12話
オルドと呼ばれる場所に連れられて、怪我の治療などを済ませた後、僕は見知らぬ施設の中を、懸命に逃げ隠れていた。
数名の黒い服を着た大人達が、必死になって僕を探していたが、声一つ上げない小さな子供を見つけることは、どうやらとても難しいようだった。
「そっちはいたか?」
「いや、こっちにはいない。そっちは?」
「姿一つ見当たらない。これはまずいぞ...」
「どうやったらこんなに隠れることができるんだ?」
「やはり人間課の代表が連れて来る人材は只者じゃないな...」
そうして話す大人達の背後を、僕は風のような早さで通り抜け、逃げて行く。
何故こんなにも必死に逃げ続けているのかというと、治療室で待っていた時に、暖簾の奥でカラレスさんが女の人と話をしているのを聞いてしまったからだ。
『怪我が治ったら焔はA103に入れる。多分あいつならあそこで成長できると思う』
『お前のとこで見ないのか?』
『あぁ...』
その後も何か話していたようだったが、そのまま二人でどこかに行ってしまったので、それを知ることはできなかった。
しかし、どうやら話からすると、このままでは僕はカラレスさんの元にはいられないらしい。
あの人だからついて行こうと決めたのに、他の所に連れていかれるなんて御免だ!
そう思い立つと僕は直ぐに足付きの布団の上から逃げ出した。
そして、僕が逃げ出して直ぐに、黒い服の大人達が追いかけて来たので、小さな身体を活かして逃げ回っていたのだ。
ここはどこなのだろう?
早くカラレスさんに会って『僕はあなたの元にいたい』と伝えなければ。
そんなことを考えながら、部屋にある戸棚の中に隠れていると、突然ゆっくりと戸が開き出した。
僕がビックリして奥の方へと身を寄せると、開いた先から落ち着いた優しい声が聞こえてきた。
「怖がらなくていい、僕は君の味方だよ」
「...」
「少し話がしたいのだが、顔を見せてはくれないかな?」
「...」
「ふふっ、声が出せないのは知っているよ。カラレスから聞いているからね」
声色は低かったが、どうやら声の主は女の人のようで、その人がカラレスさんのことを知っているみたいだったから、僕は恐る恐る戸棚の中から身を出した。
するとそこには、一人の女の人が立っていた。
熟れた無花果のような色の髪をしたその人は、今まで見てきたどんな人よりも不思議な雰囲気をまとっていて、女性にしては背が高く、胸元がよく開いた黒い長衣を着ていた。
目は長い前髪で隠れてしまってよく見えなかったが、何故だか彼女の方からは全てが見えているようだった。
見た目からして女の人のはずなのに、自身を“僕”と呼び、尚かつどこか男性的な雰囲気もしている。
全くもって何者かも分からなかったが、不思議と怖くはなかった。
今まで見てきた黒い服の大人達は見た目からして普通の人であったが、とても怖かった。
しかし、目の前の人は見た目からして、いかにも普通の人ではなかったが、とても安心感を覚えた。
彼女は僕の姿を見ると、口元を綻ばせて、ゆっくりと目の前に座り込んだ。
「やぁ、初めまして。君のことはカラレスから聞いている。声が出ない少年、焔だね?」
その問い掛けに頷くと、彼女は僕の頭にそっと手を置いて撫で始めた。
「すまないね、怖かっただろう。何か逃げたくなるようなことがあったのかな?」
「...」
「そう、不安だったんだね」
「...!」
何も答えることができなかった僕に、彼女は突然そう言った。
まるで僕の声が聞こえたかのようなその言葉に、身振り手振りでどうして分かったのかと聞くと、彼女は笑いながら答えてくれた。
「僕は少し特殊な存在でね。君の感情がなんとなく分かるんだよ。そこから君がどう思っているか考えただけだよ」
「...?」
「例えばそうだな...今の君にあるのは、不安と孤独と困惑と少しの恐怖。察するに置き去りにされたことが怖かったのか、もしくはこれから何か不安なことが起きようとしているかだね?」
「...!」
その言葉に僕は勢いよく何度も頷いた。
彼女はそんな僕を見て、同じようにゆっくりと何度も頷き返した。
「よく分かった。しかしね焔、君は本部での手続きが何も終わっていない。今の君はまだ部外者で本部にいてはいけない存在なんだ。だから、皆必死になって君を探しているんだよ」
「...」
「まずは君の不安が何なのか聞かせてもらえるかな?」
彼女はそう言うと、どこからともなく紙と筆を取り出して、僕の目の前に差し出した。
僕は驚きながらも、そのありえない光景に興奮して、目を輝かせながらそれを受け取った。
そして、先程聞いたことなどの全てを書いて説明した。
「...なるほど。それでカラレスを探しに行ったわけなんだね」
『はい』
「ふふっ、恐らくだがそれは君の勘違いだと僕は思うよ」
『かんちがい?』
「あぁ。君はまだ幼くて本部どころか、この世界のことすら知らないだろう。だから、手始めにそういったことを学ぶための場所、教育機関A103に行ってもらおうとカラレスは考えたのだと思うよ」
『どういうこと?』
「つまりはね、君が勉強をして、ある程度の知識と実力を手にしてから戻ってきて欲しいということだよ。A103は本部にある無数の教育機関の中でも優秀な方だからね、君にはそこで育っていける才覚があると彼は思っているんだ」
『ぼくはそんなすごいひとじゃない』
「ん?どうしてだ?」
『ぼくはのろわれているから』
少し暗い表情で僕がそう言うと、彼女はこちらの方へ近づき、優しく確かめるかのように僕の身体を包み込んで抱き締めた。
僕はそれに驚いて直ぐに離れようと思ったが、彼女が再び僕の頭を何度も優しく撫でたので、その安心感に逆らえず、そのまま固まってしまった。
「焔、君は呪われてなんかいないよ。君と君の過去が自身を呪っているだけだ。もう誰も君のことを縛ったりしない。君だけが君を縛っているんだ」
「...」
「今すぐ変わる必要なんてない。無理に前を向こうとすれば、それは君の大切な感情を踏みにじることになる。だからね、ゆっくりでいいんだ。何年もかけて木々が育つように、季節が日々と共に移り変わるように、果実がゆっくりと実るように。君だけの時間でその傷を癒せばいいんだよ」
「...」
僕はこの人と初めて会ったはずだった。
しかし、何故だかとても懐かしい感覚がして、見えないはずの目からは優しい眼差しが向けられているようで、温かい言葉が心にできた傷を優しく撫でるようで、まるで...そう、会ったこともない母の温もりが僕の全てを包み込むようだった。
酷いことも理不尽なこともされていないのに、僕の目からは涙が溢れて止まらなかった。
不安や孤独が和らぎ、僕の罪も何もかもが許されていくような気がした。
そんなこと決して有り得ないことだというのに。
「いい子、いい子。可愛い僕の子。いつか喉に留まってしまったその石も、君が前に進んだその時に、きっと手放すことができるよ」
「...?」
「君が飲み込んだ石のことさ。どういうことか溶け込むことなく君の喉に引っかかっているんだ。無理に剥がせば君は一生声を失うどころか、下手をすれば命を落としかねない。君が君の過去に執着し続ける限り、それを手放すことはできない」
「...」
「でもね、君にならきっと乗り越えることができるよ。大丈夫、焦らなくていい。君が本当に心の底から自身を赦すことができたその時には、僕がその石を取ってあげよう」
「...?」
「石が取れたらまた話せるようになる。そうしたら君の可愛い声を僕に聞かせておくれ」
「...!」
『また話せるようになる』
その言葉が僕にはたまらなく嬉しくて、たまらなく怖かった。
誰かと話す喜びを知っているから、この声が招いた悲劇を知っているから。
再び不安そうな表情となる僕を、彼女はまた何度も撫でて、抱き締めて、『大丈夫』と言い続けてくれた。
その母のような安心感に、張り詰めていた緊張が和らいだのか、僕はウトウトとし始め、いつの間にか眠り込んでしまった。
目が覚めると僕は追いかけられていた黒い大人達に囲まれて、足付き布団の上に戻されていたが、もう怖いなどと思うことはなかった。
本部の説明をされて、目の前に黒い紙が差し出された。
ここでは僕は“焔”という名前を捨てて、新しい名前を名乗らなくてはならないらしい。
そこで僕は彼女が言っていた言葉を思い出し、とある名前をそこに書き記した。




