7話
カイとの問題が解消され、私は以前と同じように平穏な生活を送っていた。
変わったことと言えば、疎らに帰っていたのが毎日一緒に帰るようになったこと。
あの細道にあるベンチに二人でよく行くようになったこと。
以前にも増して彼との距離が縮まったことだった。
あの後、彼は私を部屋に招き入れてくれたが、結局猫のぬいぐるみは見せてくれなかった。
『やっぱり恥ずかしいから』
と言って頑なに拒んだので、私とカイはその後、じゃれつくように取っ組み合った。
兄弟らしくてとても楽しかったが、彼の力強さに少しばかり驚かされた。
そうして時が過ぎ、待ちに待った夏休みが目前となった。
広々とした体育館には沢山の生徒達が詰め込まれ、終業式恒例の教師達の長話を永遠と聞かされていた。
夏の暑さに茹だる生徒達に紛れ込んだ私は、その光景に既視感を覚えた。
私は退屈な人生を望んでいた。
平凡で穏やかで静かな人生を。
ドラマチックな出来事も、波瀾万丈も、これっぽっちも望んでいなかった。
しかし、今はどうだろうか。
ある日突然として現れた弟によって、私の毎日は困惑と緊張と不安でいっぱいだ。
そして、喜びと興奮と愛おしさにも溢れている。
こんなにも騒がしい日々が訪れるなんて思ってもみなかったが、何故だか悪い気はしない。
私の人生には彼が加わったのだ。
それは決して煩わしいことなんかではなくて、むしろ以前から望んでいたかのような満ち足りた幸せであった。
彼のいる今こそ私の平和な世界なのだ。
「...えぇ、では、終業式を終わります」
ようやく教師の長話を終えて、体育館から開放される生徒達。
そして、式が終われば帰宅も直ぐだ。
プリントなどの配布がされると、教師も早く夏休みを迎えたいのか、颯爽に帰りの合図を出した。
このためだけに登校させられたのかと思うと、少しばかり腹が立つが、午前だけで直ぐに帰れるのは嬉しい。
私は大急ぎで校門の方へと向かおうとしたが、途中にいた友人達がそんな私を引き止めるかのように声を掛けてきた。
「お!“鬼”堂角じゃん!」
「やめろって馬鹿!怒られるぞ!」
「また転んで怪我するぞ〜」
「おい、柊!この後一緒にカラオケ行かねーか?」
そう話し掛けてきた友人達に向かって、私は勇み足を止めることなく、彼らの前を通り過ぎながら返事をした。
「...すみません、弟が待ってますから!また今度!」
そう言って駆け抜けていく私を見て、友人達は何故かいつかの母と同じ、微笑ましい表情を浮かべていた。
校門の方へと向かうと、そこには本を片手に佇むカイの姿があった。
彼はこちらに気がつくと本をカバンにしまあ、私と同じように駆け寄ってきた。
そして、息の切れた私を見てクスクスと笑い始めた。
「そんなに慌てて来なくてもいいのに」
「...待たせるのは申し訳ないんですよ」
「僕の方が早く終わるだけなんだから、気にしなくていいよ」
「...いいえ、気にします」
そんないつも通りの会話をしながら、これから始まる夏休みに胸を躍らせて、私達は帰路についた。
「今日は何か用事があったりするのかな?」
「...いえ、特にありませんけど」
「じゃあ、あの場所に行って話をしない?」
「...いいですけど今日はまだ日も高いですし、少し暑いかもしれませんよ?」
「うん、けど、夏休みの予定について兄さんと二人で話しておきたいんだ」
そう言って夏の思い出に胸を躍らせるカイ、私はそんな彼を見て少し微笑ましくなった。
そして、友人達もきっとこんな気持ちだったのだろうと、今更ながら気がついた。
「...じゃあ、行きましょうか」
人目につかない山へと続く細道。
隠れた場所にあるこの道の存在は一体どれほどの人が知っているのだろうか。
恐らく、手で数えるぐらいであろう。
さながら秘密基地のようで、悪巧みをするわけでもないのに、背徳感が湧いてくる細道とそこに佇むベンチは、私達だけの特別な空間だ。
私とカイはそのベンチに座ると、夏休みにしたいことを二人で語り合った。
花火をする、お祭りに行く、流しそうめんをする、プールに行く、かき氷を作る、映画を見る、肝試しをする、新しい本を買いに行く、遠出をする...。
受験を控えた身だということを忘れてしまいそうなほど、思いつく限りの遊びを予定の中に組み込んだ。
カイが家族になって...私の弟となって、初めての夏。
沢山遊んで思い切り楽しんで、最高の思い出にしてあげたい。
私の頭はそれでいっぱいだった。
そうして話している内に段々と盛り上がってしまい、喉が渇いてきた。
やはり山の中とはいえ、この時間ではまだ暑いようだった。
早めに帰って水分補給しなくてと思い、私は彼に提案をする。
「...そろそろ帰りませんか?暑くて喉が渇いてきました」
「あぁ、確かに今日は一段と暑いね。ごめんね、つい夢中になり過ぎてしまって気がつかなかったよ」
「...いえ、あなたが謝ることではありません」
「そうだ、喉が渇いたのなら、ひとまずこれを飲みなよ」
カイはそう言ってカバンの中から水筒を取り出してこちらに差し出した。
その水筒にはまだ沢山水が残っていて、結露ができているほど冷えていた。
「...おや、いいんですか?」
「水分不足で倒れたら大変だ。帰るまでに少しでも飲んでおいた方がいいよ」
「...でも、こんなに残ってますし、あなたの方が飲むべきでは?」
「凍らせたペットボトルのお茶があるから大丈夫だよ」
「...準備がいいですね」
「暑がりなだけだよ」
「...では、お言葉に甘えていただきますね」
私がそう言って水筒の水を飲んでいると、ふとカイが私を見ながら話し出した。
「兄さん、僕の話を聞いてくれる?」
「...ん?...勿論ですよ」
「僕は生まれた時から父がいなくて、母と二人で暮らしていたのだけど、あまり裕福な家ではなくてね。そのせいで周りから貧乏だって虐められたこともあったんだ」
「...」
私は彼の話を聞いて少し驚いた。
何度か二人きりで話す機会はあったが、こんな話をするのは今日が初めてだったからである。
「そして、人のことが信じられなくなった。裏切られたり、騙されたり、蔑まれたりしてね」
「...カイ...」
「でもね、そのお陰で学んだこともあった。他人が他人のことを知ろうと...知りたいと思う時には二つの理由が存在するということ」
「...」
...あれ...何だ...?...こんなときに...。
カイが珍しく自分のことを話してくれているというのに、私の視界は急に霞み出し、瞼も重く閉じていった。
何故か全身の力が脱力していき、隣にいる彼の声すらも遠のいていく。
...ダメだ...もの凄く...眠い...。
突然襲いかかるその眠気に私は何とか抵抗しようとするが、そんな努力も虚しく私はズルズルと椅子に倒れ込むように眠りに落ちていった。
その直前、カイの声が少しだけ聞こえた気がしたが、私には彼がなんと言ったのか理解することができなかった。
「...他人のことを知りたいと思うのは、その人と仲良くなりたいという時か、その人のことを陥れたいという時だけなんだよ」




