殿軍<しんがり>~小説越南元寇録~
打ち寄せる怒涛のごとく、モンゴル帝国の軍勢が迫る。
その真っただ中に、男は少数精鋭の騎馬部隊を率いて斬り込んで行った。
騎馬民族国家であるモンゴルの軍、といっても、そのかなりの部分は歩兵だ。そしてその多くは、モンゴルに征服された国々の民が駆り出されたもの。
今ここにいる兵たちの大部分は、先年モンゴルに降伏した大理王国の民だ。
彼らに対する同情の念を斬り伏せて、男とその部隊は散々に敵を混乱させ、敵騎兵の追撃を振り切って帰還を果たした。
「これで多少は時間が稼げた、か……」
男が独り言ちる。しかし、これが勝ち目のない戦いであることも、男は十分に理解していた。
男の名は黎秦。現在のベトナム北部を版図とする陳朝大越の将軍であり、先々代の王朝・黎朝の王室の末裔でもある。官職は御史中将。齢四十の勇将は、本陣に帰還したその足で御前会議に参上し、苦虫を噛み潰すことになる。
十三世紀――モンゴル高原を統一したチンギス汗ことテムジンは、その飽くなき征服欲に突き動かされるまま、麾下の軍勢を四方に発した。
彼らの馬蹄は、瞬く間にユーラシア大陸全土を蹂躙。チンギス汗亡き後も、その後継者らによって、世界征服の大事業は粛々と進められた。
モンゴル帝国にとって、東方面の最大目標である南宋。
騎馬民族国家である金によりその国土の半ばを奪われても、豊かな江南の地にあってしぶとく抵抗を続けるこの大国を、南北から挟撃するため、軍の通行を許可してほしい。
それが、大越に対するモンゴルの申し入れだった。
しかし、自領内において他国の軍の行動を許すというのは、事実上の属国化に他ならない。
陳朝大越初代皇帝である太宗こと陳煚は、モンゴルの使者を投獄し、徹底抗戦を指示した。
大越のこの態度に対し、モンゴル帝国第四代大汗モンケは激怒、名将ウリヤンカダイの指揮の下、三万の軍勢を大越に差し向けた。
大越の元豊7年冬(西暦1257年)、モンゴル軍が大越領内に侵攻。
未曾有の国難に際し、太宗は自ら陣頭指揮を執り、紅河北岸の平厲源の地(現在のヴィンフック省)にて、旧暦12月12日(1258年1月17日)、戦象部隊をもってモンゴル軍を迎え撃とうとした。
しかし、ウリヤンカダイは南方攻略に当たって、中原の戦史を紐解いていた。
かつての隋の時代。驩州(隋がベトナムに置いた州)の総管であった劉方という人物は、林邑王国(現在のベトナム中南部)の攻略戦において、象軍を打ち破った。
ウリヤンカダイはその先例に倣い、息子のアジュ率いる部隊に強力な弩で竹槍を射たせ、象たちに深手を負わせた。
傷付いた象たちは恐慌状態に陥り、その怒りを手近な人間たちにぶつけた。
すなわち、大越軍は自分たちの象によって壊滅させられたのである。
その後、太宗はどうにかこうにか戦線を立て直し、御前会議を開いて今後の方針を検討しようとした。
「ここで踏み止まらねば、昇龍(大越の首都・現在のハノイ)が彼奴らの手に落ちてしまいます。陛下におかれましては、何卒今しばらくのご辛抱を」
「左様でございます。御心配召されますな。我が朝には御史中将をはじめ、勇将精兵が揃っておりまする」
重臣たちが口々にそのようなことを言い募るのを、黎秦は渋い顔で聞いていた。
彼が局地的な勝利を収めたことで、重臣たちにモンゴルとまだまだ渡り合えるなどという無根拠な自信をつけさせてしまったのなら、苦々しいことこの上ない。
モンゴルの最も優れた点――敵にとってみれば恐ろしい点――は、騎馬兵力の機動力や弓矢の強力さにあるのではない。征服した先々で得た知識や技術を柔軟に吸収し我が物とすることができる点だ。
勇将であると同時に学識も豊かな黎秦は、モンゴルが象軍を打ち破った戦法の由来を承知しており、北方の蛮族と思っていた彼らの真の恐ろしさを垣間見たのだ。
すがるような、あるいは媚びるような眼差しで同意を求められて、黎秦は表情だけは取り繕いつつも、歯に衣着せることなく言い放った。
「これ以上この地にて戦おうとするは、なけなしの全財産を博打に投じるようなものと存じまする。陛下、何卒撤退のご決断を」
その言葉を聞いて重臣たちは色めき立ったが、モンゴル軍相手に戦果を収めた黎秦に対し、臆病者と謗れる者は誰もいない。
太宗も苦渋の表情を浮かべながら、ついに撤退の決断を下した。
「では御史中将、そなたに殿軍を任せたい。お願いできるだろうか」
それは言葉の内容からも太宗の口調・態度からも、懇願の体を取ってはいたが、皇帝の口から発せられた以上、やはり命令に他ならない。
「は。謹んで拝命いたしまする」
黎秦としてはそう答えるしかなかった。
実際、自分以外の人間が殿軍を務めたなら、撤退が潰走に変わることは目に見えている。
彼とてこの危険な任務を成し遂げて生き残れると思えるほど、自信家でも楽観主義者でもないのだが、他に適任者が誰もいない以上、やるしかない。
「つきましては陛下。余分な船を何艘か、臣にお譲りいただけませぬでしょうか」
せめてもの策として、黎秦は皇帝にそう要求した。
「それは構わぬ。適当なものを見繕わせよう」
踏み止まってモンゴル軍を一時退けた後、その船で離脱を図るのだろう――。太宗はそう解釈し、黎秦に数艘の船を与えた。
御前会議の後まもなく、太宗は少数の供を連れて戦線を離脱した。
兵たちが混乱をきたさぬよう、撤退の件は今しばらく伏せられている。
そしてしばしの後、大越軍が総撤退を開始すると、黎秦の奮戦により一時攻撃を手控えていたモンゴル軍は、追撃に出る。
木と動物の腱、骨や角を組み合わせて作られたモンゴルの複合弓から放たれる矢は、大越兵の弓矢とはもはや別物と言ってよいほど強力だ。
その強力で無慈悲な矢が豪雨の如く、黎秦率いる部隊に向かって降り注ぐ。
「盾、構え!」
黎秦の号令一下、兵たちは船を解体した板を盾として掲げ、矢を防いだ。
緻密で硬い材質の木材を用いた舟板は、いかにモンゴルの弓矢といえども貫き通せない。
騎馬隊で踏み散らそうとする動きに対しては、黎秦自ら指揮する騎馬隊と、弓兵隊によって攪乱。冬とはいえ南方ゆえそう短くはない太陽が暮れ落ちるまでの時間を、黎秦の部隊は粘り抜いた。
黎秦はモンゴルの夜襲を警戒しつつ、兵たちに交代で食事と休息を取らせ、自身も蒸し米に塩を振っただけの野戦食を腹に入れた。
「閣下も少しお休みになりませぬと……」
部下が案じてくれたが、そういうわけにもいかない。ごく短時間眠っただけで、黎秦は起き上がると、夜半に撤退を命じた。
撤退途中、紅河の支流を渡る都度、橋を落として時間を稼ぐ。
翌日以降もそのような戦いを続けながら、黎秦とその部隊はモンゴルの追撃を振り切り、紅河の下流、天幕の地(現在のハナム省)にて、本隊との合流を果たした。
そこは首都昇龍からさらに南に下ったところ。つまり、大越は首都をモンゴルに明け渡したのだ。
黎秦としても、昇龍の人々の身は案じられるところであったが、首都とはいえ中原の都市のような強固な城壁に守られてはいない昇龍で、籠城戦など出来はしないことは承知している。
やむを得ぬ仕儀ではあったが、首都の人々を見殺しにしてしまったことを気に病む黎秦の前に、一人の尼僧が現れた。
黎秦と同年配のその尼僧は、彼の顔見知りであった。
「昭聖公主!? よくぞ御無事で!」
昭聖公主。諱は仏金。陳朝の前の王朝・李朝最後の皇帝であり、かつては「昭皇帝」と呼ばれていた。
太宗の父の又従兄弟に当たる権臣・陳守度により、数え年わずか七歳で父に代わって帝位に就かされ、その翌年には同い年の陳煚――後の太宗と結婚させられて、帝位と国を譲らされたのだ。
亡国の女帝となった昭皇帝は、昭聖公主と名を改め、そのまま陳朝初代皇帝太宗の皇后となったが、十九の歳には、子供が出来ないからという理由で離縁されてしまう。
その後、出家して昇龍近郊の村の寺院に隠棲していたはずだが……。
「母の許に、あの男から報せが届いたのだそうです。我が軍は撤退する、昇龍も放棄するから、王侯貴族の妻女を連れてすぐに逃げよ、と」
昭聖公主が言う「あの男」とは、陳守度のことだろう。彼は昭聖公主の父である李朝第八代皇帝・恵帝を追い詰めて自害せしめ、その妻であり自身の又従妹でもある霊慈国母を我がものにしてしまったのだ。
彼女としては、陳守度を「義父」と呼びたくはないのだろう。
「そうでしたか。御無事で何よりです」
彼女自身も、母親を手伝って住民の避難を誘導したのだという。気疲れした様子の昭聖公主に労いの言葉を掛けながら、黎秦は陳守度のことを考えていた。
かの人物は、権勢のためならば道義も人情も踏み捨ててはばからぬ男だが、その一方で、きわめて有能で気骨ある政治家としての一面も持っている。
すでに噂として広まっていることだが、太宗が船で撤退する途中、彼の弟で一軍の将たる陳日皎の船と遭遇し、善後策を諮ろうとしたのだが、大越軍大敗の報を受け呆然自失していた日皎は、船べりに座ったまま動こうとせず、川に指先を浸して、無言のまま「入宋」の二文字を記したという。
宋への亡命を示唆するその字句に、太宗の心も揺れ動いたが、陳守度の「臣の首が地に落ちぬ限り、大越は滅びませぬ」という一言で、抗戦継続を決意したという。
陳守度という男、良きにつけ悪きにつけ、一筋縄ではいかぬ人物なのだろう。
モンゴル軍は大越が放棄した昇龍を占拠したが、彼らの望むようなものはほとんど得られなかった。
霊慈国母は首都を退くに当たり、王侯貴族の妻女を連れて逃げるだけではなく、市民たちにも持てるだけの食糧を持って逃げるよう指示し、さらには王宮の財宝や備蓄食料まで、船で運び出させていたのだ。
敵国の首都を落としても得るものなく、兵糧が心許なくなってきたうえ、冬でも温暖湿潤な大越の気候がモンゴル人の体質に合わず、体調を崩す者が続出したため、ウリヤンカダイは撤退を決断した。
しかし、太宗はその機を逃さず反撃に打って出、旧暦12月24日、昇龍近郊の東歩頭にて、モンゴル軍を攻め、潰走に追い込んだ。
そして、敗走するモンゴル軍に、各方面の守備に着いていた諸将らが襲い掛かる。
その中には、後年モンゴル(元)の第二次、第三次侵攻に際して救国の英雄となる陳興道こと陳国峻の姿もあった。
さらに、帰化塞主(大越に帰順した少数民族の長)である何俸という人物なども、配下の民を率いてモンゴル兵を打ち破った。
大越領内から退却するにあたり、モンゴル軍による略奪などはほとんどなかった。
これはもちろん、彼らが規律正しかったわけでも慈悲深かったわけでもない。ただただそんな余裕は無かったというだけの話だ。
大越の民は皮肉と嘲笑を込めて、モンゴル軍を「仏賊」と呼びならわしたという。
かくしてひとまずの危機は去り、此度の戦いにおける殊勲第一等と認められた黎秦は、太宗より御史大夫の官職と、黎輔陳の名を賜った。「陳王家を輔ける」という意味であることは言うまでもない。
さらに、何か一つ望みのものを褒美に取らすと言われた黎秦は、皇帝にこう申し出た。
「ではお言葉に甘えまして。昭聖公主を賜れませぬでしょうか」
幼い頃から運命に弄ばれながらも健気に生きてきた女性のことを、なんとか救ってやれないものかと思ったのだ。
彼自身、結婚し子供もいるのだが、その妻は数年前に流行り病で亡くなっている。
「それでよいのか? いや、あやつを貰ってくれるというなら願ったり叶ったりだ」
陳守度の意向のままに、彼女と結婚し離縁した太宗としては、いくらか後ろめたい気持ちがあったのだろう。むしろ大喜びで、かつての妻を功臣に下げ渡すことに同意した。
その後、黎秦はモンゴル帝国との和平交渉の使者の一人にも任じられてその任を全うした。
撤退するモンゴル軍を襲って打ち負かしたことが、大越侮るべからずとの印象を与えたか、それとも徒に恨みを買ったか――。それは微妙なところではあったが、モンゴルとしても、モンケ大汗が南宋攻略の途中で陣没してしまったこともあり、大越がモンゴルを宗主国と認め三年に一度朝貢するという条件で、和議は成った。
しかし、平厲源からの撤退戦において、もし太宗がモンゴル軍に捕らえられるようなことにでもなっていたら、大越は滅亡していたか、そこまでいかずとも、完全にモンゴルに隷属させられる状況になっていただろう。
それを考えれば、黎秦の奮戦が決して無駄でなかったことは間違いない。
大越に平和が戻ると、黎秦は妻となった昭聖公主と仲睦まじく暮らし、二人の間には一男一女が生まれた。
そして、黎秦は退位した太宗の跡を継いで第二代皇帝となった聖宗からも信頼され、皇太子――後の第三代皇帝仁宗の家庭教師にも任じられ、人々の尊敬を集めた。
大越の宝符6年(1278年)、昭聖公主は病を得、六十一年の生涯を閉じた。
今際の際に彼女は、黎秦の手を取り、「あなたのおかげで幸せな後半生でした」と告げた。
黎秦は愛妻の痩せこけた手を、きつく握りしめ続けた。
――Fin.
参考文献
ナントカ堂様訳『大越史記全書』
Wikipedia各項目
※この作品は史実を元にしたフィクションです。