8話
先生を殺すことを心に決めたあの日から、俺は足音を消す歩き方を学んだ時と同様に、先生の観察から始めることにした。
食事の時の様子や寝る時間、授業中の仕草やちょっとした癖まで、ありとあらゆる所を注意深く観察した。
どこか隙はないか、そんな希望を託して視線を送り続けるが、絶望ばかりが俺を飲み込んだ。
少し抜けていて、いつも上の空な先生だと思っていたが、見ているとまるで隙がない。
どんなに無音で近づいたとしても、先生は直ぐに俺の存在に気が付く。
山で初めて先生の背後を取れた日が、まるで奇跡のように感じられた。
先生はきっと俺の殺意に気がついていたのだろう。
俺は先生と違って下手くそな笑顔しかできなかったから。
先生の一挙手一投足にビビり散らかしていたから。
それでも先生は変わらず過ごした。
恐ろしいまでの優しく穏やかな笑顔を浮かべて。
そうして先生に近づくこともままならず、無慈悲にも時は流れ、少年は青年へと成長した。
今日も俺は変わらぬ日常を送っていた。
朝から山菜摘みや寺の掃除などの内仕事をして、寺の中で一人鍼の練習をしていた。
左手に鍼を持って自身の右手に刺そうとしたが、俺の意思に逆らって左手は固まって上手く動かない。
「...やっぱ無理か...」
そう呟いて俺は鍼を右手に持ち替える。
俺は元々左利きだった。
しかし、毒鍼を刺されたあの日から、左手は思うように動かなくなってしまったのだ。
物を持ったり掴んだりするのにあまり支障はないが、こうした細かい作業の時には手が固まり震えてしまい、言うことを聞かない。
そのため、渋々右利きに治したのだ。
慣れない右利きにしばらく字が下手になり、俺の字を読む時に先生の眉間にシワができたほどだ。
弛まぬ努力のお陰で今では何も問題はないのだが、左利きは相変わらず動かしづらい。
いつか治って欲しいと思ってはいるが、半分は諦めてしまっている。
ふと縁側に視線をやると、そこにはいつも座っているはずの先生の姿がなく、まだ昼間だというのに天気が悪く、厚い雲のせいで陽の光も見えない。
先生は今朝一緒に山菜を摘みに行ったのだが、途中で別れてからまだ帰ってきていない。
いつもは必ず先生の方が先に戻っていたというのに、俺の方が早く帰ってきて珍しいとは思ったが、流石にこんな時間まで帰らないのはおかしい。
一体どこまで摘みに行ってしまったのか。
先生がこの山で迷うはずもないし...もしかしたら以前に遭遇したような猪でも捕まえているのかも。
いや、でも、あの日以来、獣の姿は見ていないよな...。
雨が降りそうだけど、あの人、傘待ってるかな?
雨は足場が悪くなるんだよな。
そんなことを考えながら俺が不安げに空を見上げていると、突然玄関の方から物音がした。
寺の玄関は山の木々が生い茂って陰になった場所にあり、ほとんど使われていない。
そのため寺への出入りは常に縁側から行われており、初めてここに来た人なら、玄関があることすら分からないだろう。
だから、その物音が誰なのものなのか直ぐに分かった。
「...先生?」
ただならぬその大きな物音に、俺は恐る恐る先生の名前を呼ぶ。
しかし、その呼び掛けに返事はなく、聞こえてくるのは身体を引きずるような生々しい音だけだった。
早まる鼓動をなんとか抑えて、俺はゆっくりと立ち上がると、玄関の方へと歩き出した。
怯えるような足取りで玄関に向かうと、そこには散乱して落ちた物の数々と、玄関から部屋の奥へと続く血痕があった。
「...え...せ、先生?」
戸惑いながらも先生のことを呼び、ポタポタと残された血痕を辿って行くと、辿り着いたのは、以前子供達の寝床であった大部屋だった。
中に入ろうとすると、開かれた襖にもベッタリと血がついていて、暗い部屋の奥から荒々しい息遣いが聞こえてきた。
「...せ...ん...せい...?」
段々と暗がりに目が慣れてきて、その姿がハッキリと見えてくる。
そこには男が一人立っていた。
腹部から流れる血を手で押さえて、サングラスもピアスもつけていない、乱れた長髪には風車も刺さっていない、全体的にボロボロの姿をした先生だった。
「...」
先生は一言も発することなく、まるで手負いの獣のようにこちらを睨んでいる。
その表情は見たこともない程恐ろしくて思わず足が震えた。
そんな俺の様子に気づいた先生はハッとして、苦しそうな表情を押し殺すかのように笑顔を浮かべた。
「...ただいま...小静。遅くなってすまないね」
「...それ...どうしたの?」
「...ちょっと....山から転げ落ちてね」
先生は笑いながらそう言った。
しかし、俺はそれが直ぐに嘘だと分かった。
傷はまるで何かの爪痕のように先生の腹を斜めに切り裂いていて、その大きな切り傷はとても人間業には思えなかったが、決して転げ落ちてできるようなものではなかった。
「...そんなわけ...」
「小静、悪いけど救急箱を取ってきてくれるかな?」
「...え...あ...は、はい」
「うん、頼むよ」
救急箱で何とかなる怪我なのだろうか?
そんな疑問を抱きながらも、俺は急いで取りに行こうと部屋から一歩足を踏み出した。
しかし、その一歩と共に俺の頭にある考えが過ぎった。
今なら先生に勝てるのではないか...?
理由は分からないが、先生はボロボロだ。
もし、殺すとしたら今以外にあるのだろうか?
先生は以前、言っていた。
『手負いの獣ほど恐ろしいものはない』と。
今の先生は正に手負いの獣だ。
生き残るために全ての感覚が研ぎ澄まされ、普段よりも隙がない。
それでもあの怪我なら動きにも限界があるだろう。
いくら怪物のような先生でも身体は人間のはずだ。
俺と同じ構造を持った人間のはず。
なら、きっと殺せる...こんな好機は二度とない...。
開けた襖の外には灰色の空に黒い雲が流れてきて、次第に辺りを暗くさせていった。
俺は高鳴る心臓を落ち着かせるように深呼吸をした。
そして、踏み出した一歩を悟られぬよう慎重に部屋の中に戻すと、襖をゆっくりと閉めた。




