みんな初めはこんなもん?
結夢さんとの恋愛教室から一夜あけても、僕はまだ昨日の熱に浮かされていた。菊池さんに会いたい、そして何とか話せるようになりたい。そんな純情な思いが僕を満たしている。
恋愛は遊び。私はずっと遊んでいたい。結夢さんの恋愛哲学を、その決意を、僕はあれから延々と考えていた。
恋愛は遊び。遊び。遊びかー。「遊び」と言う言葉には、意外に広がりがあると思う。
大学生で「遊び」というと、「パリピ」という言葉がすぐ思い浮かんだ。最近では、「陽キャ」というネットスラングも市民権を得ている。だが、僕はその言葉が嫌いだ。「陰キャのカリスマ」を友達に持っているからではない。何なら、「陰キャ」という言葉も嫌いだ。僕には「陰キャのカリスマ」と圭吾を囃し立てる人の気が知れない。
圭吾自身には何の責任もないが、僕は圭吾の信者は嫌いだ、いや違うな、正確にいうと苦手だ。その圧倒的な二項対立的な考え方が駄目なのかもしれない。
ここまで考えて、僕は最初の問いと今考えていることが随分離れていることに気が付いた。慣れないことをするものではない。考えを深めてみようとしたが、なかなか論理的にいかなかった。
カランコロンカラン。どこか懐かしい音が、僕のバイト先のカフェに響く。月曜日の16時過ぎ、僕が接客する今日初めてのお客さんだ。
僕がバイトしているカフェは、こじんまりとした個人経営のお店。カウンター奥の、客から見えない位置に座り、船を漕いでいるのがマスター圏オーナー。客観的に見ても、店員として見ても、変なカフェである。店員としての体裁を保った言い方だと、マスターのこだわりが強い。ぶっちゃけて言えば、ただの金持ちの道楽。コーヒーだけは豆からこだわり、一通り有名なものを揃えているが、後のメニューは採算や在庫度外視のいい加減な経営状態である。
ただマスターは気にもしてない様子。だからこそお客が少ないのにも関わらず少人数とはいえ店員を雇い、時給も1100円と高水準だから、僕としてはありがたい限りである。
そして今日の店員は、僕1人。マスターを起こすのもいつもの仕事だ。
だが、お客さんを待たせるわけにはいかないので、僕はひとまず接客に向かった。
お客さんは菊池さんだった。
菊池さんは多い時で週2回ほどこのカフェに来ていたが、しばらく姿が見えていなかった。夏休み期間は一度もなく、後期に入ってからも今日が初めての来店だ。ここまで時間が開くと、僕はもう来ないのではないかと半ば諦めていた。
不意に訪れた僥倖とも呼べる出来事に、僕は驚きの声が出かける。だが、慌てて言葉を飲み込み、なんとか平常心を保って、いつも通りを装うことを心掛けた。
悲しいことに、菊池さんにとって僕はただの店員である。それも常連客に話しかけるわけでもない、ありふれた一般店員。
「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ」
空いてる席しかない店内で、僕はマニュアル通りの言葉で案内した。
菊池さんは僕のことをどう認識しているのだろうか。カフェの店員。それとも同じ大学の同学年、同学部。もしくは、記憶にも残ってない一度肩がぶつかった人。
僕と菊池さんの情報は非対称。その差を埋めたい、今すぐにでも。そんなはやる気持ちを抑え、僕は店員Tとして振る舞っている。
菊池さんが窓際のいつもの席に腰掛けた。僕の居場所であるカウンターからチラッと見えるその席に。
心を落ち着かせるために、僕は後ろを向いてゆっくり深呼吸をする。ただし期待した効果はない。続いて、人の字を手に書いて飲もうかとも思ったが、やめた。そんなことをしている場合じゃないだろと、自分で自分に喝を入れた。
気付けば結夢さんに褒められた純粋な恋心が今か今かと出番を待っている。なぜ話し掛けにいかないんだと、僕に語りかけている。
その想いに、僕は身体を預けた。
「あ、あのー、東條 進です」
勢いに任せて、僕は、菊池さんに自分の名前を名乗っていた。
いきなり店員に自己紹介されても、お客さんは戸惑うしかない。常識的に、または冷静に考えれば分かる話。だが僕はそのどちらでもなかった。
その時の菊池さんは、メニューに目を配り終え、どの本を読もうか鞄の中から本を選んでいる途中だった。
「・・・菊池 愛花です」
菊池さんは戸惑ってるのか、ゆっくりとした弱々しい声が返ってくる。
「すっ、すいません。あのー、菊池さんは名高大学ですよね。実は僕もそうなんですよ」
僕の声がちょっとだけ裏返る。
「そ、そうなんですか。よ、よろしくお願いします?」
菊池さんはオロオロしながらも、僕に会釈をくれる。その語尾の頼りなさが、彼女の困惑を明瞭に表していた。
「あっいえ、こちらこそ……、」
そして僕は会話が下手だった。投げっぱなしというか、相手を困らせる質問をして、その後の話題を持っていなかった。最後の返答などひどいものである。
結果、当然のように場に沈黙が流れた。
「すっ、すいません。東條さん、注文いいですか?」
沈黙を破ったのは菊池さんの方で、それは菊池愛花としての言葉ではなく、客としての言葉だった。それでも、僕が菊池さんから初めて苗字を読んで貰えた瞬間でもあった。
「はい、もちろん。どうぞ?」
慌てて僕も店員に戻る。
「ケーキセット、アメリカンでお願いします」
「承知しました。しばらくお待ちください」
カウンターの奥でうたた寝しているマスターを起こし、オーダーを通す。マスターは、瞼を擦った後、背伸びをしてコーヒーの準備を始める。店員としての一通りの使命を終えると、僕は東條進に戻った。
「あっつー。はぁ〜〜〜。ふー。よし!」
体が、特に顔が熱い。呼吸と心臓の鼓動が速くなる。もっとやり用はいくらでもあった。
僕も同じ大学です、って何だよ。そりゃ大学最寄りの駅前だからな。もっと気の利いたこと言えなかったのか。コーヒーの話題とか、本の話題とか。そもそもあのタイミングは意味不明だ。注文を受けてからでよかった。その方が自然で、そのタイミングがベストだった。そこなら、大学で見たことあります、って言っても怪しまれなかったはずだ。少なくとも、菊池さんにあんな戸惑った表情はさせなかったはずだ。
でも、それでもだ。喋ったよな。名前呼んでくれたよな。大きな一歩なんじゃないか。そうだよ、ここからだろ。
恋愛は遊び。僕も遊ぶんだ。
お守りのように、僕は結夢さんの言葉を繰り返した。その言葉は、僕の顔を上げ、姿勢を伸ばしてくれた。
前を向け、笑え。恋愛は遊びなのだから。