レインタ通り23番地~あるいは水彩絵の具のない画材屋~
コポック君の家には、絵の具がありません。しかし、明日は学校で写生の授業があります。
「それじゃあ、これで絵の具を買ってきなさい」
お母さんにもらったお金を握りしめて、コポック君はレインタ通り23番地にある画材屋さんにやってきました。古い木の扉を開けると、ギィという音がして油臭い匂いがコポック君の鼻をくすぐります。
「……こんにちは」
「誰だい、こんな時間に」
こんな時間に?
コポック君は首を傾げます。家を出たのは学校から帰ってきてすぐ、まだお日様は高いところにあるはずです。でも、店に入ると確かに中は薄暗くて夕方のようです。
「あの、絵の具をください」
「どんな絵の具だ?」
店主と思われる男がコポック君の目の前に現れました。古めかしいマントを身に着けた大男です。
「明日、写生の授業があるのでそれに使うものを」
「ふん、くだらないね」
「でも、明日授業で必要なんです。売ってください」
「ここにはそんな授業用の絵の具はないんだよ」
コポック君はガッカリしました。ここに絵の具がなければ、今すぐ隣町までいかなければなりません。肩を落としたコポック君を見て、店主も困った顔をしました。
「まあ、その代わりこれをやろう。写生はできんが、この店の売れ残りだ。使ってやってくれ」
そう言って、店主は絵の具箱をコポック君に渡しました。重い木の箱に入っている、今ではどこでも売っていないような古い油絵具でした。こんなものをもらっても使い道がない、とコポック君は思いました。
しかし、受け取らないのも悪いと思い、仕方なく木の箱を受け取りました。絵の具箱は思ったよりずっしりとコポック君の手にぶら下がり、これを持って隣町まで行かなければならないのかとコポック君は憂鬱になりました。
店主に見送られて店を出ると、まだ午後の日差しが照っていました。夕方のような薄暗さはどこにもなく、コポック君が振り返ると画材屋のドアは木ではなくスチールのツルツルしたものになっていました。
驚いてコポック君がもう一度ドアを開けると、「いらっしゃーい」と軽薄な声がして店主が出てきました。メガネをかけた禿げ頭の店主は、先ほどの大男ではありませんでした。
「何をお探しで?」
「しゃ、写生用の絵の具を……」
「水彩絵の具のセットですね? こちらでよろしいでしょうか?」
晴れて、コポック君は写生用の絵の具を手に入れることができました。しかし、手には重い木の箱がぶら下がったままです。何度見ても店の扉はスチールで、古い木製のドアではありませんでした。
家に帰ったコポック君は明日の写生の準備をして、それから木の箱を開けました。中から古い油絵具の匂いが一気に飛び出してきました。
「……こんなもの、いらないのになあ」
「いらないだって? そりゃ失礼な」
絵の具箱が喋り始めました。慌ててコポック君が箱を閉じると、箱は慌てて弁解を始めました。
「ごめんごめん、今までの主人にも生意気を言うからって返品されまくったんだよ、もうおいらを店に返さないでおくれ」
「こんな化け物みたいな絵の具箱、いらないよ」
「化け物だなんて……こほん。おいらはきっとあんたのお役に立てるはずさ」
コポック君は喋る絵の具箱を前に、すっかり困り果ててしまいました。
「じゃあ一体なんの役に立つっていうのさ」
「誰も見たことがない絵を描けるさ」
「お前が絵を描くのか?」
「おいらは絵の具箱だぜ。絵の具は絵を描くのが仕事さ」
「ここにはキャンバスはないよ?」
「キャンバスならあるじゃないか、とっておきの、真っ白な奴がさ!」
気が付くと、コポック君は絵筆を持って真っ白な空間にいました。
「さあ、ここは君の心の中さ。どれだけ好きなように、何を描いてもいいよ」
絵の具箱の声だけが聞こえてきます。コポック君は目の前のパレットを手に取りました。赤、青、黄色、白、そして黒。試しにコポック君は黄色の絵の具を選びました。
「それなら、黄色い猫なんてどうだろう」
「いいじゃないか、鳴き声はニャーじゃなくてキャーだ」
「青い夕日はどうだろう」
「海と太陽と混ざってどっちがどっちかわからない!」
「緑色の鳥が飛んできた」
「これが本当のミドリ、なんちゃって」
絵の具箱は歌います。歌に合わせて、コポック君は次々と絵を描きます。オレンジの庭、茶色い雨、紫色の犬、そして真っ黒な太陽。全てが黒に飲み込まれると、絵の具箱は白い絵の具をまき散らします。
「ほらみろ、これが銀河系だ」
コポック君は宇宙を次々と描いていきます。アンドロメダ座、白鳥座、おとめ座にペルセウス座。宇宙を所狭しと駆け回り、絵の具は次々と生きた星になります。神話が生まれては消え、コポック君はその星の神となって宇宙の創造に立ち会います。
「そろそろお腹が減ったよ」
136個めの銀河を描いたところで、コポック君は絵の具箱に言いました。
「そうかい、おいらも満足したよ。それじゃあ帰ろうか」
気が付くと、コポック君は自分の部屋にいました。そして閉じられている木の絵の具箱を開けました。中には古い油絵の具が行儀よく並んでいるだけでした。
そして、その絵の具箱が喋ることは二度とありませんでした。
***
次の日、コポック君は写生の授業で「伸び伸びと自由に描けている」と先生にとても褒められました。コポック君がいくつも銀河を描いたのは、絵の具箱とコポック君だけの秘密です。
それからコポック君は絵の具箱を持って何度もレインタ通り23番地を訪れましたが、二度とあの木の扉に出会うことはありませんでした。
<了>
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