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間の山奇譚  作者: 葦原観月
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再び命を狙われた庄助は、乳母たちの手によって拝田村を出されます。参宮者に扮した庄助は、御師邸に潜り込みます。

 第三章 伊勢の鬼門 金剛證寺

  

    (一)


 間の山より幾分か、冷たい風が庄助の気を引き締める。

 神宮の鬼門を守る朝熊岳金剛證寺は、「お伊勢参らば朝熊かけよ」と、伊勢音頭にも歌われる名所だ。野間万金丹と縁深い金剛證寺は、素間の馴染みの場所でもある。

 素間を探さば間の山、続く朝熊、古市は、時を味方につけるべし――。とは、素間の万金丹を求める者と、間の山に渡りを付ける御師の伊勢音頭だ。

 金剛證寺にある素間は、小僧の三八(みはち)と共に聖域に姿を消し、古市の素間は遊女らと、うたかたの夢に浸る。いずれも捉えるに難儀する二つの場所は、時の運に任せるよりはないとの教訓だ。


「お久しゅー、庄助さん」

いささか毛羽だった畳に、三八が大きなでこをついて、黴臭い埃が舞った。

 やたら頭のでかい小僧は、初めて見る者の度肝を抜く。それでも、愛嬌のある顔立ちは、にこにこと愛想が良い。

 禅寺より、商家にいたほうが似合いそうな三八は、十ばかりの童。御師よろしく柔らかな西国言葉と、細やかな気配りが、参拝者に受けている。金剛證寺の人気小僧は、密かな伊勢名物の一つだ。


「久しぶりはええけど、お前叱られん? えらい黴臭いで。小僧は掃除が仕事やないんか」

「構いまへん。金剛證寺は、伊勢を守る鬼門です。陰気を集めるんがこの部屋です。下手に清浄を保っては、邪気が逃げます。この部屋を通った邪気が、奥の院の菩薩様に諭されますんや。わてはいわば門番です」

 しれっ、とのたまう三八の言葉に嘘はない。


 鬼門中の鬼門、金剛證寺の丑寅に位置する三八の部屋の奥、でん、と構える重厚な扉の向こうには、細長い廊下が更に奥へと続く。その先に野間家にも縁深い、虚空蔵菩薩様が鎮座する。

「お前も虚空蔵菩薩様にお願いして、少し知恵を授けて頂きなさい」

 博学な素間の説明によれば、虚空蔵菩薩様は、無限の知恵と慈悲を持った菩薩様で、知恵や知識、記憶に御利益があるという。野間家の祖が、万金丹の処方を賜ったのも、ご利益の賜物らしい。

「三八の頭の中には、虚空蔵菩薩様が鎮座しておられるのだよ」

 素間の言葉通り三八は恐ろしく頭が良い。常から深くご本尊様に帰依する三八は、素間の言う、有り難い小坊主以外の何者でもない。


「すまんな。こんな朝早うに」

「へぇ。わては構いまへん。寺は朝が早いですよって。庄助さんこそお気の毒様。網受けにもまだ早い。伊勢講の方々もまだ、ふっくら布団に夢の中でんな」

 確かに。お呼ばれにもまだ早い時刻は、お伊勢さんらが、ぼちぼち支度を始める頃合いだ。

「お前に教えを請いに来たんや。こんな時刻やったらまだええやろ思うて」


 素間が早朝を指定したには、わけがある。三八は伊勢の人気者だ。

 三八が朝のお務めに区切りをつけ、庫院に入ると、ぼちぼちと人が集まってくる。食事の支度をしながら、片付けをしながら、境内の掃除をしながら……三八は、終始無言で順繰りに人々の話を聞く。

 参拝者に応対するとき以外、常に誰かが、三八の傍らにいる理由は、教えを請うためだ。


 にこにこと愛想良く参拝者をもてなし、日常の務めに支障を来すことなく、夕刻を迎えると、住職は、三八を自室に下がらせ半刻の時を与える。三八の教えは民人の手に渡り、皆は、静かに朝熊岳を下る。

 三八の教えを受けた人々はいずれも三八の聡明さに感心し、三八の元を訪れる民人は日々、増え続けている。

 三つの事実から、八つを判じる賢さはまさに、人々に知恵を授け、諭し導く虚空蔵菩薩様縁の寺に相応しく、三八の愛称で民人から親しまれている。本来の名は、名づけ親の住職ですら、覚えていない。


「わてが庄助さんに教えですか。思いつきまへんなぁ。踊りは下手やし、歌もあきまへん。何せこの頭ですやろ、誦経の間もふらふらと。居眠りしとるように見えるからと、大事の行事には、外されますんや。おかげでちぃとも咽が伸びん。誦経の下手な小僧は、わてくらいのもんですやろ」

 ご本尊様の恩恵にも、限度があるらしい。

「芸を見るんは好きですけど。跳んだり跳ねたりは、わてには向きまへん。何をやっても頭が邪魔しますんや。鉢でも被ったらどないやと、人は言わはりますが。三八が鉢被ってどないしますねん。はちが増えたら九になりますがな。くはいけまへん。縁起が悪い」

 三八にも苦はあるらしい。

「わては素間に言われて来たんや、お前何ぞ聞いとらんか?」

「若旦那は、失踪中と聞いとります。和尚様が大層心配なさって。庄助さん、若旦那の居場所知ってはるんですか?」

 身を乗り出した三八に思わず庄助は身を引いた。頭突きで三八に勝てるとは思えん。


「いや、その……」

三八相手に、隠し事が通じるか心許ない。語られた事実から、答えを判じるのが三八の教えだ。

失せ物や取引の信頼性、果ては亭主の妾の有無まで、三八の判じは外れた例がないと評判だ。拝田の呪い師と肩を並べる的中率だが、三八の判じは占ではない。あくまでも事実を元に導いた結論だ。目下、隠し事を抱える庄助の心は揺れる。

 すっ、と身を引いた三八がぽんっ、と膝を打った。


「そうそう。庄助さんから頼まれてました卒塔婆ですが、ええ木を見つけましたんや。昨年、大風で倒れた木ぃですけど、大きさがご注文どおりちょうど六尺。わての手間賃と、塔婆料しめて八百文でどうですやろ? お値打ちや思いますが」

 いきなり話題を変えた三八には面食らうが、たかが金魚に八百文とは高すぎやせんか。渋る庄助に、三八は畳み込んだ。


「先を思うたら安いもんですがな。いずれ庄助さんの名を入れたらよろしい」


 伊勢に死んだら、朝熊に卒塔婆。建てて初めていっちょ前――。


 商人のような顔で笑う三八に、素間の面影が重なる。素間は、ここにも若芽を育てているか。

 金魚と一緒とは、ちょっと気に食わんが、三八ほどの小僧であれば、先の塔婆料の値上がりも頷ける。相場を知らん庄助だが「お買い得です」三八の押しについつい、頷きかけて……母と庄助の、二代の名入れを呈示して話をつけた。何でも言ってみるものだ。

「さてそこで庄助さん、今一つ提案です。十分お買い得な卒塔婆料、さらに半額となったらどないします?」

 もみ手が似合いそうな三八の笑顔に警戒心が走る。素間の若芽に、油断はならん。


「どうゆうこっちゃ」と返した庄助の目の前で、三八が跳んだ。

 思わず膝を立てた庄助の頭を、後ろに回った三八が押さえた。

(そのまま)三八が耳元で囁く。


「三八、儂の付け……お、庄助やないか」

開け放した襖から、住職が顔を出した。

「若旦那は?」と、部屋を見渡す顔が、期待に満ちている。

「若旦那は、ご一緒ではありません」応えた三八は、「庄助さん、あと少し。じっとして」有無を言わさず、庄助の束ねた髪を、ぐっと掴んだ。首を傾げた住職は、

「和尚様、探し物は本堂ちゃいますか? 知念様が拭き掃除をなさっておいででした」

三八の言葉に飛び上がる。

「何っ! 儂の大事な品で拭き掃除かっ」

 裾を捲くって住職は走る。本日は師走かと、庄助は指を折った。

「僧呂が、死んだ女の髪被ってええ思います?」

 髪束を手にした三八がほぅ、と息を吐いた。

    

 (二)


 参宮の掛け参りやら、伊勢の鬼門を守る寺やらと、人は騒ぐが本来、金剛證寺は由緒正しい寺である。

「神宮さんのおまけやない」と、三八は鼻の穴を膨らませる。


 欽明天皇の時代に、暁台上人の手によって開かれたと伝わる山寺は、後に、弘法大師が真言密教の道場を開き、虚空蔵菩薩を祀った有り難い歴史がある。境内には、大師様がお造りになった池もある、ゆかしき寺だ。

 無住の時代を経て、鎌倉建長寺五世仏地禅師が入山し、真言宗から、臨済宗に改宗されて今に至る。野間家の祖が、虚空蔵菩薩様から、霊薬の処方を賜ったのはずっと後と、語る三八の寺の縁起が、卒塔婆料と死者の髪とどう繋がるか。皆目見当がつかん庄助が、首を傾げて、三八がぱちん、とでこを叩いた。


「あぁ、堪忍。聞くばかりのわては、話すほうは苦手ですんや。はっきり言いましょ。若旦那の行方と、卒塔婆料の半分。取引しまへんか、寺の大事ですんや」

 ただにはならんかとちょっと考え、いやいや、身代わり金魚の罰が当たってはかなわんと、思い直す。


「若旦那が来られんと、和尚様は退屈ですんや。こう度々、付髪姿で、伊勢の町に出られてはかなわん。〝付髪和尚〟の渾名がつきますがな。わてはともかく、和尚に渾名はいかん。弘法大師様も、禅師様も泣きますわ」

 大神様にお仕えする間の山芸人に、僧は縁遠いものだが、朝熊岳の主様を奉じ、素間とも縁のある拝田は、金剛證寺と深い付き合いがある。

 そもそも仏教を嫌う伊勢国だが、ご公儀の政策に則って、あちこちに寺もあり、神職らも、寺とは縁を持っている。


 ただし、穢れを嫌う参宮には僧体を禁じ、袈裟を脱ぎ、剃髪姿を隠した俗体を以て、僧の参宮を認める。よって門前町で売られる付髪、付髷を付けての参宮が、僧の倣いだ。売られている付髪は紙製の簡易なもので、時に羽織の紐を代用したものもある。剃髪に黒い紐を巻いた姿は実に滑稽で、これもまた伊勢名物の一つに挙げられるが――。

 三八が弄ぶ髪束は、滑稽とはほど遠い。


「これをこないして……」真ん中で束ねた黒髪を、三八の剃髪に載せればなるほど。門前町の付髪より、ずっと馴染む。庄助の蓬髪の上に置かれた髪束に、住職が気付かぬのも無理はない。


「色々と工夫して楽しんでおられます。古着屋のおていさんが、衣装まで準備しはって……」

 付髪だから誰も文句は言わん。調子に乗った住職は、衣装まで替えて伊勢の町を闊歩する。もちろん、誰もが住職を承知だ。また変わった事を始めたと、面白がっていると、三八は大きな頭を抱えた。

「こないなもんが流行ったら、どないします? ご本尊様に、申し訳が立ちまへん」

 確かに。坊主がこぞって、女の髪を頭に載せて歩けば問題だ。

「そやから、若旦那には、戻ってもらわんといけまへん」

住職は、素間との禅問答が楽しみであり、博識の素間とは、難しい話もできる。素間の湿布薬があれば按摩もいらん。お願いだから素間の行方を売ってくれと、三八は福々しい手を合わせる。


 変わり者の住職にとって、変わり者の素間は格好の相方。禅問答と難しい話が苦手で、按摩の嫌いな三八には、卒塔婆の半額を捨てる価値があるらしい。加えて古式ゆかしき寺の評判がかかっているとなれば――。

(ただにならんか)ちら、とよぎった考えを、庄助は慌てて打ち消した。

 付髪に夢中の住職に、素間を足せばいったいどうなるか。予想が付く庄助は、金剛證寺の歴史を重んじる。値引きに利用すべきではない。

 三八の頭から髪が滑り落ちた。うねうねとうねる黒髪が、死んだ遊女のものと聞けば、どことなく気味も悪い。

「知っておるなら教えたりたいが。残念、わては素間の居所を知らん」

ちくん、と胸が痛んで、「助けたってぇ~」髪の隙間から、女の目が覗いた気がして庄助は目を背けた。

 ただの未練が後を引かぬうちにと、庄助は本題に入った。


「昨夜うちの童の野辺送りがあったんや」

 庄助の言葉に、三八が眦を下げた。

「あぁ、可哀想に」と、手を合わせた三八は、南無釋迦牟尼佛と、唱えて瞼を閉じる。真摯な姿は地蔵さんのようだ。

高く澄んだ童の声が、朝熊岳の朝の空気に溶け込んで、太兵の霊を導いているかに感じられた。再び哀しみが込み上げて、庄助の目に涙が滲む。

「大事なお人やったんですね」慈愛に満ちた三八の姿は、金剛證寺の地蔵様と、参拝者の評判を集めるにふさわしい。

「わての弟分やったんや。まだ七つやで。いずれわての跡を継ぐ、期待の童やった。それが無残な姿で……」

 三八が太い眉を寄せた。「事故にでも?」「いいや殺された」三八が小さく息を呑んだ。再び三八の口が、澄んだ旋律を奏でる。明るさを増した表に、鳥の囀りが重なった。


「拝田村の童でしたか。昨夕、お舟さんが夕餉を届けて下さった折、勢田川に、刀傷のある童の遺体が上がった、言わはって。まさか、うちの若旦那も殺されとらんやろなと、聞かはりますんで、若旦那は、殺しても死なんでしょうと、お答えしました」

 判じるまでもない話だ。

「野辺送りで、素間とは会った。ぴんぴんしとる。ちょっとした事情で、わては太兵の身辺に気を配っとった。けど、こないな結果になって……」

「庄助さんっ」いきなり三八に腕を掴まれて、庄助は頭を振った。素間の居場所は知らんでと、しらを切り、

「ちゃいますのや。亡くなった童。太兵言わはるんですか」三八は細い目を剥いた。

「太兵を、知っとるか」庄助の問いに、「さて」と三八は、大きな頭を抱える。


「そもさん!」叫んだ三八に、庄助は飛び上がって尻餅をつき、「せっぱ、言うてください」迫ったでかい顔に、身を引いた。

「何で?」「ここを開ける合い言葉ですねん」

 三八が示したでかい頭には、見聞きした記憶がしまい込まれているらしい。

 やむなく「せっぱ!」と応えた庄助の目の前で、目を閉じた三八の眉が、上下に動く。童のくせに、額にある皺が、縮んだり伸びたりを繰り返した。

(芋虫の腹や……)

ぞっとした感想をかなぐり捨て、待つことしばし。ぴたり、と動きを止めた額の皺に代わり、ぱかっ、と口が開いた。

「拝田村の芸人太兵。病の母を持つ孝行息子」

 記憶が、みつかったらしい。

「わてが見たんは、今在家でした。甘酒飲んでましたんや。寒い晩でしたなぁ……」三八はぶるっ、と身震いした。

「医者らしい男と話してました。何や、しきりに頼み事をしとるようでしたなぁ。男は温和な顔で応対しとりましたが。どこぞの中間が、芸人の子と見咎めて追い払いよったんですわ」

(医者か!)庄助の胸が躍り上がる。

「誰やそれ。知った顔か。何でもええわ、教えてくれ」

「ん~、知らん顔ですが、誰かは知っとります。えーと」

 三八の皺が激しく波打った。息を呑む庄助の目の前で、三八が白目を剥いてぶっ倒れた。


     (三)


「えらいすんません」

 深々と頭を下げた庄助は、頭を滑った付髪を押さえた。

「若旦那の頼みやったらしゃあない。何、三八は心配いらんで、ちぃと疲れ気味でな、何やかやいうたところで、あれはまだ童や。春は皆ぼーっとしとって失せ物が多うてな、金魚の糞みたいに、人が三八の後を追いよる。加えて客人がおるんで、あれも気を遣いっぱなしで……」


(だったらせめて、住職のあんたくらいしっかりせんかっ!)

 思いはするが、歴史深い寺の住職に、意見はできん。三八のくを少しでも減らしてやれた事実に、胸を撫で下ろす。長い黒髪を持ち去る術は、総髪の芸人だからこそ。背に流れる庄助の長髪は、女と見紛う姫髪だ。

「和尚様、そろそろ素間は戻る思います。いい加減、世間を騒がせましたし。そもそも目立つんが好きな素間です。人目を避ける暮らしには、限度があります」

 春の虫に興味津々の素間は、巷で話題の医者に興味があった。医者の逗留先が金剛證寺の檀家の近くとあって、三八にお鉢が回ったらしい。

法事の帰り、長話の住職を待って、三八は医者の逗留先の裏木戸を見ながら、甘酒を飲んでいた。そこで見かけた童が、太兵らしい。

 白目を剥きながら、かろうじてそこまで語った三八は、泡を吹いた。


「そうか。ほんなら、退屈もいましばしの辛抱やな」

 ぱっ、と笑った住職に笑顔を返し、仁王門を潜った庄助に、眩い光が降り注ぐ。

「へぇ。伊勢の鮑は倭姫命様のお勧めですねん。いーえ、他と比べて貰うたら困ります。大神様のお膝元ですよ、全てが美味うて当たり前、今朝は、あおさの味噌汁も――」

 捲し立てる大声は、野間万金丹の女中お舟だ。朝熊岳の頂上にも、届くごときの大声は、永きに亘って、素間を探して山歩きを続けた結果だ。

(住職の言う客人か)

 霊山で名高い朝熊岳にある金剛證寺には、参拝者ばかりでなく、修験者も訪れる。また、参宮帰りに、山寺に一泊を望むお武家や商人のため、金剛證寺には、宿坊が設けられている。

(鮑とは豪勢な。坊主は魚肉を避ける言うから、客人は僧やないんやな)

 野間家に食事を頼むほど、大事な客とは何者かと、好奇心が疼いた庄助は、石段の下に目を凝らした。

 眩しい朝日が、ふくふくとしたお舟を照らしている。お舟が賑やかに話す相手は、青々と葉を広げる楓に陽を遮られ、黒く陰っている。

「へぇ、修行ですか。ほんなら三八さんに温め直してもろてください」

 膳を抱えたお舟が、腰を落として会釈した。

(修行やって? ほんなら坊主とちゃうんかいな。生臭坊主ってやつ?)

 住職も変わったやつを受け入れる、どの面下げて修行かと、庄助の興味は更に深まる。身を乗り出した庄助に、男の衣の袖がふわり、と浮いた。

(え?)

きらり、と朝日を照り返した光に目を見張り、付髪が、風を含んで浮き上がった。

「わっ」

慌てた庄助の足が、石段を踏み外す。


 ひゃあぁぁぁ――。


 金剛證寺の石段を、尻で降りるのは初めてだ。

 ひらり、と木陰から飛び出した、男の背で髪が揺れた。付髪は、既に坊主の間で流行っているか。

「庄助さんっ!」

飛んできたお舟の背後で、山道を駆け下りる男がちら、と振り返った。真っ赤な顔に高い鼻。目をひん剥いたまま固まった庄助に、

「間の山の若衆も石段から落ちる……か。待っておいで、旦那様を呼んでくる」

 お舟が膳を置いて裾をはしょる。

「お、お舟さん、て、て、天狗……」

「あぁ、あれかい。面だよ。昭暝さんは岳信仰の修験者なんやて」

 何だ面かと、安心したとたんに尻が悲鳴を上げた。

「いてて……」顔を顰めた庄助に、お舟が慌てて坂を転げ落ちていく。

 ばさり、と付髪が肩を滑り落ちて、庄助は口を尖らせた。

(お前のせいやぞ)

手にとった黒髪に文句を言い、髪が握りしめた一寸ほどの針に、背が凍った。

 

    (四)


 ととさま恋し、かかさま恋し。されど我が身は落ちぶれて、もはや会うても赤の他人。

 かつて我が身は麗しく、人も羨む身の上を――。


 ささらに乗せる哀調に、時折、ちゃりんと、土器が合いの手を入れる。


(間の山一の若衆が……乞食芸に格下げとは)

 何とも情けないと思いつつ、今の庄助には、不運に見舞われた乞食が似合っている。

「へぇ。こらまた意表を突きまんな。庄助さんの新芸が乞食芸とは」

 ちゃりん、と音を立てた土器に「お有り難うござい」と頭を下げ、(面倒なんがきよったわ)と、内心で舌打ちをする。


 継母憎しと思えども。幼き童に術はなし。ただ悲しみに流されて、流れ流れて流浪の日々を――。


「えぇ咽ですなぁ。惚れ惚れしますわ」

 しゃがみ込んで、うっとりと目を閉じる松右衛門には、(はよう帰れ)と、眉を寄せる。

「冷やかしはやめとくれ」

色鮮やかな異国風の衣装をつけた女が、松右衛門の袖を引いた。

「あれ、これはまた何とも……」

団栗目をひん剥いた松右衛門に、女が誇らしげな笑みを見せる。本日、母は庄助の穴を埋めて、軽業芸を披露している。退屈を持て余した母には、ちょうど良い暇潰しらしい。

「庄助はちょっと怪我をしたんだ。すっ転んで腰を痛めちまったのさ、で、あたしが代わりに、興行にでてるんだよ」

「怪我ですか。そらあきまへん。若旦那が不在では難儀ですやろ。えぇ医者がおります。庄助さん、いつか話したあの、今在家の――」

 庄助のささら子が止まった。


 請われれば、誰でも気さくに診てくれるそうですわ、診療代も安いし、近頃、巷で人気ですんや――。


 巷で話題の医者――。庄助の頭に閃光が走った。

「あぁ、知ってるよ。京から来たって言う医者だろ? 町中の評判だ。頼んでみたさ、けど、子供が熱出してるって断られた。流行病の疑いがあるんだとさ」


 松右衛門の噂話にあった評判の医者は、紫の君の集めた話の中にもあった。素間が興味を抱いた余所者の医者のもとには、太兵が出入りしていたと、三八から聞いたばかり。頭を抱えた庄助に、(お前は耳まで役立たずだねぇ――)

素間の侮蔑の言葉が木霊する。


「流行病でもええわ。わてを、そのお人んとこに連れてってー」

松右衛門に縋る、転んでもただでは起きん伊勢の若松の意地を、

「馬鹿お言いでないっ!」母は素気なく、踏みにじる。

「怪我の次は病かい? 間の山一の若衆に、そんな暇はないんだよっ。だいたい、あばたでもできたらどうするんだいっ。お前の身体は、あたしのものなんだからね」

 素間はいささか薹の立ち過ぎた老木まで、育てている。

「油売ってないで、芸をお売り」くるり、と背を向けた母の尻がぷりぷりと揺れ、松右衛門は揺れる尻を追う。伊勢の老木は、御師らのご神木だ。


 富者の家に生まれた美童が、継母の策略に家を追い出され、流浪の旅にでる話は、幼い頃、母が庄助に教えたささら芸の一つだ。ささらを鳴らして歌う盲目の美童は、まさに話の童にはまり役で、間の山の庄助の評判は、ここから始まった。思えば原点に戻ったとも言える。

 やむなく憐れな美童の興行を続ければ、土器の合いの手も増えてくる。調子に乗って歌い続ける庄助に、ぽつり、と大粒のお恵みが肩を叩いた。

 泥を撥ね上げる足が、庄助の前を通り過ぎ、もはや土砂降りとなった雨の中、憐れな美童に差し伸べる手は、ない。世は無情だと息を吐き、興行用の杖を頼りに立ち上がった。尻が痛む。


 憐れな美童のお話は伝説だが、盲目の童は独り旅。大雨に往生した日もあったろうと思えば、身につまされて涙がこみ上げる。

(やが。わては独り旅やない)ぐっと噛んだ口の端を、滝のような雨が流れ落ちる。

「おーい、誰かぁ~」

叩き付ける雨の向こうに人影を探し、庄助は叫んだ。

 身を隠してなお、庄助の行動を知る素間は、どうせどこかで庄助を見張っている。さすがの素間も、怪我をした庄助を土砂降りの中、置き去りにはせんはずだ。

「一人では立てんのやて。手ぇ貸してやー」

 ぴかっ、と光った稲妻に、庄助は肩を竦めた。同時に足下から何かが這い上がる。

「ぎゃー」叫んだ庄助の頬をぺろり、とざらついた舌が舐めた。

「何や、お玉か」お玉もまた、間の山に居座る猫だ。お杉より小振りのお玉は、玉家の美月によく懐いている。

「お前しかおらんの? わて、手ぇ借りたいんやけど――」

 猫の手も借りたいとはよく言うが、今の庄助に、猫の手はいらん。

 さっさと庄助の懐に潜り込んだ、お玉の重みが加わって、庄助の腰が、悲鳴を上げた。

 

    (五)


 這って戻った拝田村の中央に、下帯一つの大男が一人。

「なんや庄助さんも禊ぎかいな」小降りとなった雨に、束ねた髪を絞り上げる。

「海幸彦さんと山幸彦さん。本日は大喧嘩やなぁ。興行は中止やて。一杯やらん?」

 庄助を覗き込む顔は赤く、吐く息は臭い。力自慢の力丸は大酒豪だ。

 怪我人だからこその乞食芸。誰も手を貸してくれんとはあんまりだと、愚痴る庄助を、そら悪かったと、力丸は庄助の帯を掴み上げ、ぽぃと小屋に放り込んだ。

 再び打った腰に、悲鳴を上げた庄助に、礼には及ばんと、さっさと背を向ける力丸は良い奴だが、大雑把。

 ずぶ濡れの着物から飛び出したお玉がぶるっ、と身震いし、小屋の中に雨が降る。げんなりした庄助に、お玉はお構いなく顔を洗う。


 小屋の隅に積まれた見慣れぬものに手を伸ばし、〝野間万金丹〟の文字に眉を寄せる。大量の手ぬぐいはいったい何の嫌がらせか。

(わかっとんなら助けに来いっ)

胸の内で悪態を吐きつつも、野間万金丹を鷲づかみにして、ごしごしと体を拭う。

(へんっ。どや)泥に汚れた〝野間万金丹〟に優越感に浸り、

 布団の代わりにでも、使っとくれ――。

 お玉が口に咥えた伝言に、目を剥いた。庄助の大事な布団が失せている。

「うぅ」と、呻いて床に転がれば、お玉の降らせた雨がまた庄助の体を濡らす。やむなく〝野間万金丹〟を敷けば、泥と雨水が庄助に逆戻りだ。(意味ないやん)

 自棄になって〝野間万金丹〟を蹴散らして、ぎくりときた腰に、身を縮めた。触らぬ素間に祟りなし。


 水浸しの付髪を絞って〝野間万金丹〟で濡れた床を拭き、広げた〝大杉〟の文字に、庄助は口の端を上げる。椀に注いだ酒は素間お墨付きの上酒。古市の女なら、きっと酒好きだろう。酒の臭いに辟易としつつも、


 本日はおおきに。命拾いしました――

と、庄助は付髪姐さんに手を合わせた。

 まさか本当に、付髪が庄助を救ってくれたとは思わんが、偶然にも、付髪に引っかかった針には、怖気が走る。

一寸ほどの針がもし、春の虫の毒針ならば、春の虫に興味津々の、素間に売りつけるという手もある。卒塔婆代はまだ、半分残っている。


石段を滑り降りた、尻の痛みは既に引いた。お舟に引きずられてきた、野間家当主が塗った軟膏は、素間が調合した旅の友だ。多くの薬種を揃える野間万金丹は、旅人向けの薬を多く揃えている。

 長い旅路に必要な薬は限りないが、万金丹の次にと、素間が設えた旅の友は、傷薬と腰痛に効く軟膏。旅の友の効力を、身を以て実感した庄助だが、親爺様が懐から取り出した、曰くありげな小箱には、どうにも腰が引ける。

ひと月を掛けて素間が調合した、薬の効力は不明だ。ただ、庄助が怪我でもしたら飲ませてみようと言った、素間の言葉を思い出し、親爺様は、素間の部屋から持ち出したらしい。

「ええか、万が一があってもうちに迷惑かけるやないぞ」

念を押した親爺様には、だったら持ってくるなと思いつつ、よく効いた旅の友を思えば気にはなる。

(どないしよ)そうっと開けた小箱に目を剥いて、庄助はぽいっ、と放り出した。

(やめとこ)天狗の描かれた包み紙とは、素間の悪意がみえみえだ。

みぃ、と擦り寄ったお玉を膝に載せ、「なぁ、お玉どない思う?」と、庄助は天狗の包み紙を睨んだ。

天狗に知り合いはいないし、狙われる覚えもない。思い当たる事実はただ一つ。

 修験者だという、天狗面の男は総髪だった。間の山芸人と、素間以外に総髪の知り合いのない庄助が、つい最近知り合った総髪はただ一人。しかもその男は、初見に庄助の命を狙っている。

(わて、よっぽど嫌われとらん?)

 二度あることは三度あると眉を寄せ、三度目の正直という例えもあるぞと息を吐いた。

 ならば、本腰を入れねばならんが、その腰が頼りないでは――。

「うーっ、どないしよ」


 頭を掻きむしった庄助膝から、お玉がぴょんと飛び降りた。天狗の包みにじゃれついてころり、と毒々しい赤が転がり出る。

(やっぱ飲めんわ)

顔を顰めた庄助の前で、ころころと毒々しい赤が、お玉の前足の間を行き来する。

 突然飛び退いた、お玉の目の色が変わった。縦長の瞳に、お玉の背が細く伸び――。

「あっ!」

庄助の叫びと共に、赤い玉がお玉の口に消えた。呆然と見守る庄助の目の中で、お玉はのんびりと毛繕いを始める。

(平気やん)

庄助は丸薬を咽に押し込んだ。腰痛が、潮が引くように引いていく。

(おおっ)

 本日、興行は打ち切りだ。明日はお呼ばれもなければ、網受け当番もない。庄助に身を寄せたお玉が、とろりと目を細めた。

(寝よ)


筵を被りお玉を抱き寄せれば、疲れがどっと押し寄せる。

 お玉を可愛がる美月は、こうして供寝をするかと思えば、お玉の向こうに美月の影が見えるようで、庄助の鼻の下がだらしなく伸びる。

(でへっ)

瞼を閉じた庄助の脳裏に、薄衣一枚の美月が浮かび上がり、たおやかな腕が庄助の首に巻き付いて……。

「うぅ、たまらん……」

うっとりとお玉の背にほおずりをした庄助は、

「庄助っ!」

突然響いた大音声に飛び起きた。

「お前……。このあたしを差し置いて、玉家の女にちょっかいを出すとは、良い度胸じゃないかっ!」

 仁王立ちの母は、迫力満点だ。

「何の話や」目を瞬かせる庄助に、「惚けるんじゃないっ!」鬼のような形相の母は、枕箱を投げつける。

 何が何やらの庄助だが、せっかくの夢想が砕け散ってかちん、ときた。〝野間万金丹〟を拾い上げ、「ほっといてくれ!」と、枕箱を叩き落とす。


「よりによって、お玉と逢い引きだなんていい面汚しだよっ」

お前は杉家の嫡男だ。玉家と通じてどうすると、母は捲し立てる。

 お玉と逢い引きとは、明らかに誤解だが、美月への想いに水を差された気がした庄助は、

「母ちゃんに関係ないわっ」と、珍しく母に楯突いた。

「おおありだよっ。お前の種は、あたしのもんだ」

母の応えは根本的に間違っている。

「わてと母ちゃんは、母子やて」

「知ってるよ。あたしが生んだんだ」

 母と、まともに話し合っても無駄だ。


「泥棒猫め。きっちりと話をつけてやる。いるんだろ、出ておいでっ」

 腕まくりをした母に、庄助はお玉の首根っこを掴んだ。

「話し合えるなら、話し合うてみぃ」

 母の鼻先で、お玉が身を捩った。

「あれ? お玉……」

猫好きの母の顔から険が落ちる。くるり、と首を回したお玉が、庄助の手に噛みついた。庄助の手を逃れたお玉は、ふーっ、と毛を逆立て、すかさず庄助に飛びついた。

「お前だったら、庄助の嫁にしてやってもいい」

と、目を細めて、またまた無理を言う母に、

「母ちゃん、お玉は牡や」

 爪傷に顔を顰めながら、庄助は呟いた。

 

    (六)


「お美代っ、堪忍おしっ」「御用だっ」


 飛び込んできた、おねうとおこうに「遅いよ」と、返した母は、「一件落着だ」と、お玉を抱えて小屋をでた。

 きょとんと顔を見合わせた二人は、

「ははは。どうもお騒がせ」と、すかさず踵を返した。狙い定めた庄助の捕り縄が、おねうの足を捕らえ、おねうは今、庄助の前に項垂れている。

「おねう。今一度問う。お前が、此度の沙汰の首謀者なんやな」

「へぇ。正直に申します。そやから、磔だけは堪忍して下さい、お奉行様」

 おねうは、とってものりが良い。

「お美代を知らんかと、お初が探しに来たんですわ。ちょうど杉家は点呼の最中。何せ物騒な事件の後やし……」口ごもったおねうに、庄助は寝そべったまま目を眇めた。

「嘘を申すな」「へぇ、すんません。皆で酒飲んでました」

おねうは身を縮めた。


 突然の土砂降りに、皆は各々勝手に村へ帰った。雷が怖い女衆は、自然と互いに身を寄せ合い、どうせなら皆でやり過ごそうと、相談が纏まった。杉家、玉家とも同じ行動をとったらしい。女は集うのが好きだ。

 さて皆揃ったかと、玉家では、美月の侍女おこんが腰を上げて……。

「お美代がおらんと、気付いたそうです」

 大人しいお美代は、常に誰かと一緒だ。もしや童衆のところかと探してみたが、どこにもいない。ならばと、杉家に問い合わせた理由は、お美代は相方のお美羽と仲がいいからだ。


「お美羽の証言によれば、掛け小屋をでた時は、一緒やったそうです」

 突然の土砂降りに、皆が引き上げ始めた様を見て、お美羽はお美代を促して駆けだした。途中、被っていた手拭いを風に飛ばされ、お美代は手拭いを追っていった。

「先に行っといて」お美代の言葉に頷いたのは、留守番衆に任せた、赤児を案じたからだ

という。お美羽の子供は、生まれて半年にもならん。

 青くなった一同の脳裏に浮かんだのは、先だっての太兵の事件と神隠し。玉家は村長の館へ使いを送り、杉家では、当家に行方不明者はおらんかと、互いに顔を確認し――。

「そう言えば庄助さんはと、誰かが」

 杉家の反応は遅すぎやせんか。一介のお玉、お美代に反して、庄助は杉家の跡取りだ。

「えらいこっちゃと、慌てましたが、女の細腕で、若衆一人を担ぎ上げるんは無理ですやん。そんで、ここは力丸に頼もうと、土砂降りの中をうちは……」

 見事な撥さばきは、逞しい腕があっての話。雨嫌いのおねうが、土砂降りを厭わぬとは考えられん。睨んだ庄助に、おねうが目を泳がせた。

「ま、まぁそんでも一応、ぼんの小屋を覗いてからと……」

 立ち寄った小屋には人の気配があった。やれやれと、筵に手を掛けたおねうは、お玉に呼びかける庄助の声と、甘えた女の吐息、男の低く唸る声を聞いた。

「そら誰やって……」

 猫の鳴き声に、天狗薬に苦悩する庄助。おねうの想像力は逞しい。


 ぼんとお美代が逢い引きしとります。土砂降りを隠れ蓑に、ぼんの小屋で――。


 寝耳に土砂降りの母は、勇み立って乗り込んできたと。

「お玉違いやろっ」

「間ぁが良すぎましたなぁ」胸を張って、おねうは開きなおる。

「此度は早とちりということで」


 ――これにて一件落着ぅ~


 さっさと立ち上がったおねうに伸ばした手が空振りし、庄助は床に倒れ込む。重い体に舌打ちし、「待て。おねう。裁きがまだ……」掠れる声に、おねうがにやり、と笑う。

「上意でござる」

突きつけられた〝野間万金丹〟の文字に額を突かれ、庄助の瞼がゆっくりと下りた。

 

     (七)


 ぬかるんだ土を踏み走る音、低く掛け合う声には、緊張が隠せない。

 おねうが去ってどれほど経ったか。ようやく、睡魔の縁から這い上がった庄助は、現実に眉を顰めた。お美代の行方は、知れぬままらしい。

 玉家のお美代とは、とくに親しい間柄ではないがそれでも。

(わても捜索に加わらんと)

 村の大事にじっとしてはおれん。気持ちは逸るが、どうしても起き上がれん庄助には、苛立ちばかりが押し寄せる。

「庄助さん」

いよいよ幻聴まで聞こえだしたと、天狗薬の効力の先に不安を感じ、頬を辿る指先に震えが走る。かつて飲まされた素間万金丹桜に、苦い思い出のある庄助は、必死に幻覚に背を向けた。


(これは夢や。玉家の騒動の最中に、姫様がわてんとこに来るはずないやん)

 どうせそこらに素間がいる。飛びつけばまたまた恥さらしと、庄助は頑なに幻覚を拒む。

ぱこん――。

大きな音が額を打った。一瞬の後、激しい痛みに庄助は顔を顰めた。

「何すんや、こらっ!」

じんじん痛む額を押さえて、飛び起きた庄助に、

「大丈夫ですか?」と、枕箱を手にした美月がにこり、と笑う。

「本物ですか?」目を瞬いた庄助に、

「もう一回いきます?」

邪気のない顔が、枕箱を振り上げた。

「結構です」

慌てて応えた庄助に、本物らしい美月が枕箱を脇に置く。しとやかに座す姿に、艶めかしさはない。

結った髪にきらきらと輝く簪が、庄助の目を射った。光沢のある衣が薄青く光を放ち、裾には戯れる狐が、金銀の糸をふんだんに使って施されている。拝田の巫女は二人揃って派手好きだ。

(仕事帰りか)

ならば幻覚ではあり得んと合点した庄助は、美月の来訪の意味を知って口を開いた。

「すみません。わては……」

 大事を蔑ろにしていたわけじゃない、起きるに起きられず苦悩して――。

 言うべき言葉を、口の中に押し留めた。先ほどまでの倦怠感が、嘘のように消えている。

(恋は天狗薬に勝ったか)

枕箱のおかげとは思いたくない庄助だが、美月にとっては、飛び起きた庄助はただの怠慢。玉家の主として、庄助を責めるのは当然だ。

 怠慢な上に嘘つきな男――。

美月に嫌われたくない庄助は、もう何も言うまいと、口を噤んだ。 


「構いまへん。お加減が悪いと聞きました」

美月の意外な言葉に、庄助は目を剥いた。

 お美代は心配ない。それより庄助のほうが大事だと、眦を下げる美月に、心ノ臓が躍り上がり、「若旦那に、祓って差し上げるよう頼まれました」と、言われて、庄助はがっくりと肩を落とした。

 仕事帰りかと思いきや。美しく着飾った美月が、素間と会っていたとすれば二人の仲は明白だ。項垂れた庄助は、「さぁ、うちと一緒においでなさい」と、差し出された美月の手に背を向けた。

「何故です? 若旦那は庄助さんを案じて……」「ええんです。ほっといて下さい」

 子供じみているとはわかっている。だが、こみ上げる思いは押さえ切れん。ぐっ、と口を噛んだ庄助に、「妬いてはりますの?」美月の問いは容赦ない。

「いいえ」と応えた庄助に、「庄助さんは嘘が下手」美月の含み笑いが身に堪える。

 こんな形で、想いを知られるのは情けない。拳を握った庄助に、「羨ましいですわ」美月はほぅと息を吐く。

(何でや)眉を寄せた庄助は振り向いた。

「お二人は、ほんまに仲がよろしいのね」美月はまるでとんちんかん。訝る庄助に、「誤解ですわ」と、美月は懐から梟をとりだした。わけがわからん。 


 若旦那には会っていない、言伝を持ってきたのは穂高だと、微笑んだ美月は、庄助に向かって穂高を差し出した。

(姫様の温もり……)

うっとりと手を出した庄助に、穂高が鋭く鳴いて威嚇する。穂高とは馬が合わん。

「そやから、妬く必要はありまへん」と、手を差し伸べる美月の誤解は、いずれ解かねばならぬが、今は、愛しい美月の手に触れる機会を得られた幸運に感謝する。

 夢見心地の庄助は、美月に手を引かれて小屋を後にした。

   

   *


 声を立ててはなりません――。

 秘密めいた仕草で、口に指を立てる美月に、庄助はぼーっとなって頷いた。


 確かに。皆が気色ばんでお美代を探す中、美月と庄助が連れ立っていれば、皆が不審に思う。特にやましいわけではないが、敢えてお祓いを吹聴する必要もない。素間の進言であればなおさらだ。

 人影をみては物陰に隠れ、身を寄せる、美月の香りが庄助の頭を痺れさせる。

はし、と握られた手に引かれ、闇に飛び込んでしばし。やけに静かな様に、(ここはどこや)と、庄助は首を捻った。

 常は目を閉じていても歩ける村の中だが、美月のしなやかな手の感触と、隠れん坊をしながらの道行きで、すっかり庄助の感覚は鈍っている。静まりかえった辺りに、目印となるものも見当たらなければ、見当も付かん。


 僅かに零れる月明かりが、美月の簪をきらきらと輝かせ、嫋やかな肩に降り注ぐ。

 美月の軽やかな足取りに、衣の狐が楽しげに飛び跳ねる。庄助の鼻先で、白い項が芳醇な香りを放った。

(まるで夢のような)

うっとりと見つめる美月の白い項から、しっかりと繋いだ手へと視線を落とし――。

(狐隠し……)ふと、頭に浮かんだ言葉に、庄助の胸が躍り上がった。

 美しい女に化けた狐に誑かされ、至極の時を狐穴で過ごす、夢のような話に因んで名づけられた狐隠しは、狐面をつけた娘が、好む男の元へ行き、手を引いて誘い出す拝田の儀式だ。


 芸は神々への奉納の一つ。芸人の女は巫女である、との認識から祓いを担う。客と閨を共にする祓いは、遊女の始まりと言われている。

 古からの倣いにより、今も祓いを行う間の山の女は、古市の遊女らのように客引きを強いられはしない。だが、求められれば断らぬが祓いの掟だ。

故に、拝田村では、娘となって巫女の仲間入りをした娘には、お初の相手を自ら選ぶ権利が与えられる。それが狐隠しの儀式である。

 すでに、高級遊女として名高い美月に、狐隠しの儀式は無縁。庄助を祓うと言った美月が向かう先は、狐堂のはずだが、異国の女神独特の気配が、まるで感じられん。

感覚が鈍ったとは言え、荒御魂の巫女の息子である庄助が、堂の気配に気がつかんはずはない。つまり美月は別の場所へ向かっていると考えられる。

 庄助を祓うと言った美月を思えば、期待は膨らむばかり。この際、素間云々は聞かなかったことにする。


(まさにお玉違い……)

 行方知れずのお美代にはすまんが、逢い引きの相手が美月ならば、母の怒りも何のその。

 そっと覗き込んだ美月の頬が上気している様に、(間違いない)庄助の興奮が最高潮に達した。

「姫様っ」美月の肩を引き寄せた庄助に、振り返った美月が、大きく目を開く。すかさずどこからか飛び出してきた狐が、庄助に襲いかかった。

「えええっ!」

叫んだ庄助は、あっという間に簀巻きにされ、放り投げられた。

 

    (八)


「油断も隙もあったもんやないわ」

「ほんまやわ。あの、老狐……」


 簀巻きを解かれた庄助は「どういうつもりやっ!」と、叫んでぱこん、と殴られた。庄助の乳母、おねう、おこうは庄助に容赦ない。


「静かに。ここは納屋ですんや。近所迷惑ですわ」

「そやない、人に見つかったら、狐隠しは水の泡や」

 なるほど、それで狐面かと頷きかけ、(お前らのお初は、昔話やろ)と、胸の内で悪態を吐く。

 せっかくの美月の誘いを、棒に振った庄助は不機嫌だ。ついでに腰痛がぶり返し、尻のひりひりも戻りつつある。まずは二つを何とかせねばならんと訴えて、

「あかんです。燃えてまいました」

 おこうはさっさと庄助の帯を解く。

「わては乳母の相手をするつもりはないぞっ」

帯を押さえて反論すれば、

「うちらかて、お美衣様を裏切るつもりはありまへん」

 おねうは庄助の手を掴んで、縛り上げる。

「どないするんやっ」「静かに言うてます」「わては怪我しとんやぞ」「素っ裸で放り出しましょか?」

 下帯を解いたおこうがにまっ、と笑った。

「おやまぁ、立派になって……」

 そうっと、庄助を裏返したおねうが、丁寧に布を当てる。二人には世話になったが、むつきの要った歳は疾く昔。

「しばらくこれで辛抱して下さい。軟膏は、後で届けます」

「白に血ぃは目立つよって気ぃつけんと。月の障りと間違えられたら、おかしな男に付け狙われまっせ」

 男はもうたくさん。近ごろ、おかしな男に付け狙われてばかりだ。

 尻のひりひりが治まって、やれやれと息を吐く庄助に、

「ぼんにはしばし、せぎょうに行ってもらいます」

 おねうは、無理難題を押しつける。


「何でやっ。わてはむつきが必要な小童やぞっ」庄助は、いっそ不運を逆手に取った。

「そんなら、毎夜、お美衣様の乳吸うて暮らしますか?」

おこうは庄助の上手をとって、脅しをかける。

やはり乳母には勝てんと、「帰る」庄助は口を尖らせた。

「それが無理やから、せぎょうなんです」

おねうは常に意味不明だ。

「燃えましたんや」

おこうの言葉には、目を剥いた。

「くせ者が村に入り込んだんですわ、六平が、衣装箱の中で見つかりました」

 庄助の腕に、白衣を通しながらおこうは小声で語る。

 くせ者の侵入を知った素間の指示で、乳母二人は、こっそりと庄助を連れ出すために、庄助の小屋に向かった。踏み込んだ小屋は、もぬけの殻。

「火ぃが燻っとりました」

「消さんかいっ!」

喚いた庄助に、二人は揃って口の前に指を立てた。

「せっかくの火付けですよって」

「ぼんは火事で死んだと、思わせたほうがええと」

 火事見物を楽しんだ二人を思えば、真偽のほどはわからない。


男衆らの火消しを見届けて、やれやれと腰を上げた二人は帰り道、そう言えば何しに行ったかと話し合った末、「ぼんの狐隠しを思い出しましてん」

鼻の利くおねうが、庄助の匂いを辿り、見つけた庄助は美月と仲良く狐隠し。こらぁ先を越されたと、庄助奪還の儀に至った。

「まったく。舌の根も乾かんうちの、お玉違い」おねうがふんっ、と鼻を鳴らし、

美月は素間に言われて来たと言った、穂高が証人だと庄助は言い立てる。

「梟が証人!」

眉を寄せたおこうが、懐から紙を取り出した。


 素間万金丹秘薬、痛みに即効性あり。ただし見識を失う怖れあり――。


 すらすらと筆を走らせるおこうには、言葉を失う。

 脚絆を巻き終えたおねうが、草履を庄助の足指に押し込み、「ほんまあの老狐、何を企んどるやら」と呟いた。

 眉を寄せた庄助に、おこうがこほん、と空咳を一つ。

「遊んどる場合ちゃいますんや」

居住まいを正して、庄助を眺め倒した。

「こんなもんですやろ」と、頷いたおこうに、おねうがすかさず、庄助の頭に何かを載せた。

ひた、と吸い付いた物から嫌ぁな臭いがする。手をやった先に、毛束が触れた。庄助は目を剥いた。


「ようお似合い」「ほんま。ぼんは何をしても様になりますぅ」

上機嫌な乳母二人の思い描く先には、何があるか。

 坊主でもないのに、付髷なんぞどうするんやと、噛みつく庄助に、月代付きなぞ、なかなか手に入るもんやないと、おねうは胸を反らせる。

 そんな珍しい物ならば、一度見ておこうと髷に手を掛けた庄助は、すぐさま「いてっ」と顔を顰めた。

「髷が崩れますやろっ」

頬を打ったおねうはこの際、後回しにして、庄助は、おこうに困惑の目を向けた。物を訊ねるなら、おねうよりおこうだ。

「昨夜無縁さんから借りてきました」

おこうも当てにならんかと、肩を落とし、鼻を突いた異臭に思い至る。


借りてきたおねうが断らん限り、ひっついとる約束らしい。

 目を潤ませて、「断って」と、お願いする庄助に、

「阿呆言うたらあきまへん、弥平さんに失礼や」と、おねうは素っ気ない。


 無縁墓地に葬られる、身元不明の骸は、旅先に骨を埋める不運に見舞われた人々だ。無念を抱いているに違いない、罰が当たるぞと、説く庄助に、

「だからこその協力です。心配せんでも、そのうち皮んとこがどろりと腐って……」

と、不気味な慰めを言うおねうに、断りを入れる気はないらしい。


 せぎょうの幟を持った白衣は、どこの御師邸でも受け入れる。だが庄助は、御師に顔が知られている。だからこその月代だと。おこうの話は、理解出来る。間の山芸人の異形は古くからの誇りだ。誰も庄助が、月代を剃るとは思わんだろう。だが。

 何故に、庄助が御師邸に行くのかとの問いには答えず、

「しかも橋谷大夫んとこは近ごろ、総髪のもんに目を光らせとるそうで」

おこうは宿泊先を告げた。

内宮の神職の縁者と聞く、橋谷家当主は、触穢に過敏で間の山との付き合いは薄い。故に、ぴんとこない庄助は、橋谷家の情報を記憶の中に探る。

(確か、一番手のお伊勢さんは六兵衛さんで、屋敷は今在家に……)

 あっ、と口を開けた庄助に、おねうがぽいっ、と何かを放り込んだ。思わず飲み込んだ己の癖を恨む。


「素直に育って何より」おこうがにっ、と笑い、「そろそろでんな」おねうが納屋の戸を押し開けた。

「気張ってや~」

思い切り、背を蹴ったのはどっちか。つんのめった庄助は、そのまま坂を転げ落ちた。


     (九)


有り難くも地蔵さんの喝を、脇腹に頂いた庄助は、「いかがされました」の声に顔を上げた。

取り囲む白装束に、さっそく死人の罰が当たったかと肝を冷やし、せぎょうの幟に大きく息を吐いた。


 伊勢には馴染みのせぎょうの文字は、持ちつ持たれつおかげさま。

 柄杓を差し出す者には、命の恵みを。

 柄杓に施す者には、神の恩恵を。

両者に徳を与える、大神様は太っ腹だ。


いかがされたと親切な老爺に、弥平と名乗った理由は、髷を借りた礼だ。死人への礼は他に思い浮かばん。

 村の気枯れを気に病んでの抜け参り。永く続いた一族は、由緒正しき血筋である。このまま村が零落しては、ご先祖様に申し訳が立たん――。

 口から飛び出した嘘に、仰天した庄助だが、同情した老爺が、今宵の同宿を申し出た。御師邸に宿がある一行は、伊勢講の参宮者らしい。

 いやいや宿は決まっている、ともすれば連れは宿で待っているかもしれんと、素間万金丹はのたまい、「宿はどちらで」「橋谷大夫様のお屋敷です」「いやいや、ご縁ですなぁ」

 話が纏まった庄助は、弥平となって一行と夜道を急ぐ。

 提灯をかざし、おもむろに一行を出迎えた魚次郎は、二見の漁師上がり。庄助も顔だけは知る中間は、見目だけの与太者だ。


「一人多いんとちゃいますか?」

頭数を確認した、与太者の偽お伊勢さんには、

「儂はこちらの一行とは別に、松坂の春庵先生の紹介を経て、宿をお願いしてあります」と、素間万金丹はとんでもない言を吐く。

肝を潰した庄助は、難なく屋敷に招き入れられた。素間万金丹恐るべし。

 豪華な宴席に、老爺が下手な間の山節を歌い、むずむずする庄助の箸は、止まりがち。

「飲まれませんか?」「いえ。連れを待たんといけません」

もっともらしい口実に満足すれば、腹も朽ちる。

 一行と共に、部屋に戻れば、ふかふかの布団がお出迎え。まさに至れり尽くせりの御師邸のもてなしは、体験すればなるほど。長旅の疲れなど、吹っ飛ぶ至極の歓迎には違いない。

 老爺の昔話に耳を貸し、うとうとと微睡む庄助は、(大神様の思し召しや)と、一時の参宮気分を堪能した。


     *


 お伊勢さんの尻を追う、参宮一行を見送り、庄助は、さっそく屋敷の探索に取りかかった。

 廊下を渡れば、床を磨き上げる丁稚に先を阻まれ、やむなく飛び込んだ部屋で、夜具を畳む女中と鉢合わせ、庭を渡って草引きの爺に出くわし……。

 御師邸には、使用人が多い。


「どちらのお客人ですやろ。あぁ、お連れさんを待ってはる。そら退屈でんな、鯉に餌でもやりますか?」


 行く手を阻んだ女中に、体よく鯉の餌やりを押しつけられ、戻った伊勢講一行の土産話に捕まった。客が戻った御師邸は人で溢れ、とても邸を探るどころではない。


 酒が回って饒舌となった、老爺の話に相槌を打つうちに宴は終わり、すっかりと老爺に気にいられた庄助は、そのまま老爺の苦難に満ちた人生の半分を聞かされる次第となった。

 老爺の話が突然高鼾に変わり、恋のお相手、おちかとのその後が気になって、眠れなくなった。

ならばと、静まりかえった邸を、足音を忍ばせて歩けば、不意に「ご一緒しますか」と腕を掴まれ、跳び上がった。中間の掲げる手燭に集う男衆は、精進落としの一行だ。

「いえ、儂は厠に」と、背を向けた庄助は、「へぇ、厠はこちらでございます」中間に手を引かれ、厠に押し込まれた。

ご丁寧にも庄助を外で待ち、部屋まで送って布団まで掛けてくれた中間に、御師邸の至れり尽くせりを実感した庄助は、少しも役目を果たせずに、一日を終えた。

 役立たず――。

頭の中で木霊する、素間の罵声のおかげか、庄助は、無念にむせび泣く男に髪を掴まれ、揺さぶられる悪夢に、うなされた。


 ともあれ。そう長居はできん御師邸。せめて本日は、件の医者の居室を突き止めたい。

 太兵が関わった件の医者の素性は、間違いで殺された、太兵の死の大元を突き止める手がかり。拝田に飛び火した、神隠しの解決には、太兵殺しの大元を知るべしと、素間は庄助を、橋谷邸に送り込んだに違いない。

 気合いを入れた庄助は、本日も連れ待ちを口実に、庭を見渡す大広間に座して一行を見送った。春の陽が降り注ぐ本日は、絶好の参宮日より。誰もが浮かれ気分で出かけていくと思いきや……。 

「土産物は若いもんに任せた」と、庄助を気に入った老爺は、杯を片手に庄助との別れを惜しむ。

「ほんまに飲まんか。あんたも律儀なお人やなぁ」と、腰を据えた老爺の話は止めどなく、座を立つ口実も見つからん。


 やむなく、耳を傾ける老爺物語は最初から。できれば、おちかとの続きを聞きたい庄助だが、本日はやたらあちこちに話が飛んで、なかなか先には進まない。

「それにしても。お連れさんは、まだ着かれんのですか。お伊勢さんに頼んでみたらどないです?」

 父親が死んで母と二人、食うに詰まったところで、老爺の話は突然、庄助の連れに飛んだ。

 本来、連れなどいない庄助は、「人様に迷惑かけるわけにはいきまへん」と、慌てて返す。 

「困りましたなぁ」杯を置いて息を吐く老爺には、

(わてはあんたに困っとるで)庄助も、同じく息を吐いた。


 客の入れ替わりの激しい御師邸で、長逗留は人目を引く。

 御師邸のもてなしはうたかたの夢。短い夢だからこその贅沢だと、松右衛門は言う。

「豪華なもてなしは、全国の伊勢講で賄います。皆様に、伊勢を堪能して頂くには、一人にかける銭は限られる。日を切って、お帰り頂かんと、うちとこも困るんですわ」

 伊勢の御師は商人だ。人を呼び込むためのもてなしに、損が出ては商いが成り立たん。

 故に檀家でもない客は、実を言えばただの迷惑。名士の口利きとなれば、常のもてなしの上に、気遣いが上乗せされる分、もっと迷惑。余分な銭をとるわけにもいかん御師邸にとっては、大損というわけだ。


 松坂の春庵先生は、御師らに顔の利く人物だが、放蕩息子としても有名な春庵先生が、商家御師の損を補うとは、考えられん。

日を追うごとに、女中らの目が弥平に集まる様が目に見えれば、一刻も早く、大事に取りかかりたい庄助に、どっしりと腰を据えた老爺は、まさに迷惑でしかない。

(いっそ酔い潰して寝かしてまうか……)と、思案する庄助に、老爺はさらなる追い打ちを掛けた。

「すまんなぁ、何の役にも立てんと。せめて本日の神楽奉納で、お連れさんがはように到着されるよう、また弥平さんの村が、難儀を逃れるよう、願い立てさせてもらいますわ」

 ぐぃ、と杯を空けて頷く老爺に、庄助は凍り付いた。(忘れとったわ)


 神楽奉納は、御師邸のもてなしの一つだ。本来、神楽奉納など出来るはずもない庶民が、願人となって、目の当たりにする神楽奉納は、大層な贅沢である。

参宮者一行は、神妙な面持ちで神楽を見学し、蒔銭をする。間の山の芸人らは、ここでもまた、祓いの役割りを果たし、参宮は終了となるわけだ。

(まずいわ)

間の山芸人らが、庄助に気付かんはずはない。


 火付けを見逃した乳母二人が、庄助をせぎょうの旅に出した理由は、庄助の死を偽装するため。ここで芸人らの口から、庄助の生存が明らかとなれば、再び命を狙われる。

(しゃあない。ここはいったん邸をでるか……)

 おおきにと、ご隠居に頭を下げた庄助は、やっぱり連れを探しに出ると言い置いて、腰を上げた。外出を告げようと、廊下を行く女中を呼び止めた庄助は、

「弥平さんはおられますかぁ」

 庭から届いた声に、目を向けた。

 


玉助の手を借りて、庄助は御師邸を探ります。どたばたですが、少しずつ、庄助は太兵殺しと、神隠しの真相に近づいていきます。

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