7話
神のひとり子 7
俺は昔から何かと運が良かった。
外に出た途端に雨が止んだり、暴走した馬が目の前で進路を変えたり、誰かに危害を加えられそうになると逆にそいつに危害が加わるなど。
でも、それは全て俺にとっての幸運でしかなかった。
俺から遠ざかった雨雲は町の人々を困らせた。
俺を避けた暴走馬はその先にいた老人を蹴飛ばした。
俺に危害を加えようとした人達は、それよりも酷い怪我をしたことだろう。
運がいいのは全て俺だけ。
強盗まがいの男共が来たとき、家にいなくて助かったのは俺だけ。
家にいた母は“運悪く”殺されてしまった。
...“運悪く”?
俺は黙ったまま、近くにあった水瓶の壺を片手に持つと、棚を荒らす口の悪い男に向かって思い切りそれを振り降ろした。
...ゴッ...!
鈍い音と共に男が倒れる。
地面に転がった男の頭からはドクドクと血が流れて止まらなかった。
「なっ!お前、このクソガキ!」
もう一人の男がこちらに気がついて、咄嗟に胸元から銃を取り出して撃つ。
しかし、弾はこちらに放たれることなく、銃の中で暴発して男の手を飛ばした。
「...ぎゃっ!」
狼狽える男に俺はすかさず殴りかかる。
...バキッ!
耳を塞ぎたくなるような音が響いて男は地面に倒れた。
その顔は見るも無惨に潰れてしまい、あまりの衝撃に男の身体は打ち上げられた魚のように痙攣していた。
他の男もその様子を見て、武器を取り出したが、俺はそいつらを睨みつけて同じように殴りかかった。
...ゴッ...バキッ...バキッ!
男たちの怒号は次第に消え、鈍い音だけが家の中に響く。
気がつくと、部屋には数名の男が転がっていて、その中の一人を俺は執拗に殴り続けていた。
細い息で辛うじて生きているその男は、涙を流して必死に謝り続けていた。
「...ご、ごめんな...さい...殺す...気は...」
そんな言葉を言い続けていたが、俺の耳にそれが届くようなことはなく、顔面を腫らして苦しむ男を俺はずっと殴り続けていた。
『汝、殺すなかれ』
再び声が聞こえた。
ブローチを盗もうとした時や雨の中を走っていた時に聞こえた時と同じ、モーセの十戒の一つ。
しかし、俺は止めることなく男を殴る。
『汝、殺すなかれ』
声は次第に大きく恐ろしく聞こえてきたが、それを無視して俺は男を殴り続ける。
『殺すなかれ』
「うるせぇ!!」
脅すようなその声に俺は勢いよく大声を上げた。
そして、先程よりも力を込めて男を殴る。
「何で...何で...何で何で何で!何で俺じゃねぇんだよ!俺なんかよりもあんたを信じてたじゃねぇか!あんたを敬って!崇めて!慕ってたじゃねぇか!熱心にあんただけを崇拝してじゃねぇか!何で俺が生きてんだよ!何で俺を生かしたんだよ!あんたに嫌われるべきは...死ぬべきなのは...母さんじゃなくて俺だろうが!」
俺はそう叫んで男に拳を振るい続けた。
男は既に意識がなく、息をしているのかも危ういほど弱り切っていた。
「何が守るだ...何が救うだ...何が神だ!!ふざけんな!なら、助けてみろよ!俺じゃなくて、母さんを生かせよ!!」
俺の目からは次第に涙が溢れ、手の平は自分のものか男のものか分からなかったが、血で真っ赤に染まっていた。
『汝、洗礼者の名を恥じよ』
変わらず聞こえてきた声に、俺は思わず殴る手を止めた。
そして、近くにあった銃を手に取ると、迷うことなく引き金に指をかけた。
「何が洗礼者ヨハネだ...これが俺の洗礼だよ」
...カチャ....バンッ!
辺りが静寂に包まれる。
いつの間にか外の嵐は止んでいて、先程の声も聞こえなくなった。
俺は掴んでいた死体を離し、銃を手に持ったまま、その場に崩れ落ちた。
母はこいつらを信じていた。
悪い人ではないと...助けたいと言っていた。
その結果がこれだ。
「...くっ...はははっ...馬鹿みてぇ...」
血まみれの俺は狂ったように笑い出し、持っていた拳銃をこめかみに当てた。
そして、引き金を引こうとしたその時、俺を見つめるかのように母の遺体と目が合った。
『生きて』
声は聞こえなかった。
しかし、その目からは確かにそう伝わってきた気がした。
俺は拳銃を床に落として母に近づき、その身体を抱き上げた。
「...母さん...ごめんなさい...」
消え入りそうな声で呟き、そっと涙を流した。
何に対しての謝罪だったのか、母に謝るべきことがあまりに多すぎて分からなかった。
口が悪くて不出来な息子でごめんなさい。
言うことを聞かなくてごめんなさい。
隠し事をしていてごめんなさい。
あなたの悪口を怒らなくてごめんなさい。
許してくれなんて都合のいいことは言わない。
ただ後悔ばかりが募ってくる。
もっとあなたと話していればよかった。
もっとあなたの言葉を聞いていたらよかった。
もっと傍にいればよかった。
「...俺が死ねばよかった...」
そう呟く俺の背中に、ふと優しい温もりを感じた。
『そんなこと言わないで。あなたは私のたった一人の大切な息子。主からの贈り物、奇跡の子よ。愛しのマッティア、大好きよ』
咄嗟に後ろを振り返る。
しかし、そこには何もなく、誰も居なかった。
開いたドアの先に広がる外の景色だけが、涙に溢れる俺の視界に映っていた。
そのドアに吸い込まれるように俺は外に出た。
外は静かにシトシトとした雨が降っていて、まるで母のような優しい雨に包まれながら俺は歩き出した。
この世界に神なんていない。
そんなものを名乗る者がいるならば、俺がぶっ殺してやる。
そう母に誓った日だった。




