1話
静かな教室に響く耳障りな教師の声。
誰が決めたかも分からない常識を説くその存在に、疑問の一つも抱かない生徒達は、ただ黒板の文字をノートに写す作業をしていた。
私も彼らと同じくノートを書き進めていたが、ふと窓の隙間から入る寒風に身を震わせ、外へと視線が移る。
薄く雲が広がる冬の空。
凍てつく風が木々についた枯葉を揺らし、それは高々と宙に舞い上がったかと思うと、弄ばれるかのように直ぐに地面へと叩き落とされた。
私はそれを見て何故かとても面白くなって、思わずクスクスと笑ってしまった。
すると、こちらに気がついた教師が声を掛けてきた。
「艶島くん、面白いことでもあったのかな?」
「ふふっ、すみません、何でもないです」
「ここの問題テストにも出るから、ちゃんとノート取ってよ」
「は〜い」
何ともやる気のない返事に教師は呆れ顔を浮かべたが、彼女がそれ以上私に何か言ってくることはなかった。
それもそのはず...彼女にとって私は、『聞き分けの良い』優秀な生徒なのだから。
退屈な授業を終えると直ぐに、私はカバンに荷物をまとめ始めた。
まだ授業は三時間目、帰るには勿論早過ぎる。
そんな私の様子を見て先程の教師が近づいてきた。
「艶島くん、また早退なの?」
「えぇ、すみません、少し体調が悪くて」
「あらあら、それは大変。先生が優しく介抱してあげなくっちゃ...ね?」
「ふふっ、ありがとうございます。でも、それはまた今度にしておきます」
「もう、つれないんだから...。でもいいわ、早退届は私が出しといてあげる」
「ありがとうございます、センセイ」
私はそう言って彼女の手にそっと触れた。
彼女は周りを気にしながらも、その手を厭らしく握り返した。
そして、名残惜しそうに触れながら、彼女はその場を後にする。
私は彼女が去るまでにこやかな笑顔で手を振り続け、その姿が見えなくなると、直ぐに帰り支度を済ませ、同じように教室を後にした。
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学校を出てバスに乗り、しばらく歩くと家に着く。
少し距離はあるが、知り合いの少ない方が色々と都合がいい。
私は少し周りを気にしながら、とあるマンションの中へと入って行った。
中に入り、エレベーターに乗ろうとすると、同じくそれを利用しようと待つ中年の女性が目に入る。
私は咄嗟に身を隠そうとしたが、目ざとい彼女に見つかり、声を掛けられた。
「あら、カイくんじゃない?」
「こんにちは」
「見ない内にまた大きくなったわね〜!髪もこんなに伸びて、まだまだ成長期ね!」
「ふふっ、先日もお会いしましたけど、その時も同じこと言ってましたよ」
「あら!そうだったかしら?この頃忘れっぽくて嫌になっちゃうわ〜!息子や旦那にもしょっちゅう言われてて...」
そう言って女は矢継ぎ早に話を続けた。
途中、エレベーターが私達の元へと来たが、彼女の口はそれに乗っても止まることはなかった。
エレベーターで過ごす時間を、こんなにも長いと感じたことは今までなかっただろう。
しかし、私はそんな心根とは反対に、嫌な顔一つ浮かべることなく、彼女の話をにこやかな笑みで聞き続けた。
「そういえば、最近見ないけど、岡村さん元気?」
「...えぇ、元気だと思いますよ」
「あら!またあの人出張なの?まぁまぁ!大丈夫?何か困ったことがあったら何でも言ってね!」
「今のところ大丈夫ですよ、ありがとうございます」
「あら、しっかりしてるわね〜!」
そんな話をしていると、エレベーターがとある階にたどり着く。
女はまだ話し足りないようだったが、開く扉を見て、小さく手を振りながらそさくさと降りて行った。
彼女の姿が見えなくなり、扉が閉まると、私はようやく浮かべた笑みを消して、ため息をつく。
そして、しばらくエレベーターの天井を見上げていると、直ぐに私の降りる階へと着いた。
エレベーターから降りて、少し歩いた奥の部屋、私はその扉の鍵を開けて中へと入る。
「ただいま」
その声に返事をする者はおらず、奥に進むと静かなリビングだけが拡がっていた。
そして、中心に置かれたテーブルの上には、温かい光の当てられたガラスケースが置いてあったのだが、中は空っぽで何も入ってはいなかった。
私がそれに首を傾げて、辺りを見回していると、足元に何かがゆっくりと絡みつく感覚がした。
「あぁ、そこにいたんだね」
私はそう言って“彼”を手に乗せた。
しなやかで美しい身体、黒々として一つ一つが繊細な鱗、数珠のように綺麗な赤い瞳に、見え隠れする細長い舌。
口の中には小さな身体に見合わぬ鋭い牙が輝いていたが、こちらを決して傷つけまいと見えても直ぐに閉じてしまう。
私のたった一つの大切な存在、彼は黒い蛇の姿をした私の友人なのだ。
「やっぱりゲージは慣れないかな?こらこら、そんなに登ってきちゃダメだよ。ふふっ、少し待っててね、ご飯を持ってくるから」
そう言って私は彼の頭を優しく撫でると、ガラスケースの中に入れて、洗面所の方へと足を運んだ。
制服を脱ぎ落とし、洗面所に向かうと、束ねた髪を解きながら洗面器にお湯を入れる。
そうしてお湯が溜まるのを待っていると、ふとお風呂場へと視線が移った。
...そろそろ何とかしないとな。
その瞬間、笑顔だった私は冷たい無表情へと変わる。
髪をかきあげながら浴室の扉を開けて中に入ると、そこには浴槽に横たわる一人の男の死体があった。
ぐったりとして目を閉じたその男は、手足を縛られ、口にガムテープを貼られていて、綺麗なスーツは血にまみれて赤く染まってしまっている。
私は何の考えも持たず、無言のまま、ゆっくりと男の顔を覗き込むと、彼の口へ自分の口を近づけ、ガムテープ越しの男の唇に触れようとした。
...ジャーッ...。
静かな部屋に響いた水の音、その音にハッとした私は男から離れ、出しっ放しで溢れるお湯を止めた。
「...ふぅ...」
そうして一つため息をこぼすと、溜まったお湯を持ってキッチンへと戻る。
そして、冷凍庫から彼の好物を取り出すと、持ってきたお湯でそれを解凍した。
しばらくして、解凍し終えたものを持って彼の元に戻ると、ガラスケースの中で縮こまっていた彼は、私の姿を見て喜ぶように這い出てきた。
「お待たせ。ほら、食事だよ」
そう言って私は彼に好物の冷凍ネズミを差し出した。
彼は大きく口を開けるとそれをゆっくり飲み込んだ。
...ここは広くて快適だけど、長くはいられないな。
お風呂が使えないのは結構痛手だし、いつまでも『出張に行ってる』は不自然だ。
住人もうるさくて嫌気が差すし...潮時か。
そんなことを考えながら、食事を与えていると、彼は突然ピタリと食べるのを止めてしまった。
「...もういいの?最近は少食だね...」
私はそう言って彼の頭を優しく撫でた。
人間は嫌いだ。
邪心で、醜悪で、耳障りで、卑劣で、煩わしくて...。
下心ばかりの犯罪教師も、口うるさい偽善者年増女も、片付けの面倒な粗大ゴミ紛いの死体男も大嫌い。
私が唯一愛する存在、それは彼だけだ。
人間なんかとは違う、美しく神秘的な身体を持っている。
澄んだ瞳に、特別な力を宿している。
彼だけが私の心の支えであり、私の全てだ。
吐き気を催す愚鈍な人間で溢れた汚い世界なんて要らない。
彼のいるこの生活こそが私の世界だ。




