泡沫の理容室
夏の夕方。
弟から電話があり、訪ねた施設からの帰り道。母にまた「初めまして」と言われた日。
もう私と母は親子に戻れないのかもしれない。
そんなことを思いながら車を運転していた彼女の前に一匹の黒猫が飛び出してきた。
慌ててハンドルを切ったところまでは覚えている。そこからの記憶はない。
気付くと彼女は理容室の前にいた。
灯る赤・白・青のサインポール。ピカピカに磨かれたガラスの扉。
夢のように現れて、夢のように消える理容室がある。
そんな噂を聞いたのはいつのことだったか。
おそるおそる手を伸ばすと確かに触れることが出来る。
彼女は理解する。
そうか、これは私のためのものなのか。
泡沫の理容室。
そう呼ばれるその場所は死者が出た街に現れる。
その人の最期の身支度の為に。
母の顔が浮かぶ。あまりに綺麗な笑顔の「初めまして」。
母は自分の死を悲しむだろうか? いや、母の中の娘はもうとっくにいない。
5つ年下の弟の顔が浮かぶ。苦笑交じりの「たまには会いに来てやってよ」。
臆病な姉のせいで全てを押し付けてしまうこと。申し訳なく思う。
彼女はひとつ溜息を吐くと覚悟を決めた様に扉を開けた。
理容室に行くなんて何年ぶりのことだろう。
そんなことを思いながら。
眩しい程に真っ白な空間。「いらっしゃいませ」と心地の良い男性の声が聞こえてくる。
白シャツに黒ベスト、スラックスを着た店主は柔和な表情で丁寧に心がこもったお辞儀をしてくれる。
大きな鏡の前には黒い理容椅子がひとつだけぽつんと置かれていて、その前にシャンプー台があった。
「こちらへどうぞ」
店主に促され理容椅子に座るとクロスをかけられる。白い雲が描かれた青空色のクロス。鏡の中に空が生まれる。
「どのように致しましょうか?」
訊ねられて考えた。今の自分の姿を見る。スーツ姿に胸下まである緩くパーマのかかったナチュラルブラウンの髪。
最期の髪型。
少し考えて口にする。
「おまかせしてもいいですか?」
最期の髪型。自分では判断がつかなかった。
「かしこまりました」
店主はひとつ頷くと霧吹きで髪を濡らし、銀色のハサミを持って髪を切り始めた。
チョキチョキと気持ちの良いハサミの音が店内に響く。パラリパラリと髪の束が落ちていく。
沈黙が苦痛になった彼女は何か話題をと口を開く。
「表の赤白青のくるくる。とても懐かしく思いました。子供の頃、よく父と一緒に近所の床屋さんに行っていた頃を思い出して」
店主は手を止めずに返す。
「そうなんですね。どのようなお店だったんですか?」
彼女は思い出すように上を向く。
「ご夫婦で営んでいるお店で。このお店と同じようにピカピカに磨かれたガラスの扉がありました。私たちが入ると合図もなしにぴったりと声をそろえて「いらっしゃいませ」って言ってくれるんです」
「仲の良いご夫婦だったんですね」
「ふふふ、本人たちが言うにはそうするって決めている訳ではなくて、ただ言うタイミングがそろっちゃうんだそうです。喧嘩している時は微妙にずれるんだとか。それを聞いてから「いらっしゃいませ」を聞くのが楽しみになって」
「そろっていない時はそう言うことかと」
「そうなんです。父と今日はそろっているかそろっていないか賭けをしたり。お店の前に100円の自動販売機がひとつあったんですけど、負けた方がジュースをおごるんです」
「お客様がお父様にですか」
「はい、だから、私が初めておごった相手は父なんですよ」
そう言って誇らしげに笑うと店主は「お父様、嬉しかったでしょうね」と微笑んだ。
彼女は思い出す。負けても勝っても嬉しそうにしていた父の姿を。
「お顔をそりますね。椅子を倒します」
後ろに椅子が倒れる。ほかほかの蒸しタオル。ブラシでぬられるふわふわのクリーム。
店主は慣れた手つきで丁寧に剃刀でそり始める。彼女は表情を和らげる。
すべてが終わって再び蒸しタオルで綺麗に顔をぬぐうとほっと息を吐く。
「気持ち良かった。やっぱり床屋さんの顔そりは格別ですね」
「ありがとうございます。次はシャンプーをさせていただきますね。こちらに来ていただけますか」
正面のシャンプー台へと導かれる。前向きのシャンプー。指先を使い丹念に洗われる。水の流れる音と泡がかき混ぜられる音が響く。
流し終わりタオルで顔と髪を軽く拭いた後、ドライヤーで乾かされる。
彼女はまた思い出す。
「昔、まだ一緒にお風呂に入っていた頃、床屋さんのシャンプーがあまりに気持ちが良いので父におねだりしたことがあります。あんな風に洗ってって。父は困ったように笑っていました。今思うと随分と無茶なお願い事をしましたね。父のしてくれるシャンプーも大好きだったのに」
「良い思い出ですね。簡単に叶えられる願い事より困ってしまうような無茶なお願い事の方が思い出として残るものです」
髪が乾ききり「いかがでしょうか」と訊ねられる。鏡の中を見る。
彼女は驚く。それはいつの間に出来上がったのだろうか。
眉の上で切られた前髪に肩に掛かるまっすぐな黒髪。
あの頃、父と一緒に理容室に行っていた頃、していた髪型だった。
「ああ、最後の仕上げが残っていましたね」
そう言って店主はポケットの中から何かを取り出した。両端にひまわりの花がついた赤い髪ゴム2つ。
彼女から小さく「あ」と声が出る。
店主は丁寧に櫛でとくと後ろの髪を真ん中からふたつに分ける。
彼女は唇を噛む。
幼い頃、お気に入りだった髪ゴム。ひまわりは母が好きな花。赤は彼女が好きな色。
二人の好きが重なったそれを彼女が選んだ。
不器用で、それでも一編み一編み愛しそうに三つ編みを編んでいく。あの頃の母の手つき。
朝の忙しい時にねだる彼女に父によく似た困ったような笑顔で髪を結んでいた母。
ぽろりぽろりと涙がこぼれだす。
記憶なんてものはひどく不確かで、あっけなく、それなのに大切で仕方がない。
数年前、父が亡くなったことをきっかけに、どんどんと母は母でなくなっていった。
今日、テレビの音がやけに響く施設の部屋で、2人はただ画面を見つめていた。
何か話をしなければ。
そう思っても思いつくのは思い出の話ばかりで。
話題を思いついては呑み込んで、思いついては呑み込んで。
でも、思い出と言うのはきっとその人が忘れてしまっても、この世界からいなくなっても確かに存在する。
彼女は思う。
私は確かにあなたたちの娘だったのだ。
三つ編みが出来上がった。髪の上にはひまわりが咲く。
店主はクロスを取る。
「お気に召しましたか?」
鏡にうつるおさげ髪の女の子。
彼女は笑った。
「はい、とても」と。
理容椅子から立ち上がった彼女は入口へと導かれる。
そうして気付く。
「あ、そうだ、お代……」
申し訳ないことにどこを探してもお財布は見つからない。このままでは代金を支払うことが出来ない。
困ったように見つめる彼女に店主は穏やかに微笑みながら両手を差し出した。
「お金はいりません。ただ、今のあなたがあの方に贈りたいものをいただけますか」
ひとつ息をのむ彼女。目を閉じる。たくさんの想いを込めて掌に乗せる。
店主は大切にそれを両手で包み込むと来たときと同じく「ありがとうございました」と丁寧に心がこもったお辞儀をした。
「またのお越しを」とは言わない。
なぜなら、このお店を利用できるのは人生で一度だけ。最期の一度だけなのだから。
泡沫の理容室。
そう呼ばれるその場所は死者が出た街に現れる。
その人の最期の身支度の為に。
彼女は思う。
向こうで会ったら父はこの髪型を気に入ってくれるだろうか。懐かしんでくれるだろうか。
もしかしたら、早く来過ぎだと叱られるかもしれない。
それでもいい。
今はあなたに会いたい。
ピカピカに磨かれたガラスの扉を開くと、そこには街ではなく空が広がっていた。
とある老人ホームの一室で眠っていた母は目を覚ました。身体を起こす。ひとつのものに目が止まる。
枕元に置かれた一本のひまわり。
じっとそれを見つめていると弟が疲れた顔で部屋の扉を開けた。
「こんにちは。あれ、どうしたの、それ」
母は両手でひまわりを手に取り、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「目が覚めたら枕元に置いてあったの。誰がこんなに素敵なことをしたのかしら。もしかして、あなた?」
息子としてでなく夫として話しかける母に弟は慣れた様子で言葉を受け止める。
「僕じゃないよ。きっと、君がひまわりを好きだと知っている人からだろうね」
椅子を取り出し、そっとベッドの横に座る。
「そう。ねえ、あなた、未来の話だと笑わないでね。私ね、もし私たちの間に子どもが出来たら、その子にもこの花を好きになって欲しいわ。好きになってくれるかしら?」
「……きっと好きになってくれると思うよ」
「男の子かしら? 女の子かしら?」
「両方かな……」
「両方? そんなに幸せなことがあってもいいの? あなた、どうしたの? どうして、泣いているの?」
「何でもない、何でもないよ……。話を続けて?」
「男の子なら元気いっぱいに育ってほしいわね。私、たくさんおいしいご飯を作るわ。いくらお腹をすかせて帰ってきてもいいように」
「うん……」
「女の子なら一緒におしゃれをしましょうか。そうね、髪を結んであげたいわ。私、不器用だから上手く結べるか分からないけれど。精一杯可愛らしくしてあげるの」
「うん……」
「夢は叶うかしら」
「きっと叶うよ……母さん」
母は照れくさそうに笑って愛しそうにひまわりを抱き締めた。