結夢さんの恋愛教室
もっと感情を爆発させろ。時刻は深夜1時。かすみ荘の共同のテレビルーム、僕以外誰もいないその空間に、僕のその言葉が投げかけられた。
「わぁー、進くん黄昏てるね。そのアンニュイな感じがグッドだよ」
「あっ、結夢さん。やめて下さいよ。そんなんじゃんないですよ」
「良いではないか。少年よ悩みたまえ。どれ、人生の先輩の私が相談に乗ってしんぜよー」
「結夢さんキャラブレブレですよ」
いきなり変な寸劇を始めた彼女は、岬 結夢。24歳。ちょっと癖っ毛のある長髪で、いつもモコモコと言うか、かわいい系の服を着ていて、ふわっとした緩さと、不思議系な雰囲気が入り混じった女性だ。
結夢さんは、大学卒業後の現在、プロの漫画家を目指しているらしい。在学中から恋愛系の同人作家であり、その独特の絵のタッチが一部では凄く評判だそうだ。
僕が結夢さんと初めて会ったのは、歓迎会の夜。その時、結夢さんは、僕たちの料理が大層気に入ったようで、その日以来、親しげに話しかけてくれる。
「ふふ、そうだよね。ちょっとキャラが混ざっちゃった。漫画でたくさんのキャラ描いていると、自分でもよく分からなくなるんだよ」
「そう言うもんですかね」
漫画家の気持ちは僕には分からないが、キャラの話は興味がある。
「あー進くん。君は恋をしているね」
唐突に結夢さんが僕のことを指さした。そして、突拍子のない文脈で、今の僕の悩みを指摘してくる。
「何ですか、いきなり?」
「分かる、分かるぞ少年。私には隠さなくて良い。全てを曝け出すのじゃ」
「そのキャラ続いてたんですか?」
結夢さんは、わざとらしくキャラを変えた。僕をからかっているだけとも思えるようなテンションだ。
「まぁ、このキャラはネタだけど、進くんが恋の悩みを抱えていることはお見落としだよ」
結夢さんが、後ろに手を組み、僕の目を覗き込んで、そう言った。その目は確信に満ちていた。
「結夢さん凄いですね。正解ですよ。なんで分かったんですか?」
「ふふ、恋愛作家を舐めちゃいけないよ。私には恋してる人が分かるの」
本気なのか冗談なのか区別がつかない言い方。恋愛している人が分かる、それが流石にオカルト的な能力だとは思わないが、結夢さんの言葉には不思議な説得力があった。
そして恋しているねと言われて、僕が素直に肯定したことは初めてである。その時、感情を爆発させろと言った1人の女性の顔が頭に浮かんでいた。
「恋愛って大変ですね」
「良い、良いよ。進くん、その恋愛に戸惑う感じ、いただき。もっと話聞かせてよ」
結夢さんが僕の横に腰掛けて、足を組んだ。
「実は好きな人がいるんですけど、まだ話せる関係じゃないんですよ。どうにかして話しかけたいんですけどね」
僕の口から自然と言葉が紡がれる。恋愛作家という結夢さんの特異性と、ちょうど良い関係の遠さがそうさせたのだと思う。
「おおー。ウブな大学生の片思いか。いいね、いいね。それで?」
ウブ。その言葉が僕の中でこだまする。
小学6年生の時に当時1番の友達に「進がデブと痩せの境」と言われて、クラスでその基準が流行った。なぜか僕たちの中では、普通というものがなく、デブと痩せの2択しかなかった。同じ論理でいくと、今までの僕は「モテてきたとモテてこなかったの境」と言える。
「一度友達にけしかけられて、好きな子にぶつかりに行ったんですよ。……物理的に」
興味深そうに僕の話を待っていた結夢さんの顔に、大量の疑問符が浮かんだ。僕としても、自分で説明していて恥ずかしくなるような話だ。
圭吾に対する信頼が僕の中で揺らぎ始めてくる。圭吾を信じることに決めた当時の己の決断が、自分でも可笑しかった。
「えっ、本当にぶつかったの?」
「はい。正面衝突って感じじゃなく、肩と肩をぶつけるのが精一杯でしたけどね。で、すいませんって謝ったら、あっちも申し訳なさそうで。それで、好きな子から、それは丁寧な謝罪を頂きましたよ」
「あはは。最高! 最高に不器用で良きですよ。いいね! 今度その話、漫画の中で使うかも」
結夢さんなりの最大級の賛辞が僕に送られる。しかし、それは珍しいタイプの公開処刑だと思って、僕の黒歴史が漫画化されるのだけは必死に阻止した。でも笑ってもらえて、逆にスッキリした気分だった。
「良い恋愛をしてますね。少年。それで、進くんはいつから菊池さんのことが好きなの?」
ひとしきり笑い終えた後、結夢さんは、落ち着いたトーンで僕にそう聞いた。その目が僕の目を離さない。いつも笑みを絶やさず、4つ上とは思えないほど気軽に話せる結夢さんは、デリケートで誰にも語ってこなかった内容でも、つい話してしまいたくなるような魅力があった。
「好きになった時期は、明確には覚えてないですけど、ちょうど去年の今頃ですかね」
僕と結夢さんしかいないテレビルームは、恋愛相談室に姿を変えている。もうテレビからの情報なんて僕には少しも入ってこない。
「僕、駅前のカフェでバイトしているんですけど、菊池さんはそのカフェの常連さんで、いつも本読んでたんですよ」
「へー、文学少女じゃん。進くん、そういう子が好きなんだ」
「どうなんですかね。僕自体は、買ってまで本読みませんし、図書館にもほぼ行かないですから。それに、菊池さんは文学少女って雰囲気でもないですよ。明るい雰囲気だし」
「あっ、偏見だな。本好きが、文学少女が地味だと決めつけてるでしょ」
結夢さんがわざとらしく怒ってみせた。自分が文学少女を代表しているかのような口調だ。 だけど、僕は文学少女を貶すつもりは無いし、結夢さんが文学少女に見える訳でもない。そもそも、僕の中では漫画と文学は重なり合わないというか、共通性が見出せない。
結夢さんが本気で怒っている訳ではないことは、僕にも分かるが、誤解されるとまずいと思い、僕は念のため自分で自分のフォローをした。すると結夢さんは「真面目だね」と言って、笑った。
「それでどんなところが好きなの? 好きになるきっかけとかあるの?」
そう言うと、結夢さんがポケットから手のひらサイズのメモ帳を取り出す。気になった僕がそれは何ですかと聞くと、結夢さんはアイデア帳と書かれた表紙を指差し、「中身は企業秘密」、とまた笑った。
形として僕の恋が残るとなると、途端に今の状況が恥ずかしくなった。段々顔が赤くなるのが自分でも分かる。
「もしかして、僕の恋愛の話をメモろうとしてます? やめて下さいよ!」
「えっ、ダメなの。そこを何とかお願い。最近新しいアイデアが中々浮かばなくて、進くんの不器用で、面白そうな」
そこまで言うと、結夢さんは咳払いをした。
「ゴホン、ゴホン。進くんのピュアで素敵な恋愛が頼りなの」
調子の良い結夢さんの笑顔がそこにはあった。
「もう、分かりましたよ。話しますよ。ずるいなぁ」
結夢さんは得する性格だと思う。自分はつくづく損な性格だとも。
ここで僕は初めての作業に取り掛かる。好きという気持ちの言語化である。それは難事業だったが、やってみると非常に興味深いものであった。
「……菊池さんは雰囲気が好きと言うか、まぁ顔も可愛い系で好きなんですけど、……やっぱり全体の佇まいですかね。なんか女の子らしいんですよ」
「ふむふむ、全体の雰囲気、女の子っぽいと。それで、菊池さんはお客さんなんでしょ。一目惚れってこと?」
「うーん、一目惚れとは違いますかね。初めは他のお客さんと変わらなかったですよ。でも、本読んでる彼女の姿を見ていたら、いつの間にか、あぁ好きだなぁと自覚していたんですよ」
そう赤裸々に語った僕の言葉を、結夢さんは真剣に聞き、熱心にメモまで取っている。
結夢さんのえんぴつの音と、テレビの音が重なり合い、その音が僕をふと冷静にさせた。
すると今度は自分の答えが脳内で繰り返される。その答えを客観的に振り返ると、僕のエピソードは女々しく、気持ち悪いものに思え、自分に対して乾いた笑いが起きてくる。
「あれ、進くん。なんか暗い顔しているけど、恋愛なんて楽しまなきゃ損よ。恋愛はどこまでいっても遊びなのよ。そして、私はずっと遊んでたいの」
僕の事を気遣った結夢さんが、大袈裟におどけてみせた。僕を励ましてくれている。結夢さんがちゃんと年上の義務を果たしていることに、僕は感心してしまった。
「シンデレラは王子様なしでは生きられない訳ではなかったけど。でもやっぱりあの話には王子様が必要で、ハッピーエンドじゃなきゃダメよね」
結夢さんの顔は非常に煌めいている。その言葉は熱を持ち、結夢さんが放つエネルギーみたいな何かが僕の目にも見える気がする。
「けどね、御伽噺は約束事が決まってるけど、いまの私たちはもっと自由だと思わない? シンデレラは魔法が1つあれば、変身してどこへでもいけるでしょ。それと同じで、実は想いひとつで、誰でもシンデレラになれるんじゃないかな」
「でも僕はシンデレラにはあまりなりたくたいですかね」
「あっ、進くんは王子様希望? それもいいね。女の子はきっと心の底では王子様を待っているんだよ。心理学かなんかでは、その感情は批判されることもあるけど、失礼しちゃうわよね。夢がないわ。それに、夢見る、そして恋する乙女心を失くしてしまうと、誰も私の漫画なんて読まないじゃない。それは困るわね」
「王子様って柄でもないですよ。もっと平凡ですよ」
「いや、さっきも言ったけど、想いひとつで人は変われるわ。きっと誰かの王子様でいたい、この人のためにって思えば、心も体もそうなっていくのよ。菊池さんの王子様になれるといいね」
恋愛について語る結夢さんのふわふわとした語り口が、僕には心地よかった。その内容は、僕が欲している具体的な恋愛テクニックではなかったし、途中からちょっとメルヘンチックで、半分も理解できてないが。それでも聞いていて、なんだかワクワクするような話だった。
「なんか意外でしたね。恋愛作家からのアドバイスって・・・、」
勢い余って、僕は失言を言い掛けるが、何とか踏み止まった。
「ふふ、進くんは本当に素直というか、不器用だね。言葉が顔に書いてあるよ。これは押さえとけ! みたいな、恋愛の必勝方を求めてたんでしょ。でも、そんなものがないから、恋愛は遊びなんだよ」
天井を見つめながら、更にその先のどこか遠くを見つめながら、結夢さんがそう言った。手はソファーにつき、落ち着いているが、足をばたつかせている。あどけなさが残るその横顔は、まだ恋愛を知らない少女のように見えたし、ちょっと大人のお姉さんのようにも見えた。
ここで僕は気付いたことがある。
結夢さんは自然体なんだ。恋愛をそのまま受け入れている。恋愛は遊び、か。なんかかっこいいな。それ。うん、いい言葉だ。余裕が出るというか、気が楽になる。難しく考えすぎていたのかもな。今までの自分。
自分と結夢さんを比較してみると、小さいことに悩んでいた自分が相対化できた。
僕は結夢さんの話を聞いて、なんだか無性に菊池さんに会いたくなった。まだ話せてもいないことなど、もはや関係なかった。
何も起きないはずだった日曜日、2人しかいないテレビルーム。些細なことから始まった僕と結夢さんの恋愛教室、その会話の中で、僕はちょっとだけ大人になれた気がした。