9話
ざらつく地面に不快感を覚えて目を開ける。
どうやら長い眠りについていたようで、頭がぼんやりとして動き出すのに少し時間がかかった。
なんだこれ...全身という全身が痛い...一体何が起きたんだ?
確か...ゴミ屋敷のような場所にいて...鏡が割れて...そうだ。
物の山が倒れてきて、下敷きになったんだ。
ん?じゃあ、私は死んだのか?
いやいや、落ち着け。そんなわけないだろう。
こんなに体中が痛いのに死んだはずがない。
また別の空間に飛ばされたのか?
扉に入った記憶がない。
何だかとても懐かしい夢を見ていた気がするな...。
ダメだ、頭が混乱している。
私はなんとか状況を把握し冷静になろうと、重い体を起こして辺りを見渡した。
そして、見覚えのあるその景色に再び頭が混乱した。
熱を帯びない冷たくてざらついた砂浜。
境目が分からなくならほどの暗く黒い空。
激しく波打つ漆黒色をした果てしない海。
いつか夢見て、憧れて、絶望した場所。
あの日見た南の島の光景だ。
いや、正確に言えば、少し違う。
あの日の海はよく晴れていたし、海も青かった。
常夏の日差しは厳しくて、冷たいなんてことはなかった。
広い海の真ん中にあんな石碑は建っていなかった...。
漆黒の海に佇む石碑は、目を凝らさないと分からず、初めは見落としていたものだったが、徐々にその姿が鮮明に私の目に映り込んで来た。
それは死者を弔う墓石であり、まるで現実を突きつけるかのように、ある苗字が刻まれていた。
“呉屋”
その文字を見た途端、私の頭が酷く痛み出した。
思い出したくもない過去が次々と蘇り、聞こえるはずのない声までもが私の脳内に響き出す。
そうだ、あの日、私は父に会いに行ったんだ。
小さな島で父を尋ねると、直ぐに居場所が分かった。
『なんであんたが生きてるのよ...』
家を見つけて中に入ると、もぬけの殻で、近くの人に聞いてみると、どこか知らない場所へ案内された。
『何で...どうして...?』
その先にあったのは小さな墓場で、私と同じ苗字の墓石を一つ見つけた。
『あんたみたいなガラクタ産まない方がよかった...!』
父は既にこの世を去っていた。
私が産まれて間もない頃の話だったと言う。
子供の為にと稼ぎに出た矢先に、不慮の事故に巻き込まれてしまったらしい。
母は幼い私を見知らぬこの地では育てられないと諦め、島を出て住み慣れた土地へと引っ越して行った。
そこで何とかお金を工面して、私を育てていたのだが、その心は夫を亡くした悲しみで徐々に病んでいき、まともな仕事も暮らしもできなくなっていった。
我が子を見ると幸せな日々を思い出してしまう。
我が子を見ると懐かしい場所を思い出してしまう。
我が子を見ると愛しいあの人を思い出してしまう。
そんな心から彼女は私を遠ざけた。
決して許されることではなかったが、それが彼女にできる、我が子を守る最後の手段だった。
何の罪もない我が子を咎めたりしないように、自分の身勝手で傷つけたりしないように、せめてもの愛情を与えられるようにと。
彼女なりの精一杯だったのだ。
その全てが一瞬で理解することができた。
母が時折見せる辛そうな愛おしそうな悲しい目の意味が、父のことを頑なに話したがらなかった意味が、最後のあの日に私へと向けた言葉の意味が。
その時になってようやく分かったのだ。
私は父の墓石の前に崩れ落ちた。
視界が真っ暗になって、手足が冷えていくのを感じた。
心配してくれた人を押し退けて、海へと向かったが、私の心が晴れることはなかった。
自分のしてきたことの全てが無意味に思えた。
歩るいてきた道は死体の山で、それら全てが私を睨んでいる。
決して取り返しのつかないことをした。
もう後には戻れないし、戻る気力も失せた。
身体を汚し、手を染め、心を黒に変えた。
その先に待つものがこんな絶望だとも知らずに。
世界は醜く汚いが、そんな中でも私が一番醜く汚い。
生きていることも恥らわしい。母の言う通りだ。
邪心で、醜悪で、耳障りで、卑劣で、煩わしい...私は“ガラクタ”だ。
「...あぁ...そうだ...思い出した。私は...生きていてはいけない人間だったんだ...」
ポツリとそう呟くと、漆黒の海が大きく波打った。
暗闇がどんどん深く広がっていき、私を飲み込む。
どうなるのかも分からなかったが、仮に本能が働いていたのなら逃げ出すべきであっただろう。
しかし、私はその暗闇に身を委ねた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
暗闇だけがはびこる世界でうずくまる。
先程よりも身体は一層重く、思考なんてものは働かない。
何も見えないし、何も聞こえない。
あるのは黒い絶望と、一人ぼっちの私だけ...。
これでいい、私にはこれがお似合いだ。
決して許されないことをした、取り返しのつかないことを。
このまま悪夢に犯されて、死ぬのがいい。
もう、生きるのには疲れた。
『本当にそれでいいの?』
構わない。私は死ぬべき人間だ。
『死んだ方がいい人間なんてこの世界にいない。君がそう望んでいるだけだろう?』
もう無理なんだ。
こんな世界で生きるなんて。
私には...できない。
『君には君を思うひとがいるでしょう?彼の言葉が分かるのなら、彼が何を望んでいるか分かるはずだよ。そしてそれは、君が死ぬことなんかじゃない』
...彼の...望み...?
『確かに生きることは苦しいよ、辛いよ、悲しいよ。でも、それでも!きっとその先に光があるはずだよ。彼は君に生きていて欲しいだけなんだよ』
...違う...私は...死ななくては...。
『君のしてきたことは決して許されることじゃない。でも...だからこそ!生きて、生きて、生きて!生き続けて償わなくちゃいけないんだよ。奪ってきた人達のために、悲しませた人達のために。何より、君を愛している彼のために』
聞いたことのない青年の声だった。
しかし、私はその声の主を確かに知っていた。
あどけなくて頼りなくて温かくて優しい、その声を...。
『絶望に心を委ねてしまわないで。死ぬことを望んだりしないで。君が与えるものも、救うものも、優しくしたものも、いつかきっと意味を持つから。返ってくるから。だから、どうか生きることを諦めないで、カイくん』
その言葉にハッとして私は思わず顔を上げた。
すると、そこには暗闇に浮かぶ一つの炎があった。
どこか懐かしくて温かいその炎は、見ているだけで胸の中に熱く火を灯した。
重い身体が嘘のように軽く、立ち上がることもできた。
私はそれに少し戸惑いながらも、決してその炎から目を離すことはせず、見つめ続けた。
『君が諦めない限り、炎は必ず現れる。君の心を灯し、勇気を与え、光の道標となる炎が。怖いものなんてない。君は一人ぼっちじゃない。迷わないで、手を伸ばして』
炎が私の心に語り掛けてくる。
私はその言葉に一切の疑いを持つこともなく、ゆっくりと力強く手を伸ばした。
その瞬間、炎へと伸ばした私の手を誰かが力強く掴んだ。
そしてそのまま、私の身体を勢いよく引っ張った。
ーーーーー パリィィイインッ...!
暗闇から無理矢理飛び出たことで、再び空間が割れる。
大きな音と共に崩れゆく黒い世界。
その後ろには全く反対の白い世界が広がっていた。
「よっしゃ!やっと見つけた!」
そう言って私の身体を手繰り寄せたのは、美しい白髪に眼帯をした、透明な瞳を持つ男だった。




