みんなの事情
黙ってしまった皆を見廻してからニールがおずおずと手を上げた。
「悪いんだけど、俺もう行っていいかな? 病院、遅れるわけにいかないんで。ナリー、落ち込むなよ、失くなったのはおまえのせいじゃない。施錠を忘れたわけでもないんだから」
「うん……、ありがとう、ニール、奥様と赤ちゃん、大事にね」
ナリーは、毎日お昼に早退し病院に子供を見舞う同僚に応えた。ニールの待望の子供は悲しいことに、ドラベ症候群という脳神経の難病を発症し、効果的な治療薬もないまま病床にある。昼までは母親がつきっきり、午後はニール。
「一緒に行ったほうがいいのかな?」ガルがニールの背中を見送りながら自問した。
「アメリカやオランダでは大麻から精製された薬の使用が認められているそうだ……」
「有効なのか、ニールの子供に?」
仲のいいマットが声を上げた。
「オランダに薬を買いに行くってニュースを見た。認可するかどうか、英国薬事法、揉めてるらしい……」
「ま、待ってよ」ナリーは焦った。
「あれは大麻じゃない、ただの花よ、ピンクや白の花が咲くの。匂いも葉っぱも少し似てるかもだけど、全く別の植物なんだから、それをニールに言わなきゃ! 煎じても吸引しても、毒になることはあっても、いいことなんて何もないんだから!」
「俺、追いかけるわ、ガル、来てくれ!」
マットは走って従業員駐車場に向かった。ナリーが追いついた時にはもう、ニールの車は走り去っていて、植木鉢が見つかった様子もなかった。
「ニール、凄い剣幕で怒って……」
ガルが肩を落とし、マットも友情にひびが入ったかと心配顔だ。
3人揃って温室に戻ると他の同僚たちの姿はなく、向かいの庭師休憩室の各々の席に座り込んでいた。
「最高で150万円の鉢か……、弁償しようもないよな……」
ルカが呟く。荒くたい庭師の中で、ルカだけは農場の息子、現金はないが土地はあるという裕福な家庭出身。だが、英国の地方税は某国の固定資産税のように、世帯主の不動産所有額に左右されるので、いつも家計は苦しいらしい。
「鉢がそんなお宝だって知ってたのはシャオだよね?」
トムが目を煌めかせた。この若者は1日中草刈りを続けるという単調な仕事をしてくれるので毎春から秋まで雇ってはいるが、定職に就こうとはせず、どうもふらふらしている。機嫌のいいときはムードメーカーにもなるが、気難しい日は話しかけないほうがいい。
シャオがトムに話しかけているところは誰も見たことがない。
「しかし、そんな高価なものだとしたら、温室に置いとくほうがどうかしてるよ。プラ鉢に育てて前日に植え替えるとか、そのまま鉢カバーとして使えば汚れないし傷まない。金持ちの考えることは全く意味がわからん」
マットが文句たらたらだ。ニールのことが気になってもいるのだろう。
そのうえ、マットとオーナーは折り合いが悪い。つい最近除草作業中に寝そべっているところをオーナーが客人と通りかかり、「恥をかかされた、次に見つけたら解雇する」とまで言われたらしい。解雇されれば退職金も出ない。代わりに植木鉢ひとつで150万円になるとしたら、食指も動こうというものだ。
ガルは休憩室を見廻して溜め息を吐いた。22歳のトムから63歳のケランまで、誰もが皆怪しい。経済的に楽な者はいないし、ナリーと自分以外に正確な植物名を知っていた者もいない。
――鉢の値打ちに目が眩んだなら、さっきから黙りこくっているシャオを疑ってしまう。鉢を欲しがる知人も販売ルートもあるのかもしれない。
植わっているのが大麻だと勘違いしたなら、やはりトムが怪しい。たまにマリファナの匂いをさせているし、前夜ハメを外し過ぎてか遅刻欠勤もする。何食わぬ顔で嘘がつける軽いヤツでもある。
オーナーへの意趣返しだとしたら……、マットどころじゃない、自分が一番にしたい。上と下に挟まれる悲しい中間管理職だ――
ガルはそこまで思い巡らせ重たい腰を上げた。
「パーティのグリーンコーディネーターからクレームが来てもう1時間過ぎてる。オーナーが特別に雇った高飛車な女だ。悔しいが仕方ない、頭下げに行くか、ナリー。片方だけでもパーティ会場に持ち込まないと」
「うん……、あ、ちょっと待って、一応皆に言っておくね、あの植物はクレオメって名前の一年草、大麻じゃないから。エキゾチックな見かけで人気は高いけど、まだそんなには普及してないからアスプ卿夫人が欲しがったの。私は一生懸命育てたから愛着があるけど、好き嫌いは分かれると思う。植木鉢も鉢底見た限りでは景徳鎮の銘はなかったし、マイセンの『青い双剣』マークもなかった、売っても大した値段にはならないと思うよ」
「なんだ、ナリーも俺ら疑ってんのか?」
普段は快活なルカまでもが不機嫌になってしまった。
ナリーは急に悲しくなる。
――なんでこんなバカなことが起こるんだろう。皆仲良く働きたいだけなのに。あれはきっと呪いの植木鉢。