ほうびの60年
中3の夏休み。補習を受けた帰り道、優斗は具合の悪そうな見知らぬ人を手助けした。
それだけだった……。
うっすらと涼しくなる話を目指しました。
塚地優斗は集落ともいえる小さな村に住む中学3年生だった。朝から数学の補習を受けた昼前の帰り道。村へ向かう山道は急で、身体中から汗が吹き出し、ぽたぽたと地面に落ちるほど。
「くっそ、あつい…。」
悪態をつきながら坂道を自転車で上る。
「家帰ったらアイス食ってやる……。」
この坂を上り切れば村へ着く、あと少し、とペダルを漕ぐ一歩一歩に力を込めた。坂を八割方上ったところにあるバス停が見えればあと少し。ところがそのバス停の雨除けとは名ばかりの屋根の下に誰かいる。見慣れない男で顔色が青白く、ひどく気分が悪そうだ。優斗は気になってペダルを漕ぐ足を止め、思わず声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
優斗が声をかけても
「え、私?……いや、あの……見えるんですか。」
と葉擦れのように掠れた声であまり大丈夫そうじゃない返事しか返ってこない。こんな田舎道で中学生にできることは少ない。バス停から50mほど坂を上がったところにある神社の脇の鎮守の森の木陰まで男を誘導した。そこには野晒しで色の禿げたベンチがある。男をそこに座らせると、優斗は自転車を近くの茂みにもたせかけ、神社と集会所の間に通されたパイプを通る湧き水をひしゃくに掬って男に渡した。
ひしゃくにたっぷり2杯の湧き水を飲むと男は大きく息を吐き出し、全身の強張りが取れたようだった。少しだけ顔色の良くなった男は、優斗の胸の名札をみて「塚地優斗君…」と呟き、おもむろに斜め掛けバッグから封筒の束を取り出した。どうやら新米の営業か配達みたいなものだったらしい。ちらっと目を遣ると住所と名前の記された封筒のあて名は知っている人のものばかり。だが、村に不案内な人では相当時間がかかるだろう。優斗は乗り掛かった舟と自分が配達をしようと申し出た。
しばらくじっと優斗を見ていた男は、やがて、
「では、お願いします。」
と相変わらず、うっかりすると聞き逃してしまいそうな、葉擦れのような掠れ声で言うと、1枚ずつ宛先を読み上げ、優斗が知っているかどうか確認しながら手渡してくる。1枚だけ「これは、違うので。」と除けて、他を全部優斗に頼んだ。
全ての封筒を配り終えるのに小1時間ほどもかかってしまった。脇道に入ったり出たり、慣れた場所でも炎天下の配達はきつかった。軽い気持ちで引き受けたことを後悔しながら戻ると、男はそのままベンチに座っていた。優斗に「私の仕事を手伝ってくれてありがとう。とても助かりました。」と頭を下げて礼を言った後、「疲れたでしょう。これでも舐めてください。」と大きな水色の飴玉を取り出し、包みを取り払って有無を言わさず優斗の口に放り込んだ。
パトカーや消防車のサイレン。大型重機のエンジン音。沢山の人々の騒めき。優斗が目を覚ますと、村は、異様な雰囲気に包まれていた。すぐ横から「ゆうと!良かったぁ~!」と、隣町の職場にいるはずの母親の声がしてぎゅっと抱きしめられる。
土砂崩れからの土石流の発生で、優斗の家を含む地区の家々が押し流され、潰されていた。その土砂崩れの発生はちょうど昼時の、畑に出ていた人たちが家に戻って休んでいた頃合いで、多くの犠牲者が出た。優斗は補習の帰りになぜか鎮守の森の前のベンチで昼寝してしまっていて、奇跡のような幸運で土石流に巻き込まれずに済んだのだった。
事故発生から6日後に、全ての行方不明者が遺体となって発見され、荼毘に付された。その一覧を見て、優斗はふと不安を覚えた。優斗は何故か、その日の記憶がぼんやりとしていて人に尋ねられても上手く応えられなかった。補習に行った帰り道、熱いなか一人で自転車を漕いだことまではわかる。けれど、鎮守の森のベンチなんかで眠るに至った過程はどうしても思い出せなかった。鎮守の森から家までは目と鼻の先。自分でも自分の行動が理解できなかった。きっと熱中症になりかけて朦朧とした状態で鎮守様の木陰で休むうちに寝てしまったのだろう、と村の人々は言ってくれた。
ただ、なぜも何も分からないのに、亡くなった人達全員の家に白い封筒を配った映像が頭を過ぎった。日が経つにつれてその映像は薄れていったが、いつの頃からかそよ風に揺れる木々の枝の葉擦れの音が「私の仕事を手伝ってくれてありがとう。」「これは、違うので、」という掠れた声に聞こえるようになった。そんな声の主に出会ったことがあったろうか。そして「これは、違うので、」という声に合わせて一通だけ渡されなかった白い封筒があった、と前後の脈絡もなく思うのだ。そして、あの日から、いつも熱いぐらいだった優斗の手はひんやりと冷たくなった。
病院からの帰り道。優斗は病院のそばの薬局へ向かった。
「鈴木優斗さん。」
薬剤師に呼ばれて、薬を取りに行く。
「いつものお薬です。忘れず飲んでくださいね。これから暑くなりますから、水分をしっかり摂るようにしてくださいね。」
お
会計を済ませて外に出ると、昼に近づいた夏の太陽がかっと照り付ける。今日は妻がランチに出かけると言っていた。このままどこかでそばでも食べて帰ろうか。太陽にじりじりと焼かれたアスファルトの輻射熱を浴びながら一人歩いていると、頭がぼーっとしてくる。
「塚地優斗君。」
もう、何十年も呼ばれていない旧姓で、誰かに名前を呼ばれた気がしてゆっくりと首を巡らす。数m離れたところにバッグを斜め掛けした男が汗を拭きながら佇んでいるのが見える。その男は優斗の前まで滑るように歩いてくるとおもむろにバッグを開け、白い封筒を取り出した。途端に優斗の脳裏にずっと靄がかかったように曖昧だったあの夏の日が蘇る。見知らぬ男を誘導して自転車を押して歩いた帰り道。白い封筒と、飴玉。土砂崩れ。
「これを、あなたに。」
過去に聞いた『これは、違うので、』と同じ、葉擦れのような掠れた声だった。
「・・・・・・・・・・これは、あのときの。」
声が震える。思わず封筒に伸ばした手はもっと震えていた。
「覚えておられましたか。いかがでしたか、私の仕事を手伝ってくれたほうびの60年は。」
ほうびの60年。では、やはり、優斗はあのとき、本当は土砂崩れに巻き込まれて死ぬはずだったのだ。あぁ、そうだ。今日はあの事故からちょうど60年たった、同じ日だ。
優斗はあれから無事、高校受験で志望校に合格し、さらに大学に進学し、人並みの苦労をして就職した。就職先の先輩の奥さんの友達と知り合う機会があり、それがきっかけで女性たちと遊ぶうちに意気投合した女性と結婚し、娘も授かった。
しかし、土砂崩れ事故以来、優斗は言い知れぬ空虚さを抱えていた。ふとした瞬間に、そこに自分がいなくても世界は完成している、と感じるのだ。昇降口で「おはよう」と複数の友人たちと声をかけ合うとき。給食を食べ終えて食器を片付けるとき。高校時代に成績個表を渡されたざわめきのなか。卒業式が終わって一人教室に戻る道。大学時代に一人で講義を受けていたとき。飲み会に誘われてみなで盛り上がっている瞬間。自分の業務をやり終えて、次の部署に回した直後。
婚姻届けに氏名を署名した直後にも無力感が訪れた。どうせ次男だし、と請われるまま妻の姓で届け出た。婚姻届けの証人欄は職場の先輩夫婦に頼んでいた。優斗が単身赴任で二度、3年ほど遠方で暮らすうちに両親とは疎遠になり、気付けば兄とも音信不通になっていた。幼い娘の妻によく似た顔つきの寝顔を見つめるときに過ぎる居心地の悪い違和感。妻側の親戚の集まりでは疎外感もひとしおで、常に心許なさが付き纏った。そんなときは手だけでなく腕全体が、いや、心臓まで冷え切るような薄ら寒さに襲われた。
今、一人娘は自立して、親とは別に暮らしている。誰かと同居だか同棲だかしているかもしれないが、相談されたことがないので知らない。妻にはいろいろ相談しているようだが、その妻は職場や趣味の場で知り合った人たちとの社交に忙しく、優斗と過ごす時間はほぼ無い。優斗と関わりないところで、一様に悩みや苦労を抱えつつも幸せそうにしている。
でも、皆、こんなものだろう、と思っていた。大学時代も会社勤めのときも優斗が孤立していたことはない。いや、むしろ誰かしら周りにいた。優斗がいなくても周りの誰かがフォローしていただろうと思える程に。そして定年退職し、社会と一線を画した今、優斗に声をかけてくる人はいない。
「ほうび、って、まさか……。」
「あぁ、あなたはさすがですね。ご懸念のとおり、お嬢さんはあなたの血を受け継いではいません。別の男とあなたの妻との間にできた子です。」
「あぁ……そんな、こと、が……。」
「ご両親は、ご自宅に土石流が流れこんできたときに巻き込まれてお亡くなりです。もう、20年も前のことです。葬儀も、その後の法要もお兄さんが一切を取り仕切っておられますよ。」
「あ、あ……うぅ。」
「お兄さんはご健在ですが就職先に家をお持ちで、ご実家の家や土地は全て処分されています。村にはもう塚地家のものは何もありません。」
「………っ…………はぅ。」
男は葉擦れのような掠れ声で、優斗がきちんと言葉にする前にどんどん優斗の疑問に答えていく。優斗が気付かないうちに、「塚地優斗」の痕跡は次々と消失していた。
封筒を受け取った手の震えは今や、腕と言わず、全身に及んでいた。ほうびの60年。自分は、塚地優斗は、この世に、皆と同じ存在感のある生き物として存在しているのだろうか。そんな疑念が湧いた瞬間、指先の冷たさが瞬く間に腕を駆けのぼり身体中を巡った。寒くて堪らない。制御できない震えは恐怖からなのか、寒さからなのか。あまりにも寒くて自分で自分を抱き締める。息が荒く、浅くなる。どくどくと心臓が脈打ったかと思うと今までに感じたことのない強い胸の痛みに目の前がちかちか光る。
なぜ、こんな目に合わなければならないのか。あの夏の帰り道、あの男に出会わなければ、声をかけなければ良かったのだろうか。あの男の封筒の配達を手伝った親切心の何がいけなかったのだろうか。いや、手伝っていなかったら、きっとあの時優斗の下にこの封筒が届けられていた。じゃあ、どうすれば……。理不尽と絶望に泣きわめいたつもりだったが、路上で崩れるように倒れた身体の時間は既に止まっており、涙1つ溢さず目を見開いたまま、身じろぎもしなかった。優斗が握りしめていたはずの白い封筒は忽然と消え、優斗に声をかけた男は、斜め掛けバッグを抱えてゆっくりと歩き去った。
優斗の遺体は、程なくして通りがかった人に発見され、病院に収容された。死因は軽い脱水症状からの心臓発作と診断された。優斗は狭心症の処方薬を持っていたため、診断が疑われることはなかった。葬儀はひっそりと、妻とその近親者数名のみで行われ、「鈴木優斗」は合祀型の共同塔に永代供養された。
最後までお読みいただきありがとうございました。