1話
私の世界は平和だった。
少し口うるさい母に寡黙な父という、どこにでもある普通の家族。
裕福でもなければ貧乏でもない、平凡でありふれた家庭。
退屈だという人もいるだろう。
しかし、私はこの平凡を気に入っている。
ドラマチックな出来事も、波乱万丈な人生も、これっぽっちも望んでない。
静かに暮らして安定した職に就いて、穏やかに天寿をまっとうすることが私の夢である。
そのため、この凡庸な家に生まれた私は、心身共に健康的で、道を外れることもなく、人並みに真面目な男子高校生として育った。
そうして今日も私は大勢の生徒の中に紛れ込む。
広々とした体育館には沢山の生徒達が詰め込まれ、早朝から開かれる生徒会報告を聞いていた。
壇上では平凡な私とはかけ離れた、やる気に満ちた青年が何やら熱弁をしていたが、夏の暑さに茹だる生徒達はその熱気に、嫌気が刺すような視線を送っていた。
「...えー、では以上で生徒会の報告を終わります」
チャイムの鳴る3分前、ようやく青年の気が済んだようだ。
彼は誇らしげな表情を浮かべ、何か大きなことを成し遂げたかのような足取りで、壇上から降りて行った。
生徒達はそんな青年のことなど見向きもせず、教師の解散の合図に自由の喜びを噛み締めていた。
「あー!やっと終わった!」
「今日マジで暑くね?」
「マジ最悪!汗で化粧取れたんだけど」
「生徒会長の話さ長過ぎてウゼェよな」
「課題今からやったら間に合うかな?」
ザワつく生徒達の中、私は人混みを避けて、体育館の出入口とは反対方向の前方で人が掃けるのを待っていた。
すると、一人の男子生徒がそんな私に向かって近づいきた。
「何怒ってんだよ?」
「...いえ、別に怒ってないですけど」
「じゃあ、何か気に食わないことでもあんの?」
「...どうしてあなたの中の私は常に不機嫌なんですか...」
「いや、お前めっちゃ顔怖いよ?」
「...失礼な、私ほど朗らかな人間いませんよ」
「嘘つけ!お前影で何て呼ばれてるか知ってるか?」
「...何て呼ばれてるんですか?」
「“鬼”堂角」
彼はそう言って、ニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべた。
「...それって、あなたも言ってるんですか?」
「え?」
「...あなたも言ってるんですか?」
「い、い、言ってない...よ?」
視線を逸らし、どもる彼に私は無言の圧力で迫る。
それに脅えを成した彼は思わず情けない声を漏らした。
「...ひぇ...」
「...今なら謝れば許します」
「ご、ごめんなさい!」
「...はい」
私は彼の謝罪をすんなりと受け入れて、ようやく人の掃けた体育館の出入口へと進み出した。
「そんな怒るか?」
「...そんなあだ名をつけられて喜ぶ人間はいませんよ」
「でも、中々センスあるだろ?仏頂面に鋭い目付き、物怖じしない性格で、ガタイもよくてキレるとマジで怖い。その内学校に金棒でも持ってくるんじゃねぇだろうな?」
「...傘ぐらいしか長物は持ってきませんよ」
「あと、名前!“角”と“柊”が入ってるからいかにも鬼みたいだろ〜!」
彼のその言い草に違和感を覚えて、私は思わず歩みを止めた。
彼はそんな私に気がついたようで、数歩前で止まった。
「どうかしたか?」
「...あだ名...広めたのあなたですね...?」
「げ、やべ!」
そう言って颯爽と廊下を走り抜ける彼を、私は正しく鬼の形相で追いかけた。
廊下を走り抜ける生徒二人を教師は初め、怒り顔で注意しようとしたが、私の顔を見てたじろいだ。
私達が走り抜ける廊下に立っていた生徒達は皆、口々に私のことを噂する。
「“鬼”堂角だ」
「やべーぞ、“鬼”が人間を追っかけ回してる」
「あはは!頑張れ!逃げろ逃げろ!」
「追いつかれたら食われるぞ〜」
「あれが“鬼”堂角?鬼っていうより魔王だろ」
私はそれらの声を耳にし、更に勢いを増して逃げる彼の元へと迫った。
「...あなた!一体どんだけ広めたんですか!」
「ごめん!マジでごめんて!」
「...二度は許さん!」
そう言って私がようやく彼を捕まえると、その拍子に彼は足を滑らせて後ろへと倒れる。
私もそれにつられて前方へとバランスを崩し、彼の後頭部に思い切り頭をぶつけた。
騒がしい追いかけっこは途端に静まり返り、私達二人はその場でしばらく痛みに悶えた。
朝会を終えた生徒達は、暑さから逃げるように教室へと駆け込む。
勿論、教室の冷房は知れた程度しか効いていない環境と電気代に優しい設定温度ではあったが、廊下や体育館の暑さに比べれば十分だった。
私は保健室に寄り道をしてから教室へと戻り、仏頂面を浮かべて自分の席に座っていた。
「おっす!堂角!...って、だ、大丈夫か?」
そう言われて私は鼻に詰め物をした顔を、友人達の方へと向けた。
「...はい、大丈夫ですよ」
「おいおい、喧嘩か?一体何人殺ってきたんだよ...」
「...喧嘩じゃなくて、ちょっとした事故です」
「それって...田上にたんこぶできたのと何か関係ある?」
私達の会話が聞こえたのか、後頭部を氷で冷やす一人の男子生徒がビクリと体を反応させて、恐る恐るこちらに視線を向けた。
私はそれを睨みけ、舌打ちを鳴らした。
「ごめん、聞かないでおくわ」
「...いえ、大丈夫です...」
「あはは!やっぱり“鬼”堂角だな!」
「...あ"?」
ドスの効いたその声に友人達は一斉に口を噤んだ。
すると男ばかりの群れに隠れていた女子生徒の一人が、ふと抱いた疑問を私に投げかける。
「ねぇ、堂角くんってどうしていつも敬語なの?男の子で一人称が“私”ってのも珍しいよね?」
「...あぁ...それは...」
「よくぞ聞いてくれました!」
答えようとする私を遮って、中学時代からの友人が割って入ってくる。
彼女に気でもあったのか、それとも私をからかいたいだけなのか。
彼は自信たっぷりに説明を始めた。
「こいつさ、見た目通りガラ悪いじゃん?タメ口で“俺”なんて話し方してるとさ、しょっちゅう誤解されて喧嘩に巻き込まれるんだよ」
「あ〜!なるほど!」
「...いや、それで納得しないでくださいよ」
「え?違うの?」
「...まぁ、間違ってはいませんけど...」
仕方なさげに私がそう言うと、友人達は楽しそうに笑い合った。
これが私の日常である。
そこそこ真面目に、時にふざけ合ったりもする、普通を体現したかのような平和な世界。
申し遅れました、私は堂角 柊。
字面と顔つきから“鬼”なんて呼ばれていますが、正真正銘の人間です。




