声変わり
好きな声優の一人が結婚した。そのニュースを見た俺はショックを……受けることはなかった。
今の声優はビジュアル重視とされているが、俺は見た目に興味はなく、どれだけその「キャラクター」に合った声を出せるかの方が大事だった。
だから俺にとって、声優が結婚するよりも、声優が変更になることの方がたまらなく嫌だった。
今、俺が一番好きな声優、ミハライチコさん。ハスキーな声も出せれば少女のような可愛らしい声も出せる、新進気鋭の声優だ。
そのイチコさんの出演するアニメのキャラが放送途中にも関わらず、別の声優に変更になった
声優変更初のアニメが始まる。新しい声優は実力派の演技派声優。違和感なし。と俺以上の声優ファンの友達は、その声優の演技を絶賛した。
たしかに友達の言うとおりだった。悔しいが前よりも鮮明に情景を思い浮かべることができる。
けれど人並み以上に聴覚が優れている俺にはそれでも前の声優さんの方がよかった。
「その内慣れるさ」
俺が何を言っても、友達はそう言った。言わんとすることは分かる。声優だって人間だ、いつもずっと同じ声を出し続けるなんて不可能だ。
分かっている……分かっているが、それでも俺はあのキャラはあの人の声であってほしかった。
そんな時だった。アニメ最終回後のCMでライブイベントをやるとの告知があった。しかもそれにはその人も来るとのことだった。
最高に嬉しかった。俺は親に借金してでも、イベントチケットを入手しようと決意した。
――が、べつにそこまでする必要はなかった。
のちに友達に正直な感想を聞いたところ、俺の中では過去を含め五本指に入るアニメは、ぶっちゃけたいした人気はなかったらしい。作画崩壊とかはどうでもいいが、物語の展開上必要とかそんなのじゃなく、「大人の事情」でいきなり主演声優を変えるなんて、たしかにどうかしている。
しかもその唯一の救いである変更後の声優さんも出演できないとあれば、イベントチケットは余ってしまうのも仕方ない。
けれど俺にとっては超ラッキーだった。ライブイベント当日、俺は友達とうきうきしながら会場へ向かった。
「あー残念だよなあリラちゃん」
前に並ぶ客たちの声が聞こえてくる。ここまで来ているにも関わらず、その声は落胆に満ちていた。
「本当だよ。よりによってアレかよ」
「よく顔出す気になったよな。男は喜ばねーっての」
「まっ、完全にネタだよな」
不快な笑い声だった。ケツに突き刺してやろうかと思ったが、俺がぐっとこらえた。
そうこうしている内に、ライブが始まった。一番最初に出てきたのはナレーションの声の人だった。俺は身構えて聴覚にいっそう神経を集中させる。
「みなさん、本日は楽しんでいってください……『約束だぞ!』」
ドッと笑いが起きる。だが俺は笑うよりも意味が分からなかった。
前から聞こえてきた足音は間違いなく一つだけだった。スピーカーから流れるような声でもない。「二つの声」は同じ場所から聞こえてきた。
「それでは……『まずはわたしが歌いますっ!』」
再び聞こえる「彼女の声」と「ナレーションの声」。「彼女の声」でOPが歌い始まる。
「……なあ、えっと」
俺は友達の方に顔を向ける。友達は聞こえないふりをするように、拍手を鳴らす。歌が終わった。
「――ありがとうございました。ミヤギタロウもとい『ミハライチコでした!』」
どういう理由でこんなことをしたのかは分からない。分かりたくもないし多分説明されても理解できない。
とにかく一つ言えるのは、俺が好きだった声優さんは「男」だった。
「……悪い黙ってて」
休憩時、友達は俺に謝る。当然だが友達は知っていたのだろう。さっきの二人もこのことを言っていたに違いない。
「ショックだよな……」
「あー、まあそうだけど……べつに」
驚きのあまり、俺はそこから今にいたるまでボーッとしていた。だが悲しみや怒りはなかった。
「俺が好きなのはあくまで声。性別なんて関係ない」
「でも……」
「顔なんてどうでもいいよ。知ってるだろ?」
ミヤギイチロウの、ミハライチコさんの声を好きな気持ちは変わらない。
「よしっ! 後半はもっと楽しむぞ!」
俺は気持ちを切り替え、残り時間めいっぱい楽しもう。
俺は杖を置き、友達の手を掴みながら、トイレへ向かう。
「……ふう」
さっきはああは言ったが、本音は違った。
視えなくて良かったと思えたのは、生まれて初めてのことだった。




