1 俺は死んだ
「中田様、お客様がお見えです」
なんだ、なんだ?
せっかく、人が気持ちよさそうに寝ていたというのに。
右腕で体を起こそうとするが、酷い骨折をしていて全く動かなかったことに気づく。
仕方ないから、寝転がったまま客を迎え入れるか。
「浮雲、腕の調子はどうだ?」
部屋へのっそりと踏み込んだ巨漢は、ベッドの横にある小さな木製の椅子に座り込んだ。
彼の屈強な体格が、可愛らしい椅子にマッチングしなさすぎて、かなりシュールな光景である。
「もうだめかもしれない」
「まあ、自業自得だな。諦めろ」
「酷いなあ、兄さん」
彼のそっけない言葉に歪んだ笑みを返した。
家族のくせに同情をまるでしてくれない非情な男だ。
だが、俺が頼れる人間はもうこいつしか存在しない。
だから彼には感謝しなくてはならない。
まあ、態度は冷たいものの、一応なんだかんだ良い奴だし。
「でもさあ、あいつらが俺に金を請求するのも酷くない? 俺は善意で行動していて、結果的にああなったのはただのアクシデントだぞ。それに見た所、金持ちっぽいし、貧乏人の俺から抉り取ることないだろ?」
確かに俺は彼らの所持している車に危害を加えた。
傍から見れば立派な器物損壊罪だ。
だが、俺の言い分を聞いて欲しい。
ある日、外を散歩していると、近所で攫われたと噂になっていた飼い猫を偶然見つけたのだ。飼い猫は檻に入れられ、赤色の軽トラックの荷台に積まれていた。
にゃーんにゃーんと助けを求めるように鳴く猫を助け出そうと、荷台に乗り込んだのだが――同時に泥棒の連中が戻ってきた。
そしてトラックは俺を乗せたまま発進してしまったのだ。
仕方なく荷台に隠れて逃げ出す機会を伺っていたのだが、運が悪いことにトラックは一つも信号に引っかからず、そのまま高速道路に乗ってしまいそうになったので、俺は慌てて猫が入った檻を持って飛び降りる。
そして丁度降り立った場所へ、スピード違反しながら突っ込んできたのが宝翠堂財閥の高級車だ。
俺はそれに運悪く激突された。
幸いなことに猫は無事だったらしいが……俺はこのありさまだ。
「そんなの関係ねぇよ。あいつらがお前に大量の罰金を請求してんのは、たんなる見せしめだ。お前が実際に払えるとは思っていない」
「なら、法廷に行けば真実が……」
「法廷で争うのか? 奴らは賄賂や暗殺で成り上がった、極悪非道な連中だぞ。不正な判決を食らって、裁判の費用とその他諸々を押し付けられちまうのが目に見えてる」
つまり、どうしようと八方手詰まりか。
「ちなみにだな、浮雲。ちょっと話がずれるが、少し相談が……」
「いや、いいよ。聞きたくないから」
「だが……」
「兄さんが言いたいことはわかってるよ。俺のことは気にしなくてもいい。それしか方法が無いんだろ?」
唇を噛み締めながら、苦しそうに言葉を続けようとする兄さんを、俺は強制的に黙らせた。
「すまないな」
そう言うと、彼は封筒をベッドの上に置いて、別れの挨拶もせずに去っていった。
俺たちの両親は現世において不在なので、兄さんには俺の保護者としての立場もある。
おそらく封筒の中身は俺たちの縁を切るための書類か何かだろう。
不況の中、頑張って仕事を手に入れ、子供が生まれたばかりの家庭を必死に支えている兄さん。
そんな彼に俺があらぬ負担をかけるわけにはいかない。
兄さんをこのいざこざに巻き込みたくはない。
――ビリ、ビリリッ。
だが、俺は封筒をちりぢりに破いた。
ここは兄さんなしで俺が生きていけるような世界ではないのだ。
何もかもが理不尽。
何もかもが不可解。
そう思えてくるほど、俺の不運は酷いのだ。
受験の日は毎回熱を出し、運動会の前日は必ずどこかを骨折し、外食の次の日は腹痛や下痢に苦しんだ。
些細な日常においても、横を歩く通行人に五分五分の確率で突き飛ばされ、頭上を飛ぶ鳥には糞を落とされ、足元のマンホールはぱかんと俺を待っていたかのように開いた。
使おうとした公衆トイレにはもれなく行列がセットで付いてきた。
マックで頼むセットはいつも何かが欠けていたのに。
要するに、何もかもが常に俺を全力で潰しにかかっていた。
だからもう諦めた。もう、こんな理不尽無理ゲーには付き合えきれない。
さっさと死んでしまえばいいのだ。
***
病院の屋上は清々しく広かった。
そして運がいいのか悪いのか、俺の周りには人影が全く見当たらない。
今がチャンスだ。
右腕が役に立たないので、一メートルちょいある安全フェンスを越えるのには少々苦労したが、なんとか向こう側にたどり着く。
地上をギラギラと照らす残忍な太陽は、俺の飛び降りを急かすかのように首筋へじりじりと熱を押し付けている。
さてと、下の方には誰もいないよな。
二次災害で迷惑を掛けたくないので、一応確認。
俺はすーっと深呼吸をし、心の準備を整えてから一足ずつ——
——つるっ。
あ、滑った。
今更こんなことを言っても、もう遅いが、せめて頭から落ちるべきだったな。
無駄な痛みを感じずに済んだかもしれな——
——ごつん。
神が最後に慈悲を与えてくれたのか、後頭部がベランダの手すりに直撃して俺は気絶した。
***
「いやぁ~、本当に申し訳ないです」
ここは一体……。
電気が消えた地下室のように暗い。
死後の世界なのだろうか。
だが、意識や手足の感覚はある。
なので、試しに右手でほっぺたをぐにっと全力でつまんでみた。
痛い。
あれ? そういえば、右腕は骨折していたはずでは?
「あ、ごめんなさい。人間さんは光がないと見えないんでしたね」
ばちっと大型電化製品がスイッチオンされるような音が響き、周囲に明かりが灯され、白い雲に包まれた部屋内が明らかになった。
そして、俺の目の前には幼女がいた。