2話
早朝、冷たい空気に身を震わせて目を覚ます。
寝室の大きなベットは一人で眠ると、広々とした快適さよりも寒気の方が勝ってしまう。
私は寒さで縮こまる身体をなんとか伸ばして、ベットから起き上がると、あくびをしながら洗面所に向かった。
顔を洗い、歯を磨き、服を着替えて、髪を束ねる...一通りの身支度を終え、リビングで朝食をとる。
そんないつも通りの朝を過ごしていると、ふとある違和感に気がついた。
リビングに置かれたガラスケース、その中にいるはずの彼の姿がどこにもないのだ。
ガラスケースは上の部分が開いていて、彼はいつも自由に出入りをしている。
陽の当たる窓辺や山積みになった洗濯物の中、いつだって彼のいる場所は大抵分かっていた。
しかし、今日は部屋のどこを見回しても、彼の姿どころか気配すら感じなかった。
普通なら慌てふためくだろうが、私は至って冷静だった。
...あぁ、またか。
彼はこの頃、よく姿をくらましていた。
この広くも狭い部屋の中にいないとしたら、マンションの高層階からどうやって出たのか。
以前いなくなった時は私の学校用のカバンの中にいたっけ。
あれから気をつけているが、それでも彼は時々消えてしまう。
何事もなく戻ることもあれば、丸一日いない時もある。
聞くところによると、猫は死ぬ時に姿を消すらしい。
己の死体を決して晒さないという高尚な志からか、大切な人を悲しませたくないという思いやりからか、どんなに戸締りをしても彼らは行方をくらますそうだ。
もしかしたら蛇も同じなのだろうか...?
そんなことを考えていると、時計が家を出る時間を指した。
私はそれを見て、考えを放棄するかのように家を出た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マンションを出て少し歩き、バス停に向かう途中、朝方の寒さに身震いをしていると、目の前に一人の男が立ちはだかった。
真珠のように白く輝く髪にモデルのような顔立ち、 上等な黒いスーツに高そうなネクタイ、片目には似合わぬ眼帯をしていて、もう片方にはビー玉のように透き通った透明な瞳が浮かんでいた。
私は人より背の高い方だが、目の前の男はそれよりも高い。
彼は何やら不満そうにこちらを睨んでいて、全く身に覚えのない私は愛想笑いをする他なかった。
...この男は誰だ?...どうして睨まれているんだ?
以前に会ったことがあるだろうか?
いや、こんな派手な見た目の知り合いはいないはずだ。
そうして私が思考をクルクルと回していると、男が沈黙を引き裂くように口を開いた。
「お前、名前は?」
「失礼ですが、どこかでお会いしたことありましたっけ?」
「名前は?」
「...名前を聞くなら先に名乗るのが礼儀では?」
「チッ...めんどくせェな、いいから答えろよ」
「...艶島です」
「ふーん...下の名前は?」
男の不躾なものの言い方に思わず笑顔が引きつる。
礼儀知らずな人間は数多く知っているが、彼はその中でもダントツで上位に入るだろう。
私はそんな彼との会話に嫌気が差して、早々に終わらせようと、まだ余裕のある時間を気にし始めた。
「すみません、バスの時間があるので、失礼しますね」
「“くれや”って男知ってる?」
通り過ぎようとする私の背後から男が話し掛ける。
その言葉に私は思わず振り返り、彼を睨みつけた。
「...知りませんけど」
「あっそ」
「何故その人を探しているんです?」
「ん〜何かそいうのを捕まえなきゃいけないんだって」
「警察の方ですか?」
「そうだって言ったらどうする?」
男は私に背を向けたまま軽い口振りでそう言った。
私はそんな彼に、一瞬衝動的な行動を取ろうとしたが、なんとか冷静さを取り戻し、笑みを浮かべた。
「ふふっ、別にどうもしませんよ」
「ふーん...ま、そうじゃないんだけどね」
「...」
何なんだコイツは?
という言葉を飲み込んで、私は軽い会釈を残してから去ろうとした。
すると、そんな私に再び男が口を開いた。
「ねぇ、部屋さ死臭とか大丈夫なの?俺なら死体と一緒の部屋とか絶対嫌だな〜」
彼の言葉に今度は振り返ることなく、私はそのままその場を後にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学校に着くと、沢山の生徒が朝から元気に騒ぎ立てていた。
いつもなら我慢できるその騒がしさも今日ばかりは耐えられず、私は席に着き、机に向かってうなだれていた。
「おい、艶島、大丈夫か?」
「あぁ、大丈夫だよ」
「全然そうには見えないぞ。昨日の早退はどうも本当だったみたいだな」
そう言って一人の男が親しげに目の前の席に座った。
私はそんな彼に内心イラつきながらも、笑顔を浮かべて彼と会話を続ける。
そして、頭では全く別の...今朝のことを考えていた。
あの男...一体何者なんだ?
言動はとても幼かったが、見た目からして同い年ぐらいか。
警察ではないと言っていたが、信用できない。
それに...あれは...どこで知ったんだ?
普通に会話をしているとは思えないほど激しく回る思考の中、ふと今朝見当たらなかった彼のことを思い出す。
バスでカバンの中を見たが、いなかった。
彼のいる場所は温かくしているから食欲はあるはずだが、最近はご飯もよく残すし、あまり動きたがらない。
冬だからと思いたいところだが、時たま変な呼吸音もするし、やはりそろそろなのだろうか...。
受け入れ難い現実が差し迫っている。
そのことを考えていると、先程の男のことなど、最早どうでもよくなっていた。
「...それでさ、今日空いてる?実は見せたいものがあって...」
「ごめん、ちょっと用事を思い出した」
「え、もう一限目始まるぞ?」
「悪い、先生には遅刻だって言っといて」
私はそう言うと、制止する男を無視して教室を出た。
教室を出て向かったのは、寒空が広がる学校の屋上だった。
ここは誰も管理をしてないようで、以前に鍵を壊して入ったのだが、いまだに気づかれていない。
私は身を震わせながら歩いていくと、屋上の細い柵に肘をついて、下を見下ろした。
...高いな...やっぱり痛いのかな?
いや、痛い方がいい...その方が私にはお似合いだ。
やるなら傍に彼がいない今しかない。
彼にはもっと穏やかな最後を迎えて欲しい。
私なんかと一緒に終わらせるなんて可哀想だ。
もう十分やった...だから...そろそろ...いいよね...?
そう自身に問い掛け、乗り越えようと、柵を強く握り締めた時だった。
「あれ、何してんの?」
突然、声が響いた。
それは不思議なことに何もないはずの頭上から聞こえてきて、咄嗟に見上げると、そこには宙に浮かび立つ一人の男の姿があった。
それは白い髪に眼帯をしたあの礼儀知らずの男で、彼はこちらを物珍しい目で見下ろしていた。
信じられない光景に私がポカンと口を開けて見ていると、彼の手に何かが握られていることに気がついた。
男の手の中で暴れ回る黒い縄のようなもの。
それは風が吹き抜けるような鋭い威嚇音を発していた。
「授業中じゃないの?」
「...彼から手を離せ」
「は?何、この蛇お前の?」
「手を離せ」
「悪いけど、これはうちで預からせてもらうよ。それよりさ、何でそんなとこいんの?死ぬの?」
「聞こえなかったのか...離せと言ってるんだ!!」
私がそう叫んで、男に向かって手を伸ばした...その瞬間、彼と私の間にヒビが入った。
それは比喩などではなく、空間に突然現れた割れ目であって、中から大量の煙のようなものを吐き出すと、あっという間に私達を包み込んでしまった。




