベントに遭遇したことがない。
そもそも普通の大学生にそんなイベントが発生するなら、世の中の恋愛シミュレーションゲームはもう少し現実に寄り添った教材として評価されているはずで、俺のように講義とバイトとコンビニ飯とスマホゲームのログインボーナスを生活の柱にしている男の枕元へ、色気のある美女が降ってくる可能性なんて、宝くじで一等を当てた帰り道に宇宙人から名誉銀河市民証を渡されるくらい低い。
だから目を開けた俺が最初に見たものが、天井から垂れ下がる黒紫色の薄布と、どう考えても一般家庭には存在しない巨大な天蓋と、金なのか骨なのか判断に困る悪趣味ぎりぎりの装飾品に囲まれた寝室であった時点で、俺の脳はまず夢判定を下した。
うん、夢だ。
そうに違いない。
昨日はたしか大学の講義終わりに友人の課題を手伝わされ、帰りにスーパーで半額の唐揚げ弁当を買い、部屋で動画を流しながら食べ、そのあとスマホ片手に寝落ちしたはずなので、こんな「貴族の寝室です、ただし魔王城テイストを添えて」みたいな空間にいる理由がない。
それに、ベッドが広すぎる。
俺のアパートの布団なら寝返り一回で壁に肘をぶつけるのに、このベッドは寝返りどころか前転、後転、側転、ついでに軽い受け身の練習までできそうな広さがあり、肌に触れているシーツは妙に冷たくて滑らかで、ホテルの高級寝具というより「王様が最後に眠る棺の内側を職人が本気で仕上げました」みたいな不穏な肌触りをしている。
夢なら妙に作り込みが細かい。
俺の脳、普段は英単語ひとつ覚えるのにも苦労するくせに、変なところで無駄に仕事をする。
そんなことを考えながら、ぼんやり横を向いた。
そこに、美女がいた。
ものすごい美女がいた。
黒曜石みたいな艶のある長髪が枕の上に広がり、血の通った白磁のような肌が薄闇の中で淡く光り、長い睫毛の奥に閉じられた瞳は眠っていても妙な圧を放っていて、形のいい唇は不機嫌そうにも楽しそうにも見える絶妙な角度で結ばれている。
ここまでなら、俺はまだ夢だと笑えた。
なぜなら美女が隣に寝ている夢くらい、健全な男子大学生なら一度くらい見る可能性があるからだ。
問題は、その美女の額から、優美な曲線を描く黒い角が生えていたことである。
さらなる問題として、腰のあたりから艶のある黒い尻尾がシーツの上に伸びていた。
もっと問題なのは、布団の隙間から見えた背中側に、蜘蛛の脚を思わせる黒い外骨格めいた肢が折り畳まれていたことであり、俺の頭はそこでようやく「これは恋愛イベントではなく、たぶん捕食イベントの導入では?」という非常に現実的な危機感を持ち始めた。
俺は硬直した。
喉が音を出す前に、心臓だけが全力で主張していた。
待て。
落ち着け。
状況を整理しろ。
知らない部屋。
知らないベッド。
知らない美女。
美女に角。
美女に尻尾。
美女に蜘蛛っぽい追加パーツ。
俺は裸。
……俺は裸?
そこで、俺は自分の状態を確認した。
確認したことを後悔した。
清々しいほど裸だった。
布一枚すらない。
生まれたての俺である。
精神的には二十歳前後の大学生なのに、服装だけ原点回帰していた。
「うわああああああああああああああああああっ!?」
叫んだ。
もう叫ぶしかなかった。
寝室全体がびりびり震え、天蓋の薄布がふわっと揺れ、壁に飾られていた骨っぽい剣のような何かがカタカタ鳴った。
声が大きすぎる。
俺の声じゃない。
俺はカラオケで高音を出そうとして喉を裏返すタイプであり、こんな腹の底から響く低くて張りのある声を出した覚えがない。
叫び声に反応して、隣の美女がゆっくり瞼を開いた。
赤い瞳だった。
宝石みたいに綺麗とか、炎みたいに情熱的とか、そういう悠長な感想も一応浮かんだものの、今の俺にとって一番重要なのは、その赤い瞳が寝起きにもかかわらず獲物を見つけた肉食獣くらい鋭かったという点である。
「……朝から騒々しいぞ、グレン」
声まで綺麗だった。
低めで、艶があって、耳に残る。
どこか気怠げで、それでいて一言だけで相手の背筋を伸ばさせるような威圧感がある。
名前を呼ばれた。
グレン。
誰だ。
俺は風上瞬太であって、グレンという名の知り合いはゲーム内の炎属性SSRキャラくらいしか思い当たらない。
「ぐ、グレンって誰ですか!?」
美女は眉を寄せた。
その仕草すら絵になるのが腹立たしい。
「寝ぼけているのか。お前以外に誰がいる」
「いやいやいや、俺は風上瞬太でして、大学生でして、単位がいくつか危険水域でして、昨日も現代文化論のレポートが終わらなくてですね、そもそもここどこですか、あなた誰ですか、なんで俺たち裸なんですか、そしてその角と尻尾と後ろの蜘蛛っぽいやつは何ですか、コスプレですか、本格派にもほどがありませんか!?」
美女はしばらく黙って俺を見た。
その沈黙が怖い。
怒っているのか、呆れているのか、寝起きで処理が追いついていないのか、捕食前に相手の反応を観察しているのか、選択肢の中に平和なものが一つもない。
やがて美女は、細い指で自分の額の角に触れ、尻尾をゆらりと動かし、背中の脚を一つだけ軽く持ち上げた。
「私の角と尾と脚を、今さら珍しがるとはな。昨夜はずいぶん熱心に眺めていたくせに」
「昨夜の俺、何してるんですかああああああっ!?」
俺は布団を引っ掴んで自分の身体を隠した。
美女も同じ布団の中にいるせいで、布団を引けば向こうの肩が露わになり、慌てて戻せば今度は自分の防御力が下がるという、人生で一番無意味かつ命に関わりそうな綱引きが始まった。
「落ち着け、グレン。頭でも打ったのか」
「頭を打ったどころか人生ごと壁に叩きつけられた気分なんですけど!」
「口調が妙だな」
「俺のほうからすると、あなたの存在そのものが妙なんですよ!」
美女は目を細めた。
笑ったのかもしれない。
口元がわずかに上がり、その瞬間、ぞっとするほど美しい顔が完成した。
なにこれ。
怖い。
怖いのに美人。
美人なのに怖い。
脳が「逃げろ」と「見ろ」を同時に命令してきて、首から上だけが社会不適合者になりそうだった。
「昨夜の続きでも欲しいのかと思ったが、その様子では違うらしい」
「欲しくないです! いや、そういう言い方をすると俺がすごく失礼な男みたいになりますけど、欲しい欲しくない以前に状況説明が欲しいです!」
「本当に記憶が混濁しているのか」
「混濁どころか行方不明です!」
美女は起き上がった。
俺は反射的に目を逸らした。
偉い。
この状況で目を逸らせる俺はかなり偉い。
誰も褒めてくれないので自分で褒める。
目を逸らした先には、壁一面に飾られた肖像画があった。
そこには、赤い髪を持つ男が描かれている。
年齢は俺と同じくらいに見えるのに、目つきが悪く、顔立ちはやたら整っていて、黒と深紅の貴族服を着こなし、片手には炎を纏う剣、背後には燃え盛る城壁のようなものが描かれていた。
いや、誰だよこのイケメン。
俺が心の中でそう突っ込んだところで、妙な違和感が背筋を這った。
肖像画の男の顔に、見覚えがある気がした。
もちろん、現実でこんなエリート悪役貴族みたいな顔の知り合いはいない。
俺の友人たちは大体、徹夜明けの顔か、課題に追われる顔か、ガチャ爆死後の顔をしている。
けれど、なぜかその男の輪郭や目元や髪の色が、自分と関係あるもののように見えた。
俺は恐る恐る自分の手を見た。
細く長い指。
爪は黒みを帯び、肌の下に薄く赤い紋様が走っている。
腕には鍛えられた筋肉があり、現代日本のぬるいキャンパスライフでは絶対に手に入らない実戦的な体つきをしている。
手のひらを握ると、空気が熱を持った。
冗談みたいに、指の隙間から赤い火花が散った。
「ひっ」
情けない声が出た。
俺の手から火が出た。
ライターもコンロも使っていない。
科学の授業で習った知識が、遠くで白旗を振っていた。
「ゼルフィア」
部屋の外から低い声がした。
重い扉の向こうに誰かいる。
美女は面倒そうに顔を向けた。
「何だ」
「グレン様の悲鳴が聞こえました。殺しましたか」
「殺していない」
「では半殺しですか」
「していない」
「珍しいこともあるものです」
「失礼な従者だな」
扉の向こうの会話が怖すぎる。
この屋敷では悲鳴が上がった場合、まず殺害か半殺しを疑うらしい。
救急車という概念はおそらくない。
あってもサイレンの音色が怨霊の合唱になっていそうだ。
美女――ゼルフィアと呼ばれた彼女は、俺のほうを見た。
「着替えろ。医師を呼ぶ」
「医師いるんですか」
「いる。腕は悪くないぞ?患者を解剖したがる癖を除けば」
「それ医師じゃなくて危険人物では?」
「魔族の医師など大体そんなものだ」
魔族。
今、さらっと言った。
魔族。
聞き間違いではない。
俺は布団の端を握りしめたまま、喉を鳴らした。
「あの、確認なんですけど、ここって日本じゃないですよね」
「ニホン?」
「そうですよね知りませんよねえええええ!」
俺は頭を抱えた。
記憶が一気に流れ込んできたわけではない。
むしろ逆で、自分の中にぽっかり穴が空いているような感覚があった。
風上瞬太としての記憶はある。
大学、友人、アパート、母親から来た「ちゃんと食べてる?」というメッセージ、返信しようとして忘れたこと、冷蔵庫に残っている賞味期限ぎりぎりのプリン。
その一方で、この身体にまつわる記憶らしきものが、霧の向こうから断片的に見える。
グレン・イーフリート。
炎爵家。
蒼牙戦域。
血刻戦儀。
蒼爪のイシュレド。
ゼルフィア・ラグナヴェル。
名前だけが刃物の破片みたいに頭の中へ突き刺さってくる。
意味はわかるようで、わからない。
学校のテストで見たことだけある専門用語を前にした時と同じで、存在は知っているのに説明できない。
「グレン」
ゼルフィアの声が少し低くなった。
「ふざけているなら、そろそろ怒るぞ」
「ごめんなさい、本当にふざけてないです。俺の中で俺が俺じゃない事件が発生してまして、説明しようにも警察どころか常識が現場に到着していません」
「……本気でおかしいな」
ゼルフィアはベッドから降り、床に落ちていた薄い黒衣を拾った。
俺は全力で視線を天井へ固定した。
天井には翼を持つ骸骨と炎の紋章が描かれていた。
目のやり場として最悪に近いものの、今はそれでもありがたい。
「おい、なぜ上を向いている」
「紳士的配慮です」
「昨夜、私の首筋に噛みついた男が紳士を名乗るのか」
「昨夜の俺、ほんと何してるんですか!?」
「記憶がないというのは便利だな」
「便利じゃないです! むしろ人生最大級の不便です!」
ゼルフィアは鼻で笑った。
服を身につける衣擦れの音がして、俺はようやく視線を戻した。
彼女は黒と赤を基調にしたドレスのような戦装束をまとっていた。
布地は上品なのに、各所に鋭い装甲があり、腰には短剣が数本、腕には糸を巻きつけるための銀の腕輪、背中の蜘蛛脚は衣装と一体化するように畳まれている。
美しい。
危険。
近づいたら切られそう。
この三要素が高次元で同居している。
「立てるか」
「その前に服をください」
「自分の部屋だろう」
「俺の部屋なんですか、ここ」
「お前は本当に何も覚えていないのか」
「今の俺が確実に言えるのは、俺の家賃は五万八千円で、部屋は六畳で、風呂トイレ別じゃないということだけです」
「何を言っているのか一つもわからん」
「俺もこの部屋のインテリアが一つもわかりません」
ゼルフィアは額に手を当てた。
呆れている。
完全に呆れている。
それでも殺されていないあたり、彼女は見た目ほど短気ではないのかもしれない。
いや、判断が早すぎる。
この世界の基準では「初対面で殺さない=優しい」くらいの可能性がある。
俺は彼女に指示され、ベッド横の衣装掛けから服を取った。
黒いシャツ。
赤い刺繍入りの上着。
金属の留め具。
よくわからない帯。
装飾過多のブーツ。
着方がわからない。
現代日本の服は前後と表裏さえ間違えなければどうにかなったのに、この貴族服は装備画面で自動装着してほしいレベルで複雑だった。
俺が帯を首に巻きかけたところで、ゼルフィアが無言で近づいてきた。
「死にたいのか」
「服に殺されかけるとは思いませんでした」
「貸せ」
彼女は手際よく俺の服を整え始めた。
距離が近い。
さっきまで裸で隣に寝ていた美女が、今は無言で襟元を整えている。
普通なら心臓が別の意味で騒ぐ場面なのに、俺の心臓は恐怖と羞恥と情報過多でどの感情に血液を送ればいいのかわからなくなっている。
「グレン」
「はい」
「お前、私の名はわかるか」
「ゼルフィア……さん?」
「さん?」
「呼び捨て文化に慣れていないので」
「気色悪いな」
「初対面の美女に気色悪いって言われるの、精神にきますね」
「初対面ではない。何度も殺し合った仲だ」
「恋愛経歴の説明として物騒すぎる」
ゼルフィアの指が一瞬止まった。
彼女の赤い瞳が俺を見上げる。
「恋愛、か」
「え、違うんですか」
「違わない。お前がその言葉を使うとは思わなかっただけだ」
その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
毒のある花が、朝露を受けて一瞬だけ優しく見えるみたいな顔だった。
言い方が詩的になってしまったけれど、それくらい予想外だった。
俺とこの人、いやこの魔族女性は、ただの寝室イベント相手ではないらしい。
殺し合い、何かを越え、互いに認め、関係を持った。
そんな重たい過去がある。
俺の中にいるはずのグレンは、それを知っていたのだろう。
風上瞬太の俺だけが、何も知らずにこの場へ放り込まれている。
申し訳なさのようなものが胸に落ちた。
ゼルフィアに対しても、グレンという男に対しても。
俺が勝手に身体を奪ったのか。
それとも、何か別の理由があるのか。
考えようとしたところで、頭の奥がずきりと痛んだ。
炎の色をした何かが視界をかすめる。
黒い空。
砕けた月。
巨大な王座。
聞き取れない声。
魂に爪を立てられるような感覚。
俺は思わず膝をついた。
「グレン!」
ゼルフィアが支えてくれた。
彼女の腕は細いのに強かった。
花のような見た目で鉄骨みたいな安定感がある。
「大丈夫か」
「今、大丈夫って言ったら、俺は自分の正気を疑います」
「頭痛か」
「頭の中で知らない映画の予告編が流れました」
「意味はわからんが、痛いのはわかった」
ゼルフィアは扉へ向かって声を飛ばした。
「医師を呼べ。あと、家令にも伝えろ。グレンの様子がおかしいと」
扉の向こうから、先ほどの従者らしき声が返る。
「いつもおかしいのでは?」
「今日は種類が違う」
「承知しました」
いつもおかしい扱いされているらしい、グレン・イーフリート。
少し親近感が湧いた。
大学でも俺は友人から「お前って変なところで運がないよな」と言われていたので、別世界でも同じような評価を得るとは魂の適性があるのかもしれない。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、燕尾服のような黒衣を着た老紳士だった。
顔色が青白く、瞳は金色で、頭部には羊のような巻き角がある。
立ち居振る舞いは完璧な執事なのに、背後に漂う雰囲気が完全に「館の地下に絶対何か封印している人」だった。
「おはようございます、グレン様。今朝はまた一段と愉快な悲鳴でございました」
「愉快に聞こえたなら耳鼻科へ行ったほうがいいです」
老紳士はぴたりと止まった。
ゼルフィアも俺を見た。
やばい。
口が勝手に動いた。
現代日本の軽口を魔族の屋敷で使ってしまった。
処刑文化がある世界だったら、この発言だけで庭に吊るされても文句が言えない。
老紳士はゆっくり微笑んだ。
「これはこれは。今朝の若様は、ずいぶん柔らかな言葉をお使いになる」
「あ、すみません、えっと、悪気はなくてですね」
「謝罪なさいましたな」
老紳士の笑みが深くなった。
「ゼルフィア様、これは重症でございます」
「やはりそう思うか」
「グレン様が朝から悲鳴を上げるだけなら平常運転。ゼルフィア様のお身体を見て動揺するのも、まあ百歩譲って趣向の一つ。されど使用人に謝罪するとなれば、これは頭蓋の中身が別物に入れ替わったと考えるほかございません」
「言い方!」
俺は叫んだ。
老紳士は優雅に一礼した。
「申し遅れました。私はイーフリート家家令、バルガス・ノルドと申します」
「あ、どうも、風上瞬……」
言いかけた瞬間、ゼルフィアの視線が刺さった。
俺は口を閉じた。
ここで日本名を連呼するのは、たぶん危険だ。
グレン本人ではないと知られた場合、この世界の対処法が「検査」なのか「監禁」なのか「焼却」なのか判断できない。
「……グレンです」
「存じております」
バルガスはにこやかに言った。
怖い。
この屋敷、にこやかな人ほど怖い。
しばらくして医師が来た。
白衣ではなく黒衣。
聴診器ではなく骨の杖。
顔の半分を覆う鳥の嘴のような仮面。
もう医師というより疫病を運ぶ側に見える。
俺は診察を受けた。
脈を見られ、瞳を覗かれ、舌を出させられ、なぜか指先に針を刺され、流れた血を小瓶に垂らされた。
血の色は赤かった。
そこだけは普通で安心した。
小瓶の中の血が勝手に燃えたところで安心は終わった。
「ふむ」
医師は小瓶を揺らした。
「肉体に異常はありません。魔力回路も健在。炎核も安定。むしろ昨夜より活性化しております」
「活性化って何ですか」
「若様の内側の火が元気ということです」
「説明が雑!」
「ただ、一つ気になる反応があります」
医師が俺の胸元へ骨の杖を向けた。
杖の先に青白い光が灯る。
その光が俺の身体に触れた瞬間、部屋の空気が変わった。
熱くなった。
壁の燭台が一斉に燃え上がり、窓の外で鳥らしきものが悲鳴を上げて飛び去り、バルガスが片膝をつき、医師が仮面の奥で息を呑み、ゼルフィアが目を見開いた。
俺の胸の奥で、何かが鼓動した。
心臓とは違う。
もっと深い場所。
身体ではなく存在の中心みたいなところで、黒い炎をまとった赤い結晶が目を覚ましたような感覚。
その鼓動に合わせて、知らない言葉が頭に響いた。
――王核。
俺は冷や汗をかいた。
部屋の全員が、俺を見ていた。
見方が変わっていた。
さっきまでは「様子のおかしい若様」だったのに、今は「触れていいかわからない爆弾」みたいな扱いだ。
「おい」
ゼルフィアの声が震えていた。
ほんの少しだけ。
「今のは、何だ」
「俺が聞きたいです」
医師は小瓶を取り落としそうになりながら、かすれた声で言った。
「王の……因子……」
バルガスの表情から笑みが消えた。
「まさか」
ゼルフィアは俺の胸元を凝視している。
その目に、欲望とも恐怖とも歓喜ともつかない複雑な光が宿っていた。
「グレン、お前……」
「待ってください、待ってください、みんなで勝手に盛り上がらないでください。俺は今朝起きたら部屋が違って彼女らしき美女が隣にいて服の着方もわからず、血が燃えて胸が光っただけの被害者です」
「情報を並べると、あまり被害者には聞こえませんな」
「バルガスさん、今そこ冷静に突っ込む場面じゃないです!」
扉の向こうが、急に落ち着きを失った。さっきまでは遠慮がちに控えていた気配が一気に増え、硬い石床を踏み鳴らす靴音が廊下を何人分も行き交っている。低い声で何かを報告する使用人、慌てて駆けていく鎧姿の兵士、金属同士がぶつかる乾いた音。そのざわめきが壁越しにじわじわ染み込んできて、屋敷全体が巨大な生き物みたいに落ち着きなく脈打っているのがわかった。
俺の胸の鼓動も、まるでそれに呼応するみたいに収まらない。心臓が肋骨の内側を拳で叩いているみたいに暴れ、喉の奥には熱い鉄球でも詰まっているような圧迫感がある。それだけじゃない。屋敷のさらに奥、地下なのか山の内部なのかもわからない場所から、ぐおお、と腹の底に響く低音がゆっくり伝わってきた。鐘とも違う。獣の唸り声とも違う。もっと巨大で、古くて、眠っていた何かが長い眠りから身を起こした時に鳴らすような、不吉な振動だった。
ゼルフィアはその音に反応するように鋭く顔を上げると、ためらいなく窓際へ歩み寄り、分厚い黒紫色のカーテンを乱暴に引き開けた。重たい布が擦れる音と同時に、赤黒い光が部屋へ流れ込む。俺も反射的にそちらへ視線を向け、そして言葉を失った。
窓の外には、俺が二十年間生きてきた現代日本とは、地続きで存在しているとは到底思えない世界が広がっていた。大地は乾いた血を何層も染み込ませたみたいな赤黒い色をしていて、ところどころ地割れの隙間から鈍い橙色の光が漏れている。遠方には黒曜石を削り出したみたいな巨大な山脈が連なり、その山肌には、まるで古代の巨人の死骸をそのまま突き刺したかのような白骨状の遺跡が斜めに突き立っていた。骨なのか塔なのか判別もつかない巨大構造物は、空を覆う暗雲の中へ半分ほど飲み込まれていて、見ているだけで背筋が寒くなる。
さらに空を見上げれば、翼を持つ異形の獣が何匹も旋回していた。鳥にしては巨大すぎる。竜にしては細長い。蝙蝠のような膜翼を広げ、槍みたいな尾を引きずりながら、時折こちらを監視するように低空を横切っていく。そのたびに、砦の上に並ぶ見張り塔の炎が風に揺れた。
屋敷そのものも、改めて見ると貴族の邸宅というより要塞だった。黒い石材で築かれた分厚い城壁が幾重にも敷地を囲み、壁の上には武装した魔族たちが槍を持って巡回している。城壁の外側には、赤い火花を撒き散らす巨大な鍛冶場があり、上半身裸の鬼みたいな大男たちが巨大な槌を振り下ろしていた。そのさらに奥には訓練場らしき広場が見え、角や牙を持つ兵士たちが怒号を飛ばしながら武器を打ち合わせている。石造りの街並みからは黒煙が立ち昇り、人影が蟻みたいに行き交っていた。
そして、そのすべてより異様な存在感を放っていたのが、街の中心部に築かれた巨大な円形施設だった。闘技場。そう呼ぶのが一番近いはずなのに、俺の知っているスポーツ施設とは空気が違いすぎる。外壁には無数の傷跡と黒ずんだ染みが刻まれ、観客席を囲む柱には鎖と骸骨じみた装飾が絡みついている。その闘場の中央、地面そのものを抉って描かれたような巨大紋章が、どろりとした赤い光を放ちながら浮かび上がっていた。まるで乾ききらない血で描いた魔法陣が、心臓みたいに脈打っているようだった。
闘技場の中央に浮かび上がっていた紋章は、ただの装飾には見えなかった。巨大な円陣の中へ幾重もの線が複雑に刻み込まれ、その一本一本が乾ききらない血を無理やり石畳へ擦り込んだみたいにどす黒く脈打っている。紋様の隙間からは赤い光がじわじわ滲み出し、とくん、とくん、と心臓みたいな周期で明滅していた。見ているだけで喉が乾くような、本能的に嫌な感じだった。あれは観客を楽しませるための舞台じゃない。もっと原始的で、暴力そのものを儀式化した場所だと、本能が理解してしまう。
そしてその紋章を視界に入れた瞬間、俺の脳裏へ唐突に言葉が流れ込んできた。
――血刻戦儀。
知らないはずの単語なのに、意味だけが焼き印みたいに頭へ刻まれる。蒼牙戦域において絶対視される闘争儀式。強き者が奪い、弱き者が奪われ、勝者は名誉も領地も財も伴侶も発言権すら手に入れ、敗者はすべてを失う。法より古く、契約より重く、魔王軍残党たちが今なお従う剥き出しの掟。つまりあそこは、スポーツ競技場ではなく、「暴力で序列を決めるための神聖な処刑台」だった。
俺はごくりと喉を鳴らした。喉仏がやけに大きく上下した気がする。
「……あれ、何ですか」
自分でも情けないくらい掠れた声だったが、ゼルフィアは笑わなかった。彼女は窓の外を見たまま、赤い瞳を細める。
「《血刻戦儀》の闘場だ。今日、お前の試合がある」
一瞬、意味が頭に入らなかった。
「今日?」
「ああ」
「俺の?」
「ああ」
返事が軽い。コンビニ行くかくらいの気軽さで命懸けイベントを告知しないでほしい。
「試合って、あれですよね? 剣道とかフェンシングとか、そういう競技寄りの」
「敗者が生きて帰れるかは相手次第だな」
さらっと返された一言で、俺の背筋を冷たい汗が一気に流れ落ちた。
俺は窓際からじりじり後退した。別に後ろへ下がったところで状況が改善するわけではないのに、身体が勝手に「危険物から距離を取れ」と命令してくる。心臓は相変わらず暴れているし、胃のあたりでは「現実逃避」という名の小動物が全力疾走していた。
「ちなみに、欠席した場合は?」
恐る恐る聞くと、バルガスがいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。
「名誉剥奪、領内権限停止、家臣団からの求心力低下、婚姻候補者からの評価失墜、加えて他家から『弱体化した炎爵家嫡子』として挑戦状が大量に届くでしょうな」
「大学の必修科目よりペナルティ重いんですけど」
「何より、イシュレド様がお怒りになります」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
ついさっきまで余裕そうだったバルガスの笑みがわずかに薄れ、医師は仮面の奥で押し黙り、ゼルフィアですら無意識に視線を伏せる。たった一人の名前だけで室温が数度下がったみたいな感覚があった。
蒼爪のイシュレド。
第六眷属。
戦場で数万を虐殺しながら笑っていたとされる、魔王軍最悪クラスの戦闘狂。
その名を聞いた瞬間、俺の頭の奥に断片的な光景が浮かんだ。青白い長髪を無造作に揺らした男。獣みたいに細い瞳。返り血で染まった戦場の中心で、子供みたいに楽しそうに笑っている姿。その笑顔は、人間が向けるものじゃない。上司とか教官とか師匠とか、そういう社会性のあるカテゴリに分類してはいけない類の笑顔だった。
なぜなら、その目が語っていたからだ。
――とりあえず死にかけてこい。話はそこからだ。
理不尽の権化みたいな圧力に、俺は思わず顔を引きつらせた。
「……その人、教育方針がだいぶ終わってません?」
ゼルフィアが小さく鼻で笑った。
「安心しろ。お前は気に入られている」
「今の情報で安心できる要素どこにありました!?」
バルガスが静かに咳払いした。
「もっとも、以前のグレン様であれば、その名を聞いて逃げ腰になるどころか『今日の相手は何分持つ』などと笑っておられましたが」
「怖っ」
「三ヶ月前など、闘場の外壁へ相手を投げ込み、そのまま二試合目を始めようとしてゼルフィア様に止められておりましたな」
「止めたのか」
「闘場の修繕費がかさむからな」
「そこ、人命じゃなくて設備の心配なんですね!?」
俺のツッコミに、ゼルフィアは少しだけ不思議そうな顔をした。
「お前も昔は『壁程度ならまた建てればいい』と言っていたぞ」
「昔の俺、完全にバーサーカーじゃないですか」
「否定はできませんな」
バルガスが即答した。
即答しないでほしい。
しかも誰も冗談扱いしていないのが怖い。
つまり、この身体の本来の持ち主であるグレン・イーフリートは、あの戦闘狂に気に入られる程度には頭のおかしい側の人間だったということになる。
いや魔族だけど。
俺は頭を抱えたくなった。
大学の友人に「お前って徹夜テンションだとたまに危ないよな」と言われたことはあるが、せいぜい深夜二時にカップ焼きそばへタバスコを入れすぎる程度であり、闘技場の壁へ対戦相手を投げ込む趣味はない。
価値観の落差がすごい。
異世界転生というより、治安の悪い修羅の国へ新卒入社させられた気分である。
しかも研修担当が「死ぬと覚えるぞ」タイプだ。
ブラック企業でももう少しオブラートに包む。
「俺、帰りたいんですけど」
思わず口から漏れた。
ゼルフィアがこちらを向いた。
「どこへ」
「六畳のアパートへ」
「知らん」
「俺ももう行き方がわかりません」
胸の奥の王核らしきものが、また一度だけ脈打った。
その鼓動に合わせて、遠くの闘場の紋章がさらに濃く輝く。
屋敷の外から歓声が上がった。
戦いを求める声。
強者を讃える声。
魔族たちの熱狂。
俺は窓の外の異世界を見つめ、隣に立つ悪魔みたいに美しいゼルフィアを横目で見て、背後に控える怖すぎる家令と医師の気配を感じながら、自分の置かれた状況をできるだけ簡潔にまとめようとした。
日本の大学生だった俺は、なぜか魔族貴族グレン・イーフリートとして目覚めた。
隣には関係が深そうなアラクネ美女。
身体には炎の力。
胸には魔王っぽい危険物。
領地あり。
地位あり。
顔もたぶんかなりいい。
普通なら勝ち組転生と呼べるのかもしれない。
問題は、所属先が魔王軍残党で、上司が戦闘狂で、今日いきなり命懸けの決闘予定が入っている点である。
俺は天井を仰いだ。
翼の生えた骸骨が、相変わらず不吉な顔で俺を見下ろしている。
「……異世界転生って、もっとチュートリアルとかありませんでしたっけ」
誰も答えてくれなかった。
代わりにゼルフィアが、楽しそうに笑った。
「安心しろ、グレン」
「その言い方で安心できた経験が今朝から一度もありません」
「私が見届けてやる。お前が本当に壊れたのか、それとも別の何かに生まれ変わったのかをな」
「できれば病院で見届けてほしいんですけど」
「闘場で十分だ」
「十分じゃない!」
外から、鐘の音が鳴った。
重く、低く、腹の底に響く音。
血刻戦儀の開始を告げる鐘。
俺の異世界生活は、優しい村人に助けられるところからでも、冒険者ギルドで登録するところからでも、神様にチート能力の説明を受けるところからでもなく、裸で目覚め、美女に呆れられ、胸の中の危険物が発光し、初日から命懸けの決闘へ出場させられるところから始まった。
こんな始まり方をする物語があるなら、作者を呼んで説教したい。
せめて服の着方くらい、事前に教えておいてほしかった。




