8話
夏の日差しも傾き、ひぐらしが優しく鳴き出す。
辺りが夕暮れ色に染まる中、私の目は絶望を写していた。
いつも汚い私の身体は、今日はより一層酷く、ゴミ捨て場の悪臭が移ってしまったようで、すれ違う人々が顔をしかめる程には汚れていた。
随分長いことあの場に座り込んでいたのだから仕方がない。
身体がベタつくのが汗かなのか、ゴミのせいなのかも分からない。
いや、そんなこと今は別にどうだっていい。
“ガラクタ”の私にはピッタリでないか。
そんなことを考えながら、私は家に向かって力なく歩いていた。
どうして家に帰ろうとしていたのだろうか。
帰ったところで待っていてくれる人なんていないのに。
あの場所に私を愛してくれる人は誰もいないのに。
そう気づいてしまったというのに。
あぁ、そうか。私は死ぬために帰っているのか。
家になら刃物も、風呂場も、紐もある。
早く彼の元に行ってあげなくては。
日も大分傾いてきたし、寒がっているはずた。
いや、どうだろうか。
彼もまた私を愛してなんかいなかったのかもしれない。
口の聞けない彼を私が勝手に解釈していただけなのかも。
私の妄言を彼が理解していたかなんて、分かるはずもない。
彼は人間じゃないのだから。
もうこの世にいないのだから。
思考が私の視界を暗くする。
日はまだ沈んでいないのに、何故だか目の前が真っ暗だった。
歩くのもやっとの気力で、私はどうにか家にたどり着いた。
そして、玄関の扉を開くと、そこには異様な光景が拡がっていた。
薄暗い部屋の中に佇む一人の少年。
顔はよく見えなかったが、やせ細った貧相な身体にボロボロの服を着て、伸びっぱなしの髪型のその子は、紛れもない私自身であった。
片手の刃物と血に染った身体を除いて...。
私の姿をしたその“何か”は、服も体も血で染っていた。
その血が彼自身のものではないということは、彼が持つ刃物と足元に転がる死体を見れば直ぐに分かった。
大量の血を流し、床に倒れる一人の女性。
彼女の黒い服は穴だらけで血によって赤黒く変色していて、酷く抵抗したのか長い髪は乱れてボサボサで、白い肌も切り傷によって、見るも無惨な姿となっている。
しかし、その顔だけは相変わらず綺麗で、死体は以前まで誇らしかった母の顔をしていた。
自分の姿をした少年が母を殺して佇んでいる。
私は酷く混乱したが、それは頭の中だけで、泣き出すことも喚き出すこともせずに、ただ呆然とその光景を眺めていた。
悲しむべきだろうか。
人を罵って軽蔑し、散々な扱いをしてきた彼女を。
憐れむべきだろうか。
友を殺し、ゴミ同然に捨てた女を。
涙を流すべきだろうか。
私を愛してくれなかったこんな奴のために...。
私の中で黒い感情がとぐろを巻く。
今まで押さえ込んできたものが激しく燃え上がり、“良い子の私”を消してゆく。
すると、そんな私の感情と共に赤い光が目に入ってきた。
それは目の前に佇む少年の目が輝いたもので、私はその目を見てハッとして、動揺に身を震わせた。
覚束ない足取りで少年の元に近づくと、目元のホクロまで私にそっくりな顔に、彼と同じ真っ赤な蛇の瞳が二つ浮かんでいた。
「...君なの...?」
そう言って少年の顔に手を伸ばすと、彼は口を耳まで裂けるようにしてにっこり笑い、気持ちよさそうに私の手に擦り寄ってきた。
その姿を見て、私は涙が止まらなくなった。
もう死んだと思った彼が生きていたという喜び、目の前に立つ得体の知れない存在への恐れ、私のために罪を犯した彼への申し訳なさ。
その全てが入り交じった涙だった。
すると、私の姿をした彼は、裂けた口から長い舌を出し、目からこぼれた涙をペロリと舐めとると、大事そうに、何かを確かめるかのように、優しく私の身体を這うようにねっとりと抱き締めた。
彼のその行為に私の目は再び涙で溢れ返った。
私はその抱擁に応えるかのように、強く彼の身体を抱き締めた。
彼の身体はまるで人のような抱き心地であったが、その体温は蛇そのもので、とても冷たかった。
しかし、私の心は初めて熱が込められたかのように温かくなり、心の底からの安心を覚えた。
「...ふふっ...あぁ、そうだ...そうだね...。僕には君しかいない...君だけでいい...。他には何一つ要らないよ...君さえいてくれるのなら...。ありがとう...ありがとう...愛しているよ...」
私がそう言うと、再び彼はニッコリ笑った。
もはや彼が私を愛していないだとか、私の言葉を理解できていないだとか、そんな疑惑を抱くことなどなくなっていた。
彼は私を愛してくれていた。
決して変わらない愛をくれた。
それだけで私の全ては報われ、満たされたような気がした。
「一緒に行こう...あの海へ...父さんの元へ...。あそこがきっと...僕らの居場所だ...」
私の言葉に彼は私と同じように抱擁で応えた。
そして、私達は二度と戻れぬ道を歩み始めたのだ。
母のことは小さな町で大きな事件となったが、私が疑われることも、彼が疑われることもなかった。
母の死んだ時刻、私は外で多数の目撃情報が寄せられ、警察は勿論のこと、民衆も一切の疑いも持たず、哀れな被害者として扱ってくれた。
私の姿をした彼はしばらくすると元の蛇の姿に戻り、彼へと結びつく証拠も何一つ見つかることはなかった。
結果、事件は未解決。
私達は完全犯罪を成し遂げたのだ。
その後、私の身柄はとある施設へと引き渡された。
身寄りのない私はそこで里親へと出され、子供に恵まれなかった心優しい夫婦の元に引き取られた。
以前とは比べようのない暮らしを手に入れたが、私達の望みは“これ”ではなかった。
本当の父、本当の家族との暮らしが欲しかった。
しかし、そのためには沢山のお金が必要だと知った。
豚野郎から渡されるようなはした金なんかよりも、もっともっと沢山のお金が必要だった。
だから、私達はもう一度やった。
片方が殺し、もう片方は別の場所でアリバイを作る。
決して明るみになることのない完全犯罪。
子供のいない夫婦の保険金は自ずと私の手の内となった。
しかし、それでもまだ足りなかった。
金というものは簡単に消えてしまうことを知った。
世の中は支払うべきもので溢れていることを知った。
だから、何度も繰り返した。
噂の立たぬよう、施設も家も転々として、殺した。
続ける内に慣れてきて、手口もますます巧妙になっていき、犯人を仕立て上げることもできるようになった。
どこへ行っても、私は哀れな被害者として君臨した。
当然だ。
私には心強い友がいるのだから。
蛇の姿をした彼は、特別な力を持っていた。
姿形を自由に変え、私だけでなく、見たことのある人間なら誰にでも化けることができた。
そうしていつも、私のことを助けてくれた。
『どうしてこんなことをするの...!』
『クソ...クソ...嫌だ...死にたくない!』
『っこの!腐れ外道の悪魔が!』
様々な言葉を聞いてきた。
時には懇願され、時には嘆かれ、時には罵声された。
しかし、どの言葉も私の胸に響くことはなかった。
むしろ清々しい気分だった。
私を不幸にしてきた醜い人間共が骸となっていく。
私を罵った奴らがことごとく冤罪となっていく。
全て私のしたことなのに、いつも私が守られた。
おかしくて堪らなかった。
腹がよじれそうだった。
ざまぁみろ。
ざまぁみろ。
お前らなんかに私達が分かるはずあるまい。
私は彼と一緒にあの海に行くのだ。
父に逢いに行くのだ。
その為なら、何だってしてやる。
悲しみも怒りも恐怖も感じることはなかった。
幸福と喜びと高ぶりだけが私を満たした。
彼といれば私は最強なのだ。
そして、何度目かの家族を殺した頃、ようやく満足のいく額を手に入れることができた。
私は早る気持ちを抑えて、彼と共に旅立った。
南の島にいる父を訪ねて。




