6話
あれからしばらくして、俺は回復し動けるようになった。
しかし、寺の中をいくら歩き回っても、人っ子一人いることはなかった。
先生の言っていたことは全て本当だったのだ。
ここにいるのは俺と先生だけ。
あんな恐ろしいことがあったというのに、先生は変わらず今まで通りの生活を送った。
俺もそんな先生を見習って、なんとか平静を装って今まで通り過ごした。
変わったことといえば、気まぐれに始まっていた授業が、毎日開かれるようになったことと、その内容が以前よりも一層難しくなったことだった。
山の中で行なった毒に関する知識や人体の仕組みと鍼に関する知識、その他の一般常識に関する知識など、沢山の知識を先生は俺に教えてきた。
脅されたことも強要されたこともなかったが、俺は間違えたら殺されると思い込んで、必死にそれらの知識を頭に叩き込んだ。
けれど、そんな努力も無慈悲に俺は何度か殺されかけた。
先生は言っていた通り、俺を毒に慣れさせるため、食事や飲み物へ気まぐれに毒を混入させた。
何度か死にかけたこともあったが、次第に体は慣れていき、今ではすっかり毒の味も覚えた。
先生は一体、俺をどうしたいのか。
幾度となく抱いてきた疑問であったが、返ってくるであろう返答に憚られ、結局俺がそれを聞くことはなかった。
そうして今日も先生のおかしな授業が始まった。
教えられた技術全てを使って、山の中の獣を狩ってくるというもの。
俺は訳も分からぬまま山の中に放たれて、途方に暮れてしまっているところだった。
「...はぁ...どうしよう...」
ため息と共に情けない言葉が漏れる。
長いこと山で暮らしていたが、この山で獣の姿など一度も見たことがない。
仮に見つけたとしても、俺に狩猟などができるはずもない。
加えて手渡されたのはたった一本の長い鍼だけ。
銃とかならまだしも鍼なんて...何とも頼りない。
まぁ、銃など持っていたとしても撃つことなんてできないのだけど。
そんなことを考えながら、とぼとぼとうつむいて歩いていると、ふと山の中で何かが歩く音が聞こえてきた。
不自然なリズムで歩くその足音からは、4本足で歩く動物ということと、その内の1本を負傷していることが分かった。
俺は少し姿勢を低くして、先生から学んだ足音を消す歩き方で、ゆっくりと音のする方へ近づいてみた。
すると、そこにいたのは大きな猪だった。
荒々しく鼻息を鳴らしていて殺気立っている。
よく見ると後ろ足の片方を負傷していて、不自然な足音の意味が理解できた。
恐ろしいほどの圧を発するその猪を前に、俺は一歩も動くこともできずに固まってしまっていた。
すると、突然後ろから音一つ立てることもなく、先生が現れて俺の肩に手を置いた。
「...っ...!」
「やっと見つけたんだね。随分時間がかかっていたようだから心配したよ」
俺は驚いて声にならない声がこぼれた。
先生に山へ放たれた時、一瞬だけ考えた。
このまま山を降りて一人で逃げてしまおうかと。
しかし、俺の体力では走って逃げることなど到底不可能と思って、諦めたのだ。
そして、直ぐ隣に立つ先生を見て、逃げ出さなくて本当に良かったと心から安堵した。
同じ山の中とはいえ、ここは寺から随分離れていた。
それに辺りには確かに人の姿など見えなかった。
先生は一体どうやって...どれ程の速さで俺に追いついたというのだろうか。
それを考えるだけでゾッとした。
「小静、気をつけて。手負いの獣ほど恐ろしいものはないよ。警戒心も殺気も通常の時の比じゃない。怪我のせいで感覚も敏感になっていて、少しの音や気配も悟られてしまうよ」
「...な、なら、ど、どうやって...」
「おや、教えたじゃないか。生き物の身体の構図とそれに対応した鍼を刺す位置」
「...」
そう言われて俺は恐る恐る猪の方へ視線を動かした。
すると、先生の教えが凄まじい勢いで頭の中に流れ込んできて、まるで猪の身体に線や点が描かれたように見えた。
そして、どこに鍼を刺せばいいかも瞬時に把握することができた。
俺は落ち着いて深呼吸をして、ゆっくりと猪の方に近づいていく。
しかし、足音一つ鳴らなかったはずなのに、猪は突然こちらに気がついて勢いよく振り向いた。
そして、興奮したように鳴き声をあげると、物凄い勢いでこちらに向かって突進してきた。
「っうわ!」
俺は驚いて一目散に逃げ出したが、獣の足に勝てるわけもなく、背後から猪の激しい足音が着々と迫っているのを感じた。
そして、もうダメかと思ったその時、ピタリと音が止んだ。
それでも俺は怖くて、走りながら後ろを見ると、地面に向かって力なく倒れ込んだ猪と、その目の前に立つ先生の姿があった。
「小静、戻っておいで」
そう言われて俺は直ぐに走るのをやめて、ゆっくりと先生の方に戻って行った。
「随分遠くまで逃げたね」
「...ご、ごめんなさい」
「謝らなくていい、逃げることも大切だよ」
「...はい」
「何故気がつかれたのか分かるかい?」
「...えっと...音を立てたから?」
「いいや、君は音なんて立てていなかったよ」
「...えっと...」
「この猪はね君の緊張を感じ取ったんだよ」
「緊張?」
「そう。獣は感覚に優れていて人の感情も察知する。近づく時は心を穏やかに、風と一体になることを意識するといいよ」
「...はい」
俺はそう返事をしたが、正直なところ、先生の言っていることは全く理解できていなかった。
先生はそんな俺を優しげな笑顔で見ていたが、ふと
何かに気がついたように森の方へと視線を移し、その遥か先をジッと見つめ始めた。
「...今日の授業はこれでお終い。汗をかいただろう、湯浴みをしておいで」
「...え...あ...はい」
先生の言葉に俺は渋々返事をした。
何故そんな返事をしたのかというと、俺はあの日以来、風呂を避けていたのだ。
食事や飲み物でも死にかけたというのに、もし風呂に毒物が入っていたら間違いなく死ぬ。
そんな恐怖から何とか理由を付けて風呂を避けていたのだが、いい加減それも無理そうだ。
寺に戻ると、俺は直ぐに風呂場に行き、指先を恐る恐る湯船に浸けた。
そして、数分指先を見つめ続けた。
...大丈夫...かな?
痺れも痛みもない。
うん、大丈夫だ。
まぁ、流石に先生もそこまでしないか。
俺はそう安堵して、湯浴みをするために服を脱ぎ始めた。
「...え...何これ?」
俺は服を脱いで鏡に映る自分の姿を見て固まった。
そこには胸の中心に生々しい縫い跡ができていたのだ。




