7話
孤独な日々を過ごす中で、私の元に転機が訪れた。
それはあまりに突然なもので、物が散乱した部屋の中で私は“彼”と出会ったのだ。
小さく細い身体に、ボロボロとなった黒い鱗、血に染まったような赤い瞳に、弱々しく出し入れする舌。
明らかに弱り切った蛇が、物の隙間から現れた時、私は酷く驚いたが、不思議と怖くはなかった。
本来ならば悲鳴をあげて逃げ惑う必要があるというのに、私の身体は自然と彼を助けるために動いていた。
自分の食事を彼に分け与え、傷を手当して、寒がりの彼のために四六時中、傍で寝た。
すると、彼の回復力は驚くべきもので、あっという間に元気になって私に懐いてくれた。
私にとって生まれて初めての友達ができたのだ。
外へ行く時も家の中でさえも私は彼と片時も離れず、彼もまた私から離れるようなことはなかった。
共に遊び、共に食事をし、共に寝た。
孤独な夜も寂しい日々も消え失せ、毎日が楽しくなった。
彼は蛇の姿をした優しい私の友人。
彼といれば心が穏やかで、胸のざわめきもなくなった。
彼と話すと心が落ち着いて、喉のつかえもなくなった。
時が経つに連れて、彼は私のかけがえのない存在となったのだ。
そんなある日だった。
彼が虫や小動物を好んで食べることを知った私は、それらを捕まえるために外へ出た。
生憎大きな獲物はなかったが、なんとか数匹の虫を捕まえて、少し足早に駆けながらウキウキとした気分で、両手いっぱいにそれらを持って帰っていた。
周囲の人からすればおかしな光景というより、不気味な光景に見えたことだろうが、私はそれを気にすることも忘れて彼がどれほど喜ぶかだけを想像し、その胸の高まりと共に勢いよく家の扉を開けたのだ。
「ただいま!」
そう言った私の目に真っ先に映ったのは、いつも出迎えてくれる彼の姿ではなく、一人の女性の姿だった。
濡鴉のように美しい黒色の長髪、卯の花色をした肌に、虚ろで切れ長の目は死人のようで、薄い体がよく分かる魔女のような黒い衣装を身にまとった母の姿。
彼女を見て、私の喉に北風のような息が吹き抜けた。
手足が冷えていき、汗がどんどん沸いてくる。
私は咄嗟に両手を後ろに隠したが、それと同時に母がゆっくりと口を開いた。
「...どこに行ってたの?」
「あ...えっと...こ、公園...です」
「...手に持ってるのは何?」
「えっと...」
彼女の問い掛けに私は必死に頭を回らせた。
しかし、幼い私の頭で考えつくことには限界があり、そうこうしている内に、隠した手の平からするりと虫達が逃げ落ちた。
「...虫?」
「あ!え、いや...これは...」
「...アレの餌のつもり?」
その言葉に私の体はギクリと反応した。
そして、恐る恐る彼女の方へと視線を移すと、そこには嫌悪を顕にした母の姿があった。
「...あ...あの、ご、ごめんな...」
「本当に気持ちが悪い。一体どういうつもり?あんな醜い生き物を家で飼っていたとでもいうの?自分のこともロクにできない子供くせに、おままごとで変な物拾ってこないでよ」
「...えっと...」
「家から出るなって言ったの忘れた?子供がいるなんて知られたら、客が来なくなるかもしれないなんて、考えたら分かるでしょ?出来損ないにもほどがあるわ」
「...ご...ごめ...んな...さ...」
「久しぶりに帰って来られたと思ったらこれ?本当にいつもいつも余計なことばっかりして...。どれだけ私の邪魔をしたら気が済むわけ?そんなに私のことが嫌いなの?」
「...っ...ちがっ!...僕は...母さんのこと...」
「私をそう呼ぶのはやめて!!」
その叫び声に私は驚き、思わず口を閉ざした。
母は怒りに体を震わせながら、悪魔を見る目で私を見ていた。
「何であんたが生きてるのよ...何で...どうして...?」
「...」
「あんたみたいな“ガラクタ”産まない方がよかった...!」
彼女はいつにも増して機嫌が悪いようだった。
今までにないような酷い言葉が彼女の口から発せられていたが、それでも私は怒ることも泣くこともせずに、ただ耐えていた。
仕方がない、今日はとても疲れているんだ。
きっとそんなこと思ってないはずだ。
元はと言えば自分が悪いんだ。
疲れている母に迷惑をかけてしまった。
家の中に蛇なんかがいてさぞ驚いたことだろう。
...あれ?
ふと私はあることに気がついた。
そういえば先程から彼の姿が見えない。
母に驚いて隠れてしまったのだろうか?
そう思いたかったが、嫌な考えが脳裏にチラついた。
「...あ...の...あの子は...?」
恐る恐る問い掛ける私をよそに、母はそっぽを向きながら疲れきった声で言い放った。
「あの蛇なら叩き潰して、ゴミ捨て場に捨てたわよ」
その言葉を聞いて私は考えるよりも先に家を飛び出していた。
母が私を引き止めていたかは分からない。
家の外は真夏の炎天下で蝉の大合唱が鳴り響いており、聞こえてくるのは脈打つ己の鼓動と切れる息の音だけだった。
お願いだ、死なないで、生きていてくれ。
もう会えないなんて嫌だよ。
もっと君といたい。
頼む、頼む、誰でもいい何でもいい。
彼を助けてくれ。
何だってする、だからお願いだ。
僕から彼を奪わないで。
ゴミ捨て場まで走る間、私は必死になってお願いをした。
どれだけ自分が辛くてもがることのなかった仏に向かって、欲しいもの一つも願ったことのなかった神に向かって。
やっとの思いでゴミ捨て場に着くと、私はそこに転がるゴミ袋に飛びついて、死に物狂いでその中を漁り出した。
しかし、山のように積み上がった袋の中から、小さな蛇を見つけることなど、藪の中から針を探すようなものだった。
どれだけ長い間探し続けただろうか。
それでも彼の姿はどこにも見当たらず、私の身体は疲労と暑さによってとうとう動かなくなった。
「ねぇ、お母さん、あの子何してるの?」
「しっ!見ちゃダメよ!」
「うわ、汚ねぇの!食い物探してるよ、あれ」
「やめろって、可哀想だろ〜!」
背後の通りから人の声が聞こえてくる。
悪いものでも見たかのように足早に立ち去る親子、茶化すように笑いながらカメラを向ける青年達、見て見ぬふりをして通り過ぎる無数の人々...。
ボロボロになった少年を見ても、誰一人として手を差し伸べることのないその光景に、私を繋ぎ止めていた何かがプツリと切れた。
あぁ、そうか、世界はこんなにも醜いのか。
努力しても報われることなんてなかったんだ。
優しくしたところで返ってくるはずがなかったんだ。
誰もが自分よがりで、他人のことなんかどうでもいいんだ。
私のしてきたことは全て無意味だったんだ。
同級生が私を虐めたのはただの遊戯で、ビル街の女達が私を貪ったのはただの暇潰しで、あの男が私を犯したのはただの処理行為で...誰も寂しいわけでも可哀想なわけでもなかった。
都合のいい存在を利用しただけだ。
『聞き分けのいい』子が欲しかっただけだ。
神も仏もこの世にいない。
誰も助けてはくれない。
世界は優しくなんてない。
母は私を愛していない。
この世に私の居場所なんてない。
考えたくもない現実が押し寄せる頭の中で、母の言葉が呪いのように繰り返し再生さ始める。
“ガラクタ”
もっといい子だったら違っただろうか。
もっと優しくしたら違っただろうか。
もっと頑張れば違っただろうか。
いや、きっと変わらない。
どれだけ努力したところで変わらない。
私は家に転がるゴミ同様の役立たずなのだ。
彼女が正しい。
彼女の言う通りだ。
現に私はたった一人の友達すら、助けることができなかったじゃないか。
私の目から自然と涙があふれる。
不思議なものだ。
絶望して心を失ったも同然なのに、涙が出るなんて。




