9話
...スゥー...パタン...。
その音に違和感を抱き、男は襖の方に視線を向ける。
しかし、そこには誰の姿もなかった。
閉じた襖の奥を歩き去るはずの青年の影さえも。
男はしばらく襖をジッと見つめていた。
そして、獲物を狩る獣のような鋭い目線で、部屋の中をゆっくりと見回した。
広々とした大部屋は、かつては沢山の子供達が眠る場所であったが、その姿も今となっては幽霊で、ガランとした部屋の空気はどこか不気味さまでも感じる。
男は薄暗い部屋を注意深く見ると、耳を済まし、些細な音まで聞き逃すまいと全身の神経を研ぎ澄ましていた。
しかし、そんな男の邪魔するかのように、外では雨が降り始めた。
それは全ての音を消し去り、神経を鈍らせ、男の警戒心を更に高めた。
男は暗さを増す部屋に危険を感じて、明かりを灯そうと一歩踏み出すが、その一歩で負傷した腹部が痛み出し、思わず前屈みとなって苦しむ。
その瞬間、男の背後に気配が現れた。
男はそれを狙ってわざと屈んだようで、素早く右手を袖口に入れ、中から鍼を取り出すと、背後の気配に向けて勢いよく突き刺した。
しかし、そこには誰もいなかった。
差し出した鍼は宙に向かって伸ばされただけで、その先端に塗られているであろう毒は、誰のことも苦しめることはなかった。
そして、男が戸惑うその一瞬を、闇に紛れた存在は決して見逃さなかった。
「...っ...!」
男の声にならない声が響く。
気づくと男の首元から血がこぼれ落ちていて、その赤墨の濁流を必死に手で押さえ込みながら地面に向かって崩れ落ちた。
貧血を起こし、眩む視界で男が捉えたのは、目の前に立つ教え子の姿だった。
「...はぁ...はぁ...はぁ...!」
止めていた息を必死に吸い込み、俺は驚きの表情でこちらを見つめる先生を見下ろしていた。
「...小...ジン...?」
「...先生...俺を生かすべきじゃ...なかったね...」
「...」
「...『なんとなく』だって...?ふざけんな...なんで俺なんだよ...」
「...小...」
「...何で“能無し”の俺を生かしたんだよ!」
込み上げてきた安堵が怒りへと変わり、俺は今まで秘めてきた思いを先生に向かってぶつけた。
そんな俺を見て、先生は一瞬目を見開いてから顔を下に向けた。
そして、外の激しい雷雨に紛れて段々と誰かの笑い声が、微かに聞こえ始めた。
その声が目の前でうつむく先生のものだと気がつくと、俺は驚いて思わず呼び掛けた。
「...先生...?」
「...っ...くくっ...ははっ...あははははっ!」
「....っ...」
殺されかけているという状況に対し、何故かとても嬉しそうに笑う先生。
俺はそれを見て恐怖を感じ、思わず後退りをした。
「素晴らしい...素晴らしいよ!小静!あぁ、やはり、君を生かしてよかった!君ならきっと“奴ら”を殺せる!」
「...え...?...な、何...?...“奴ら”...?」
「そう!“奴ら”だ!理不尽で横暴で、腹の底どころか顔も見せない、人の命を家畜同然にしか考えていない...“奴ら”だ!」
「...せ、先生...?」
「っあはははは!おい、見ているか!?“お前ら”の喉元にこの鍼が届くのももうすぐだ!...殺してやる...“お前ら”全員ぶっ殺してやるからな! 俺はまだ諦めていない!死んでいないぞ!死ぬのは“お前ら”を地獄に叩き落としてからだ!俺の教えたガキが“お前ら”を殺しに行くからな!食えるもんなら食ってみやがれ!」
興奮した先生は見たこともない顔をしていて、きつまの穏やかな声は、聞いたこともないような憎しみの籠った怒声となり、汚らしい言葉を発していた。
俺はその声に圧倒され、震えることしかできなかった。
大声を張り上げた先生の喉元からは更に激しく血が溢れ出ていて、それに苦しみ先生は咳き込んだ。
そして、吐き出た血を見て少し冷静になったのか、先生は笑うのをやめて、か細い声で話し出した。
「...ここも直ぐに“奴ら”に見つかる。そうなったら、君は間違いなく連れて行かれる」
「連れて行かれるって...どこに?」
「...直ぐに分かるさ。いいかい?そこでは決して誰にも名前を教えてはいけないよ。知られたら誰であろうと殺すんだ」
「な、何で...?」
「名前を“奴ら”に盗られないようにするためさ。誰のことも信用してはいけない...」
「さ、さっきから何を言っているの?」
「...静、君は今日からドクと名乗りなさい」
「え?」
「ドク...君は今日からドクだ。静という名前は僕が大切に持っておく。だから君はドクとして生きるんだ。そして、必ず“奴ら”皆殺しにしておくれ」
「...む、無理だよ!」
訳の分からないことばかり言う先生に、俺は大声を上げて反抗した。
すると、先生はようやく困惑する俺に気がついて、こちらに視線を向けた。
「せ、先生の言っていること何一つ分かんないよ!そ、それに、俺は...先生の期待になんか答えられない!」
「...」
「お、俺は!先生を殺して...」
あれ...先生を殺した後、俺はどうするつもりなんだ...?
人殺しの俺が真っ当な人生を歩めるのだろうか?
“能無し”の俺が一人で生きていけるのだろうか?
言葉に詰まる俺を先生は真っ直ぐ見て、ゆっくりと手を伸ばし俺の手を掴んだ。
「小静、君は“能無し”なんかじゃないよ」
「...え...」
「ナンバができて、気配の消し方も上手で、勉強熱心で賢くて、修得も早い。誰が何と言おうと僕は知っている。君は決して“能無し”なんかじゃないと...。現に君は、こうして僕の隙をつけたじゃないか」
「...っ...!」
先生はそう言って苦しそうに笑った。
その笑顔はいつものような穏やかなものではなかったが、嘘偽りのない本当の笑顔のように見えて、なんだかとても眩しかった。
先生を殺すと決めた日から数年、やっとその思いが叶ったというのに、何故か俺の目からは涙が溢れて止まらなかった。
涙を流す俺に『大丈夫?』と言ってくれた、捨てられた俺に手を差し伸べてくれた、雨に濡れる俺を傘の中に入れてくれた。
先生は俺から家族も同然の人達を奪った。
でも、それ以上に俺に沢山のものを与えてくれた。
その葛藤で俺の心はぐちゃぐちゃになってしまった。
殺そうと思っていた...なのにどうして...。
「...嫌だ...嫌だよ...先生ぇ...死なないで...」
気がつくと俺の口からは先生に死んで欲しくないと...生きていて欲しいという言葉が出てきて止まらなくなっていた。
そんな俺を見て先生は驚きの表情を浮かべた。
珍しく困惑しているようにも見えた先生は、涙を流す俺を安心させようとでもしたのか、優しく穏やかに微笑んだ。
そして、何か言いかけたその時だった。
...ザシュッ!
突如として響き渡る斬撃音。
その音は目の前にいた先生の首を刎ねた。




