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こんなに釣れません  作者: 咲多紅衣(さきたこうい)
7/12

20180528_南伊豆07

今回のシーンを考え、R15を付け足しました。血が嫌いな人はお戻りくださるようお願いします。

 ぼんやりしている内、また新人「石竿(いしざお)6号」のほうに動きが。

 食うか?

 ヤドカリを吐き、・・・出さない。

 「石竿6号」の穂先が、それこそ槍の穂先のように海中へと斜めに突き刺さる。

 当たり。竿がしなる。小さそう。

 それでもすかさず竿置きから石鯛竿(いしだいざお)を外し、腕を縮めながら背中を反らす。長く伸びるナイロン糸が斜めに突っ張った。

 これが遠投での合わせ方。

 バランス感覚に自信がない人は、少なくともこんな狭い崖の上ではやらないほうが無難な合わせ方。下手をすると、そのまま後ろ向きに落っこちます。

 イシモノやチヌの仲間は口が(かた)い。貝や甲殻類(こうかくるい)を噛み砕ける口だから、(かた)いのではなく硬い。よく針が刺さらずにすっぽ抜けます。

 横か斜めに引くほうが安全です。スリークオーターかサイドスローでの投法の逆と想像すればわかるでしょうか。

 ああ、引きが弱い。本当に小さい魚です。ゴリゴリと力任せにハンドルを回さなくても簡単に巻き取れてしまいます。

 確実に(ほん)イシではないから針から外れてくれても良いのだけれど、今日は合わせ損ね以外にバレていません。

 あっさり足元まで来て、水面下に少し赤い影が。竿の弾力だけで海から引っこ抜き、手元に寄せてハリスを掴みぶら下げます。

 出ました。定番外道のイラ(苛)。

 ベラ亜目ベラ科イラ属。赤くて顔が丸みを帯び、アカアマダイの身体を平たく短くすると少し似るかしら。きちんと料理すれば味は悪くないのだけれど、釣れて喜ぶ人は少ない。しかも、よくこの石鯛針を食いましたという20㎝弱。

 フィッシュグリップという魚(つか)みで上顎(うわあご)を挟み、ハリスから離した右手でプライヤーを使って大きな針を抜く。

 小さすぎます。さようなら。

 師匠からイラが定番の外道と教わり、そう言っているのですけれど、この伊豆ではブダイのほうが外道として多いと思います。

 同じ底物釣(そこものづ)りでも、場所によって掛かる外道が結構違うのです。ウマヅラハギばかりかかる釣り場だとか。ハコフグばかりとか、ウツボばかりとか。カサゴやメバル、たまにムラソイやクロソイと、美味しくて小さな根魚ばかりの所もありましたね。


 ベテラン選手「石竿2号」に当たり。向こう合わせで掛かり、引きは良い。この走り方は、メジナの(たぐ)いか? あるいはイスズミかな?

 先ほどのイラと異なり、結構なゴリ巻きで引き寄せます。

 見えてきました。大きいからオナガかな? 

 あら、内容物排泄。これは水面下でもイスズミだとわかりました。この排泄する習性で、関西ではババタレと呼ばれているそうです。

 関西はほとんど釣行(ちょうこう)したことがなく、現地の言葉を聞かないから、どうしても伝聞になってしまいます。

 あたしは南紀(なんき)もよく行くのですけれど、あの辺りは和歌山県という感覚ではなく、三重県の端である紀東(きとう)の隣というイメージが強くて、関西へ釣行している気になりません。

 その割りには、あたしは関西の釣り用語も使っています。どうしてかと言えば、祖父が戦後に関西を地盤とする銀行に就職し、そこで釣りを覚えたため、祖父の釣り用語が関西風なのです。横浜生まれの(くせ)に。

 もちろん基本は地元浜名湖の遠州(えんしゅう)用語。そして、ヒラメ釣りを始めとした沖釣りを本格的に教えてくれた先生の東京用語。この2つが根幹(こんかん)です。

 ただ、底物釣りの師匠は名古屋生まれで尾張や伊勢の用語が多い。ルアーも面白いと導いてくれたの導師も名古屋人だけれど、彼女はAmericaの正式な用語を使う。高校が豊橋で三河(みかわ)、特に東三河の用語もいつのまにか覚えました。更に留学中に覚えた北米西海岸の用語まで加わってしまいました。色んな用語がごちゃ混ぜになっていて、ひどくわかりにくいかもしれません。

 例えばチヌは関西方面の呼び方で、本来浜名湖あたりでは標準和名のクロダイを使います。あたしはスズキの若いものをマダカと呼んでいますが、東京あたりではフッコのほうが通りが良いです。関西だとハネ。幼魚はどちらもセイゴなんですけれど。すぐ隣の県なのに愛知でマダカが通じなくて驚いたことを思い出します。

 イスズミ(伊寿墨)、ここは伊豆だから地方名のイズスミかな? このババタレ、結構大きめだったから、(たも)()を振り出してすくいました。

 外道もいいところだけど、一応メジャーで計る。えーと、50はない。49㎝か。では、お帰り下さい。

 ちょっと見メジナで、堤防で子供がメジナが釣れたと喜んでいるのを見た周囲の大人が気まずそうに視線をそらす魚。親御さん教えてあげて下さい。知らなくても夏場は臭いからわかります。

 関西人の知人に聞いたら、冬は旨い魚だと言っていました。あたしは冬に釣り上げたことが少ないからわかりません。それに小学校低学年の頃、真夏のイスズミの調理に挑戦して、酒でも塩でも香辛料でも磯臭さに負けて、揚げものすらお酢でごまかすしかなく、完敗。苦手な魚になりました。それ以来食べるのを諦めて全部逃がしているのです。

 磯臭いとされる魚で素早く処理をすれば食べられるのは、アイゴくらいじゃないでしょうか。アイゴはさっくりと締め、(とげ)を切り落とし、頭と内臓(わた)を抜き去って(うろこ)ごと皮を()ぐと身は美味しいです。九州ではバリ(尿)と呼ばれていますけれど。内臓を傷つけてしまうと、バリの臭いとなるのです。

 ニザダイ、タカノハダイ、コショウダイ、あとブダイのような磯の外道たちは、ある程度の磯臭さは風味だと受け入れる人なら好んで食べます。刺身が美味しいそうです。あたしは臭いを消す料理にしないと自信をもって人様の前に出せません。

 ちなみに、あたしも多少の磯臭さは風味として受け入れるから、外で簡単に料理する時は気にせず食べます。多いのはサンノジ(ニザダイ)とチヌ。塩焼きや潮汁(うしおじる)が美味しい。

 ただ、臭いや毒ではなくて、食べられない魚も多い。基本的に、水質の悪い場所で釣った魚は難しいと考えて良いです。Los Angelesでは、ここで釣れた魚なら何オンス以上食べたら健康を害するという注意書きが出ているくらいです。工業排水などによる汚染は甘くみてはダメ。

 例えば日本でも、川や湾奥(わんおう)で釣れたボラやチヌは難しい。家に帰ってさばいたら化学(ケミカル)臭がひどくて処分したことが何度かあります。しかも、同じ場所で釣れたのに個体差まであります。

 あたしの地元といえる浜名湖も1970年代から1990年代まで水質が悪かったと聞きます。ずっと釣りをしている猪鼻湖(いのはなこ)は浜名湖の最奥にあって、小学6年生の時に三ヶ日浄化センターが稼働するまで、悪臭がする時代がありました。

 祖父はそれを嫌って、なるべくきれいな場所に連れて行ってくれたと聞いています。だから、小さい頃は宇利山川(うりやまがわ)の河口辺りではなく、瀬戸水道(せとすいどう)の辺りまで連れて行ってくれたのかもしれません。

 今の猪鼻湖は綺麗ですよ。釣り人の出すゴミ以外。


 イシダイ、いないのかな? 大物の気配はするのに。まあ、大きなイシダイは他の魚を蹴散らして餌を食べるから、これからに期待したいです。

 沖向きの新人選手「石竿6号」、イシガキダイで満足しちゃダ~メだぞ。

 可愛く言っても可愛くない。誰か身内以外に可愛いと言ってくれる人が出てこないものでしょうか。

 「凛々(りり)しい」とか「(たのも)もしい」とか、「カッケエじゃん、ヒトミ」とかじゃなくて。「怖い」も「あいつ、やばい」もなしにしてください。

 今度は試しにサザエの(から)を完全に破壊して、(ふた)と赤身を除いた軟らかい内臓部分だけ2ついっぺんに掛けてみる。

 すぐに当たった。

 けれども、はっきりしない竿先の沈みかた。待っていたら餌をパックリ食って、合わせずとも勝手に掛かった。

 ふむ。急に横へと突っ走る引き。またイスズミかな?

 引きだけは良い。手応えを楽しみながらリールを巻いていく。

 あ、そっちは駄目ですよ。

 竿を立てて、魚の進路を誘導。

 ああ、もう諦めたのか。つまらない。

 抵抗が弱くなったので、早めに巻き上げます。

 浮いてきた。この魚影は、やっぱりイスズミですか。

 これも割りと大きい。タモを使ってすくいます。

 うぬ、・・・今度はオナガか。

 オナガメジナ、和名をクロメジナ。フカセ師(メジナ専門の釣り師)だったら大喜びでしょうね。

 しかし、外道。あたしは今、普段よりひどい仏頂面になっていることでしょう。

 ちなみにフカセ師はメジナ釣りだけど、同じフカセ釣りでもチヌを狙う人はチヌ師らしいです。東京ではクロダイ師を名乗る人もいます。何かこだわりがあるようです。

 メジナ好きでも、フカセ師とは言わず、メジナ師、グレ(メジナの関西呼び)師、クロ(南日本呼び)師と名乗ったり。

 他には底物師ではなくイシダイ師と名乗る人もいました。

 導師(メンター)の釣り友がメバリング専門なのだけれど、メバル師でなくメバリングマスターを自称。

 広く使われる通称では、投げ釣りにおいて150くらいぶん投げる上級者は、キャスターと呼ばれています。自称や他称で投げ師、投げ釣り師と呼ばれる人はいますけれど、カレイ師もキス師もいません。

 釣りの世界は結構いい加減。

 淡水でブラックバスを釣る人はBasserらしいです。スズキだとSea Basserとかいうのかな? Americaで知り合いになったLargemouth(オオクチ) bass(バス)の類いを釣る人は単にAnglerと名乗っていました。つまり、釣り人、釣り師です。Fishermanだと漁師の意味合いが強くなります。趣味ではなく職業ですね。

 さーて、どこから話がずれたのかな?

 そうそう、オナガが釣れました。磯でオナガはオナガメジナ(尾長眼仁奈)、標準和名クロメジナ(黒眼仁奈)ですけれど、魚市場や沖釣りでは、オナガはオナガダイ(尾長鯛)です。

 オナガダイ、標準和名ではハマダイ(浜鯛)。暖かい海の深海手前の深場に棲む魚です。伊豆諸島あたりだとマダイ釣りでもたまに掛かります。一言で表すなら、美味な魚です。

 言っているそばから話がずれた。

 底を這わしているはずの沖のポイントでもオナガが釣れてしまいますか。オナガもクチブトもメジナは中層に多い魚。餌が流れで浮き上がってしまっているのでしょうか?

 タモからフィッシュグリップでオナガを持ち上げます。石の上に静かに寝かせて計測。56㎝か。オナガメジナとしてはそこそこな大きさだけれど嬉しくない。

 たとえこれが80㎝だとしても、底物釣りでは外道は外道。

 ただ、初夏から夏のオナガは美味しい。しゃぶしゃぶ、塩焼き、刺身も良いか。あたしは地磯に多いクチブトよりもオナガのほうが美味しいと思います。

 よし、食べよう。

 ストリンガーを引き寄せて、イシガキダイの隣のクリップをオナガのアゴに通してから、再び海に流しました。

 右の高根より80メートル先の深場のほうに食いが多い。今日はサザエのほうが好まれるか?  

 潮が速い高根に投げているベテラン選手「石竿2号」をヤドカリ餌から赤貝に変えようか? サザエはそんなに数はないから、イシガキダイが出た沖に集中させよう。取り合えず本イシを釣りたい。

 残りのヤドカリはどうしようか。解凍しちゃったから使いきりたいのだけど。

 ベテラン竿を巻き上げてみると、ヤドカリに食われた形跡はなかった。少なくとも、あちらのポイントにヤドカリは合わないらしい。

 どちらかと言えば、サザエが食われない場合の餌として赤貝を考えていたのだけど、まあ良いでしょう。

 クーラーから赤貝の固定に使う紐を出しました。赤貝剥き身の固い部分を()うようにウニ(どお)しで貫き、5個まとめて針にかけます。針に収まったら、餌がハリスへとズリ上がらないようにバイオゴムのチューブで塞ぐ。勢いよく投げると餌が外れることがあるのと、小魚にあっという間に食い散らかされることを防ぐため、針に連なる赤貝を紐で縛り付けました。

 この紐、実は羊の小腸です。ソーセージの皮と言ったほうが通じますか。師匠は木綿糸で縛るのですけれど、あたしは匂いでの呼び寄せも期待してこれを使っています。

 腕時計へ視線を流すと両針がほぼ真っ直ぐ。6時か。風が少し弱まったかな。

 ベテラン選手を赤貝に変えたら、一投目にして当たりあり。

 ゴンゴンと来た。イシダイだと思う。でも、弱い。チビイシさんですかね。

 浮いた浮いた。観賞用水槽にいそうな美しい縞の魚体。チビではないけど大きくもない。うん。シマダイですね。

 うん。

 うん。

 釣れた。イシダイが釣れた。

 これで満足しない。満足はしないけれど、自分の竿が釣り上げたのは4カ月ぶりになります。

 嬉しい。

 真冬の1月に行った時より、前回行った2月末のほうが釣れないってどうなんだろう。同じ「岩」だったのだけれど。師匠は同時期に本イシを上げていたから悔しいったらない。

 ・・・42㎝。辛うじて40を超えた。お前は刺身だ。

 伯父と一緒だと、疑惑の「まさか、そんな木っ端を?」という視線に耐えきれず海に帰すことになったかもしれません。中学高校までは師匠の要求も厳しくなかったけど、最近は本ワサ銀ワサ以外は釣るなという感じです。イシガキダイだけじゃなくてシマダイも海に帰すことが増えました。外道も持ち帰れた男女群島はどちらかと言えば例外。

 さて一旦締めますか。

 ちなみに漁師の人に聞いたら、本当は上がってから一晩は泳がせないと味がよくならないそうです。あたしがこうやってイシガキやオナガを泳がせているのは、美味しくなるという経験則に過ぎません。大きい魚は特に、上げてすぐに締めるより、少し落ち着かせたほうが死後硬直による味落ちが減ります。

 チビイシは釣ったばかりだけれど、締めておきます。

 あたしの神経締めは、元農水省の人を初めとして、色んな方の動画と記事を真似して、料理が美味しかったやり方に決めたものです。どんなやり方であっても、神経締めをするとしないでは美味しさが変わります。血抜きをし、脊髄(せきずい)を掃除して、死後硬直を遅らせた魚は新鮮さを保ちます。

 正直、銀ワサ本ワサ級のイシダイは、筋張っていて舌触(したざわ)りが悪いものです。それでも現場で神経締めをしておき、戻ったらきっちり下処理をして熟成させ、包丁の入れ方を変えて筋が舌に触らないよう調理すると、若いイシダイとはまた違う美味しさを得られます。

 熟成させて旨味成分を増やすより、その場でさばいて新鮮な命を味わえという人もいます。これに関しては個人の好みの差。釣りたてが好きでも、ハタ科やヒラメに関しては寝かせろという人も多いですね。

 水汲(みずく)みバッカン(バケツ)を海面に落とし、新しい水を汲んだ。シマダイはここで少し生きていてもらおう。

 道具を広げるため、サザエの(から)砕きに使っている新聞紙をクーラー横にまでずらしました。

 ロッドケースからまな板代わりのウレタンマットを取り出します。これは竿の防護クッション、というかメインポケットの隙間埋めにもなって便利です。

 マットをクーラーのフタに載せる。

 地面が平坦ではなく、マットもまた斜めです。魚が落ちるほどの角度ではない、かな?

 釣り座にしている崖の頂上ですけれど、本当に狭いです。ロッドケースからクーラーへ振り向くだけでも、下手をすれば足を踏み外しかねません。救いは崖の上ということで、身体を回しても何にも当たらないことです。

 サイドポケットから丸めた布包みを抜き出す。これが自作の神経締め用セット。もちろん中身は市販品。神経締めセットの紐をほどき、軍手、脳破壊用の(かぎ)型ピック、シース入りナイフなどなどを確認。

 鉤型ピックは「()(かぎ)」という名です。木製の棒の上部から横に太い(きり)が飛び出していると思ってください。釣具やで売っている活け締めピックは、ドライバータイプやT字グリップが多いと思います。締め鉤は漁師や養殖業者、魚卸業者以外は使わないかもしれません。頭骨が硬い魚だと、こちらのほうが使いやすくて。

 神経締めを始めたいという釣り友にお勧めしたのは、Dブランドのバタフライナイフみたいな構造のピック。冷凍アミブロックが溶けきっていない時や氷を細かくする時にも使えます。

 ドライバータイプという表現ですけれど、友達に千枚通しみたいなと言ったら通じませんでした。千枚通し、家庭科の裁縫で使いますよね? 今は裁縫の授業ってないですか? じゃあ、たこ焼きを焼く時にくるくる回す道具に似ているといえばわかりますか? 他に似ている物といえば、アイスピックは? あ、ウナギの目打ち。

 タコピックもアイスピックも目打ちも一般家庭にはありません。すみません。

 ロッドケースのインナーポケットから長いプラケースを取り出して、パカッと開けます。中には脊髄掃除用のワイヤーが3本、透明ビニールチューブに差してあります。上に黄色い持ち手が付いている1本、直径1.0㎜を抜き出す。表面に凹凸(おうとつ)の付いたワイヤーで綺麗に脊髄を掃除出来るのですけれど、裸でまとめておくと互いに傷付け合って使い物にならなくなるのが欠点です。

 ケースに残した大型魚用の直径1.5㎜という太くて長いワイヤーは滅多に使いません。最近は小さかったり細かったりする魚を狙っていないから、直径0.6㎜と細いワイヤーもそんなに使わない。

 処理するなかで一番小さなシマダイも42㎝ある。40㎝を超えているから一般にはサンバソウ、チビイシとは言われない程度の大きさがあります。一番細いワイヤーでは役目に足りません。今回は真ん中の1.0㎜の太さ1本で。

 新聞紙の上に、締め鉤、ナイフ、ワイヤーの順に並べました。

 指出しグローブを外して軍手に付け替える。

 次いで海に流しているストリンガーのロープを手繰り寄せ、つないだ魚を釣り座まで引き上げました。

 口蓋(こうがい)を貫いていたクリップを外し、イシガキダイとオナガメジナを水汲みバッカンに入れます。驚いた魚達が少し暴れますけれど、バッカンがひっくり返ることはありません。

 まずはイシガキダイ。マットに魚を寝かせて軍手で眼を覆い、落ち着かせます。

 目の間を締め鉤でド突いて脳を(えぐ)り破壊。エラの奥にナイフを刺し入れて内膜(ないまく)を切り裂き、返す刀でその奥の動脈を切断。血圧で血が吹き出すまま水汲みバッカンに戻して放血(ほうけつ)させます。

 この鞘付きナイフは就職記念に購入した物。板前が使う大出刃包丁が買えるような値がしますが、現代のおしゃれな釣り人らしい持ち物として入手しました。

 ここ数年はあまり包丁を持ち歩きません。上京して、小出刃包丁をタックルボックスに入れて持ち歩いていたら、職質でえらい目に遭いましたから。

 高校の時に三重で検問に引っ掛かった時は、脇に草払いや枝打ちをする為の剣鉈(けんなた)を吊るし、腰には愛用のフォールディングナイフを2本ぶら下げていたけれど、お巡りさんは何も言いませんでした。

 ・・・東京のマッポは厳しい。

 締め鉤とナイフを一旦綺麗に拭ったら、続いてオナガメジナ。突き刺し抉って、差し込み切り込む。今まで数をこなしすぎて、ほとんど流れ作業です。

 あたしには人が100回で覚える行程を10回で覚えてしまうという特技があります。いいえ、最初に成功したら1回で覚えてしまいます。多くの人は修正しながら何度も繰り返して手が覚えるらしいです。あたしは1回でも成功したと思ったらそこが基本になり、失敗しなくなるのです。

 才能。特技。能力。呼び方は何でも良いけれど、釣りや料理、あとはバイクを乗り回すのにも便利です。身体が覚えていると、動作に余裕が出ます。

 実は、この才能を生かして工芸品の職人にならないかというお誘いを受けたこともあります。確かに同じ物を幾つも作るには向いている特技でしょう。だけど、しょせんは再生産止まりです。あたしには名人と呼ばれるような、新しい何かを産み出す能力はありません。

 美術の先生は提出物を前に首をかしげて固まるし、音楽を選んだら作曲の小テストで模範演奏の人間が円陣を組んで相談し始める。そういうレベルで創造性がないのです。それでも何とか演奏をしていたから、専門家はさすがだと思う。

 ピアノは趣味で専門家じゃない? あ、ごめん。

 そして、勉強、特に暗記ものは人より何倍も何十倍も繰り返さないと覚えません。歴史とか国語は大の苦手です。料理、釣り、バイク、気象、航海に関係することはどうにか出てくるのですけれど、中学でも高校でもいつも赤点。大学受験できるレベルにまで国語力を上げるのには苦労しました。

 何しろ、国語がわからないと試験問題の意味がわかりません。姉には「せめて新聞のテレビ欄くらいは全部読めるようになりなさい」と強く言われていたのですけれど。

 兄と姉と姉のパートナーさんと3人がかりで、高校卒業してから小学2年生の漢字ドリルからやらされました。そんな辛い日々を1年過ごし、大学受験をする頃には、漢字辞典と国語辞典と広○苑なしでも新聞を隅から隅まで読める程度に仕込まれました。犬の芸みたいだけど、本当に仕込まれたという感じです。

 新聞は今も読み続けてします。また姉に強く言われたから。

「キミちゃんは頭が、・・・そんなに良くないから、一般常識程度は覚えておかないと、ね」

 自分だって算数レベルで数学が出来ないくせに。

 あたしは高校でも英語と数学だけは、補習受けたことはなかったもん。ああ、赤点を取っていないという意味です。それに、豊橋市で下から一、二を争う底辺高校だったけれど。

 英語は板前になったら外国人のお客をもてなしたいと思って、それと海上無線通信士を取りたくて、小さい頃から勉強していました。

 というか、英会話に関しては日本語と同時に始めています。折笠の家は、貿易が元の家業だったせいか、世界言語である英語は、話せて当然なのです。母が嫁に来て一番驚いたことだと聞きました。

 祖父の3つの会社では、幹部級で英会話ができない人はいません。でも、ホテルやサラレス(サラリーマンレストラン)の会社はともかく、貸しビルでは英語能力必須ではない気がします。

 集落でもこの傾向は強くて、2人に1人は日常会話が出来ます。というか、ほとんどの住人が元は祖父の会社の人だったり、その親族だったりだから、その傾向は強いです。外国の人が嫁や婿に来ても、英語が出来れば不自由はしません。集落にはベトナム、フィリピン、カナダ、ベルギー、西アフリカ、シンガポール出身の人がいますけれど、遠州弁(えんしゅうべん)よりも英語で会話している姿をよく見ます。

 あ、最初のベトナム出身者は違いますよ。あの人はベトナムで米軍が負けた時に日本へ逃げて来た人なので、40年以上日本に住んでいます。しかも、来日して5年くらいは浜松に住んでいたため、バリバリの遠州弁です。よく、関西弁の旦那さんと喧嘩しています。転勤先で育った息子さんが博多弁で、お嫁さんが金沢弁だから、「国内色」豊かな家として有名です。小学生の、いや今年から中学か、孫は「おれは絶対方言は使わん()()」と言っていました。

 何の話を・・・、あ。

 数学は、飛距離とかタナとか餌の分量とか計算できないと釣りにならないから、いつのまにかそこそこ算数が出来るようになって、その流れです。

「計算脳を育ててきた人は良いよね」

 姉は、何㎞/h超過(オーバー)か聞かれて、とっさに「すごく」と答える人です。

 地理は、まあ、歴史に比べれば、出来るほうかもしれない気がしていますと感じている程度でした。

 天気や潮流や地形の基礎は、釣りや料理のことを考えるうちに、いつのまにか覚えました。あと、どこで何が釣れるとか、どこの国の料理なのか、どこの材料なのか、回遊魚の移動や分布を調べるうちに、いつのまにか地名も覚えていました。英語なら国連加盟国すべてを暗唱できます。

 ・・・実家の地球儀、英語で書いてあるから。

 実家には地球儀や世界地図がたくさんあります。新しい物からアンティークまで。関東大震災で横浜市が壊滅したのですけれど、たまたま被害を受けなかった蔵の中身を全部、三ヶ日へ持ち込んでいたからだそうです。ずっとどこかに貸し出していて見たことはないけれど、一番古い地球儀は、16世紀製だと聞きました。

 だーら、また脱線してるって。

 こんなあたしは、漢字は読めないけれど、漢字は書けないけれど、高校では普通科の文系コースでした。だって、文理を選択する時は、卒業したら日本料理店に就職するつもりだったから適当に決めただけです。

 だからと言うわけでもないのですけれど、国語、地理歴史、公民、理科、芸術と成績は壊滅していました。まあ、比べれば良いと言っても数学も最低限の点数です。辛うじて英会話を中心とした英語科目が平均点より上になります。

 つまり、大学受験を許される成績ではなかったんです。卒業を許されない成績とも言います。

 だけど、どうしてか、どうにかこうにか、大学に受かってしまいました。ところがそのとたん、姉から留学を強く強く、もういっちょ強く勧められることに。自分は仕事と観光でしか海を渡っていないのに、「留学は良いよ」と謎発言。

 兄は兄で大学時代、研究の関係でよく渡米したり渡欧したり台湾へ行ったりしていました。留学はEngland(英国)の東部に半年くらい。「研究と言い争いしかしていないねえ」とため息をついていたのに「留学でも長期旅行でも良い。外を見てきなさい」と幾度か勧められました。

 大学に入学する頃には少しだけ留学というものに興味がわきました。

 刷り込まれている? 何がでしょうか?

 元々大学進学した理由は祖父を安心させるため。

 ホテル経営や大衆レストラン経営の勉強ができる大学を調べたら、見事に海なしの所ばかり。数少ない海に近い大学は、条件が厳しい所しかありませんでした。最低ラインがTOEFL iBTを100点以上、IELTSを7.5以上の実績。そこまで上げるため、大学の授業以外も英語の勉強が続いたんです。

 まあ、留学先を海の近くに限定して、しかも何が釣れるかにこだわったら、すごい大学しか候補に残らなかったのが悪いのですけれど。でも、本当は語学留学というやつで良かったのに。話せるけどさ。

 更に言えば、大学同士の派遣交換留学の対象校ではなかったから、私費留学になりました。包括協定があったから向こうでの勉強を日本での単位に認めくれたのが救いです。一浪の上に留年までしたら、弟と卒業年次が一緒になってしまいます。

 兄からは「キミは日本の学校とは合わないから、1年だけではなく向こうの学校へ移ったほうが良いよ」とも言われたんですが、帰ってきました。

 高校をお情けで卒業させてもらったあたしが、創立者が何十年も高額紙幣に君臨する大学に入学できたのは兄のお陰。兄の作り上げた受験勉強カリキュラムによって、中学レベルも怪しいあたしが1年浪人しただけで合格できたのです。兄が合格させてくれた大学を卒業しないわけにはいきません。

 合わないと言われたのは、卒業した大学に友達がいなかったからです。高校時代は馬鹿をできる仲間が大勢いたから、そのギャップを見て、合わないと思われたんでしょう。

 そんなことはありません。大学に友達がいないというより、坊っちゃん嬢ちゃんとは気が合わなくて友達を作らなかっただけ。上京してからバイトや釣りで仲良くなった人は何人もいます。それに、1年間行っただけで留学生仲間や釣り仲間や研究室の仲間、幾人も友達が出来ました。

 ・・・負け惜しみじゃないし。

 高校卒業後、まず勉強した科目が国語だったということはお話ししました。あたしには、漢字や()()()()、ことわざ、敬語の分類など、小学生に負ける学力しかありませんでした。受検科目に国語は含まれなかったけれど、他の教科の問題文を理解できないという難点がありました。

 受験用に地理歴史科目から選んだのは、先程も言ったように地理。

 幼い頃から釣りをするために地形図や天気図の読み方は問題なし。小舟を(あやつ)り出してからは海図も読めるようになり、海岸線を中心に地形、国名はわかります。けれど、これは大体、海洋物理学や気象学という、自然科学になるそうです。地理ではありません。

 へえ、そうなんだ。

 割と得意だと豪語したそばから指摘されてしまいました。

 そんな地理科目も1日12時間の刷り込み、ではなく勉強で何とかなります。というか、兄が何とかしてくれました。

 数学も、どうにか合格レベルにまで上げてくれました。

 英語は・・・、実は過去問題を見るまでは、自信満々でいました。勉強前でも、釣りなら英語でガイドができましたから。親戚の会席に連れ出され、外国人と英語で会話もできていたんです。受験って、日常会話と関係ないのですね。

 1年で中高6年間分の受験英語を叩き込まれ、いえ、()(とお)るまで刷り込まれました。たまに地理や数学の解答で日本語使うのを忘れるくらいに。

 幼い頃から兄は天才だと思ってきたけれど、もう度を越していると思う。合格発表当時、偏差値の低い人が大学に受かる本が話題になっていたから、兄に「ビリ妹」とか本を書いたらと言ったことがあったんです。

「僕は妹だから受験用の勉強法を考えたんだ。教える気はない。キミの専用カリキュラムだから他人には意味がないしね」

 兄は下の3人や一部の身内以外には、結構冷たい。

「それにキミは大学でちゃんと勉強しているよ。跡を継ぐためだとはいえね。留学もするんだろう? 教えた甲斐はあったと思うよ」

 すみません。留学目的は釣りです。

 大きなヒラメが釣りたかった。イシダイに関しては、海外では非常に難しいです。イシダイ科の魚に範囲を広げても難しい魚になります。海外のイシダイの仲間って南半球ばかりにいるのです。オーストラリア南部のKnifejawとか。

 だから、巨大ヒラメに絞ったんです。「California flounder」とか「California halibut」と呼ばれる種ですね。

 Flounder(ヒラメ)なのかHalibut(オヒョウ)なのか最初に調べた際は混乱しましたけれど、ヒラメでした。それも日本のヒラメに近い種だそうです。向こうの人は左ヒラメの右カレイとは考えないと聞きました。カレイも、カレイの一種オヒョウも、そしてヒラメも同じように、平べったい魚「flatfish」と考えるらしいです。

 元々ヒラメの英語名も「Olive flounder」より「Bastard halibut」のほうが広く使われています。Halibutをオヒョウと訳していますが、Halibutは巨大なカレイ目の魚という意味で使われているようです。前述のヒラメ科の「California halibut」や同じくヒラメ科「Greenland Halibut」(和名カラスガレイ)もHalibutです。

 ・・・もちろん、留学先を決めた本当の理由は学びたい講義ですよ。感銘を受けた本の筆者によるアメリカのホテル経営に関する研究室があって、そこで勉強したかったから留学先を決めたのです。家業がホテルと貸ビルとレストランなので。

 大学で商学部に入った理由は、祖父がいた学部の子孫だからです。

 本当に真面目に留学しました。リポートだってS評価が多いんですよ。本当の本当です。向こうの大学は喧嘩みたいな討論をするから、口下手なあたしには大変でした。

 そのストレスで毎週釣りに行っていただけです。竿は最初、11本しか持っていきませんでしたし。リールでいえば、5個だけです。

 一時帰国する度に増えて本数が増えたのは、まあ関係ないし。

 向こうでどれくらい釣り道具を買ったかも、関係ないし。

 視線を感じて振り向くと、おニイさんが感心した様子で自分の手さばきを見ていました。

 さて、シマダイもやってしまいましょう。


 血抜きのための10分がたちました。バッカンに縦に差したシマダイを取り出して、脳を破壊した穴に専用ワイヤーを差し込む。

 探って行き、ビクンと反応があったので幾度も突き込んで脊髄を掃除。尾まで突き通し、締めを終える。この神経締めで魚の死後硬直や痛みが格段に遅くなるから、帰宅してからさばいても大丈夫。寄生虫が身に移らないように(えら)内臓(わた)を始末する人もいるけれど、クーラーボックスに入れておけば平気です。

 処理を済ませたシマダイを岩の上に置いて、ワイヤーを丁寧に(ぬぐ)い、オナガメジナをマットに置く。抉る時だけ速度が遅いと感じるかもしれませんが、ここは丁寧に掃除したほうが良いのです。

 次いでイシガキダイ。

 脊髄を抉る順番が脳破壊~放血と逆になるのは、全部の魚の放血が済む様に時間調整するためです。大型の魚の場合は放血を終えるまでもっと時間をかけます。毛細血管の血液まで出さないと味が落ちるからです。

 血に(にご)ったバッカンの水を捨て、汲み直します。3つの魚体をきれいな海水で洗い、新聞紙でぬめりをざっと拭い、魚を1尾ずつビニール袋で包んでクーラーボックスへ。

 クーラー内の氷はまだ溶けていません。だけれども、底の保冷剤が少し透けて見えています。氷が少なかったかな?

 おニイさんを見ると、何か言いたそうにしています。

 ああ。何度もあったこと。

 もう一度、バッカンを海面に落とし、水を汲み直します。

 おニイさんのシマダイも神経締めしてあげました。

 アオブダイ以外にも何か上げていたようだけれど、それは逃がしたみたいです。サンノジ(三の字)とかアイゴ(藍子)とかだったのかしら? 

 サンノジの標準和名はニザダイ(仁座鯛)。サンノジやアイゴは釣ってすぐに内臓を除去して締めないと臭くなります。

 ビニール袋も提供します。おニイさんのクーラーボックスも保冷剤と砕氷の組み合わせ。微かに氷が揺れるということは、溶け始めていますね。魚が真水に浸ると味が抜けるからビニール袋は必要。なお、氷や保冷剤と魚が触れると冷やしすぎると嫌う人もいます。それは味の面では正しいのですけれど、あたしは安全性を取ります。

 知っていますか? 食中毒って辛いんです。下着だけではなくてパンツも洗濯する時に、もう二度と食べない、と思うくらい。特に、アブラボウズとアブラソコムツを間違えるのは危険です。

 おニイサンのクーラーボックスならアブラボウズも余裕で入るでしょう。ここまでボックスが大きいと40㎝ある魚が小さく見えます。

 あたしも大きいクーラーボックスを持っています。容量が60リットル。今回持ってきたクーラーと同じシリーズの大型タイプ。滑車がついていて転がして持っていける便利な機能。

 大物が期待できる釣りのために購入したものです。ヒラメ、青物が主な狙いになります。他、深海釣りにも持っていくことがあります。

 でも、アブラボウズは60リットルでも魚体を曲げないと入らないくらい大きい深海魚です。60リットル程度では、ベニアコウやアブラボウズ狙いの1000mを超える深海釣りには役者不足です。

 役者不足と役不足。・・・よし、使えた。

 自分が船を出したり、乗り合いで行く深場の釣りでは、自前のクーラーボックスが大活躍します。キンメダイをクーラー満杯に釣って鼻息荒く帰ったこともありました。あの全投提灯行列、行く度に期待しますけれど、あれ以来ずっと再現できていません。

 60リットルは、小魚を束釣り(100尾)するような時にも使っています。サビキ釣りでの小イサキやタカベ、ハナダイ(チダイ)。釣れたものは全部お持ち帰りのカレイ五目とか。小魚ではないけれど、大漁が期待できるアジサバ五目やイカ釣りでも使います。

 好きなカレイの投げ釣りでは、今日の物より更に一回り小さいクーラーボックスですけれど。ええ、数が釣れると豪語していますけれど、最高で丸一日かけて34尾です。4時前から翌日4時の正真正銘丸一日の釣りでも。

 ズルズル引きずれば良いシロギスみたいな簡単な投げ釣りではないんです。カレイ釣りは奥深いのです。なお、カレイはよく針を呑んでしまうのですが、そうしたら()()でも持って帰ります。丸ごとの唐揚げ、美味ですよ。

 滑車付き60リットルボックスは、ボートや船釣りだと引きずり転がして載せるけど、地磯や浜などでは車に残します。基本的に歩き回る釣りでは、小さいクーラーでも持ち歩かないことが多いです。

 ルアー釣りでいうrun&gunの時は、身軽なほうが疲れません。餌釣りだと、例えばチヌの落とし込み釣り、シロギスの投げ釣り、ブラクリ釣り(穴釣り)です。それと沖磯での釣りも身軽なほうが楽です。磯替えとか、急な撤退とか、落水を考えると。

 最後のは違いますか、そうですか。

 内心、今日の釣りに持ってきた35リットルのクーラーでさえ、底物釣りに持って来るのは期待しすぎと思っています。イシダイは1尾上がれば上出来。それでも大物を期待するのは釣り人なら当たり前だとはいえ、ボウズだったら恥ずかしい。食べられない外道と木っ端しか釣れず、逆にクーラーの氷を捨てて、保冷剤だけのクーラーを提げてションボリ帰ったことが何度あるか。

 おニイさんはどれだけの大物を釣るつもりなのでしょう?

 神経締めを終えると同時に気が抜けたのか、強い尿意をもよおしました。出港前に済ませておいたのだけれど生理現象だから仕方ないです。

 ロッドケースから「いつものセット」を抜き出し、潮と空を再確認。もう一つ、近くに航行船舶がいないことも。

 正直言って野外での排泄には慣れたもの。

 と姉のパートナーさんに言ったら、「女の子が慣れちゃダメだろ」と涙目で首を横に振られたことがあります。

 まあ、沖磯とか船では、億万が一にもパンツやショーツを下ろしている時に落水したら死んじゃうからね。

 と答えたら、今度は姉と二人で涙ぐまれました。どうしてでしょう?

 おニイさんに用足しを行うと断りを入れておきます。(のぞ)かれる可能性もあるにはあるのですが、危険のある磯で声をかけておかないのはマナー違反行為。

 目の前でするのが失礼なのは当たり前で、おニイさんから見えないよう、自分の釣り座から下の肩の部分に移動します。

 他の岩からは電子ズームの双眼鏡でも持ってこなければ見えません。

 ヒップガードやらライフジャケットの股紐(またひも)やらを外さねばならない。フィッシングパンツやショーツを下ろすのも手間だし、ヒョイと取り出せる男と違って女は面倒くさいのです。子供の頃、並んで立ちションしている祖父達を羨ましがった覚えがあります。

 ・・・立ち小便は禁止です。一応。

 「いつものセット」から取り出したのは携帯トイレ。口をしっかりと開けて足元に置きます。風で飛んだり、傾斜で転がったりしない場所を選びましょう。

 ハットを脱いでライフジャケットのポケットにねじ込み、ヒップガードを外す。ライフジャケットの股紐も外してと。

 目隠しのポンチョを被ると黒いテルテル坊主。知っている人には丸分かりのトイレスタイルです。中でウエットティッシュを一枚、手に持ちます。「いつものセット」はフックに引っかけて。

 さてと下半身解放。

 隠れるために割りと水面に近い位置だけれど、海に向かって尻を出すような危険な真似はせず、安定した場所で安定した姿勢。

 ・・・終わった。

 拭き終わると同時に、風が吹き上がる。右から来たと思った風が、突然正面からに変わった。

 あっ。

 と思った時には、押さえ損なったポンチョがまくれ上がり、内部で風をはらみ、身体が持っていかれる。体勢を建て直そうと膝を伸ばす途中で、ずり上がった首抜きに顔を覆われ、よろけてひっくり返り、思いきり尻をぶつけてしまう。

 ンキャー。

 思わず大きな悲鳴をあげてしまいました。

 反射的に腹筋で尻を上げたら、パンツの裾から靴が中に。

 あ、半脱ぎ。

 逆さでんぐり返しに失敗した様な、赤ちゃんのお尻拭きスタイル。

 本気で身動きとれない。春とはいえ吹きさらしの屋外で下半身丸出しは風が冷たい。

 右手でポンチョを引っ張ると首がしまった。どういう絡み付き方? 右側だけある視界の中に、悲鳴に慌てて駆け降りてきたおニイさんの姿が入る。

 おニイさんそのまま固まって、正面から、まるっと見られた。

 混浴なら結構経験しているけど、一応女ですから多少は隠します。

 丸出しを男に見られるなんて、兄と一緒に風呂に入っていた小学生の頃以来でしょうか? いや、中学時代に田んぼに落っこちた弟を風呂で洗ってやった時以来ですか。あの時、弟は新品の学ランと下ろし立ての柔道着が泥まみれになって泣いてたな。落とすのに苦労しました。

 ・・・嘘です。こんな格好、たぶん赤ん坊の頃以来。

 そうです。処女です。すみません。新品のままモデル落ちしそうなものを(さら)してしまって。

 せめて夏場で毛の手入れの後だったら。

 普段履いているのはこんな子供パンツみたいなボクサーショーツじゃないのです。

 ・・・自分ながら錯乱しているな。

 岩にぶつけた尻が痛いは恥ずかしいは。こんなことならヒップガード着けてオシッコをすれば、って狂人か。

 何とか立ち上がりたいけれど、肩首回りはポンチョ、足は下ろしたパンツが(から)まってどうしようもない。

 もう色々(あきら)めよう。

 横向きに転がって足を地面に下ろし、ジタバタとポンチョを脱ぎ捨てる。

 太もも痛い、お尻痛い、肩が痛い。背中に気配を感じる・・・。

 ああっ、向こうに尻丸出し。

 ・・・慌てると危ないので何とか裾から靴を出し、・・・出し、・・・靴のスパイクに引っ掛かっている。

 泣きたい。

 何とか磯靴を裾から抜き出し、しゃがみ状態に移行して、尻をはたいて汚れを落とす。尖った石が痛かっただけで、傷はなさそう。少なくとも出血はしていないと思います。

 背後の気配が消えない。これ、ずっと見ています。

 ゆっくりと立ち上がり、ショーツ、パンツを順に引き上げた。ずり上がっていたシャツの裾を引っ張って直し、ライフジャケットの股紐を股間に潜らせて止める。ヒップガードも拾い上げて装着。

 すっ転んだ拍子に蹴っ飛ばして、数メートルも転がっていた携帯トイレ。風と傾斜は計算に入れても、自分で蹴っ飛ばすことは考えていませんでした。あとは、トイレが転がる途中でこぼれたティッシュもさりげなく回収。携帯トイレには吸水物質が入っているため、オシッコはこぼれたりはしません。

 「いつものセット」から出したゴミ袋に封印。

 潮かぶりまで降りて、脱ぎ飛ばしたポンチョを拾い、広げながら何度かはたいて水を落とす。畳んで一回地面に置きました。

 ジャケットのポケットからハットを取り出す。鍔からネックガードを引き出して被った。顔を隠すために前つばを引っ張る。

 気まずいけれども、悪いのは油断した自分。全く引かない顔の赤みをこらえるしかありません。

 いつの間にか消えていたおニイさん。気配は上ですね。

 高台へと登り、自分のロッドケースに向かう。封印したゴミをロッドケースに仕舞ってからおニイさんを見ると、そっぽを向いたおニイさんの横顔も赤い。

 笑うなら笑いやがれ。

 今度から大人用オムツをしよう。


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