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こんなに釣れません  作者: 咲多紅衣(さきたこうい)
12/12

20180528_南伊豆12

加筆しすぎて遅れました。

すいません。

遅れついでに新年記念で投稿します。

「トイレを借りて良いかな?」

 左大路(さおおじ)さんにお手洗いの場所を教えます。

 彼がトイレを使っている間に手洗いうがいを済ませ、寝室に使っている部屋で着替えました。釣りに行ったままの格好というのはないですから

 コットンの灰色シャツと濃い緑のパンツ姿です。さっきまでの格好と何が違うかと問われれば、色が逆だし布地の厚みが違うと答えます。あまり使わない水色と白のタータンチェックのエプロンも着けます。

 本当はたまに普段着にしている着物にしようかと考えもしたのですけれど、包丁を使うことを考えて止めました。作務衣(さむえ)も良いけれど、元々が作業着だから、あまり初対面の人の前で着るものではないし。

 こんなことも言われましたし。

割烹着(かっぽうぎ)よりエプロンのほうが魅力的に見えるわよ」

 参考になります。お姉ちゃん、いつもいつも聞き流していてごめんなさい。

 今のまともなシャツとパンツは、実は外出着。あたしの普段着は可愛くないです。おしゃれでもありません。

 部屋着というのかな? 一番多く着ているのは、高校の時のジャージ。次にちょっと(そで)(すそ)が短い中学の時のジャージ。あとは木綿の着物。そのまま寝られる浴衣や作務衣も多い。夏場は甚平(じんべ)やTシャツにパンツ。ジャージのパンツではなく下着のパンツ。体育用のハーフパンツはだいぶ前に破れました。

 誰だ? ブラはなくても良いしとか言った奴は。本当に問題ないから泣くぞ。

 昔からこういう格好だし、可愛く見られたいと思ったことがないから、適当すぎるのかもしれません。


 東京都大田区は大森にあるこの部屋。あたしは5年前から独り暮らしをしています。雑居ビルの最上階、下の階の半分もある面積を独り占めです。お祖父ちゃん、もといビルを所有する不動産会社の社長が年に数回泊まります。祖父は東京に来ると孫たちが出迎えてくれる夢のお部屋として考えていたようです。

 でも、祖父が考えた孫たちが暮らす家は実現しませんでした。千葉にいる孫も杉並区にいる孫も、次姉の2年後に上京した孫も、ここには住まなかったからです。だから、基本的には多い部屋数をもて余しています。

 千葉に住む兄は、あたしと一緒に住むことではなく、引っ越しを嫌がりました。ずっと大学近くのアパートから動いておらず、上京から今月のGWまで9年間住んでいました。今の家が兄の人生二度目の引っ越しです。兄は里帰り出産で生まれているけれど、それは引っ越しには含めなくて良いでしょう?

 姉はパートナーさんとラブラブだから、兄弟と一緒に暮らすことを嫌がっても仕方ありません。実際、そういう理由で断ったと聞いています。まあ、本音は妹に小言を言われるのが嫌だったみたいです。実は、パートナーさんのほうは、ここへの引っ越しに前向きだったと聞いたことがあります。姉も掃除洗濯をしっかりやるなら怒らないのに。

 弟も進学時に上京して、兄と同様、大学の側に住んでいます。一度くらいは学校へ歩いて通ってみたかったそうです。三ヶ日(みっかび)に住んでいた中学校まではもちろんですけれど、静岡の高校も最初はバスを乗り継ぎで通い、そのうちスクーターで通い出したから、1度も徒歩通学をしたことがないのです。実は、三ヶ日に来る前に通っていた小学校も、通学バスでの登校だったと聞いています。まあ、就活の話を少し聞く限りこのまま都内に就職するつもりみたいなので、次の春あたり、ここへと越してくるでしょう。まさか、アパートの側だからと就職先を決めないでしょうから。

 だからあたしは独り暮らし。その厨房(ちゅうぼう)がこれだけ広いことに少し思うところがないでもありません。家族が泊まりに来ないと作る食事は独り分。レストランか料亭に匹敵する厨房で独り飯。

 厨房の奥は銀色の壁、ではありません。巨大な業務用冷蔵庫です。大きなレストランの厨房にあるあれです。家庭用大型の倍の容量があります。更に冷凍庫が別にあって、そちらは一般家庭の冷蔵庫程度の大きさがあります。

 業務用冷蔵庫、冷凍庫の中身は、実はスカスカです。ここ最近は買い出しもしないし、ササッと作れる料理しかしていません。週に2回は外食だし。

 まだ東京事業所配属になって一カ月未満。先に異動していた先輩方は、4月配属です。あたし一人が5月配属。今はまだ歓迎されている期間になります。

 ・・・新人がお付き合いを断れるはずもないじゃないですか。

「お弁当を作って良いかどうか、職場の様子を見て判断しなさい」

 釣りサークルの勤め人歴が長い人たちからアドバイスももらっていたので、昼も先輩たちと一緒しています。

 平日に作れるのは、ほとんど朝御飯だけです。その分、休日は料理と言いたいところですけれど、たまった家事をして、憂さ晴らしにバイクに乗り、道具の手入れをし、釣り情報を調べて、妄想しながら仕掛けを作る。釣りや料理ができるのは半日もありません。

 こった料理は最近していません。フォンドボーをとろみが出るまで60時間煮込んでドミグラスソースを作るのは大変です。一時期研究していた骨焼出汁(ほねやきだし)や昆布出汁、乾物出汁などなどブレンドしての吸い物。実家が中国料理店の釣り友が2人いて、乾物が多種多様に手に入ったから佛跳牆(ファッチューチョン)を作って、試食してもらった時は楽しかったです。

 でも、そんな料理は始めないように気を付けています。脳みそを振り絞って考え続け、これだと思う手法を幾つも試し、可能性を積み上げて味を完成に近づける。楽しいです。面白いです。食べてくれた人から聞く「うまい」の一言から得られる多幸感は、たぶん世界一強力な麻薬にも勝ると思います。

 あたしは器用じゃないのです。一度物事に集中すると、考えていることはあちこち飛び回るのに、芯が動かないタイプになります。新入社員、それもOJT中のド新人は、仕事を覚えることに集中しないといけません。仕事から遊びへ瞬時に切り替えられる器用さがないのです。

 出勤時間はiPh○neで経済工業ニュースを見ます。それで仕事へと意識を切り替えるのです。退社以後は先輩に誘われてのお付き合いを終えるまで、頭を切り替えられません。先輩との夕食や飲酒は、あくまで仕事の内です。プライベートではありません。プライベートなら、そもそも付き合いません。入社してからまだ2回しか給料をもらっていないのです。

 ・・・何で通勤交通費って翌月の給料で清算なんでしょう? 来月分ということで定期代くらいくださいよ。

 帰りの電車で料理サイトや釣りサイト、ツーリングブログを読んで、地元駅の改札を抜ける頃、やっと半分くらい仕事気分が抜けます。それから、スーパーマーケットをのぞいて、食材に(いや)され、どうにか仕事が抜けます。まだ食事をしていない場合は、軽く材料を買って帰宅。

 帰宅したら食事を作ったり、お酒を軽く飲んだり。時間にもよりますけれど、ニュースを見るか、PCで動画を見るか。それから、懸垂100回とかダンベルスクワット200回とか、軽い運動。入浴して歯磨きして就寝。

 休日前だと、たまに夜釣り。首都高速を2時間くらい回る。あるいは懸垂やダンベルで、腹筋、背筋を中心に限界まで運動。新人なのでストレスが・・・。

 実家からこの部屋への再引っ越し以来、姉たちは来ていません。というか、姉は珍しく声優のレギュラーを2本もとれたので、副業と称する映画悪役女優の仕事と重なって忙しくしています。GWに2人の部屋の掃除洗濯に行って、久々の汚部屋(おべや)具合にため息をついてきたばかりです。

 兄は新婚、じゃなくて婚約者と同棲してラブラブなので、こちらには来ません。向こうの新居に遊びに・・・。遊んでいませんね。料理を中心に手伝いに行くだけです。

 お義姉さんは趣味が洋裁(ようさい)で、車やバイクも綺麗にしていて、非の打ち所ない人だと思っていたのです。兄は放っておくと牛丼3チェーンのローテーションで生きてしまう人なので、安心していました。それが、まさか、捕まえたのが同類だとは。

「私はコンビニやファミレスもちゃんと使うわ」

 お義姉さん・・・。


 中身を見られないように冷蔵庫をのぞき、記憶の通り、必要な素材を切らしていないことを確認。特に、昨晩に干し椎茸(しいたけ)を漬け込んでおいた水、つまり椎茸出汁は重要。

 左大路さんが明日も休みだと聞き出しておいたのでビールを出しました。つまみは作りおきの骨煎餅(ほねせんべい)で。

 お疲れさまでした。取り敢えずどうぞ。

「え? ビール? はい。いただきます」

 どうしたのかしら? 緊張して見えます。種類を出しすぎたかもしれません。

「いやいや、何で一般家庭に何種類もビールがあるんですか? 左党(さとう)なの?」 

 兄や姉がよく来ます。ということにしましょう。衝動買いがひどいことを知らせなくても良い。

 とにかく飲んで。酔いが覚めるまでは帰れませんよ。

 あたしが好きなバ○ワイザー、国産が4種類、左大路さんのお母様がイタリアの方だというのでBirra M○retti。あとは、America産のMiller l○ghtとGOOSE ISL○ND IPA。

 8種類出したけれど、Aビールのスーパー○ライが良いのか。心にメモメモ。

 終わったらクーラボックスを返すからとテレビをつけて、返事はわざと聞かずにキッチンへ戻る。まあ、LDKだから繋がっているんだけれど。

 出汁を取るため、羅臼昆布(らうすこんぶ)真昆布(まこんぶ)をそれぞれ()いて、鍋に張った水へ放り込んでおくのを忘れずに。あたしは昆布の潜らせで出る微かな旨味で十分というグルメ漫画みたいな出汁の取り方はしません。

 さて、包丁仕事。の前に、準備として油性マジックペンと汎用ラベルを取り出しておきます。

 包丁準備。小出刃、たこ引き(刺身包丁)、ペティナイフ、そして主力の大出刃。

 今年の誕生日、兄に買って貰った大出刃。青鋼(あおこう)スーパーで本焼きという板前でもそうは持っていない包丁です。納得できる扱いや()ぎが出来るようになるまで1カ月かかりました。

 祖母に4歳から10年仕込まれ、その後の10年研究を続けている和包丁の扱いは、一人前の板前並みと自負しています。それでも1カ月かかりました。硬すぎです。青紙(あおがみ)スーパー。

 祖母から贈られた包丁が、研ぎすぎて小さくなってしまい、兄が包丁をくれたのです。祖母の形見の出刃包丁もありますけれど、大切なものだし祖母の癖がついているから、あまり使いません。

 さて、まずは大小イシダイ4尾。

 左大路さんの大きなクーラーボックスから彼の釣果(ちょうか)のシマダイを、あたしのクーラーから銀ワサと本ワサ、あたしが釣ったシマダイを取り出し、ビニール袋からシンクへ。

 魚は()()()を綺麗に取らないと臭いが出ます。味の違いは言うまでもないこと。

 ぬめり取りは酢を使うと簡単です。切り口などから入らないように酢で(ひた)すと、ぬめりが白く凝固します。そこを包丁の背やブラシで擦ると凝固した粘液は簡単に落ちます。この時に使う酢は安い食用酢で十分です。あたしは、ぬめり取りや掃除用にこの安い酢を使っています。

 イシダイはぬめりの強い魚ではないので簡単に落ちました。

 鱗取(うろこと)り(鱗引(うろこび)き)を三種出して、まずは大型の鱗取りです。腹や背など手早く鱗を落としていきます。慣れない内は急ぐと鱗があちこち飛び散りますから気を付けて下さい。シンクの中で行うほうが良いでしょう。顔やヒレ周りは小型の鱗取りに変更して落とします。剥がした鱗が身に付いているから流水で洗い落とします。

 さばくのはまな板の上です。4尾とも頭を切り離し、腹部に包丁を入れ内臓(わた)を抜き、血合いは先細ブラシで小削ぎ落としました。(わた)はボウルに避難させます。

 背と腹に包丁を入れて三枚に下ろす。導きとかガイドと呼ばれる切り込み入れずに中骨まで包丁を入れられるのは、結構自慢です。

 シマダイの腸を抜いた時、左大路さんが釣ったほうが雄で、あたしのほうは雌だったから笑いそうになりました。船長の「男が雄で女が雌か」という言葉を思い出したのです。

 腹骨を削ぎ落とします。血合い骨に沿って半身に包丁を入れて切り分け、血合い骨を削ぎ切りました。1尾につき4つになった身を1つ1つクッキングペーパーで包んでしっかりと水分を吸い取る。

 シマダイは皮を引いて(剥がして)、ラップで包んで冷蔵庫に入れました。

 本ワサと銀ワサの半身は、再度ペーパーで包み直して、上からラップでくるみます。熟成用です。もう1組の半身は皮を引き、酒で湿らせた利尻昆布(りしりこんぶ)で挟み、同様にペーパーとラップで包んで昆布締めにします。

 ラベルに5/28-20と日時、ギンワサハラ、ホンワサセなどと種類を書いて、それぞれのラップに貼り付ける。

 熟成用と昆布締(こぶじ)めそれぞれを大型のタッパーへ収めました。一緒に食べる時を楽しみに。老成魚と若魚の味に違いがあるのはわかると思いますけれど、雄と雌での微妙な違いもあるのです。まあ、食い道楽と言われれば返す言葉はありません。

 次は(わた)の処理です。もちろん腸も部位によって食べられます。肝臓を牛レバーのように生で食べる人もいるくらいです。けれども、寄生虫などの問題があって、あたしは基本的に生では食べません。()くか()でるか、料理によっては()げて(つぶ)して()えたり。

 5月も終わりなのに、まだ大きい2尾は産卵期を終えていなかったみたいです。本ワサの真子(まこ)(卵巣)、銀ワサの白子(しらこ)(精巣)がしっかりあるから、切り分けておきます。肝臓も切り分け、余計なゴミを小出刃で落とす。胃袋は食べるなら流水でぬめりと中身をしごき落としておかなければいけません。

 掃除した(わた)をタッパーに入れ、度数が46度もある日本酒で浸け置く。新潟のこれは有名なお酒で、本当の分類は日本酒ではなくリキュール類。度数が高すぎて冷凍庫でも凍らない代物です。ウオッカよりは、まあ低い程度の強さ。

 兄や祖父にヒレ酒を作る際に使うことが多いお酒です。あたしはこれのオーク(たる)で寝かした物をたまにいただきます。喉に来るくらい強いのに旨さが沁みるお酒です。

 残り、つまりアラ(粗)は、頭を兜割りにして、身が残る中骨をぶつ切りに。ざるの上に並べて、水分を吸い取らせるため塩をたっぷりと降った。後で霜降(しもふ)りするので塩味は残りません。

 4尾程度に10分以上かけてしまいました。後ろから視線を感じて慎重になってしまうのです。

 目は合わせません。刃物や火を使うのに動揺したら大変ですから。

 先に野菜の煮物を準備。大出刃を良く洗い、万が一にも魚の臭いが移らないようにし、軽く研いで、良く拭き、皮剥き準備。

 人参、大根、玉ねぎ、三つ葉、根生姜、生姜、にんにく、サヤインゲンの下処理を3分で終了。長パットに分けて配置。

 魚に戻ります。

 モンスター級カンダイ(コブダイ)は、酢をたくさん塗ってぬめりを凝固させ、きっちり落としました。締める際に(ぬぐ)い落とし、渡し船の船着き場で写真を撮った時はわずかだったのですが、氷水の中でもかなり増えていました。

 カンダイも含めたベラ科の魚、ウナギにアナゴ、ウツボにハモほかウナギ目の魚、ヒイラギ、マゴチ等々、鱗がない、もしくは少ない魚は粘液が多くて厄介です。

 カンダイの巨大な魚体をまな板へ。鱗取りを使わず、たこ引きで薄皮ごと削ぎます。()()きです。

 この削いだ皮は、後で他の魚の皮と一緒に素揚げしよう。寄生虫の卵があったとしても揚げれば平気。

 顔周りなどの残った鱗は、流石に鱗取りで落とします。魚を大量にさばくと、排水路が詰まって掃除が大変です。まあ、一日数十尾単位での話になりますけれど。

 エラを取り、腹を開いた。思ったより内臓の量が少ないことに驚きました。この太さでみっしり肉がついているわけです。前に釣ったデブブリのように魚の2、3尾は飲み込んでいるかと思ったのだけれど。

 三枚下ろしにして、腹骨と血合い骨を落とす。こちらは半身を更に半分にして身は全てを熟成用に。こんなモンスターカンダイを熟成させたら、どこまで美味しくなるかしら。

 あたしが料理してきた中では、ベラの仲間としては例外的に大きいものです。白身で肉厚を生かす6通りの料理が頭に浮かびます。楽しみ。

 ・・・おかしい。

 あたしが釣ったんじゃないのに、もう完全に料理して食べさせる気でいますよ。さばいて渡すって呼んだのに、昆布締めとかしているし。

 参った。飛ばしすぎじゃね?

 おっと、地が。

 こんなに突っ走る性格だったでしょうか?

「キミはもう少し考えて動いたほうが良いよ」

 ・・・考えなしに突っ走る性格でした。

 お兄ちゃん、ごめんなさい。

 カンダイの(わた)ですが、どうも繁殖を終えていたようで白子が縮んで分かりません。ベラ科の腸は以前にも数度調理したことはありますが、好みの味には仕上げられませんでした。老成しているから内臓が弱っているかもしれませんし、今回は処分させていただきます。

 カンダイのアラの内、コブの部分は脂肪の固まり。小出刃に持ち替え円を描くように抉り抜く。喉に硬い骨があるため、包丁の刃を傷めるから、軽く刃を入れ、むしり取っておきます。改めて頭をまな板の上に直立させ、前歯の隙間、正中線にそってスコンと兜割りに。中骨も関節部に刃を入れて四分割。イシダイのアラとは別料理にするため、別のザルへと並べ塩をふりかけておきます。

 さて、お次も大物。オオカミ(巨大シマアジ)です。前処理は普通のシマアジと同じ。

 オオカミのゼイゴを削ぎ落とします。これも大きすぎるから鱗は梳き引きです。以下、同様の作業。小さくぶつ切りにしたアラに関しては、もう一度よく洗い、ペーパーで水を拭き、ザルの上で更に水分を切ります。

 中型の魚は今日は食べません。

 オナガ(クロメジナ)とイサキ、アカハタは、ぬめりや鱗を細かい所までしっかり落として、エラと腸と血合いを取り除く。1度洗い、水気を拭き取る。腹にペーパーを詰め込み、外側もペーパーとラップで包んでそのまま熟成へ。皮を引いて刺身か、皮目も美味しいので皮霜作りや煮付け、塩焼き等にするだろうけど。

 7尾のカサゴに移りましょう。

 カサゴの背ビレの(とげ)をハサミで落とす。包丁だと落とした棘が飛んで行くのでハサミが便利です。ミノカサゴの棘を包丁で叩き切り、跳ね返って腕に刺さってしまい毒で腫れた失敗は子供のころの良い思い出になっています。

 良い思い出のわけあるかっ。

 普通のカサゴには毒はないけれど、刺さると痛いですよ。

 毒と言えば、実家では普通にハオコゼ(オニオコゼではなくあの小さいハオコゼ)を料理していたけれど、友達に普通は逃がすか捨てると言われて驚いたものです。

 あと、千葉の外房でゴンズイの味噌汁を食べさせられて、しばらく固まりました。あの毒ナマズ、苦手です。夜のサビキ釣りで鈴なりにぶら下がっていると、外して逃がすのも一苦労。トングで挟んで、プライヤーを使って針を外すから小アジの倍は掛かるかな。

 ハオコゼもゴンズイも頻繁に釣れる毒魚なので、小さいお子さんには触らせないで下さい。こいつらの毒は転げ回るほど痛いです。

 小さい頃は()()()転げ回りました。覚えが悪すぎです。

 そうそう、背ビレの棘が痛いヒイラギも食べます。小さい物は小アジのように唐揚げ、あるいは南蛮漬け。10㎝を超えるくらい大きい物は、刺身か煮付けですね。煮付けと言えばカサゴの・・・。

 カサゴ、カサゴ。そうそう、カサゴの話に戻りましょう。

 あたしの考えは飛びやすいのです。けれど、その間も身体は動いています。だから、カサゴの処理は進んでいます。無意識というより意識が二重になる感覚です。

 大きめのカサゴ2尾は普通に三枚下ろしにしました。小さ目の5尾は腸とエラ、血合いを取って、中骨に沿って包丁を入れておきます。

 三枚下ろしは皮を引いた後はラップで包んで、冷蔵庫の先ほどのシマダイと同じ場所に。

 小さいカサゴは水分取りのペーパーで包んで皿に載せて冷蔵庫行きです。

 ウツボに行きましょう。釣り場で、持ち帰るのかという目で見られましたけれど、これを美味しいとわからせてこそ料理人です。

 ウツボはウナギ目ですので血清毒があります。そして、ぬめりにも毒成分が含まれますから、酢をたっぷり使って、完全にぬめりを取り除きます。ウナギ目は前処理を(おろそ)かにすると非常に味が落ちるので気を付けて下さい。

 不十分な血抜きで、ぬめりを無視して焼くウナギ屋で食べたことがありますが、さすがに食べきれませんでした。血清毒はタンパク質で加熱すれば無害になるからかもしれませんが、料理屋としては無茶が過ぎます。

 ウナギやアナゴ用に使っているまな板に上げ、生きていないけどやり易いから目打ちをして江戸型の鰻裂(うなぎさ)きで背開きにします。これは祖母から継いだ物です。

 身に残る硬くて太い小骨は、切っ先で肉ごと削ぎ落とさないと取りにくいです。一応、棘抜きのような骨抜きでもできますけれど、時間がかかります。あたしが今使っているのは和包丁と同じ鍛え方をしたペティナイフ。お店で見かけて衝動買いしてしまいました。

 慣れるとウツボやウナギ、アナゴ、ハモ、ウミヘビ(魚類のです)をさばくのは簡単です。一般家庭に目打ち穴が開いたまな板はそうはないと思いますけれど。

 いや、ハモの骨切りは面倒か。小学生の頃、京料理店へ修行に出され、必死になって身に付けた技術でした。高校の始めまでは、その京料理店か、祖母の板前仲間が板長をしている江戸料理店に就職するつもりだったのです。

 実際、どちらからも誘われました。あたしが板前の道を諦めると告げたら、料理長も花板も怒って怒って、2年以上、無視されてしまいました。

 こちらの家に目打ち穴が開いたまな板があるのは、よく生きたままの養殖ものウナギを持たされるからです。実家にも何代目かのまな板があります。ウナギをさばいて家族に食べさせるのが習慣になっているのです。

 実家は山の中ですが、ウナギ養殖で有名な浜名湖の近場ではあります。まあ、浜名湖でウナギが釣れないこともないですけれど、天然物か放流物か、はっきり言ってわかりません。ヒラメみたいに見てわかる代物ではありませんから。

 祖母が生まれた料亭は鰻料理もよく出していたそうで、技術が江戸時代から代々継承されてきました。祖母も家政婦さんをしていた時代からよく作っていたらしく、祖父をウナギ好きに変えてしまいました。祖父が若い頃は川魚、特にウナギが苦手だったと聞いて、孫たちは嘘だと思いましたから。

 祖母と祖父が結婚した頃、昭和・・・、何年だろう? 上の叔母が1978年の生まれだから、昭和50年代? まあ、その頃から祖父は養殖業者と契約して、ウナギを数十㎏購入し、集落に配っています。

 もちろん、浜名湖の周り、今なら浜松市や湖西市の住民だからといって、誰もがウナギをさばけるわけではありません。ウナギ屋さんは数多いから、浜名湖周辺の住民は、ちょっと贅沢するならそこのウナギを食べます。

 集落に配られるのは、基本的にさばいた後のものとオリジナルのタレです。契約している業者さんが、さばいてくれるのです。好きな人には、肝や頭も付きます。

 集落では、実家にウナギを取りに来て、自宅で焼きます。折笠をはじめ四十数家では蒸して油を落としてから焼く江戸風。残りの二十数家庭はそのまま焼く関西風と分かれますので。

 腹開き背開きにはこだわりません。折笠は商人です。

 さすがに本業には劣りますが、炭火で焼き上げるからスーパーで売っている物とは段違いの美味しさです。珍しい集落だと思います。一家に一台は炭火コンロか七輪がある上に、かなりの人数が串打ちできるのですから。できない人の半分くらいは本家の奥さんや釣りバカ(あたし)の所にきています。

 10月のうちの集落は、お昼や夕方には各家から焼ける煙が漏れ、出入りする業者さんや郵便局員から「匂いの暴力」と言われ、「ちょっと食べていきなよ」と言われても食べられない公務員からは「忍耐を試される集落」とか言われているそうです。集落の生まれで県警に勤めていたお爺さんが話していました。

 でも、実家に来るのは生きたウナギです。祖母が他人にさばかせるのを許さなかったのです。

「あたしが腕を振るわないウナギを食べるのなんて許しません」

 だから、実家には生きたウナギが、元気なウナギが、秋になるとドーンと届きます。祖母がいない今も大量に。あたしが実家に戻って料理しています。

 鰻裂きの使い方を覚えるのは大変でした。最初は祖母のお手伝い、というか下働きしながら祖母の技を横目で見て覚えたものです。他の魚は小学校に上がる前から包丁を使わせてもらえましたけれど、ウナギ、アナゴ、ハモは3年生になるまでやらせてもらえいませんでした。蒸し、串打ち、焼きも最初はダメダメで、よく包丁の峰や鉄箸で打たれたものです。

 ハモ、というか京料理に関することは、先程言った通り、外に修行に出されました。お盆は料理屋も休みだったから、夏休みの半分くらいかな? 自由研究で修行中の日記を出したら、祖父母が学校に呼び出された理由がいまだにわかりません。虐待と修行は違います先生。

 あたしの根幹になっているのは、江戸料亭の料理技法。

 ただ、江戸料理の内でも、祖母がそれほど得意としない蕎麦打ちや天ぷらに関しても外に出されました。翌年の夏休みに。そういえば、まかないでウナギの頭と中骨の揚げ物を出したら好評でした。

 もちろん祖母の実家に受け継がれてきた調理法は叩き込まれています。江戸流懐石料理、本膳料理、会席料理、鰻料理や穴子料理、江戸前(昔の東京湾)で採れた海産物の料理が定番。

 江戸末期から明治にかけて流行った葱鮪鍋(ねぎまなべ)、牛鍋。昔は裏メニューだった()鍋、紅葉(鹿)鍋、山くじら()鍋(一般には牡丹鍋)。割りと定番っぽい湯豆腐やあんこう鍋、鴨鍋や鳥鍋、どぜう鍋。こういう鍋料理は頼まれたら出すという店だったそうです。

 あとは、普通に家庭で出るメニューも祖母から教えられました。他の郷土料理やフランス料理だとかは見様見真似。料理の本を読んで研究してみたり、テレビに出てきた料理を再現してみたり。最近はネットに有名店のレシピが公開されていたり、動画サイトで料理人が技を公開していたりで、楽になりました。

 ウナギに関しては東京に出てからの5年も帰郷してさばいています。10月くらいになると最低でも50尾くらいは生きたウナギが届きますから。高校時代は流石に家族だけでは食べきれなくて、バイク仲間や釣り仲間に来てもらって消費したりしていましたね。

 江戸蒲焼き、関西風蒲焼き、長焼き、白焼き、肝焼き、骨煎餅、頭焼き、肝吸い、頭揚げ、うまき(卵焼きで巻く)、うざく(キュウリなどを加えた酢の物)、ひつまぶし。海外料理では、フランスの赤ワイン煮込み、フランスのゼリー寄せ、ベルギーのうなぎ燻製、四川風煮込み。それぞれに最低3種類のアレンジを作っています。

 アナゴ料理は祖母から技を盗み、ハモ料理は京料理店から技を盗み、ウツボやウミヘビ(魚類のほうです)にも応用しています。

 なお、ウミヘビはあまり食用にされない魚です。せいぜいすり身で蒲鉾(かまぼこ)やおでん種。

 祖母が伝えてきた料理、他店から盗んだ料理、あたしが様々な料理にウナギを使ってみて成功した料理。人様に出せるウナギ料理はこれくらいしかありません。

 蒲焼きの基本となるウナギのタレは、祖母の実家の作り方を受け継いでいます。鰻屋と違って同じタレを使い代々引き継いだものではないけれど、市販のタレとは味の次元が違います。ちなみにタレは、基本材料が同じでもウナギ用、アナゴ用、焼き鳥用、それぞれ作り方が別です。ウツボやウミヘビにはウナギ用の強いタレを使うことが多いですね。

 今日のウツボは・・・、蒲焼きはやめましょう。白焼きも今日のところは避けますか。ウナギの代用品としてウツボを使っている印象は与えたくない。左大路さんは釣り人だから思わないだろうけど、ウツボをウミヘビの一種だと思っている人も一定数います。高校のダチにも何人かいた。まあ、嫌がる人に無理に食べさせる趣味はないけれど、度胸試しでも良いから一口食べてもらえれば、あとは完食あるのみ。

「上手いな」

 横から意識しないであろう呟きが聞こえました。ええ、魚さばきや処理は魅せていましたとも。これからの調理は乞うご期待。

「大きいのから小さいのから、刺身包丁やらペティナイフやら、全部用途が違うとわかる。無駄に捨てないし、血合いの残りの掃除なんて、うちの親父に教えて欲しいくらいだ」

 大出刃、小出刃、たこ引き、鰻裂き、ペティナイフと、何種かの包丁の扱い、小道具の使い分けに感心されました。鱗の取り方の手際やブラシでの血合いの取り方も誉めてもらえました。

 料理の腕を誉めてくれる異性なんて身内しかいなかったから、内心照れまくる。幼い頃に祖母から魚の下ろし方を教わってから、どれくらい経験してきたか覚えてもいない、あたしの特技です。

 まあ、寿司屋の下ごしらえより早いと友人から尊敬されたことはあります。姉は見慣れているけど、生母なんて自分で下ろしたことがないから、隠し芸扱いされるのです。実際、特技を生かそうと、高校でのバイトはスーパーの鮮魚コーナーや惣菜調理コーナーの裏方でした。大学では築地の場外市場で働いたり。バイトで料理を披露する機会はあまりありませんでしたが、友人知人に見せたことは数多くあります。

 左大路さんは冷蔵庫行きになった処理後の魚に思いを馳せていました。今日食べる分、熟成させる分、一手間加えた分。

 熟成させた身は美味しいんですよと。

「じゃあ、そろそろ」

 まさか帰ろうとするなんて。

 ビール飲んだでしょ。運転はダメ。料理するから食べていって。

 やっと座ったか。まったく。こっちは心の準備に忙しいっていうのに。

 米はそれほど炊かない。炭水化物の取りすぎは脂肪になる。玄米はあまり好きじゃないそうなので白米に。料理に繊維質を足すか。

 椎茸出汁で野菜の煮物を作りましょう。里芋と人参に牛蒡も使う。()み豆腐を用意しておかなかった自分を殴りたくなりましたけれど、今日は上品路線で()くのだからと己を納得させました。

 あたしが学んだ基本、江戸料理は味付けが濃いか、素材の味の引き出しに重点を置く味。熱海は神奈川との県境。今日は関東の人が好きそうな基本中の基本の味で作ります。

 煮物は時間がかかるからザルの上の各アラの霜降りを行う。

 霜降りというのは、サシが多い牛肉ではありません。お湯で余計な血、油、残っているごみを落とす行為です。

 沸騰してからやや冷ましたお湯をボウルへと注ぎ、カサゴのアラに残った血や細かい鱗を洗う。ここで時間をかけないこと。晒された身から旨味まで逃げます。

 お湯が冷めない内に、イシダイ、シマアジ、カンダイの順に頭や中骨の霜降りを終えます。

 あたしはいっぺんに大量にやっているけれど、処理時間を見ないと熱が通りすぎるか、お湯が冷めすぎるから、本当は一度に行うのはお勧めしません。

 下準備終わり。帰ってきてから30分近く経っています。もっと手を急がせないと、左大路さんのお腹が限界を迎えてしまいますね。

 揚げ物の油を温めておいて。

 羅臼昆布で強い出汁をとった鍋で、カサゴのアラの煮付けをまず作ります。臭い消しの生姜(しょうが)、醤油、酒、みりん。味は濃い目。身に染み渡らせるほどの時間はかけられないから、表面にだけ味をつけます。ご飯のおかずじゃないですし、カサゴは身の旨味で十分美味しい。

 隣の鍋に放り込んでおいた真昆布では、すっきりした出汁を取る。イシダイの腸をさっと炊く。こちらの味付けは控えめに。腸本来の旨さを損ねないよう、それでいて半生以上に火が通るよう、慎重に進めます。

 野菜の煮物の火を止めます。これから冷ましていく過程で味が染み込むからです。

 ウツボの半身を炙り、叩きに。ちょいと長めに氷水で締めるのがコツ。

 小さいカサゴを素揚げ。冷ましてからノンオイルフライヤーを使うと二度揚げになって、骨まで食べられる上に余計な油を落としてサックサク。ノンオイルフライヤーは少し時間がかかる。

 霜降りを終えたアラを用いて調理を開始します。同時進行で3通り。ここまで、あたしにしては時間を取りすぎかもしれない。でも、力を尽くさないで後悔したくない。「あきらめたらそこで試合終了だよ」という格言も姉に教わったし。

 カンダイのアラは弱めの日本酒で臭いを薄めてから、降り塩をして塩焼き。自分でも驚く速度で用意できた大根おろしは消化を助ける。

 シマアジのアラは生姜も使ってきっちり臭みを飛ばした潮汁。浮いた脂をペーパーで吸わせ、小口切りしたネギで彩る。新鮮な老成シマアジだから本当はもう少し魚本来の香りを出し、舌を直撃する味付けにしたいのだけれど。彼のご実家がイタリアンレストランだと聞いたから、きっとおしゃれなのでしょう。得意な食堂の味ではなく料亭の本膳料理の風味に寄せました。

 イシダイのアラはそこから出る旨味が出汁となります。が、追い鰹でないけど羅臼昆布を更に加えて、少し濃いめの味噌汁に仕上げた。潮汁と違い、こちらは汁を味わってもらう。具に加える野菜は玉ねぎのみ。ちょっと三つ葉で飾る。

 冷蔵庫から出したシマダイの身を薄作りに。カサゴは身幅が狭いこともあるのでやや厚目の刺身。この速度は「工場の機械みたいだ」と兄に言わせた手際を誇る。カサゴの柔らかさがイシダイのコリコリした食感を強調させる。逆もまたしかり。

 追加のビールは最初に出していおいた8種の内アサヒ○ーパードライを選ぶ。他にギ○スのド○フトとか、もらい物のエ○ディンガー・ヴァイスビア・ヘーフェもあるけど出そうかな。

 エル○ィンガー・ヴァイスビア・ヘーフェとは、ドイツのバイエルン州にあるエルディ○ガー・ヴァイスブロイ社が作っている白ビールです。

 お酒が好きなら日本酒が十数本あります。姉のパートナーさんが好きな焼酎も3種類ありますから、チューハイ作りましょうか? 洋酒ならコニャックやアルマニャックがたぶん2桁。甲府や十勝を中心にワインが30~50本くらい。物置にはまだまだ、祖父や母達がくれた秘蔵のお酒がありますよ。箱のままだけど。

 これだけお酒があって、自分が飲むのはバドワイザーだけ。あとは全部来客用か料理用。身内以外に家で飲む人は・・・。あたしって、実はすごく寂しい人?

 懐石料理じゃないから、先出し、汁物なんて言う具合に、器を一つ一つ出したりはしません。まずは前半戦。

 野菜の煮物、イシダイの腸炊き、シマアジのアラの潮汁、ウツボの叩き、シマダイ薄作り、カサゴの少し厚目の刺身。

 我が家では各人それぞれの器に同量を出します。弟だけは食が細いから少なくしたりしますけれど。あまり大皿料理のように取り分ける作り方はしないのです。例外は鍋くらいでしょうか。兄弟四人と祖父母、叔母と従妹がそろって食べていたわずかな期間、祖母とあたしは大変でした。ずいぶん前の話です。

 とりあえず左大路さんに食卓についてもらい、あたしも正面に座ります。

 無言の乾杯をして、グラスにビールを注ぎました。

 料理で汗をかいたから、一息に喉を通るバドワ○ザーが美味しい。

「ふいー」

 グラス半分ほどを一息で飲んでいる。やっぱり彼はドライが好きか。兄や姉は気分でビールを変えるから元祖ドライビールのストックは結構あるけれど、買い足しておかなくちゃ・・・。

 うわうわうわ。これからも来てくれること前提って。

 勝手な想像で頬が熱くなる。

 彼の手の缶が空いた。椅子から腰を上げ、奥に行って、飲み物用の冷蔵庫からア○ヒを取り出す。ついでにエルディン○ー・ヴァイスビア・ヘーフェの瓶も持っていこう。

 絶対に和食に合うからと兄がくれた白ビールですが、なぜイタリア旅行へ行ってドイツビールを好きになって帰ってくるのか? 婚約者のあの人は、ちゃんとキャンティワインにはまって帰ってきたのに。

 興味深げにヴァイツェンビールの瓶を見ていた彼が、瓶を手に取った。もっとじっくり料理を見てほしい。・・・あ、栓抜きはあたしのほうか。

 渡そうと中腰になったあたしの目の前で、ビールの栓がゴツい親指で弾き飛ばされた。栓抜きを手にしたまま固まるしかない。

 また一人、あたしの前に漫画みたいな人が・・・。

「どうしました?」

 ひきつった笑みを浮かべるしかありません。あたしの新しいグラスに彼の手で白ビールが注がれた。

 女にもお酌をしてくれる。プラス30点。

 ああ、昔教わった変な言葉を思い出してしまった。男に媚びを売った経験がまるでないから、どうすれば良いのかわからない。取りあえず礼を言って飲もう。

 あ、美味しい。さすが営業職。兄の舌は確かでした。左大路さんも意外そうに瓶を手に取ってもう一度眺めている。口に合ったみたい。

 さて、後半戦の料理を並べましょう。

 白米、カンダイのアラの塩焼き、カサゴのアラの煮物、カサゴの素あげ、イシダイのアラの味噌汁。

 さあ、どうだ。兄弟や祖父の誕生日でもこんなに出さないぞ。

 これでつかめない胃袋なら、あたしには無理。

 いいえ。いいえ。

 熟成中のサクやオナガ、イサキ、アカハタ、イシダイ昆布締め。まだまだ勝ち目はある。「あきらめたらそこで試合終了だよ」か。どんな偉人が仰ったのだろう。福沢諭吉先生のように偉大な方なのでしょうね。

 差し向かいでビールを飲む。

「あんたと一緒だと大物が釣れるのかな」

 左大路さんと一緒だと釣りがもっと楽しくなる。

「楽しかったんだ」

 そうね。楽しいわ。今現在も楽しんでいます。

 彼の大きな手が、あたしの手を握る。

「ああ、好きだなあ」

 その夜、あたしは新品ではなくなった。



渡船屋のブログより。


2018年5月28日「本日のお客さん」

《石鯛狙いカップル》 

彼氏さん銀ワサ64㎝5.2㎏、クチジロ81㎝7.8㎏。

彼女さん本ワサ65㎝5.1㎏、イシガキダイ(メス)67㎝6.3㎏。

「男がオスで女がメスか」と言ったら彼氏さん「どうせ女にもてませんよ」だと。貴方の隣にいる人はなんだい?

ちなみに外道がものすごい。

彼氏さん92㎝16.7㎏カンダイ、58㎝2.8㎏イサギ。

彼女さん110㎝12.2㎏オオカミ、56㎝2.9㎏オナガ。

ほか多数。

「青物狙ったんじゃなくて巻き戻す途中で食っただけだから、嬉しいような嬉しくないような」

オオカミ釣った彼女さん、そう言いながら笑ってるぞ。

なお、師匠に怒られるからシマダイも持って帰ってきたのは内緒だそうです。

《ルアー3人さん》

ワラサ、ヒラマサ、イサギが数本ずつ。マダイ、イソマグロ、アカハナ。

「1人3枚以上だから大満足なはずなのに、あっちの若夫婦を見るとむなしくなっちゃったよ」

それは釣果にかい? ラブラブな様子にかい?




 2018年7月

 穂先に付けた鈴の音が耳にさわります。いつもなら喜びの調べと感じるのに。今の状況だと風鈴代わりにも聞こえません。

 竿を手にした瞬間にわかっていましたけれど、この引き方はイシダイではない。2時間前に釣れたマダイでもない。たぶん・・・。

 ああ。チヌです。

 水面でまだ抵抗をみせる黒銀の魚体。チヌ、標準和名クロダイ。これが本イシならと思ってしまいます。

 ふと日差しが陰る。隣から差し込まれたのはタモ網。無言の呼吸で網へ魚体を寄せます。

「・・・ロクマル近いんじゃないか」

 彼が呟きます。

 本イシなら。

 あたしも呟き返しました。

 ストリンガーのロープを引き寄せ、これの前の前の前に釣れたオオモンハタの隣にチヌを連ねて、また流します。

 日差しがきついです。気温も30℃を越えたかもしれません。そろそろ限界でしょう。

 間違いなく彼もそう思っています。あまり汗をかけない彼にとっては、夏の磯の上は辛いはずです。

 見つめると平気な表情をしています。でも、鼻と額に小さなシワが寄っているのです。

 シャツの襟ぐりを引っ張り、冷感スプレーを中に噴射しました。視線は自分の石鯛竿から伸びる太いナイロン糸。に見せていますけれど、実はあたしの様子をうかがっているのが丸わかりです。

 なぜわかるのか? あたしもそうだから、わかります。

 お土産にするチヌにオオモンハタにマダイ。経過はボウズではありません。海に帰したとはいえ、シマダイだって2回釣れたから、本命ボウズでもないです。

 けれど、もう少し型の良い本イシを釣りたいと思ってしまいます。少なくとも彼が釣り上げたシマダイより大きい、本イシと言えるものを。

 あたしは真夏と真冬は、基本的に底物釣りはしません。そんな自分の習慣を破ってまでやってきているのは、千葉県は外房、勝浦市の地磯。

 夜明け前の白んだ空とライトの光を頼りに釣り座へ到着してから7時間。

 もう11時です。最初に話し合った予定では、9時が引き上げ時間になっていました。月火休の彼は明日も休みですけれど、あたしは今日が三連休の最終日。

 夜明けに釣れた最初のシマダイを海に帰したのは、40㎝という自分ルールに届かない個体だったからでした。

 でも、8時過ぎに帰したシマダイは、44㎝ありました。美味しそうな太さをしていたのです。でも、あたしの直前に彼が釣り上げていた、ほぼ同時に釣り上げていた45㎝のイシダイを彼は海へ放ったのです。

 は?

 こういうことをされたら、あたしが1㎝短い魚を大事に仕舞い込むわけにはいきません。

 その後、ウツボ、マダイ63㎝、ウツボ、ウツボ、オオモンハタ42㎝、ウツボ、ウツボ、チヌ58㎝と釣れましたけれど、イシダイはかすりもしません。

 彼は、アカハタ41㎝、ウツボ×3、マダイ57㎝、ウツボ×2、ヒラメ71㎝。こちらも石モノに嫌われています。

 というよりウツボまみれな1日です。おなじ個体が釣れているんじゃないかと思うくらい、50㎝程の細くて肉付きの悪いウツボが続きました。

 釣り人心理なのですけれど、彼が陸っぱりで座布団ヒラメを上げても、あたしが年なしチヌを上げても、そこは悔しくない。何故なら今日は底物釣りでヒラメもチヌも外道。

 真夏に無理して来たあの日以来の2人での底物釣り。近所でハゼ釣りではなく、スズキを狙ってルアーを投げたわけでもない。

 各々、6月に2回、底物釣行はしています。昨日の晩御飯だって、彼が釣り上げた獲物。じっくり寝かしたイシガキダイ。美味でした。美味すぎて、ほぼ衝動的に底物釣りへと来たのです。

 出掛ける前は、どちらかがボウズでも、2人ともボウズでも、思い付きだから仕方ないよねと話し合っていたのに。餌は冷凍庫に残っていたサルボウ貝だし、彼の道具は前の釣行から帰ってきたままの物だし。

 あ、手入れをした後、あたしの部屋に置きっぱなしになっていました。彼が釣りの翌日、そのまま家から出勤したからです。

 ああ、それで思い出しました。帰ったら、彼のワイシャツにアイロン当てるの忘れないようにしないと。彼のシャツは家庭で普通に洗えるから助かります。

 サルボウ貝を針に数珠(じゅず)掛けにし、さあ投げるかと竿置きの石鯛竿へと手を伸ばした時です。

 木琴(もっきん)の調べが磯に響き渡りました。何の音かと手が止まる。

 Vinicio(ヴィニーチョ)がライフジャケットのポケットから、防水ケースに覆われたiPh○neを取り出しました。

 電話じゃないですね。いつもの着信音と違います。

 そう思うと同時にあたしのiPh○neが強く振動しました。取り出すと、釣り友達から「らいん」が来ていました。

 フリックして見ると、ニヤニヤ笑いのシールと短いメッセージ。

「ブログにのってた」

 ぶろぐ?

 Vinicioに「らいん」を見てもらうと、彼も携帯の画面を。彼のはメール。

「blogに載ってた」

 偶然にも同じ文面。

 彼がメールの文面にあったURLをクリックしたら、南伊豆の渡船屋さんのブログへと画面遷移。5月のブログですね。

 あたしもブックマークからブログを探し出し、過去ブログの5月へのリンクをタップ。

 5月28日のブログを同時に読み終え、あたし達は見つめあった。

 彼女に見えたなら嬉しい。

「まだ夫婦じゃないぞ」

 そう。まだ。

<了>




これにて完結です。

お読みいただいて、本当に感謝いたします。


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